ナンパラ

2009年03月29日

ナンパ・ラを越え吹雪に遭い凍傷で足先を失ったニマ・デキの話

ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ昨日26日、N2と二人でナンパ・ラ(峠)を越え、足の指を凍傷で失った一人の女性を訪ね、話を聞きました。
彼女の他、もう一人同じく足の指を失った女性、両足を膝下から失った僧侶にも話しを聞きました。
近いうちに報告するつもりです。











ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ2今回はまず、ニマ・デキという30過ぎの女性の話です。
彼女は現在、ダラムサラはノルブリンカの近くに最近できた外人用仏教・語学センター、トゥサムリンで外人にチベット語を教えています。
春の花が一杯の小道を辿ってトゥサムリンに着きます。

彼女は1997年4月、ナンパ・ラを越えました。
峠を越えると途端に天候が急変し、吹雪が始まったと言います。








ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ3結局22名のグループの内、女の子ばかり4人の子供が亡くなり、3人が凍傷に罹ったのです。
まさに死の逃避行でした。
彼女は「地獄を見た」と言いました。

彼女はラサ近郊ペンボの出身。
ペンボのポト(ワ)尼僧院に14歳ごろ入りました。

以下彼女の話:
(ナンパラの写真は今年2月雪がなく天気のよい日のものです。場所は同じですが状況には天地の差があります)

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1997年、「愛国教育キャンペーン」が始まりました。
毎日尼僧院に警官やら役人やらが現れ、朝から晩まで「共産党を讃え、法王を非難する」という教育が続くのです。
ダライ・ラマ法王を非難する文章を暗記させられ、それを唱えることを強要されます。
3か月間も朝から晩まで、それは続いたのです。
逆らえば、尼僧院を追い出され、二度とチベットの中では尼僧院に入ることができません。
それだけではなく、村に帰って家の農業などの手伝いをする以外に法要を取り行うなどの宗教的活動は一切禁止されます。
村を離れる時には必ず警察に行き許可証を取らななければならないのです。
もしも、すべて中国の言う通りに従えば、その尼僧には「尼僧証明書」が与えられます。

結局その時110人いた尼僧の内、30人以上が尼僧院から追い出されることになったのです。

私のその内の一人でした。

追い出された尼僧たちの多くはインドに亡命することを考えていました。
しかし、それにはお金が要るのです。
親に言えば反対されることは目に見えていたので、私はこっそり、知り合いからお金を集めました。
そして1200元をガイドに払い、4月にラサからトラックで出発しました。

その時同じトラックに40人以上のチベット人が乗っていました。
トラックの荷台のドアを閉められると中は真っ暗です。
急に不安になりました。
何日走ったのか解りませんが、とにかく捕まりはしないかと不安でいっぱいでした。

トラックから下りて峠まで7〜8日歩きました。
夜中歩くことが多かった。道は平たんではなく、幾つもの山を越えなければなりませんでした。
途中に3か所軍の施設があり、そこを見つからずに迂回するのが大変でした。
どこでも犬を飼っているので、犬に気づかれないようにしないといけないのです。

最後の峠の前の駐屯地の前には橋がありました。
ここを通るときには夜中、一人ずつ静かに渡り、しばらくしてまた一人という具合にして渡りました。
犬が吠えだすのではないかと非常に緊張しました。

そこをうまく抜け峠の下に着いた頃、一人の20歳ぐらいの女性が倒れて動けなくなりました。
ガイドはみんなに、行きたいものは先に行け、この子が回復するまで一緒に残るというものは残れ、と言いました。
結局グループは二つに分かれ、約半数の人は先に出発しました。

結局ここが運命の分かれ道ともなったのです。
先に行ったグループは何事もなく無事にカトマンドゥに到着したのでした。
それに比べ、一日遅れた自分たちのグループ22人、内子供6人は地獄を味わうことになったのです。

タルチョを張る国境である、峠のラプツェにようやく到着した時はもう夕方でした。
突然、空が黒い雲に覆われ辺りはすっかり暗くなり、風が吹き、しばらくすると雪が降り始めました。
峠を少し下ったところにヤッパ(ヤクを連れた交易人)がテントを張っているのを見つけました。
そこに行きお茶とツァンパを少しだけ貰いました。
雪はひどくなっていました。
全員テントの周りの氷の上に数人ずつ固まって、上に毛布を掛けて横になりました。
非常に寒かったのですが、あまりに疲れていて、少し眠ったように思います。

朝、目が覚めて、起き上がることができません。
雪の下に埋もれていたのです。
何とかみんなで雪をかき分け這い出しました。
全員全身真っ白でした。

ナンパラ氷河 2歩き始めましたが、雪は膝まであります。
吹雪です、風が強く、何度も飛ばされそうになりました。
道は複雑で何度も登り降りしなければなりません。
雪は止まず、前がほとんど見えませんでした。

その日一日歩き続け夕方、大きな岩の下に子供たちは横になり、他の者たちは再び雪の上で眠りました。
次の日には雪は腰までの高さに積もっていました。
吹きだまりに嵌ると頭まで埋まってしまうのです。
強風も止みません。
全員が一列になり、前の方で強いものが道を作り、間に子供たち、最後に女性が続いて少しずつ前進します。
しかし、風が強く前の人の付けた足跡もすぐに雪で埋まって消えてしまうのです。
もう下半身の服は下着まで濡れ、カチンカチンに凍っていました。
下半身の感覚が無くなっていました。

ナンパラ氷河 4数時間歩いた後、ガイドは全員を集め点呼をとりました。
すると、子供が二人足りません。
誰も気づかない内に消えてしまったのです。
若い僧侶が何人かで探しに行きましたが、無駄でした。
吹雪でほとんど前が見えない状況では不可能でした。
諦めて先に進むことになりました。











クレバス窪地には雪が吹き溜って、そのまま歩けば全身完全に埋まってしまう場所もありました。
そのような場所では毛布を雪の上に広げ、その上を這って進むのです。
そんな場所の一つの前で10歳ぐらいの女の子がうずくまっていました。
声を掛けても「ううんん、、、」と言うばかりですでに朦朧としていました。
彼女を無理やり立たせ、一緒に窪地を渡りました。

毛布を広げてその上にうつ伏せになり、毛布の先を両手で持って少しずつ先に繰り出すのです。
こうして、何とかそこを抜けることができました。
そこからはその子を背中に背負って歩きました。
しかし、その子の足はまっすぐに硬直したままで、腕で私の肩を掴むこともできませんでした。

難民の子供の靴そのころ自分たちはグループから相当遅れていました。
同じように子供を背負った若いお坊さんと一緒になりました。
他の者たちはもう視界から消えていました。
励まし合いながら、必死で前に少しずつ進みました。

暗くなり掛けたころ、再び大きな窪地を前にして立ち止まっていた他の者たちと合流しました。
一人ずつ毛布を敷いて歩腹前進するので時間がかかるのです。
待つ間、私は背中に背負っていた女の子をそばに下ろし、座らせました。
そして、しばらくして、ふと横を向いて気付くと、もう彼女は横たわり、冷たくなって死んでいました。
食べるものもなく、こんな吹雪の中(5000m以上の高地)を二日歩き続けたのです。
死んでも当たり前でした。

みんな、そのまま死んだ子供をそこに置いたまま、先に進みました。
その日の夜は峠を越えて初めて、石で壁が積まれ屋根の載った小屋の中で横になることができました。(おそらくルナックのことでしょう)

lunak一人の女の子が「アラー!アラー!」「ウウ、、、ウウウ、、、」と呻き声を上げ続けていました。
ガイドが自分のところに来て、「あの子に毛布を掛けてやりたいから貸してくれ」と言ってきました。
仕方なく渡しました。
夜中近くになって、その子の呻きが一段と激しくなった。
そして、しばらくして全く静かになった。
ガイドが「死んでしまった」と言いました。
女の子は自分の毛布に包まれて死んでしまいました。

この日9歳から12歳までの女の子ばかり4人亡くなったのでした。

次の日の朝には雲が切れ、空は明るくなりました。。
しかし、雪の深さは胸の高さです。
前に進むことは容易ではありません。
その上、陽が照ったことで全員すぐに雪目に罹り、目が痛く霞んできました。

小屋の前に並んで繋がれたヤクたち昼ごろ下の方からヤクを連れた遊牧民(シェルパ)が自分たちに声を掛けてきました。
彼らと合流し、お茶をもらい、ツァンパを分けて貰いました。
彼らはそこまでの道をちゃんと作っていました。
もしもここで彼らに遭わなければ全員死んでいたと思います。
それほど、みんなすべてを使い果たし、憔悴し切っていたのです。

夕方、彼らの小屋に着きました。(チュレと思われる)
中には大きな火が焚かれ、小屋の中は非常に温かでした。
部屋の隅に座り込んでいました。

ヤク・ストーブすると突然足から腰にかけて火が点いたような痛みが走りました。
痛みは次第に強くなってきて、私は我慢できず悲鳴を上げました。
他にも数人が同じように痛みを訴え始めました。

このとき、初めて足が凍傷になったことを知ったのです。
急に温めたことも悪かったようです。

それからが本当の地獄でした。
さらにナムチェ・バザールまで2,3日はかかりました。
痛む足を引きずりながら歩いたのです。
中国兵に捕まるか、死んだ方がましだ、と何度も思いました。

ナムチェには夜中に着いて、マニ堂の中で寝ました。
コンクリートの床が冷たかったことを覚えています。

ナムチェを過ぎて坂を下って橋を渡ったところで二人の外人に出会いました。
イギリス人のカップルでした。
彼らは私の様子を見て声を掛けてきました。
男性の方が「自分は山に詳しく、凍傷の手当も知っている」と言って
私の足を見たいといいました。

近くの食堂に入り、靴を脱ぎ足を見せました。
足の先が赤く腫れていました。
彼はたらいに湯を一杯作ることを店の者に頼みました。

湯ができた後、そのたらいに足を浸けさせられました。
すぐに私は悲鳴をあげました。
全身に再び火が点いたような痛みが走ったのです。
それでも足を出すことは許されませんでした。
まるで拷問です。
足の先はしばらくすると赤黒く変色してきました。

そのイギリス人はそれでもやさしい人たちでした「必ずあなた達を無事にカトマンドゥまで届けよう。心配しないで」と言いました。
彼はすぐにルクラまで歩いて行って、自分たちのために飛行機のチケットを手に入れようとしました。
しかし、身分証明書のない者にはチケットは売れないと言われたそうです。

仕方なく、彼は私ともう一人の同じように足が凍傷になった女の子をナムチェの上、コンデにある病院に連れて行くことに決めました。
竹で担架を作り身体をそこに縛りつけ、一人四人掛りで急な坂を再び引き返したのです。
病院では、点滴も受け、治療も受け、食事もちゃんと与えられました。

ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ4イギリス人は二日後にはビザが切れるからと言って帰ってしましました。
良くしてくれた二人が帰った後、急に今まで味わったことのないほど寂しさと不安を感じました。

結局そこに一か月半ほどいました、その間にも他に9人の同じように亡命してきたチベット人で凍傷や病気になったものが運び込まれてきました。
近くの飛行場にネパールのネレンカンの手配したヘリコプターが来て全員カトマンドゥまで送られました。

カトマンドゥで凍傷に罹った足の指を切断する手術を受けました。






























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2009年03月25日

2006年ナンパ・ラ事件証言談

ナンパラ事件の絵とロプサン二日前ブログでも少しカンゼの「耕作放棄運動」に関連してお伝えした、ロプサンの話をもっと詳しくお伝えします。

31歳ロプサン・チュデンはカム、カンゼの出身、2006年9月終わりに総勢75人のグループと共にナンパ・ラ(峠)を目指し、峠の直前で中国軍に見つかり、発砲を受けた。
グループの中の16歳の尼僧は射殺された。
この事件は偶々現場に居合わせた外国登山隊が撮影した映像が世界中に流されたことで有名になった。
この有名なビデオの中には登山隊に匿われ、トイレに隠れる一人のチベット人の姿が映っています。
そのチベット人がこのロプサンなのです。

彼の映像が有名になったことで、彼の亡命の事実が中国側に知れてしまいました。
彼は実はダラムサラまで来て、法王に謁見した後はすぐに故郷に帰るつもりだったといいます。
しかし、中国側に自分の事が知れたとなってはすぐに帰ることも危険に思われました。
故郷に残した妻の元には警官が度々来て「旦那はどこに行ったのか?早く帰るように言え」と脅すようになった(これは今、ダラムサラにいる奥さんから聞いたことです)。
近所のチベット人たちは、警官に目を付けられると危ないことになるかも知れない、逃げたほうがいい、と言うようになりました。
それで次の年、妻と二人の子供も亡命を決心したのです。

ですから今はダラムサラで夫婦と2人の子供、4人で暮らしています。
それでも故郷のカンゼに残した老いた両親を助けるために早く帰りたいと言っています。

さて、大きな絵の中の一人一人を指示しならが語ってくれた話が以下です。

ナンパラ事件絵図 1(写真はクリック拡大してご覧ください)

ここ(下の方)に湖があるがこのそばで前の日の夕方みんなは仮眠した。
しばらくして起き上がってまた、歩き始めた。
サキャから歩き始めすでに二週間以上も歩き続けていた。自分を含め多くの者たちは食糧が尽き、二日前から何も食べていなかった。
立ち上がるものきつかった。

しばらく歩いて、多くの者がついて来ていないのに気づいた。
湖のそばの道は険しく足を滑らせば湖に落下するような道ばかりだった。
下のほうで子供二人が助けを呼んでいた。
助けてくれ。一緒に連れて行ってくれと叫んでいた。
仕方なく、二人を助けに行った。
それで気付くと自分は列の一番後ろになっていた。

少し上に行くと軍隊の駐屯地があった(絵左下)。
迂回しようとしたが見つかりそうになったので諦め、そのまま下の方の道を行った。
まだ道は暗かった。
川を渡った頃、左上の丘に銃を持った中国兵の姿を見かけた。
自分達を追っているようだった。

そのまま、雪の中を登った。
みんなはかなり先に進んでいた。
登山隊のテントが沢山見えた。
その方に向かって急いで登ったが、小さな子供二人が一緒だったので、上の方から近づいてきた兵隊に追いつかれそうになってきた。

ナンパラ事件絵図2中国兵が「止まれ!止まらないと撃つぞ!」と叫んだ。
そのまま、先に進むと本当に撃ってきた(絵・テントの前でビデオを構えている人の下に二人の子供を前後に連れたロプサンが描かれている。その左下に撃って来た兵士がいる)。
何発も撃ってきた。
子供を置いて自分は坂を弾を避けながら、ジグザグに登って行った。
弾は当たらなかった。

外人のテントが沢山あるところに辿り着き、匿ってもらった。
兵隊たちは先に登って行ったグループを追いかけて上の方に登って行った。
さっき自分に向かって撃ってきた同じ兵士が撃った弾が一人のチベット人の足に当たって、彼が倒れるのが見えた。
それは同じカンゼ出身の友人だった(絵・右手峠の下に足から血を流す人がいる。撃ったのは絵中央、右上に銃を向けるグリーン色の兵士)。
兵隊は最初5人、すぐ後に7人が加わり、午後にはさらに20人位が集まって来た。

ナンパラ事件絵図3その先の氷河が平らになった辺りで今度は尼さんが撃たれて倒れるのが見えた(峠左手)。
其のあと二人の兵士が倒れた尼さんを引きずり降ろしていた。
撃ったのは同じ兵士だ。
彼は終始先頭にいて一番沢山撃っていた。

兵隊たちが又下に向かってきたので、私はトイレに隠れた。
外に、兵隊が集まり、中の一人が「誰かチベット人を匿っているだろう。すぐに引き渡さないと容赦しないぞ!」と登山隊を脅しているのが聞こえた。

結局そのトイレに昼12時頃入り夜中までそこに隠れていた。
夜中になり、私は峠まで一人で登ろうと、外に出て歩き始めた、しかし、しばらくして、上方には右にも左にも兵士がそのまま陣取っていることが判った。

仕方なく、氷河の割れ目に身を隠した。
寒かった。
リュックは最初に発砲を受けた時投げ捨てた。
何も持っていない。
食べるものもない。
氷をかじるばかりだ。
一日そこにいて、死にそうになったので一旦外人のテントに帰った。
少しそこで休ませてもらった。

次の夜にもまだ兵士はいた。
でも決死の覚悟で氷河の真ん中を隠れながら少しずつ登った。
峠のラツェに着いた時には、下に向かって「イエーやった!ここまで来れるものなら来てみろ!」と叫んでやったよ。
それでも峠を越えてからも彼らが追い掛けて来やしないかと不安で急いでいた。

国境を越えてからの道は酷かった、大変だった、道に迷った。
雪が深かった。
一度ならず体ごと頭だけ残して雪に埋まったこともある。
何度も這い上がった。
死に物狂いだった。

峠を越えてしばらくして靴が二つに破れてしまった。
仕方なく、服を切り裂き、それを足に巻きつけ先に進んだ。
もう何日も食べていなかったのでふらふらだった。
道は長かった。
夜も昼も歩いた。
タガという村に辿り着き、そこで先に峠を越えた仲間達と出会うことができた。
助かったと思った。

みんなは自分がもう兵士に撃たれたか?捕まったことだろうと思っていたと言った。
自分と一緒にいた子供は見当たらなかった。
その二人を入れて8人の子供が消えていた。
おそらく捕まったのであろう。

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ナンパラ峠 中国側 発砲場所写真左はナンパラから中国側を見たところです。
正面の山の麓がチョー・オユーABCです。ここに外国隊のテントがあった。
峠との間には凸凹の激しい氷河がある。
ベースから峠まで3〜4時間かかるという。
彼らが越えた時にはこの写真よりよほど多くの雪が広範囲に積もっていた。


このナンパラ事件については去年NHKにもダラムサラまで来て証言を取材して頂き、一部は放映されました。

参考に過去のブログをお知らせします。

同じグループにいた子供の証言
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080616

http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080615

NHKの放映に関する記事
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html#20080626

今年二月にこのナンパラまで行って来た時の写真と話は以下。
2月2/3日飛んで15日からです。(もう読んだって!?)
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-02.html



















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2009年02月23日

第7日目 ナンパ・ラを後にして

第7日目。カンチュン5200mーーーー>チュレ4300m

カンチュンを後にチュレに下る
今日は下りと言うことで、登りに二日かけた行程を一日にして、チュレまで一気に降りることにしました。

連中は鼻歌まじりにヤクを追いならがどんどん下っていきます。
それでも最初の方は相変わらず氷河渡りです。
ガワンは崖の上の危なっかしい石をわざと下に落としながら進みます。
一つの石を落とすとそれにつれて下の方の石も落ち、最後はゴーといういう音と共に砂煙が上がる、大きな雪崩のようになって氷河の底に消えていきます。
ルナックの岩屋を過ぎる
ルナックで少し休憩。でも昼食のために火を起こすことはなく、すぐに出発。
ここにあった難民の子供の靴を、N2は拾い日本に持って帰るとことにした。









チョー・オユー 2
この先に行くと見ることのできなくなるチョー・オユー(8201m)に、これからもチベット難民を見守り、助けてくれることを祈願する。



チュレに行くにはどこかで川を渡らないといけなかった。
ヤクとアン・サンポとケルサンは先の方の橋に向かった。












チュレへの川渡り
ガワンと私たちは川の上にできた氷と雪の橋を渡ることにした。
ガワンが先にたち、私がそのすぐ後ろを同じ足後をたどる。慎重に一歩ずつ足を前に出す。
川の真ん中あたりに来た時、突然ガワンの踏み出した足の周りが一気に崩れ落ちた。
すぐに私が手を伸ばしガワンがつかまりまる。と、今度は後ろ足の方も崩れ始める。
あ、やばい!と思った瞬間。ガワンは両足をいっぱい広げて流れの前後にあった、岩に足を乗せかろうじて川に流されず持ちこたえています。下の川の流れは強く靴はもう川に浸かっています。
私は力いっぱいガワンの手を引いた。
何とかガワンは流されることなく上がってこれました。

それにしても雪と氷の下のどこに岩があるかなど全くわからないのに、崩れたとき一瞬にして足を開きちょうど前後の岩に留まったガワンのカンの良さには驚いた。
きっと、隠れた岩の位置を知っていたのでしょう。
それにしても危ないところでした。川が狭まり流れが強い場所だったので落ちていたらあっという間に流されていたことでしょう。
左の写真が崩れる前の現場。

チュレの古い仏塔
チュレはこの谷最後の夏の村です。今は誰もいない無人の村。
我々と彼らが放っていたヤクだけが美しい枯草の草原の仮の住人でした。







チュレから夕日のナンパ・ラ方面を見る

アン・サンポはここに二棟の山小屋を持っていました。
久し振り、といってもたった三日ぶりの屋根付き家ライフ。
N2は外にテントを張ってましたが、私は隣の小屋に泊めてくれとたのみました。
「でも、小屋は綺麗でないよ。外人はまず泊まろうとしないよ」とのこと。
中に入ると確かにヤク小屋のようでもある、でも広くて私は気に行った。
だいたい私はダラムサラの裏山で、これよりもっとひどい小屋とか岩屋に毎年数か月過ごしていた時期もあったので、その小屋は相当上等なのもに思えたのだった。
小屋は二階建で下は家畜小屋だった。面白いのは二階の床は木ではなくこの辺の芝の表土を切り取って乗せてあることだった。気をつけないとところどころに開いた穴に落ちそうではあった。
チュレのアン・サンポの小屋
彼らの小屋のかまどには盛大にヤク糞がくべられた。
今日の夕食は素ラナ・ヌードルではなく、米とジャガイモが食べられるとのこと。
これを聴きN2と私は歓声を上げた。この三日間、二人の胃袋は相当ひもじい思いをしていたからでした。

その夜は、オイルランプの灯のもと、落ち着いて再びガワンに峠を越えてくる難民の話を聞くことができました。
チベットからの帰りに難民に何度も会い、助けたこと。ナンパ・ラが吹雪くとどういうことになるか等、詳しく話してくれました。







チュレの月
彼らはここにもう一泊しようと言いました。
この辺に放してあるヤクを明日集め、明後日一緒にターメまで下ろしたいというのです。
ここが気に入った私たちはすぐに同意しました。






チュレ、星と月明かり映える山
夜外に出ると、月明かりで村を散歩できるのです。
星も月も山も村も清浄そのものでした。










N2は「ここはインカの遺跡みたいですね」と言った。
月明かりのチュレ

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2009年02月22日

第6日目 ナンパ・ラ

昨日の昼3時ごろカトマンドゥを発ち、デリーを経由し、今日の朝東京に着いた。
これから二週間ほど日本にいる予定です。

今日は特に写真が多いですよ。

ーーーーー
カンチュンからナンパラへ
第6日目 ナンパ・ラへ
カンチュン5200m―――>ナンパ・ラ(峠)5741m-------->カンチュン


いよいよ今日はナンパ・ラを目指す日だ。
前の晩にガワンが「明日は長い一日になるだろう。できるだけ早く出よう。そうしないと夕方までにここに帰って来れないから」と言った。

暗い内から彼らのテントが動き出した。
風は少しも弱まらない。
私はどうせ寝ていなかったのですぐに起き上がる。
夜中何度もゴーーーという雷のように大きな音が谷に響き渡っていた。落石か雪崩であろう。

夜は寒かったが、私はー30度用の寝袋に寝ていて凍えることもなかった。
難民たちは寝袋も持たず、岩陰に身を寄せ合って眠るのだ。
状況は大違いだ。

テントの中は雪が降った後のように、いたるところに小さな氷の結晶が積もっていた。

彼らのテントに行くとすでにヤク・ブリキ・ストーブには火が起こされ、お茶の用意ができていた。それでも寒かった。テントは風で揺れ続けていた。
ガワンたちは朝からラナ・ヌードルとツァンパを食い、いつものようにホット・チャンを飲んだ。
今日も昼飯抜きで、おそらく12時間近く歩くはずだった。
我々はムスリに乾燥ミックス・ナッツを足し水を加え沸騰させる。それに粉ミルクを加えたものを朝食にする。
途中はN2が日本からわざわざ持ってきたカロリーメイトとチョコレートでしのぐことにする。
同じく今日は日本からのホッカロンを身体につけ、ポケットに入れた。
もっともこのホッカロン、この日は全く効いたようにありませんでした。
寒すぎると効かないようです。酸素が少ないせいかな?
ナンパラ氷河舌端部
テントとヤク二頭はここに置いていくという。
大丈夫?と聞くと、「だれが今頃こんなところに来ると言うんだ、誰もここを通るものはいないよ」とのこと。
置いて行かれるヤクは少し寂しそうでした。

みんな急いで出発の準備。
私は一つだけ迷っていました。
ここまでは夏用のメッシュが至る所に入っているランニング・シューズを履いて歩いてきたのですが、ここからは流石に雪と氷がある、カトマンドゥで買った登山靴を履くべきか?と思ったのです。
しかし、履いてみてやっぱり重すぎると思い。夏用で行けるとこまで行こうと決めたのでした。

辺りが明るくなってきた。
6時45分出発。N2が「−25度ですね、、、」と温度計を見て報告。

歩き始めたが、向かい風が強い。顔にまともに風が当たり。寒い!
ゴーグルを取り出し、目だけが出る帽子を被ったが、口がふさがり却って息苦しくすぐに脱ぐ。
風で時々身体がバランスを失う。体が浮きそうにもなる。
「風が酷いね」とガワンに言うと、「こんなの風の内に入らないよ!本当の風が吹くと石が飛び、ヤクも飛ぶ!」との応え。
氷河3
氷河はじょじょに険しくなり、アップ・ダウンが続く。足元の石は崩れやすく、落ちれば終わりの絶壁が続く。
ガワンは危ない場所を見つけると、50キロはあると思われる大きな石を動かしたりして、道を直しながら進む。
難民が通り、自分たちのヤクも通る大事な道なのだ。
それでも氷河の上の道は氷河の移動に伴い常に変化する。一年前に通った道が無くなっていることはよくあるという。
まるで、迷路のような道を行く。
ガイドなしでこの道を越えられるとは到底思えなかった。








ナンパラ氷河 4
思い出せば、私は20数年前、エベレストの氷河を一人で渡ろうとして、道を失ったことがあった。それでも進んで行ってた時。突然視野が狭くなったかと思うと、そのまま気を失い倒れた、ということがあった。
どれほど気絶していたかは定かでないが、そのあと確かに意識はもどった。でもそのまま数十分間は手足がまるで動かなかった。不安になったがどうしようもない。そのうちじょじょに手足も動くようになり、やがて立ち上がり、ふらふらだったが、何とか下に降りることができた。
前日に6000m近くまで登った後の後遺症が翌日に出たということだろう。
そういうことはよくあると聞いてた。
その上に氷河で道に迷ったストレスが加わっていたのであろう。

―――

ナンパラ氷河 2
この日、私は本気だった。登りでは向かい風も加わり相当の努力が必要だった。
それでも、何にも考えず、大きな声でマントラを唱えながら、がむしゃらに登った。
今日の彼らのペースは一段と速い。
ほとんど休みも取らない。
山を越えて陽がさすようになると少しは暖かくなった。

数時間歩いた後、いよいよ目の前に青氷の氷河が現れた。
これはこれは、と思った。いよいよ登山靴の登場か?
と思っていると、ガワンが「予備の靴下はないか?あればそれを靴の上に履かせると滑らない」という。

靴下がアイゼン?
はっ!靴下?アイゼンの代わりに靴下ね、、、!?
さっそく、私は二枚履いていた靴下のうち一枚を伸ばして靴の上に履かせた。
(左の写真は下りで氷を越えたころ、すでに擦り切れてしまった靴下です)



それから、まずは氷の階段、次につるつる氷の平原が数百メートル続いた。
確かにすべりは相当緩和された。布地が氷に張り付く感覚があった。
それでも、ガワンの手を借り、スティックをヤクのフンの欠片によりできた小さな窪み目掛けて突き刺しながら、恐る恐る進んだ。
私は一度転んだだけだった。N2は3度転んだとか。
ナンパラに近づく
氷の傾斜平原の後は、雪が薄らと氷の上にのった、広い氷河の白い平原がナンパ・ラまで続いていた。
もう峠は見えていた。しかし、それからの登りが以外と長かった。







クレバス
途中には、ほぼ十メートルおきに左右に長いクレバスが走っていた。
今は上に雪がなく、クレバスの位置ははっきり分かった。
それにその幅も30〜40cmが多く、大きなものは見なかった。
しかし、これが少しでも雪が降った後であったなら、クレバスの上には薄い氷と雪の膜ができ、まったく隠されてしまうはずだった。
気を付けて進まなければ、クレバスに落ちるのは確実と思われた。
時にはヤクも落ちるクレバスもできるとガワンは言ってた。








ヤクの死体
先に動物の角だけが氷の上に見えた。近づいてみるとその下にヤクの頭の骨が見えた。
その下に死んだヤクが埋もれているのだった。
人もヤクもここで死ねば、じょじょに氷河に沈み、埋もれ、流されて行くのだ。

峠のラプツェが目に入った。タルチョが沢山結び付けられていた。
このラプツェが見えるとみんな歓声を上げた。
私もここで最初の<プー・ギェロー!>
風は強いままだったが雲ひとつない快晴。

ナンパラよりチベットを眺める
峠に着くと、チベット側が遥か遠くまで見渡せた。
この日、少しチベット側は霞んでいたが、クリアーな日にはラツェの町やディンリの裏山も見えるということだ。

峠の幅は200mはある。
チョー・オユーが右手に見える。簡単に登れそうな感じだった。

峠のチベット側、右下手に2006年、16歳の尼僧が撃たれて死んだ場所、ザ・ポアが見える。
あれは、9月だったはずだが映像を見る限り、今よりずっと雪は多かったはずだ。
狙われれば全く隠れるところのない場所と解る。
その時、峠を目の前にし、突然尼僧が倒れ、銃砲が峠に響き、銃弾がいたるところに降って来たという。このときの様は今インドのスジャ・スクールに学ぶ6人の子供に詳しく聞いたことがある。とにかく、みんな峠のラプツェを目指して必死に苦しい坂を登ったという。

タルチョを張る
峠に着いてまず、みんなのタルチョを張る。
ガワン達は特別の方法で広く、長く、クロスに張った。
そして、長い長い祈りのお経を上げていた。
私も、これまでのすべての、この峠を越え逃げなければならなかった人々の苦難、悲哀を思い、死んでいった子供たちの事を思い、胸が一杯だった。

峠のラプツェにチベット国旗掲揚
その後、今度はラプツェにガワンがよじ登り、一番上にチベットの国旗を立て、しっかりと結びつけた。
よく見ると、ラプツェにはタルチョよりカタが多く結ばれているのに気づいた。
亡命者が近しい人たちからチベットを離れる時貰ったカタをここに結びつけたのであろうか?
何れにせよ、解放の喜びの表現だったはずだ。

国境の境界を示す塚とチベット国旗
国境を示すセメント製の小さな塚が傾きながら立っていた。中国側には「中国 62」と書かれている。62年は中印戦争があった年だ。この戦争の後、立てたものと思われる。
我々は中国という文字の横にチベット国旗を掲げ記念写真を撮った。

N2がもっとここに居ようと言ってたが、ガワン達は早く降りないと寒くなる、暗くなるという。一時間ほど峠にいたあと、峠を後にし降り始めた。


氷の階段をガワンに助けられながら下るN2
下りの氷の上はさらに滑りやすかった。
左の写真はN2が最後の氷の階段をガワンに助けられながら降りるところです。

その後の氷河の中道は朝方の登りより余程長く感じた。
N2も同感だった。どうも朝方の登りでは、アドレナリンなりドーパミンなりが余程脳内に放出されていたようで、必死だったので長さを感じてなかったようだった。
二人とも朝の記憶があまりないことに気づいたものだった。







ガワンのさるぶり
なかなかカンチュンに着かない。足はもう限界に近くなっていた。ひざも痛み始めた。
でも、もう目的を達成した(難民には会えなかったので、半分だけ)ということで、気はずっと楽になっていた。


途中、あまりに美しい氷河の造形を氷の湖の上に見つけた。
ガワンがまず氷の上に寝そべり、泳ぐマネを始めた。
私も峠に続いて馬鹿なヨガ・パーホーマンスを始めたりした。




カンチュンのテントに帰る
夕方5時過ぎ、二頭のヤクとテントが待ってるカンチェンに戻ってきた。
長い一日だった。

夕食はラナ・ヌードルのみ。
その夜は風も止み、静かな夜だった。
疲れていたが、息がヨガのプラーナ・ヤーナのように自然に深く長くなるのが面白くて
中々寝付けなかった。

氷河ルンタ



















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2009年02月21日

第5日目 ルナックーー>カンチュン

第5日目、ルナック・ダラムサラ5090mーーーー>カンチュン5200m

今日は高度差こそ大したことないが、そのほとんどが氷河上の道なので、相当きついと覚悟して歩き始めた。
アン・サンポのヤク追い
しかし、すぐに登りで息が切れる。
大体いつもペースが少し早すぎる。まずヤクのペースが速い。
本当はそんなに早くないが人が先へ、先へとせき立てる。
このときの掛声が面白い。まるでヤク語を話して(怒鳴って)いるようだ。

例えば「ドーオー!ウリ!」は「行け坊主ヤー」。「シューウー」は「止まれ」。「ショー!」は「こっちへ来い」。これらはチベット語そのものだ。
しかしその他「ソヤ!」「オリャー!」「オ、ロロロロロロ」「オ,ツォツォツォツォツォ」「オ、ホホホホホホ」とかいろいろ話すが意味を聞いても訳せないとか言ってる。
ガワンは「アン・サンポはニョンパ(気違い)だからヤクとの話に意味なんかないのさ」とコメント。

アン・サンポは口笛と掛声と石投げでいつも先頭切ってヤクを追いたてて坂を駆け上がる。
ガワンは大体お経を口ぐさみながら進む。ケルサンは近道を探りながら先に進む。
我々はついていくのがやっとだ。特に登りになるとぐっと遅れる。肺と心臓がオーバーヒート状態となる。
ガワンが子供の死体を見つけた場所を示す
少し行ったところで、ガワンが先の大きな岩を指して、「あの岩のうしろあたりで女の子が死んでたよ」と突然言う。
詳しく聞くと「そうだな、ディンリからの帰り道、7,8年前だったと思うが、、、秋だったが、その時には雪が沢山積もってた。道の先に雪に半分埋もれた、人のような塊を見つけた。近づくと確かに死んだ人だった。
7,8歳の子供のようだった。男の子か女の子かわからない。ニンジェ(可哀そうに)、仲間と一緒に氷河に埋葬したよ。雪で仲間とはぐれて行き倒れたのだろう。
うつ伏せに倒れて死んでたよ。ニンジェ」と話した。
オーマニペメフーン。
途中のラプツェにタルチョを結びつけるガワンたち
氷河の真ん中の小高い丘にラプツェがあった。ここでもガワン達は持ってきた新しいタルチョを結んで長いお経を上げていた。
自分たちもナムチェでタルチョを買ってきてたが、一張りづつしかなく、ナンパ・ラ用に取っておくしかなかった。







疲れ気味のN2
左の写真に小さく写っているのはN2だが、今日は彼ははじめから遅れ気味。きついきついと言っている。だいたい撮影機材を身につけ過ぎているから、重いに違いないのだ。
今日は予定ではザザンパと呼ばれる峠の前のキャンプ地までのはずだったが、N2の調子もよくないので手前のカンチュンに泊まることにした。
しかしその分、明日の峠までの行き帰りは相当長くなるはずだった。
テントの外に集められたヤクフン
着くと陽のあるうちにヤクフン集め、水くみ(氷世界で水はほんとに限られたところにしかない。冬も水があるところがキャンプ地となる)、ヤクの餌作りと忙しい。





ケルサンが集めたチベットの藁
ケルサンが藁を集めていた。これらの藁はみなチベットからきたヤク隊と一緒に、ヤクの餌としてここまで運ばれ、散らばったものだという。ケルサンはそれを一本一本集めてヤクにやっていた。

ガワンはいつものようにダン茶(中国の成都あたりからここまで運ばれてきた・カム茶)を湯でほぐし、多量のツェンパ(自分でディンリから運んできたチベット産)と混ぜて、最後に日本の大きめの△おにぎりそっくりの形にして並べている。
ヤクの口に一口ずつ手で与えるのだ。
いつも家族同然に大事に扱っている。
はっきり言ってヤクの方が食費が高くつく!
自分たちのたべるのもツァンパばかりだ。
カンチュンのテント場、小さいのか私のテント
今日は、私は自分一人のテントを張ることにした。
ナムチェでテントを二張りネドゥン氏から借りたが、小さい方のテントは前のルナックで張ってみて、あまりにひどいので使えないということになっていた。
何しろそのテントはどう見ても夏のビーチ用と思える代物で、いたるところがネットになっていて風通し抜群の夏仕様だった。
それでも、私は今日は一人で静かに寝たいと思ったのだ。



ナンパラ方面
テントを張り、目立つネットの上にテーピングを施した。
陽が山肌に隠れると、外はー20度を切った。






ガワンの持ってきたヤクのしゃれこうべ2
ガワンはどこからかヤクの頭の骨を持って来て岩の上に置く。
「どうしてそんなものを持って来たのか?」とN2。
「この辺で野たれ死んだヤクだ。ニンジェと思って持って来たのさ、、、」との応え。





ジョオ・ラプサンの山影に消える西日












ジョオ・ラプサンとビーナス
空には一番星・ビーナスが輝いた。








今日は満月。チベットでは今日が一年で一番寒い日と言うことになっているそうだ。


満月
その夜は一睡もできなかった。
ナンパ・ラ下ろしの強い北風が朝までテントを揺らし続けた。
飛ばされるのではないかと何度も思った。テープはすぐにはぎとれ、テントは外と変わらなかった。その上テントの表面が凍り、それが雪のように顔に降りかかる。


夜中何度も外に出て満月に輝くナンパ・ラ氷河を見た。


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2009年02月20日

ナンパ・ラへ第4日目

第4日目、アーリヤ(Arya)ーーー>ルナック・ダラムシャラ(Lunak Dharamshala)
5090m

lunak dharamushala
今日からいよいよ氷河地帯に入る。と言っても、ルナックまでは氷河のサイド・モレーンという側道を行くことがほとんどで道は楽と言える。それでも、今日は高度を700m近く上げるので息は相当苦しくなってくる。

アーリヤから今までの二頭のゾッキョに代わって二頭のヤクが荷役としてお供することになった。これから先の高地ではゾッキョでは難しく、寒さと険しい道に強いヤクに変えられたのだ。もっともこの二頭のヤクには角がない。この生まれつき角のないヤクは「ヤー・ウリ」と呼ばれる。「坊主ヤク」とでも訳せようか。

ガワンが「今日からヤー・ウリといっしょだ。ダライ・ラマ法王もチベットを逃れてヒマラヤを越えたときはヤー・ウリに乗っていたんだよ。角があってはもしものことがあるからな。大事な人にはヤー・ウリがお供するのさ」と解説する。

そのころちょうど目の前にチョー・オユーが見えていたが、ガワンが「チョー・オユーは本当はジョオ・ウリと呼ばれてた。角がないからな」とも言ってた。
ジョオとはラサのジョカンの本尊であるチベットでもっとも御利益の有るとされるブッダ・シャカムニの像のこと。ということは坊主のシャカムニということになり、意味ないようにも思えましたが、確かにチョー・オユーはチョモランマに似て険しい角は生えてないのではあります。

ヤクにはそれぞれ名前が付けられているものだ。
一頭は口元が白く、角がないので「セラウリ」。二頭目は額が白くて角がないので「カワウリ」と呼ばれている。だいたいヤクの名前は頭と尻尾の色によって付けられることが多いそうだ。

map 1
ここでもう一度、地図を載せます。大きくしてみると解り易いです。

地図上右下端がNamuche Bazar。左手上がナンパ・ラです。
凡そ片道40〜50キロの行程でしょう。

二枚目はN2くんが即席に作ってくれた、より解り易い略図です(アップできませんでした)。

アーリヤを出て数時間後、一度氷河を渡る。これは最初の難所だった。道は崩れやすく、アップ・ダウンの連続だ。氷河の至る所に丸い氷河湖があり、その周りはほぼ垂直に落ちる壁だ。落ちるとまず助かる見込みはない。ガワンの唱える経文の声も大きく成りがちだった。
私もいつからかマントラを唱え始めていたが、登りになると自然に声が大きくなる。
それも
観音の真言のオーマニペメフーンより、仏の力の象徴とされる金剛手のオームバジュラパミフーン!とか、かつて五体投地とともに沢山唱えたバジュラサットヴァの百字真言とかが力が入りやすく良いようだった。真言を唱えることは精神状態改善と共に大きく息を吐くので高山症状緩和にも大いに効果があることは間違いない。
ガワンはニンマ派なのでパドマサンババの真言オームアーフーン・ベンザグル・ペマシッディフーンが多いようだった。

この真言だが、私は今回は観音の真言のオーマニペメフーンを唱え始めると、必ず胸がつまって涙が出そうになってくるのだった。きっとこの難路を越えていた何万人というチベット人の多くはこの真言を唱えながら歩き続けたに違いない。
時には、吹雪の中生死を彷徨いながら唱え続けたものもいたであろう。今までに無数の羊が死に、ヤクが死に、人も死んでいった。
ガワンも峠近くの氷河には何人もの子供の死体が埋まってる、と言っていた。
ひどい吹雪になれば3,4時間でも人は死ぬことがある。そうでなくても峠で二日雪が降り続けばヤクでも死ぬ、と。

神・仏に見える雪山に囲まれ、この氷河にはいったいどれだけの死体が凍りづけになったまま埋まっていることだろう。
何百年、何千年の後、氷河絶端部から吐き出されることであろう。
このナンパ氷河はヒマラヤでいちばん悲しい氷河に違いない。
美しいチベットを捨ててどうしてこんな厳しい峠を越えなければならなかったのか。
悲しいことだ。

途中の小高い丘にはラプツェがあり沢山のタルチョが結びつけられていた。ガワンは自分のタルチョを結びつけながら、長いお経をあげていた。

lunak
ルナックには4時頃着く。ここには二件の岩屋があった。








ルナックの岩屋の中
峠を越えてきた者が初めて屋根の下で寝れるところと言う。でもその中を覗くとヤクの骨ばかりが散らばる不気味な空間だった。
我々は外にテントを張った。







靴とヤク
テント場の周りには打ち捨てられた靴が目立った。子供の靴が多かった。何故、靴が残されているのか解らなかったが、それらは亡命チベット人たちの残したものには違いなかった。















難民の子供の靴ボロボロになって捨てられた靴を見てるといろんなことに思いが巡った。











夕日のジョオ・ラプサン
夕方、正面に見える、美しいジョオ・ラプサンが夕日に染まった。

今日からは一日二食。それも朝はムスリに乾燥ナッツを加えたもの。歩いた後の夕食はラナ・ヌードルという即席ラーメンだけだ。
気温も朝晩はー20度を切るほどになった。
N2と二人で小さなテントに寝るが、高度のせいか眠れない。その上にN2のいびき、タバコ吸いの咳(N2こんなこと書いてごめん)、年寄り私の、冷えからくる夜中の小水とかで、その夜はほとんど眠れなかった。
少し寝てもそのたびに、あまりにヴィヴィッドな夢を見るので寝た気がしなかった。



















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2009年02月19日

第三日目 アーリヤ

第3日目。酸素量も60%を切ってきたということで、アーリヤ4300mに高度順応のためもう一泊することにした。
アーリヤのヤク
朝、ヤクベルの音が沢山聞こえてきた。外に出ると20頭ほどのヤクが上から下りて来た。

今日はゆっくりしていようと思っていたら、N2は、写真家の性分なのでしょう、丘に登ろう、先のチュレに行ってみようとじってしてられない。川の反対側、少し先のチュレに行くことにした。
連れの三人がそこに行ってるはずだった。
アーリヤの川渡り
昨日、3人は我々をアーリヤの宿に届けた後、ゾッキョをつれて川を渡るのを見た。ゾッキョは川に入り渡る。人は細い丸太の一本橋を怖々と渡っていた。
それを見ていた、N2は、私がまずあの橋を渡ろうというと、いやいやあそこは危なすぎる、もしもたくさん身につけている写真機材が濡れたら大変だし、という。
それではと川の右側をそのまま登る。どこかで対岸に渡れるだろうと先に進むがなかなか渡れそうなところがなかなか見つからない。やっと一か所、橋が掛っているところが見つかった。
マニ石 オーマニペメフーン
しかし、その橋は前のよりもっと危なそうだった。まず川の中にある、大きな岩の間2mぐらいをまず飛び超え、次にまた細い細い一本橋を渡るというもの。それにしてもだれがこんなことを渡れるというのだろう!?原人用としか思えなかった。

私はもうここしかないと思い渡ろうとしていたが、またN2は、いやいやこれはやばすぎますよ、とまだ決心がつかない様子で先に進む。相当上流に行って、やっと川が凍っている、渡れそうな場所を一か所見つけた。私がそろそろと渡り始めた。もう少しというところで、氷が割れ、片足が川に浸かった。大したことはなかった。

しかし、この辺は川が広がり何本にも分かれていた。それからまた川。もう私は靴脱いで、川に入るしかないよ、と言い始めていたが、N2はなかなかその決心もつかない様子。

私がはじめに靴を脱ぎ川に入った。もちろん冷たかった。流れも程よく強くて、下の石も苔むし滑りやすい。一つ渡ると冷たさに、頭の芯まで痛くなった。連続でもう一つ渡る。全身冷たい鉛になったようい感じた。

ここで、亡命者から嘗て何度も聞いたことのある渡川の話を思い出した。亡命者の苦労を味わうための旅だから、これもありなのだ、と納得した。
N2は中々入らず、上流に向かっていた。でも最後には川に入り渡ったみたいだった。
チョー・オユー
渡った先のチュレはこのあたりの遊牧民の夏の村だ。古い仏塔があり、そのあたりからチョー・オユー(8201m世界第6位)の頂上がよく見えた。

連れの3人のいる家を探して河の下流に戻る。ずいぶん戻ってアーリヤに近い当たりに見つけた。アン・サンポの夏の家にもう一人の若いシェルパと一緒に3人はヤクのフンを焚きながらくつろいでいた。村には彼ら以外だれも居なかった。
彼らはまだ、このあたりに自分たちのヤクを放っていたのでここに泊まりたがったのだった。
チュレの家
この家にナンパ・ラからの帰り道、二日間泊まることになったのだった。

さて、帰りはどの道、どの橋を通るか?N2は同じ道を引き返すという。
私は彼らが渡った橋を行くという。結局橋を渡った。橋に近づいて見ると、橋の上には川からの飛沫で氷がびっしり。これは、これは、、、。私がスティックで氷を割り、できるだけ掃除してからゆっくり渡った。幅は20cmも無かった。
N2も後から、何とか渡った。
夕方、無事宿に生還。チベットでは河が移動の障害の第一と、少しは理解できた一日でした。
アーリヤの宿で見つけた自分が設計した仏塔の写真
夜、ふと宿の仏壇にこんなところで思わぬ写真にお目にかかった。
法王のお写真の横に自分がインドのデラドゥンで建てた(設計した)仏塔の写真があったのだった。こんな、地の果てに自分の墓のつもりで建てた仏塔を見つけ、奇縁だなと、嬉しかった。ナンパ・ラが自分の墓になるってことじゃないよな、、、?

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ここから、時間が前後するが、カトマンドゥに飛ぶ前の日、ルクラまでナムチェまでわざわざ片道7時間かけて送ってくれたネドゥン・シェラップ氏から、最後の夜に聞いた。ナンパ・ラの昔の交易の様子などの話を報告しよう。

まずネパール側からはシェルパがチベット側のディンリまでゾー、大麦(小麦)、杏、線香、顔料などを運ぶ。帰りにはディンリからチベットの馬、羊毛、塩を運んで帰る。

ここで面白いのは、まずゾーの話。ゾーとは一般にヤク(雄)ディー(雌)と牛の雌・雄を掛け合わせた動物。この場合の組み合わせとしてヤクとパー(雌牛)を掛け合わせたものはウランと呼ばれ、ディーとラン(雄牛)を掛け合わせたものはディンゾと呼ばれる。

ディンゾはウランにくらべ高地に強く力もヤクよりも強いという。鍬を引き畑を耕すことができるのはこのディンゾであり、ヤクは力が足りないという。
だからチベット人はディンゾをシェルパから買うという。
この辺のシェルパの飼っているのはウランであり、低地にしか住めないという。ナンパ・ラを越えるのも難しいという。

「なぜ、チベット人は自分でディンゾを作らないのか?」と訊くと。
チベットでは違う種類であるヤクとかディーと牛を掛け合わせることを良くないことと思ってる、だから自分たちでやらないでシェルパから買うのだとのこと。

次は馬の話。ディンリで買われたチベットの馬はネパールからインドまで昔はたくさん需要があったという。この馬は帰り道ナンパ・ラを通ることができない。これは別にどうしても不可能というのではないというがチベット人やシェルパはみんな次のことを知っているという。
ゴヤタエー山
この辺の峠には夫々に守り神がいる。ナンパ・ラの場合は峠の前にゴアタエーと呼ばれる丸い特徴的な山があるがこの山の形は馬の頭に似ている。
この山にちなんでナンパ・ラの守り神はナンパ・ゴアタエーと呼ばれる男神だという。
この神はナンパ・ラをその蹄が二つに割れてない動物が通るのを許さないのだそうだ。
そこでヤクとかゾーとか羊、山羊は通すが馬、ロバなどは蹄が割れてなく、一つなので通さない。もしも通ろうとすると、馬もそれを引く人も死ぬという。
かつて、これを無視して通過しようとしたものが沢山死んだという。

ということで、帰りは西よりのプセ・ラを通って南に下るそうだ。ここにも神はいるがここの守り神は馬を通すそうだ。
この話はまあ、ナンパ・ラは馬には危険すぎるというとこを知らせているのだとも解釈できそうです。
ナンパラ氷河
塩については、昔はネパールやインドにも海の食塩が行きわたってなかったのでチベットから多量の塩が運ばれて来ていたそうです。
これにちなんで、今度は羊の話ですが、チベットの北西部のチャンタン高原の遊牧民たちは塩を羊の背に乗せてナムチェまで運んで来ていた。1000〜2000頭の羊の背にそれぞれ15キロほどの塩を乗せ運ぶ(総重量15トンから30トン!)。遠いので一か月から一か月半掛る。その間、羊の背中に括りつけられた塩は下ろされることがない。すると最後に羊の背中から塩を下ろす時には塩と羊の革が癒着し、皮ごと剥がれることになるという。だからチベット人は羊の背に塩を乗せて運ぶことを非常に良くないこと(ディクパ・チェンボ)と思っているとのこと。
塩を運ばせて、ナムチェまで来て、羊の半分は売るという。つまりそのあとその羊たちは哀れにも肉にされる。
残った半分の羊に麦を乗せて帰る。遊牧民は畑がなくツァンパを作ることができないからだそうだ。

一般に、塩は峠のチベット側に、今は無くなったがキャプラックという村があり、そこが集積場となっていたという。
そこからは羊でなく、ヤクや人がナムチェまで運んで来たという。







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2009年02月18日

第二日目ターメーーー>アーリヤ

昨日はナムチェから一気に二日行程を一日にしてルクラ2840mまで下りました。
そして今日の朝、ルクラからカトマンに飛んで帰ったところです。
一気に下界に降りた気分です。
久しぶりに熱いたっぷりのシャワーを思う存分浴びました。


ナムチェで書いた第2日目の報告が以下です。

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ターメ村
2月5日、第2日目、ターメ・3840mーーー>アーリヤ・4300m

ターメを朝10時半出発、他の3人は朝からホット・チャン(大麦酒)を飲んでいる。この辺では客を連れて来たガイド、ポーターには宿主がたっぷりとチャンを振る舞うことになっているようだ。
それにしても、朝から酔っぱらってよく歩けるものだと感心する。
このターメで初めてチャンを飲んでみたが、その美味い事、強い事。こんな低地!では考えられないことに、息が上がり、初めて高山病の症状に見舞われました。
こんな強い酒を飲んで坂を駆け上がるんだから、この人たちはヒマラヤ原人そのものです。私たちとはまるで造りが違い、強靭そのものです。

ここで連れの3人を簡単に紹介しておきます。
後でもっと詳しい興味深い話もご紹介します。
ガワン
まず、ガイドでヘッドのガワン・ドゥンドゥップ48歳:彼の事はもう前回写真と共に相当紹介しました。
ナムチェのチベット人会ボスのネドゥン・シェラップ氏が紹介してくれた、ターメで難民を助け続けて来た人です。ナンパ・ラにもっとも通じた難民チベット人です。
他の二人は彼が連れて来たのです。







アン・サンポ
次にアン・サンポ36歳:
彼は亡命チベット人ではなく地元のターメのシェルパです。
でもシェルパなのでチベット語も話せるのです。
シェルパ語はチベット語の一方言ですが、実際には違った言葉に聞こえます。
アン・サンポは結婚して可愛い奥さんと8歳の女の子、6歳の男の子がいます。

最初は非常に寡黙でおとなしかったのですが、次第に本性を現わし始め、吉本興行に入っても売れっ子になること間違いなし。

聞けば彼は何とチョモランマ登頂5回、チョー・オユー登頂3回という強者だったのです。
これが日本人だったらきっと相当の有名人になっていた事でしょう。
しかし、ここではまあまあの人です。隣にはチョモランマ登頂16回という強者がいて、貯めたお金でかいロッジを建て、本人はアメリカに行っているとか。
一回のチョモランマ登頂で3年分の年収が稼げるそうです。もっとも本人いわく「気違いのやる事だ」そうです。
やっぱり、きついそうです。
この辺は後で紹介します。

とにかく彼は水汲み、ヤク・ストーブの世話、ヤクの世話といつも忙しく働いています。道を行く時はヤクを追って「ほりゃー」と叫びながら、断崖を駆け登るのが好きなんです。
ケルサン
最後は若いガワン・ケルサン28歳:
数年前ガワン・ドゥンドゥップの娘の一人と結婚し、一才半の子供がいるそうです。

彼の両親はナンパ・ラを越えて来たチベット人です。
彼は亡命チベット人二世と言う訳です。
チベット語はちゃんと読み書きでき。
その上、なぜか日本語が随分うまいのです。
どうも嘗てガイドした日本人女性と、付き合ったことがあるそうです。その館山のエリコさんに呼ばれて、日本にも行ったことがあるそうです。
なかなか優しくて、いい男だから、それもありなのでしょう。

彼はまだナンパ・ラに行ったことがないとか。
チベット人みんなが越えて来たナンパ・ラを越えてチベットを見てみたい、と言ってます。

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さて、今日の目的地はアーリヤ高度差500m。アーリヤはロッジのある最後の場所です。
4、5時間で到着の予定が途中のマルルンのロッジで昼食にダル・バート(ネパールの食い放題定食)をすぐにできると言われて頼んで、待つ事二時間、これでアーリア着は結局夕方になってしましました。
ターガ村
まず、ターメを出て小高い丘を越えると、立派な古い目玉仏塔があるターガ村を通ります。
仏塔の周りには、無数の経文が掘り込まれたマニ石が立てかけられています。
仏塔やマニ石があれば必ずその左側を通るのが仏教徒です。

ターガ村を過ぎると山の中腹にキャロ・ゴンパが林の中に見えます。道から上に随分と登らないといけないので
どうしようかな?と思っていると、N2くんがすぐに「登りましょう」という。
ハアハアいいながら辿り着く。
キャロ・ゴンパ
古いニンマ派のゴンパで、ここがこの谷間の最後のゴンパです。
辺りは珍しく大きな樹齢数百年と思われる立木が囲み、中々風情のある佇まい。
でも、入り口には鍵が掛かっており、声を掛けても誰も中々出てこない。
そのうち若い女の子が出て来て、鍵を開け、本堂に入れてくれた。
普段10人いる僧侶は全員カトマンドゥに行っているとか。
本堂の中には赤い冬の上着が人陰のように整然と▲型に並べられていた。


キャロ・ゴンパのタンカ
バルド・トゥドルなどの古いタンカが多かった。













キャロ・ゴンパの二人の若い寺守
それにしてもその二人の女の子はよく笑った。
一言聞いたり、話したりするごとに笑う。
そこで私は、日本では「若い女の子はハシが転んでも笑う」ということわざがあるが、君たちはまるでそれだね、と言って、また笑われた。

標高4000m、この森を最後に、先にはまるで立木は一本も生えていなかった。

このゴンパは 道から離れているので難民が立ち寄ることはまずないそうです。




子羊3ぴき
マルルンで昼食をとり、その後が長かった。







マルルンの子供



アーリヤに着いた頃は陽が陰り、随分と寒く感じた。
N2の温度計はー13度になり、ダウンジャケットの表面が凍り始めた。



アーリヤのもう一つの宿
このアーリヤには宿が二軒ある。
この先は野宿か岩屋かテントしかない。






ヤク・ストーブ
夜にはヤク糞がたっぷりストーブに焼べられ、温かだった。

この宿の主人はペンバ氏。
まるで、顔はこの辺の野人でなく、日本人の優しそうなおじさんにそっくりだった。
冬場はこの宿は閉められペンバ氏はターメに降りる。この日はわざわざ下のターメから我々の食糧等を持って上がって来てくれたのです。
彼もシェルパなのでチベット語が通じた。
難民はナンパ・ラを越えた後、途中で一泊野宿をしたあと次の夜この宿を頼る。

ペンバ氏に難民のことなど聞いてみた。

ペンバ氏「去年の三月以降、半年はまったく越えて来る人はいなかった。その後も本当に少ない。その前の年は酷く寒かった。その前の年には大雪が降った。
それでも、30〜40人のグループが沢山来ていた。
人数の多い時には、ここだけでは入れ切れず。となりのロッジにも泊まらせた。いつもお茶とツァンパと寝床を与えてる。

雪が降った年は越えてくるのは大変だ。そんな年には昔は子供の手足が凍傷になるということも多かったが最近は殆どないようだ。

昔はチベットから年中ヤクの商隊が沢山やって来ていたが、最近は中国が行かせないようだ。めっきり減った。
それでも春と秋に一ヶ月半ぐらいだけ限定でヤッパの行き来を許可しているみたいだ。その時期にはヤッパが何度もディンリとの間を行き来する。
最近はこっちのネパール側からチベットへ行くヤッパのほうが多い。こっちから持って行くものといっても水牛の皮(靴作りの皮になるとか)ぐらいで他に何もない。
チベット側から運ばれて来る物はツァンパ、ヤクバター、ヤクチーズ、米などの食糧品が殆どだ。
金持ちのヤッパなら電気製品とかも持って来るようだが、だいたいは金のないヤッパばかりだ。

中には一人だけで商品を持って来るために峠を越える者もいる、彼らは中々すごい。
このアーリヤを夜中の2時ぐらいに出る。なぜかコーラとビスケット一袋だけを持って行く。峠を越えて向こう側のギャプルンにその日の午後4時頃に着くと言う。そこには仲間がバイクで待っていてその日のうちにディンリに着くらしい。
帰りには一人で背負えるだけのダウンジャケットを持って来る。強いね。自分には到底できない」

峠までの行程はアーリヤから普通二泊三日は掛かるのです。
これを一日で歩くのですからすごい訳です。
















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2009年02月16日

第一日目 ナムチェーー>ターメ

2月4日、第一日目、ナムチェ・バザール(3450m)ーーー>ターメ(3820m)

ネドゥン・シェラップ氏に寄付金を渡す
出発の前にネドゥン・シェラップ夫妻にUS$1000をルンタ・プロジェクトから寄付する。
長年、個人的に峠を越えて来る難民を助け続けて来た彼らに
これからも難民を助け続けてもらうための資金として渡す。

このお金は昨年の「チベットを知る夏」イベントで得たものです。
実行委員の皆さんご了承お願いします。

ナムチェを後にゾッキョと共にターメに向かう
前の日と違い、朝から快晴。
2頭のゾッキョ(ヤクと牛の交配種ゾーの雄)と共にターメまで森の中をのんびり歩く。
途中タモで難民もよく立ち寄るという、ギャリ・アニ・ゴンパ(尼僧院)に行ってみる。
尼僧33人のうち、シェルパ出身の一人を除き、他は全員チベットからの亡命者だと言う。
あいにくほとんどの尼僧は出払っていた。留守を預かっていた一人の尼僧ガワン・シェラップさんに話を聞く。
今30歳の彼女は22歳の時チベットのディンリの近くの村から尼僧になるためにナンパラを越え、このネパール側の尼僧院で尼になったという。
タモ尼僧院にてガワン・シェラップ尼
「チベットでも尼僧に成れないことはないが、、、そのためにはダライ•ラマ法王を非難しなければならないし、いいラマも居ない。
峠さえ越えれば法王に会う機会も得られる。ラマもいると思い決心した。
すでに、二度ブッダガヤとサルナートに行き法王からカーラチャクラの灌頂を受け、法王にお会いすることができた。


タモ尼僧院
逃げて来る人たちはよくこの尼寺に立ち寄る。みんな疲れきっている。お茶とツァンパを十分与える事にしている」と彼女。

質問「06年の尼さんが峠で殺された時のグループはここに寄ったのか?」

尼僧「覚えてる。ガイドと一緒にたくさんここに来た。いつものように、お茶(チベット茶)を与えツァンパを与えた。みんな緊張していたが、ここに着いてほっとしているようだった。子供たちは特に大変なことだったようだ」

この尼僧院ではスペインの尼僧が一人、長年修行していると言う。
その時はいなかったがジャミヤン・ワンモと呼ばれるその人は「Dancing in the clouds」という本も書かれている。

タモの仏塔。この横に検問所あり。
タモには仏塔の傍に検問所があるが、外人には見向きもしなかった。
時にここで難民が拘束されることもあると聞いた。

タモから谷に下り橋を渡り急坂を登りきると、突然美しい小川沿いに木々と草原が広がり、やがてターメの村が見えて来た。




ターメ村の入り口
ターメとはタン(草原)、メ(下方)ということで「下の草原」と言う意味の村だ。谷の上の方から来たとき名付けられた名前と思われる。

世帯数45。一家族に子供は5〜10人はいるという。

ターメは本当に美しい村だ。
目の前にはカンテガ、タンセルク、キャシャールの三山が見事な三尊形となり聳えている。
後ろはコンデ連山、テン・カンポチェ等の6000〜7000m級の山々に囲まれている。

日当りの良さそうな畑が広がり、ヤクやゾー、馬が沢山いる。
まるで桃源郷だ。
ここは峠を越えて来て、最初に難民が人里を感じる場所でもある。
ターメ村、難民収容所予定地
そこで、考えた。
この村に逃げて来た人たちを匿い、まずは熱いお風呂に入ってもらい、その後美味しくてたっぷりの食事と、暖かい寝床を提供することのできる家を建てる。ついでにシーズンには日本からのグループを呼んで、ナンパ・ラとかエベレスト方面へのツアーを行なう。高度順応ヨガとかチベット瞑想のクラスをやっても好し、、、と考えながら、一挙に予算や図面まで考えた。
が、まあ、お金のいる話ではありますし、時勢がら今はただの構想ということにしておきましょう。
ターメの赤石の谷
夕方、谷の奥に向かって散歩。
赤石が賽の河原のように広がる小川。
奥へ奥へと吸い込まれそうな美しい谷。
暗くなり引き返すことにしました。

夜、ガイドを引き受けてくれたガワン・ドゥンドゥップ氏48歳のお宅にお邪魔した。もっとも彼は難民なので自分の家も土地も持つ事はできないという。
家も借家だという。
この村では彼の家族だけが唯一の亡命チベット人だ。
質素な農家。
子供は男2人、女5人いるというが今は誰も家には居ない。
男2人の内一人が僧侶。女5人の内2人が尼僧になっている。
自分の本当の子供は一人だけだという。
一緒にチベットから送られて来た長兄の妻を、長兄が喧嘩で殺された後、妻として引き取り、そのまま残された6人の子供を育て、ともに暮らして来たと言う。
ガワン・ドゥンッドゥップ氏
彼は16歳の時からヤクと一緒にナンパ・ラ峠を越え、チベットのディンリとの間を何度も往復して来た。
彼のように交易のためにヤクと一緒に行き来する者はヤッパと呼ばれる。
今も年に3〜4回往復するという。

90年代以降道中沢山の難民に会い、お茶を振る舞い、ツァンパを与え、凍える子供たちの手を暖め、自分のテントを使わせたりして世話をした。
このターメでも沢山の人を匿ってきた。








ガワンの奥さん
10年ほど前、このターメの検問所に33人の亡命チベット人が捕まった事があったという。
その時、警官は言葉が解らないというので、同じチベット人の彼が呼び出された。彼はお茶とツァンパをたっぷり用意して警察署に向かった。
着くなり、「ちゃんと食事を与えているのか?」と聞くと、「やってない」と言う。
まずみんなに茶とツァンパを与えた後、
「さあどうする積もりか?ナンパ・ラを越えてディンリまで連れていく積もりか?少し金をやるから逃がしてもらえないものか?」
と交渉した。
ガイドには一万ルピーもやれば逃がしてくれよう、と話した。
結局金を掴ませ、私が預かり一旦ナンパ・ラの方に歩かせ、夜中に抜け道を通りしたまで逃がしたという。
ターメの子供たち
「谷の上の方で会った時には、ターメ、タモ、ナムチェを夜中に一緒に抜けて安全な下まで送ったりする。
昔は凍傷になる子供も多かったが最近はそんな子供は少なくなった。中国製の手袋が良くなったせいかの知れない」と話していました。



ナンパ・ラと現在呼ばれる峠の由来はナムチェのシェラップ氏の話によると、
「昔、昔キラ・ゴンポ・ドルジェという狩人に追われるナー(ナワ=ヒマラヤ・ブルー・シープ)が逃げ場を失い山に向かって飛び込んだ。すると山が自然にチェー(開けた)。そのことによって出来たラ(峠)ということでナー・チェ・ラと呼ばれるようになった。それがなまって今はナンパ・ラと呼ばれているのだ」という。

この話はミラレパの「狩人と鹿」の物語を思出ださせます。
きっと関係あると思います。

ターメの子供たち 2















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2009年02月15日

ナムチェに帰って来ました。

4d22283a.jpg昨日11日目にして再びナムチェ・バザールに無事帰って来た。
ナンパ・ラ(峠)5741mまで行って来た。
正味歩いたのは8日間。途中3カ所に二泊した。

道は長く、峠を前にした最後の氷河上の登りは酸素濃度50%を切る中、−25度の冷たい強風に向かう厳しい登りとなり、少しは(十分に)ここを越える難民たちの大変さを味わうことができた一日だった。

しかし結局、残念ながらチベットから峠を越えて来る難民には出会うことができなかった。






ナンパラ 1
そうではあるが、やはり峠まで行ってよかった。

途中の景色は一生忘れがたいものばかり。一緒に行った3人のヒマラヤ原人?は人とは思えぬほど強靭でそれでいて純真この上なく、優しく、ユーモアたっぷり。毎日たっぷり笑わせてもらった。
特にガワンからは道中貴重な話も沢山聞く事ができた。

途中様々な場所に難民たちの悲しい痕跡を見た。

ナンパ・ラを下った次の日、天気は崩れ、谷には雪が降り、辺りは一面真っ白。一日遅れていれば峠まで行く事は不可能だった事でしょう。

最後は雪景色の中、ターメまで20頭のヤクと共に下った。

これから少しずつ日を追っての詳しい話を報告するつもりです。
ナンパラ 2
写真は
一枚目:ナンパ・ラに向かうために越えねばならない氷河。
二枚目:ナンパ・ラ上のネパールと中国の国境を示す傾いた標石。中国・62(年)と書いてある。
三枚目:ナンパ・ラで中国側に向かい、チベット国旗を持ってヨガの「戦士のポーズ」を取るN1氏
(これはN2氏の要請に従っただけです。決してN1が率先してこんなバカな事をした訳じゃないのです)

ヤク 1
四枚目:ターメまで一緒に下ったヤクたち。



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2009年02月03日

ナムチェ4 S氏の亡命50年

クスンとタルチョ
明日はいよいよナンパラ目指してナムチェを後にします。
ネット世界はここまでです。

急げば1週間で往復できるのですが、途中高度順応の必要もあるので往復10日程かける予定です。
昨日から雲が多くなり、気温が下がっていたのが気がかりですが、、、
足も腰もちゃんと治って、体調は万全です。

再びS氏に話を伺いました。
少し長いです。
昨日は奥さんの方に話を伺いました。
85年に亡命してきた彼女の方がチベットでの苦労は多かったようです。
途中何度も涙を流しながら、たくさん話を聞かせてくださいました。
このほうは出る前には書けないかも知れませんが、帰ったら報告します。

今日の写真はすべてN2氏撮影です。

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ロッジのレストランで

ガワン・ドゥンドップと彼の代わりとして今度のガイドを引き受けてくれる事になったターメ村のチベット人ガワン・ドゥンドゥップ氏48歳、二人と話をする。
まずはガワン・ドゥンドゥップ氏に聞く。


ヤッパ(ヤクの背に荷を乗せ国境を越えて交易を行なう者)にも中国の許可書が必要のか?

年に4、5回はディンリまで行商に行く。現地には4、5日ぐらいしか滞在しない。村の長老が責任を持つということで警察署からパスを貰わないといけない。昔からのなじみなので、村の長老も私のことを信頼している。何日いるかを登録して、パスを貰う。昔からやってるから、悪いことしていないことも分かってるから大丈夫だ。

時々、ヤッパと一緒に来る難民もいるのか?

それは難しい。私はディンリには4、5日しか滞在しない。その帰還にちょうど会えばいいけど。途中で難民に会って、お茶やザンパを与えたことは何度もある。でも一緒に来たことはない。

この時期ギャプルン(国境地帯にあるチョ・オユー山のベースキャンプ)に中国軍がいると思うか?

冬季は水が出ないからいない。ギャブルンまではダクマルからバイクで20分しかかからない。兵士たちもチェックしようと思えばいつでも行ける。ディンリから歩く人はほとんどいない。サキャやラプチェから、またはシェカルから歩いて来る人がほとんどだ。


S氏
彼とはまだ先でいつでも話を聞けるので、注目のネドゥン・シェラップ氏にさらに話を聞く事にしました。

59年の中国が来る前はどんなだったか覚えている事は?

自分たちは幸福だった。自分たちの家もあるし、商売も自由にやれた。6歳からチベット語を学ぶために、先生をさがして、寺にいった。寺のなかでチベット語を習ったし、お経も習った。かなり小さい頃から読み書きができた。チベット語はチベットにいるときからよくできた。

いつ頃から中国軍が入って来たのか?

自分たちのところ(ディンリ)には58年ぐらいから59年にかけて来た。59年に状況は酷くなった。逃げるしかなくなったのだ。着の身着のまま、ヤク6頭と共に、わずかな食糧しか持たずにだ。2、3年ぐらいしかいないつもりだったので、金目のものや、財産は寺の中に隠して来た。こっちには自分たちが着るための服ぐらいしか持ってこなかった。すぐに帰るつもりだったから。

亡命する以前の生活はどんなだったのか?村にゴンパ(寺、僧院)はあったのか?

シッキム・カギュ派に属するゴンパがあって、自分の家が施主の筆頭だった。ディンリには大きなゴンパがあったし、村それぞれにゴンパがあった。自分の村は4、50世帯ぐらいの大きさだった。一世帯に4、5人から多いところは15人ぐらいいたりする。子供は普通は4、5人。ネパール人は家族ばらばらに住んだりするみたいだが、チベット人はみな一緒に住んでいた。といっても、夫々男は商売にいったり、農業をしたり、放牧したり年に1、2ヶ月しかいっしょにいなかった。長男が家のことをみている。一妻多夫が一般的だった。兄弟が仲良かったら4人に1人の奥さんということもあった。ハハハハ、、、、でも、大丈夫、ほとんど皆がそろうことはない。それぞれに出かけていった。いい牧草地なんかに2、3ヶ月ごとに移り住んで行く。家にはお手伝いさんがいた。テントを持って遊牧にいくこともあった。

チャンタン高原に近いし、高地で寒い所じゃないのか?

いつも火を炊いてるし、たくさん服をきているから大丈夫。むかし、ディンリに一度帰ったとき、すごく変わってた。家では灯明をあげることさえ禁止されていた。寺は破壊されまったく無惨な姿だった。 仏像は壊され、盗まれ、中は空っぽだった。金目の物は中国の軍隊がすべて持って行ったという。

自分たちの村では自分が出る前には殺された人はいなかった。
59年から灯明を上げる事は禁止された。全ての宗教的儀礼は禁止された。それをやったら罰せられた。
ナムチェ
各村のリーダー格はみんな逃げた。ちょっと豊かだった農家は封建領主とかの名前を付けられ、財産は没収され、タムジンに掛けられた。特に妻の家は大きな家だったから、酷い目に沢山あった。

奥さん:
「今日は集会だ」とか言われて、村人が集められる。60歳以上と8歳以下は行かなくてよかった。それ以外の者はみんな参加させられた。(タムジン)集会の後は、家に帰ったら家には鍵が掛けられ入る事もできなくなっていた。自分の家は大きかったらしい。今までこいつらはお前たち使用人たちを搾取したから仕返し、お前らは父を殴らなければいけないと他の者たちに命令した。
父は死ぬほど殴られた。
住むところがなくなって、自分たちは家畜小屋に住み乞食のような生活をするしかなかった。

中国はチベットはかつて封建的農奴制の社会だったと言うが?

確かに家に使用人はいた。しかし、彼らには食事を与え、年俸をちゃんと渡していた。貧しい人たちは仕事がないから仕事を作って助けていたようなものだ。服もちゃんと与えていた。中国は使用人を奴隷のように使っていたというけれど、自分たちはきちんとせわしていた。
家内の家には20人ぐらいの使用人がいた。 その村はチャンということでディンリから北に3日ほど行ったところにある.その村では沢山の人が殺されたという。穴掘ってそのよこで銃殺されて、穴に落ちて、埋められた。
例えばお父さんが殺されたら、残された子供たちは50元から100元の銃弾代を払わされるのだ。

59年の何月に峠を越えたのか?

59年の10月ごろに逃げて来た。この辺(ナムチェ)に一ヶ月ぐらいいて、インドのブッダガヤにダライ・ラマ法王に会うために降りて行った。11月かな?法王に会うことができた。その時、法王は子供たちは学校に送るようにと言われた。
しかし、父は田舎者で教育に対して関心がなかったこともあって、学校に送られず、そのままナムチェに帰って来た。その頃、法王はインドのムスリーに自分たちのような子供のために学校を作られたのだ。そのとき33人しかいなかったという、もし行ってたらすごくよかったのに。偉くなれていたかも知れないと思うことがあるよ。父は亡命生活が長くいるとは思ってなかったので、インドという遠い土地で子供を育てようとは思ってなかったのだ。いろいろなとこに行って、再びクンブに帰って来た。

法王が亡命されたことはいつ知ったのか?

今のニュースのようなものはなかったが、噂で3月にラサで市民蜂起があり、その後、法王が亡命されたことは村にも伝わって来た。法王が亡命されて、そのことで状況が良くなるのか、悪くなるのか自分たちにはそのとき分からなかった。しかし、4、5月と月を負って状況は悪くなって行った。もう悪くなるばかりで、良くなることはなさそうだと思っていた頃、一人一人と捕まり、どこかに連れ去られて行った。

ディンリで中国との闘いはなかったのか?

戦闘のようなものはなかったけど、チベット軍のひとりの大将が殺された。シャルにいたギャプジョンというチベット軍の大将だ。彼はそのとき自分の家にいた。中国軍がきて「出てこい」と言った。彼はそれに対し武器も何も持たずに悠然と外に出たと言う。出た時にすぐに撃たれた。中国が彼を狙っていたことは確かだ。
あと2、3人は撃たれた。有名な軍人とか商人とかが殺された。軍隊の名前はギャブジョンという。その他にカダン、タプチと呼ばれる軍隊があった。夫々500人から1500人ぐらいの隊だった 。チベット政府の軍隊だ。

チュシ・ガントゥックとは関係ない軍隊なのか?

チュシ・ガントゥックはカムパ・ゲリラで、中国が来た後にできた軍隊だ。今言うチベット軍はずっと昔からある隊だ。
もっとも、教育もないし、訓練も足りないし、ちょっと鉄砲が撃てる程度だったみたいだけどな。。
クンビラ
59年に、祖母と兄と、妹それにヤク6頭と共にナンパラを越えてきた。クンブは近いし、ニャラムは遠いし、クンブに抜けるにはこのルートしかなかった。このルートは昔からある。ネパール側のシェルパがディンリに行くことが多かった。

60〜70年代からツーリストが来始めたが、その前はシェルパはとても貧しかった。数百年前、チベットのカムが貧しくて、食う物がなくてこっちに逃げて来た。そして徐々にこの地方に住み着いた。だから、シェルパはもともとチベット人だ。

59年から60年代のはじめ頃には、本当に大勢のチベット人がナンパラを越えてクンブに逃げて来た。ヤクや羊と一緒に逃げてきた.だからこの辺の谷はヤクと羊で一杯になった。でも、そんな沢山の家畜を食わす草はない。だから売るしかない。でも買い手は少ない。羊一頭1元で売られてた。
4000〜5000人がこの辺にいた。59〜64年頃までがピークで、文革の間は少なくなった。それでもナンパラを越えるものが絶えることはなかった。そのうち、近くのチェルシに難民キャンプができて。そこにたくさんの難民が行ったが、たくさん死んだ。空港をつくる仕事があった。その他だいたい建設現場をした。学校が出来て、自分は学校にも行った。泊まるところが狭く、小さな部屋に3、4家族が住まなくては行けないし、暑いし、食うものは少なく、衛生的状態もよくなかった。結核が流行して、確か500〜600人がそのキャンプで死んだ。
スイスが援助してくれていた。スイス人の医者がいた。自分はその医者の手伝もしていた。毎朝、薬を配って回った。
キャンプの者たちは、75年ごろからカトマンドゥなどに移り始めた。いまは100人ほどしかいない。チベットの学校はまたあるが、いまはチベット人はそこにはほとんどいなくて、地元のシェルパやネパール人の子供たちが通ってる。先生はまだチベット人だけど。
80年代は少なかった。87年から90年代始め頃はデモもあったし、逃げて来るものもいたけど、 家族ごと亡命するのは70年代までだった。それ以降は個々で逃げてくる場合がほとんどだ。

59年に逃げて来て、62年までクンブにいた。63年から74年までインドの軍隊にはいった。2・2部隊と呼ばれるチベット人部隊に入った。
73年にインドがバングラと戦争した時には出兵した。74年にクンブに戻って来て、妻と出会い結婚した。

89年頃から亡命チベット人を助けることを始めた。
最初のころは全く余裕もなかったし、そのころ亡命して来る人たちの状況もよく知らなかった。ナムチェにいなかった所為もある。ナムチェに来て、今もチベット人がナンパラを越えて来ていることを知った。子供が多かった。
まずは匿い、金のない者には、友人の金持ちからカンパを募って金をあげたり、逃げ道を夜中一緒に歩き、下まで届けたりするようになった。02年だったかネレンカンから「とてもいいことをしてくれてる。続けてくれ」と要請があった。領収書があれば難民へ渡した金を返してくれるようになった。昔は大変なことが多かった。自分が夜中に一緒に出て行った。マオイストと国軍がやり合っていたころは銃撃戦も時にはあり、危険だったので、夜中に別の森の中の道を通って彼らを逃がした。

国連(難民高等弁務官事務所)は何か今までに亡命してくるチベット人を助けてくれたか?

国連は一回来たよ。カトマンドゥでは何かやってるのかもしれないけど、ここでは何もしてくれてないね。一度だけ捕まったチベット人を解放するために外人1人とネパール人1人、チベット人2人がきたことある。でも結局、15日待った何も出来なかった。結局自分がチベットに返すからといって引き取り、峠の前で逃がした。

ネレンカンがなかった頃はどうしていたのか?

昔はパスもなかった。88年頃だったか、ちゃんとした今のネレンカンができたが、その前は人の家をかりて収容所にしていた。まわりのチベット人から家をかりていた。88年頃から、きちんと対応できるようになった。

昔はただ、ツアンパをやったり、お茶をやったり、お金も1000ルピーはないとカトマンドゥまで辿り着けないし、その時はシェルパのところとかを回ってカンパを募っていた。地元の人は、泥棒されるんじゃないかと怖がっているひともいた。

今年はチェックも厳しくないが、マオイストがこの谷にいた03〜07年は大変だった。お互いに国軍と、マオの間でどっちについてるんだと捕まることがあった。だから夜中に一緒に歩いて自分で下まで連れて行く事が多かった。マオが政府になってから、厳しくなくなった。でもこの先マオも政権を取り続ける続けることはできないんじゃない。(奥さん)ひょっとしたら良くなるかもよ。どうなるか分からんな。
雲
ナンパラで最近死んだ人は何人ぐらいいるのか?

ナンパラで死んだら遺体を運ぶことはまずできない。そのままおかれてくる。
だから、本当のことは分からない。
ただ、一人20歳の若者が近くのタモで倒れクンデの病院にタンカで運ばれる途中死んでしまったというのは知ってる。
その他、そうだ、悲しい話だが若い女の子がクレバスに落ちて死んだということがあった。(ノートをめくりながら)
03年9月19日 他に5人が一緒だった。17歳の女の子がクレパスに落ちて引き上げることができなくて死んだ。16日にナンパラで起こり、他の5人は19日ナムチェに着いた。私はすぐにロープを持って助けに行こうとしたが、すでに4日が立っているから行っても無駄だとみんなが言う。結局行かなかった。
女の子が落ちたのを見て、他の者たちはロープ代わりにカタとか服を裂き割き結び合わせて彼女の元に下ろした。
一度目途中で紐が切れ、二度、三度と失敗した。三回落ち、そのまま動かなくなり声も聞こえなくなったという。他の者たちはあきらめて彼女を見捨て、下っていった。

ナンパラにはたくさんクレパスがある。ヤクが落ちで見えなくなるほどのクレパスもある。80年代に実際自分が連れていたヤクがクレパスに落ちた、下を覗いてもヤクの姿も見えなかった。

昔は9、10月の秋、春の4、5月には沢山のヤッパが国境のナンパラを行き来していたものだ。でも今は中国が厳しくするので少なくなった。それでもシェルパのヤッパが今でも少しは行き来している。

今年3月にチベットでデモをするものはいると思うか?

今年は50年目なので、とても警備が厳しくなるのではないか。内地はほんとに命を賭けてデモをやってるんだ。本当に勇気がないとできないことだ。今年も起こるだろう。こっちはなんてことない。せいぜい叩かれて刑務所に入れられるぐらいだ。向こうじゃ拷問や死んだりする奴もいるんだ。自由がない。中国に弾圧されているからだ。けれどもデモやっても外国の記者も入れないし、知らされることが難しい。それでもやる人はいるだろう。
あなたの50年間の亡命生活を総括すれば、、、?

50年は長かったけど、全てダライ・ラマ法王のおかげだ。ちゃんと元気に幸せでいられる。
こころのなかではいつも帰りたいと願い続けている。子供たちに昔のことをよく話している。自分の代がだめでも子供の時代に帰れればいい。他人の国にいるからいつまでたっても自分の家は持てないし、土地も持てない。
チベットで死ねたらいいなと思ってる。
子供たちに自分の生まれ育った土地を一度見せたい。
法王のおかげと、外国からの援助も得てチベット人はまあまあじゃないか。
仏教は今の方が世界に広まっている。昔はチベットだけでだったが、今は世界中の人が法王を知っている。法王のおかげで仏教が世界中に広まった事が唯一のいいことだ。
法王は利益のあることしか考えない。人であろうと動物であろうとみんな幸せになりたい。中国人も外国人も一緒だ。法王はいつもチベット人だけじゃなく、中国人にも利益があるようにと考えられている。外国からの助けがなければ、独立も決して得ることはできないだろう。
だからこれからもチベットのことを忘れないで欲しい。


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2009年02月02日

ナムチェー3 ナンパラの悲劇

アマダブラム
(昨日の)今日は軽い高度順応のためもあり,ナムチェの上の丘3880mにあるエベレスト・ビュー・ホテルまで登りました。
しかし、残念ながらこの日はエベレストは雲に隠れたままでした。

このホテルは日大山岳部のOBたちが30年以上前に建てたこの辺では破格の一級ホテルです。専用の空港も付いてます。
このホテルにかつて2週間以上子供たちと滞在していたことがあります。
そのときは改装中で水が無い(バケツで運ぶだけ)とかで、何と20年以上前に一泊$200ドルしたという絶景の庭付きロイヤル・ルームをたったの200ルピーで自分たちだけ泊めてもらっていました。
エベレスト・ビュー・ホテル
目の前にエベレストとローツェ、アマダブラム、すぐ横にタンセルクとガンテガが一望の下です。
世界一の絶景が気楽に(金さえあれば)堪能できるというホテルです。

そういえば先のブログで私は恥ずかしくも山の名前を間違って記してしまいました。タンセルクはキャセル6770mの間違い。
ガンテガと記したのがタンセルクでした。
ついでに今日写真を載せた山は最初のがアマダブラム、二枚目がガンテガ、三枚目はナンパラ方面の山々です。その間にエベレスト・ビュー・ホテルの写真が入ってます。
ガンテガ
このホテルで飯を頼むと目玉が出るほど高いので、その下のシャンボチェに下り昼飯、途中、ナムチェの上にあるナムチェ・ミュージアムに寄りました。
何とも変わったミュージアムでした。
ただの民家がミュージアム、入り口にはヤクの乾燥糞が積み上げてあります。
中では尼さんたちがお経を唱え続けていました。
写真展示室では連れのN2としこたま笑いこけた写真が沢山ありました。
その何点かを紹介します。
ナムチェ・ミュージアム
最初はミュージアムの中でお経を上げる尼僧たち。






この辺のシャーマン
二枚目はこの辺のシャーマンさん。












かつてのエベレスト登山家
三枚目はナンパラを目指すN氏!???













エベレストの頂上で裸になるシェルパ
最後はエベレストの頂上で暑くて裸になった!シェルパくん。この写真は合成では無いのです。れっきとしたミュージアムに掲げられてる写真なのです。

全部大きくして見てくださいね。
もっと楽しめます!

ーーーー

昨日は再びS氏に話を伺いました。

本当は長く色んなことを話して頂いたのですが、全容は少し後にして、特に今ナンパラの話だけを、記します。

<ナンパラでの犠牲者について>
今までに亡命するためにナンパラを越えようとして、死んでしまったチベット人は何人いるのか?

S氏:自分の知っているのは、殺された尼さん以外では2人だけだ(ノートを見ながら)。
一人は20歳の若者だった。峠で倒れナムチェの上にあるクンデの病院に運び込まれる途中、死んだ。

もう一人は可哀想な話ではあるが、クレバスに17歳の女の子が落ちたのだ。
これは2003年9月16日のことだ。6人のグループだった。
落ちたその子を引き上げるために、カタとか服を裂いた布とかを結び合わせ、その子のもとに降ろし、捕まらせた。
三度引き上げる途中で布が切れた。
その後その子は全く動かなくなったという。
仕方なく他の者たちは彼女を置いて下山した。
自分がそれを知ってすぐに峠まで行こうとしたが、みんなからもう4日経っている、生きている可能性は全くないと言われあきらめた。
可哀想な話だ。

クレバスには時にはヤクさえ落ちるのだよ。

他にも吹雪の中、子供がついて来れなくなり、そのまま判らなくなったという話は何回か聞いた。
吹雪になれば、普通一日で越えることのできる峠は三日も四日もかかる。
子供がいなくなっても不思議でなない。
そんな時には凍傷になる子もいる。

峠には実際いくつの死体があるかは判らないよ。









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2009年01月31日

ナムチェ2

ナムチェの目玉チュテン
まず始めに写真の説明をしておきます。
一枚目は、ナムチェの象徴ともいえる目玉チュテン
二枚目は、ナムチェのすぐ横に聳える名峰ガンテガ6685m
三枚目は、ナムチェで金曜ごとに開かれるバザールのようす
このために下から何日もかけて、一人80キロ!もの荷を担ぎ上げるのです。
四枚目、地図を描きながら説明してくれるS氏。
五枚目、ソロクンブ地域地図。ナンパラはチョー・オユーの左。CHINA(TIBET)の左側
六枚目、ナンパラ

ナムチェでのんびりしています。
高度順応には高さが足りないのですが、連れのN2氏は今、チベット関係で売れっ子のフォット・ジャーナリストということで、彼はこのナムチェでも日本の雑誌社との仕事をこなしつつあります。
(一人ぐらいはこの遠征?で飛行機代ぐらい稼いでほしいものです、、、)
それで彼の仕事の都合で、月曜まではここにいることになったのです。

時間もあるので、昨日も少し紹介した、このナムチェでナンパラを越えて亡命して来るチベット人を、既に20年間助け続けて来た、S氏にゆっくりと話を聞きくことにしました。

以下、私が聞き手で、N2氏がそれを起こしてくださいました。

亡命ルートのことなどが詳しく出てきます。実際欧米を中心に中国だってその筋の人たちにはずっと以前より知られていることなので、あえて隠さず発表しました。
ガンテガ
S氏の話

最近ナンパラを越える亡命チベット人が少なくなって来たのはなぜか?

向こうも(中国)本気なら完全にとめることはいつでもできる。
(地図を書きながらの説明)
まず道の説明をしよう、ディンリーからギャプルン(チョ・オユー・ベースキャンプ)までは道がある。ディンリーから最初の村がルンジャン。その次にダクマル(ダマ)そこには大きな軍の駐屯所がある。ティンリーからタクマルは歩いて二日かかる。車で行けば3時間。タクマルからギャプルンまでは車で1時間。ギャプルンにも駐屯所があって、そこに軍がいたら抜けるのは難しい。
タクは崖や岩山、マルは赤い、だから赤い岩。軍人が100人はいる。ギャプルンの手前のキャラックから分かれ道があってロンシャーに向かう道もある。
ギャプルンにも時々軍隊が駐留して、ここにいたら抜けるのは難しい。オリンピックの前には駐留していた。その上のザポガにもオリンピック前に軍隊が駐留していた。ここにいたら逃げ場はない。サボガからナンパラまでは雪
オリンピックの時には常にいたけど、いつもは時々しかいない。

夜、歩いて迂回できないかと尋ねたら、迂回路はダクマルは可能だが、その上はないとの答え。

ギャプルンからナンパラまで3、4時間、天候に恵まれ、道が良かったらだが、まあ近いと言える。

06年に、 ザポガ〜ナンパラの間で一人撃たれて死んだ。チョ・オユーのアドバンス・ベースキャンプのすぐ近くだ。

冬には軍はいない。水がないからだ。冬にはすべて凍って水がないし、とても寒いので、夏以外はいることができないのだ。時々、国境警備隊がダクマルからジープで回って巡回することがあるくらいだ。

なぜ今年は越えてくる人がこんなに少ないのか?
カムやアムドなど、内部での移動が難しいからじゃないのかな?

08年3月以降ナンパラを越えた難民は

3月31日に男1人 
9月10日 3人
10月27日 2人
11月4日 2人
12月3日 3人
1月10日 3人

合計14人になる。
もしかしたら自分の知らない者があと数人 いるかもしれない。

チベットの中と事前に連絡を取り合うのか?

全然ない。昔はグループのリーダーがナムチェまで来てラサまで電話したりしていた。自分はない。自分は政府に雇われているわけでもないしね。特別の情報はないよ。 今でこそネレンカン(一時収容所)と連絡し合って仕事をしているが最初は長い間自分だけでやっていた。最近では、お金がない人に収容所の立て替え金としてお金を貸してあげることができるようになったが、その前は自分でできるだけお金を上げていただけだ。凍傷の手当をし、逃げ道を教えた。

自分は59年に両親といっしょにディンリから逃げて来た。16歳だった。それからクンブ地方にそのまま2年間いた。61〜62年にはパブルの近くのチャルサ・キャンプに移った。それからインドの各地を転々とした。ダラムサラにいたこともある。72年まで学校に行った。チベットの軍隊にも入った。そして74年からクンブにまた帰ってきた。
ガンテガ
89年ころから難民を助けることを始めた。
2002年からネレンカンと連携をとっている。それまでは金がなければあげて、シェルパなんかにも助けてもらった。

ナムチェであなた以外に難民を助けている人はいるのか?

特別には、自分しかやってないだろう。
ナムチェには14世帯のチベット人が住んでいる。55人ぐらい。ナムチェ全部で112世帯、7〜800人。クンブ地方に全部で156人の難民チベット人がいる。

難民の多かった年はいつだったのか?

02、03、04年が一番多かったかな?
06、07年も多かった。
それ以前も多かったが、去年3月以降はほとんどいない。

平均では年間250人から300人が越えて来ていた。
11〜3月 が多い。一番多い月は2月で74人が来たことがある。大きなグループで来た。
S氏
06年 尼さん殺害事件
43人がこっちに来て、36人が向こう側で捕まったらしい。捕まった者はシガツェの刑務所に連れて行かれた。16歳のアマさんが殺された。ザポアからナンパラの間でやられた。以前にはそんなことはなかった。

なぜあの時だけ撃ったのか?

それは解らない。
大きなグループだったので目立ったからかな?

オリンピクの時はとても厳しかったことは確かだ。ラサからこっちまでもチェックが多くて厳しいんだろう。ラサの町にあれだけ軍隊が多いなら、ガイドと連絡をとるのも難しいんじゃないか。

以前はガイドをつけて大勢で来ていたけれど、今はグループを作ることができないんじゃないか。去年からはナンパラを越えて来るものは、ガイドなしでくる人ばかりだ。家族で来たとか少人数でしか来ていない。以前はガイド同士がラサやカム、アムドと連絡を取り合っていたが今はできないので難しいんじゃないか。今年もまだ
50周年もあるし難しいだろう。逃げたい者は沢山いるだろう。デモがあれだけあったのだから逃げないといけない者もいることだろう。
いつも子供が多い。

あちらでは、子どもの教育の場が少ないからね。

もう私がチベットに戻るのは難しい。過去に1度だけ親戚に会いに行ったことがある。
こっちに来て、戻るやつもいる。両親や家族にあうために、ちょっと1ヶ月だけ行く者もいる。

5741m ナンパラ(ナンパ峠)
亡命ルートとしてなぜナンパラが昔から特に選ばれているのか?

他に適当な道がないからだよ。

タクマルから別の車でいく道はある。プツェラ峠を越える。国境近くのタツァンまで車でいける。そこからタトパニに向かう道がある。この道の方が軍隊も少ないし、峠も低くて簡単だけど、ネパール側に着いてからが難しいと聞いている。警察も多い。
このルートを採る者はあまりいない。
クンブ地方
ナムチェからは
ルクラ→オゴドンカ→トクシャル川→ギメリ→カタリここからバスでカトマンズ。
ルクラから4日半でカタリに着く。

途中チャルサには チベッタン・キャンプがある。

ナムチェを降りたジョルサリに軍隊のキャンプがある。ここは大したチェックはしない。問題ない。

ナンパラからは ダサンパ、ルナック(岩屋がある)、 峠の向こうのギャプルンを朝早く立てばルナックまで1日で行ける。次の日にアーリアまで来る。ここにシェルパがいる。飯も食える。そこから1日でナムチェに行ける。登る方も1日で行ける。

ネパールの警察に捕まったりするのか?
ときどきあるけど、あったら自分が呼ばれる。あっちもどうしたらいいのか分からない、カトマンに行くか中国に戻すかどっちかしかない。その間の飯代はどうするのか?とポリスにいったら困った顔をする。あんたが払うのかと聞いたら、そっちで面倒みてくれと言う。だからナムチェの先のターメまで一旦、戻してそこから帰れと追い返すふりをするけど、夜になったらまた逃げればいい。だから心配するなと言っている。また夜中に逃げればいいんだ。

ネパールのポリスが難民を売り払ったりするような奴がいるらしいけど。

1回だけ知っている。16人のグループがダムまで運ばれて中国の公安に引き渡された。

こっちで捕まってもあまり大きな問題にはならない。
前はターメにポリスチェックがあったけど、手前のパモに移った。

毎年2、3のグループが捕まる。大きなグループだと目立ちすぎることがある。
ダムでは金で売られるという話もあるけど、この辺りではない。わざわざこの大変な道を追い返すだけでも大変だからだ。だれもナンパラまで行きたいやつはいない。

尼さん射殺事件のときは、事件をここから知らせた。
自分のその時のノートを見ながら、

2006年9月30日 
16歳のアマが殺された。足を撃たれた一人も向こうに捕まった。33人が捕まって1人が負傷、1人が死亡。遺体は向こう側に持って行かれて、それからガワン・ユンテンという医者がきて確認した。そのときのダクマル駐屯地のボスの名はツエリン。
最年少の子は10歳の女の子。最年長で30歳。16歳ぐらいが多い。
ナンパラ
去年のオリンピックの時の事。

オリンピックの時にネパール在住の中国大使がここまでヘリで来て、エベレストのベースキャンプまで行った。そのとき、私は引っ込んでろといわれ自宅待機だった。別に何も特別に抗議とかする気はなかったのにね。
ただ、訪れる登山家の外国人などに、チベットの国旗をたくさん渡した。ダライラマを祝福する旗も掲げた。他のチベット人みんなチベット国旗を渡していた。みんな隠して登って行った。
そのとき、1人のアメリカ人が捕まったがそれだけだ。
町でも登山家たちがチベットの国旗を至る所で広げて写真を撮ってたよ。
それでもベースキャンプでのチェックはかなり厳しかったと聞いた。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の話。

UNHCRはそんなに助けにならない。6、7人の人が逃げて来たとき、情報があっちにいっていたようで、ヘリで職員が4人こっちにきた。しかしネパール警察と上手く交渉することができず、何かカトマンで書類を整えるのに時間が懸かるから私にその間で責任をもって預かってくれと言ってきた。結局15日待っても書類は届かなかった。それで警察と交渉し、私がチベットに返すということにして、ターメまで連れて行って、その夜中に逃げろといって逃がした。

続く



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2009年01月30日

ナムチェ・バザール

エベレスト
昨日の昼過ぎ、エベレスト街道の入り口、ナムチェ・バザール3450mに到着した。カトマンドゥからルクラへのフライトではランタン、ゴリシャンカール,チョウオユウ、エベレスト等ヒマラヤの名峰を満喫した。

ルクラからナムチェまでは一日でも行けるが、ボーターくんに気を使って二日行程にした。
二日懸かると主張するボーターくんに「一日で行けるよな、、、」と大きなこと言ってた本人の私が何と、その日の午後には早くも足を引きずるはめに陥った。
右膝の裏の筋が痛み始め、次の日には右足を曲げることがほとんど不可能状態になった。それでも左右の杖をフルに使いナムチェまで何とか登り切りました。
先が思いやられます。腰からきたのか、かつて経験のない痛みです。
タンセルク
途中タンセルク6808mとかエベレスト8850(昔は8848mでしたが今は2m高くなった!)を望むことができました。

ナムチェは思ったより余程温かで快適。朝方−2、3度、昼間は20度ぐらい。空は抜けるように真っ青、車はもちろんないので一日中とても静か、夜は満点の星空です。
もうここはチベット、タルチョが至るとこに旗めきゴンパも数カ所あります。
夕方軽く頭痛がありましたがこれもチベットに入った証拠、何でもありません。
夕方、丘に登り懐かしい夕映えのカンテガ6685m、アマダブラム6856mの姿を長いこと眺めていました。
アマダブラム
思い出せば20数年前、5歳になる長女、エベレストベースで4歳の誕生日を迎えた長男、それに生後6ヶ月の二女を背負い、子どもたちの母親と共にエベレストやローツェ方面を歩いたことがあった。
特にローツェベースに近いチュクンが気に入り一週間以上いた、そこに住もうかとも思ったほど素晴らしいとこだった。
小さな子どもたちは少しの食事しかとらないが最後まで元気に歩き通した。
大人より子どもの方が余程効率がいいようだ。

今日は、20年間このナムチェでナンパラを越えてくる亡命チベット人たちを 
助け続けて来たS氏に会い、ゆっくりとこれまでの苦労話等を聞いた。
私たちのように、ナンパラを越えてくる亡命チベット人と出会うことを目的にこのルートを採る者はこれまでにも沢山いた。特にアメリカ人は私が知っているだけでも3グループが詳しいレポートを書いている。

S氏もアメリカ人に付き合い二度ナンパラまで行ったことがあると言う。
しかしそのうちの一グループは高山病に掛かり峠まで行けなかったとか。もう一つの方は首尾よく峠の近くで向こうから降りてくる難民に出会うことができたそうです。
そんな酔狂なことを思いつく日本人は我々がもちろん初めてだそうです。

2000年以降、毎年この峠を越えてくる難民は200〜300人いたそうです。二月にはいつも4、50人が越えて来た。
ところが、去年は3月以降今までにこのナンパラを越えて来た難民はたったの14人。最後は今年1月10日に3人が越えて来ただけだそうです。
その3人はカム、カンゼから父親と9歳と12歳の男の子がガイドなしで越えて来た。
去年からこのルートをかつてのようにガイド付きの大勢のグループが来ること
は全く無くなったとのこと。

つまり私たちも空振りの可能性が強いということです。
それでも、ここまで来たのだし、峠で少なくともチベット国旗を掲げ<プーゲロー!>を叫ぶとこまではやるでしょう。

彼から沢山興味深い話を聞きました。その話は明日にします。
何と、ここではネットに繋げるのに一時間900ルピー!(今、円は強いがそれでも1100円)里ではたったの80ルピーが相場なのにです。
ついでに充電は一時間100ルピーです。ホットシャワーが150ルピー。
泊まりはたったの150ルピーなのにです。







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2009年01月27日

明日からヒマラヤの中。 チャムドでデモの後拷問死。

ced26bab.JPG以下の文面は昨日書いたものです。
とうとう昨日は電気もネットもだめでした。

ーーー

昨夕、日本からN2氏が到着した。
夜はカトマンドゥ露天風呂!と川魚定食を堪能した。
ダラムサラでは夢にも見てはいけないものばかりです。

今日は朝からナンパラ行きのパーミット、UNHCR(難民高等弁務官事務所),ネレンカン(チベット難民一時収容所)と一周した。

ナンパラ行きのトレッキングパーミットは驚くほど簡単、かつたったの1000ネパール・ルピーだった。これには少し拍子抜け。
申請書にナンパラと書こうかどうか迷ったぐらいでしたが、係官は書面を見ることも無くあっと言う間にパーミットが渡されました。

収容所には20人弱のチベット人が今います。
例年に比べ、非常に少ない人数です。
去年まで、この時期には数百人の難民が収容されていたのです。

ナンパラについては、今年は特にこの峠を越えてくる人は少ないとのこと、判ってはいたことだが、、、行っても無駄足に終わる可能性が強いということです。

ただ、一つ、もしかして、、、の情報を得たので、やっぱり行くことにして、さっそく明後日の早朝のフライトを予約しました。

ドミには子供も7,8人いて、みんな元気にはしゃいでいました。

明日は朝から何も山道具を持ってきてない私は一式買うなり、借りるなりしないといけません。借りれるのは寝袋とジャケットぐらいです。ただ、他の山用品は、質もまあまあのものが非常に安く買えます。
アイゼンとか買ってもしょうがないのですがね。
今、N2氏とアイゼンは必要かどうかで議論中です。チベット人が本当に簡単な靴で越えてくる峠にアイゼン付けて行くべきかどうか!?
私は腰も痛い老人だから、峠までは行けないかなと思ってますが。

ーーー

さっきから電気が来るのを待っているのですが、今日は予定の夜8時になっても来ないもう9時になる、ネットもできないので、、、、
もう一つ別の話を、

昨日の午後と今日のネレンカンと、ガンデン・タシというちょっと有名な元政治犯と一緒でした。彼とは9−10−3の会を援助し始めた10年前からの友人です。
アムネスティーの助けを得て8年?ほど前にもう一人の尼さんと一緒に彼を日本に招き、全国九州から北海道まで20か所以上の町で「拷問証言会」を開催したことがあります。
私も多くの町に通訳として同行しました。
アムネスティー側でその時いっしょに働いてくれていたのが<ばなな猫>さんです。

大体二人を選んだのが自分たちでしたから、特に時に暴れん坊のタシの監督には気を使ったものです。

彼は1988年3月、ガンデン僧院僧侶の先頭に立ってデモを扇動したのだった。
新年モンラム祈祷祭の最後の日、式典に列席していた自治区幹部たちの胸ぐらをつかみ「チベットは独立だよな!!そうみんなに言え!!!」と真っ先に迫ったやつなのです。
それから一気にデモが大きくなっていった。

彼は最初3年の刑だった。しかしダプチ刑務所内で行われた大きな抗議デモの時にまた派手に立ちまわったが故に刑期がさらに9年延期された。
それだけではなく、それから何と17か月間、重い鉄の足枷をはめられたのだ。
24時間17か月はめられっぱなしだった。
足の肉はすり切れ、骨も見えんかというほどにそれはひどい仕打ちだったという。
その後、足枷は外されたが、身体の衰弱は激しく、ついに病院送りとなった。
その頃の車いすに乗って痩せこけた、本当に弱よわしい当時の写真が海外に流れた。
アムネスティーは彼を自由にするために特別のキャンペーンをおこなった。
其の功あって、彼は病院から2年後に解放されたのだ。

その後亡命しダラムサラの9−10−3の会に所属していた、彼は長年、監獄内での拷問の結果、脳に障害が残ったのか激しい頭痛を訴えていた。
それからTCHRCの職員として4年カトマンドゥで亡命してくるチベット人から情報を集める仕事を続けていた。
そして、イギリス女性と知り合いイギリスに渡り、カレッジに4年通い、去年からICT(インターナショナル・キャンペーン・フォア・チベット)に雇われてここで中国からの情報と亡命者からの情報を集める仕事をしている。
今日、お宅にちょっとだけお邪魔した。
2歳になる可愛い男の子がいて大きな家に住んでいた。
人生流転。
チベット人の人生はダイナミックです。

今日はもう電気は来ないようです。

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今日は一日中、山用品を買いあさりました。−30°用の寝袋も一万円です。
後で返せば半額帰るとか、すべて安いです。

明日の朝早くカトマンドゥを発ちルクラに飛びます。
ナムチェで、もしかしたら最後のブログを書くことができるかもしれません。
それにしても、当分このブログは休むしかありません。
残念だな、、、

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pema tsepak
1月20日にカム、チャムドのゾガン地区でデモを行った、3人のチベットの若者の内の一人ペマ・ツェパック、24歳は逮捕された後の暴行によりチャムド病院で死亡した。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=23683&article=China+beats+Tibetan+youth+to+death

このところまたカム地方で、チベット人の捨て身のデモが頻発しています。

rftibet at 20:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0)