ネパール

2010年10月05日

チベット中央政府首相及び議会議員予備選挙/ネパールで投票箱が略奪

b0edd140.jpg先の10月3日は、亡命チベット人たちが自分たちの首相と議員を選ぶための民主的選挙に参加できる、非常に嬉しい日であった。
内地のチベット人には決して味わえない貴重な機会だった。

亡命政府が去年実施した国勢調査によれば、亡命チベット人の総数は約15万人。
選挙権を有する18歳以上の亡命チベット人の数は89,000人を少し超えるほど。
その内今回の選挙に登録した人の数は79,449人。

インドを初め世界中の50箇所で投票が行われた。
ダラムサラのツクラカン前の投票場ではダライ・ラマ法王の今回の選挙に関するコメントがスピーカーから流されていたという。
これは一ヶ月前に南インドのバイラコピーキャンプで行われた特別会議の席上法王が話された言葉だった。

ダラムサラ、10月3日 投票日「私は民主主義的プロセスに向かって亡命チベット人社会が前進していることを喜ばしく思っている。しかし、同時に内地のチベット人たちが遭遇している状況に対しては慎重な態度が必要だ」と話され。
また、「私は候補者の中から特別に誰かを推薦するようなことはしない。誰であろうと、もっとも票を集めた首相を支持する」と。

今回の投票は前哨戦であり、50%以上の票を集める候補者がいない場合、本戦が来年3月20日に行われる。

今回の投票結果の発表は約2ヶ月後という。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=28239&article=Tibetan+exiles+go+to+preliminary+polls

で、目出たく何事もなく全世界での投票が終わろうとしていた午後4時(半)頃、事件が起こった。

ネパールはカトマンドゥの投票場の内2(3)カ所に突然ネパールの武装警官が押し入り、数千票の投票用紙が入った投票箱を無理やり奪い去って行ったのだ!

この時の現場映像が以下:(プラウザによっては表に表示されないことあり。そのときは下のURLを踏んでください)
http://www.youtube.com/watch?v=Z2_N_iSu3DY


関連記事は
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=28240&article=Nepal+police+disrupt+Tibetan+elections+in+Kathmandu

http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=28247&article=Tibetans+condemn+Nepal+for+disrupting+exile-prelim+elections

SFTの抗議文(日本語)
http://www.sftjapan.org/nihongo:confiscatedballots

カトマンドゥでの今回の投票に付いては前もってちゃんとカトマンドゥ市当局から許可を取ってあったという。

押し入った警官たちは「これは内務省の命令だ」と言っていたそうだ。
別情報によると、在ネパール中国大使館からネパールの内務省に対し、「亡命チベット人たちの選挙を許してはならない。妨害せよ!」との命令が出たという。

「ショックだった。何もすることができなかった。ボドナートで投票しようとしていた。突然ネパールの警官隊が拳銃とこん棒をもって現れて投票箱を奪って行った。まるで戦場にいるようだった。1人のチベット人が彼らが投票箱を奪うのを阻止しようとしたがその後追いかけられ、壁を飛び越えて逃げた」と現場にいたテンジン・ナムギャル(女性)は話していた。

現場ではすぐにデモも行って投票箱を取り返そうという声も上がったが、「そんなことをしても取り返せない。逮捕されるだけだ」と選挙委員会の職員が説得に勤めた。

これから、どうするか?もう一度投票を行うべきか?それが可能なのか?
現地のチベット人たちは途方にくれているという。

このネパール政府の恥知らずな行動に対し早速ニューヨークのネパール領事館の前で昨日、SFT、TYCによる「民主主義を守れ!恥を知れ!投票箱を返せ!」の抗議デモが行われた。
http://yfrog.com/f5vk4j

今日はロンドンのネパール大使館前でも抗議デモが行われる。
http://www.sftuk.org/protest-nepals-disruption-of-tibetan-election/

中国政府はネパールの内務省に対し、ネパール国内における「反中国活動」を押さえ込むために毎年147万ドルを与えると約束している。

ネパールが中国人民共和国ネパール自治区になる日は案外早く来るかもしれない。
というかもう、そうなってるのかな?

みみっちい金と引き換えに民主主義を捨て、国を捨てるとは!哀れ。










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2010年07月29日

ネパールに越境したチベット人3人が中国に引き渡された

0e379faf.jpg写真左:カトマンドゥの拘置所から解放され、涙するチベット人難民(AFP)。

<ネパール政府が亡命のため越境したチベット人3人を中国当局に引き渡したことに対し、国連は憂慮を示す>

7月28日付Phayulによれば:
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27854&article=Nepal's+repatriation+of+3+Tibetans+leaves+UN+%e2%80%98concerned%e2%80%99
(以下抄訳)
ネパール政府は今年6月初め、3人のチベット難民を強制的に中国当局に引き渡した、と水曜日(7月28日)国連が発表した。
このことに付き国連は非常に憂慮するとコメントした。

国連難民高等弁務官事務所のスポークスマンであるNini Gurung氏はAFPに対しメールで「2010年6月初め、3人のチベット人がネパールから強制的に中国に追い返された。これは重大な問題であり、我々はこの事件を非常に憂慮する」と答えた。

この事件に関しICT(International Campaign for Tibet)は詳細な報告を行なっている。
それによれば、ネパール国境に近いコルチャック僧院の2人の僧侶及び中国政府の役人と思われるシガツェの一人の女性が、ネパールの政治家に付き添われヘリコプターを使うという異常な方法で送り返されたという。

2人の僧侶の名はダワ(20)とドルジェ(21)、女性はペンパ(22)と呼ばれている。

ICTによれば、ペンパと一人の僧侶は約6カ月投獄されるが、一人の僧侶は僧院に帰ることが許されたという。

3人は6月初めに、チベット自治区ンガリ地方のプランから国境を越えネパールのフムラ地区で警察に拘束された。

ITCによれば、中国当局は役人である女性の行方を追っており、彼女がカトマンドゥに辿り着くことを阻止しようとしていたという。

報告書によれば、中国の国境警備隊はネパールの国境警備隊と連絡を取り合い、彼ら3人を拘束した後、ヘリコプターを使い警官と特定されていない政治家に伴われ国境まで送り返されたという。

この事件は先週ネパールのABCテレビにより報告されたていたが、詳細は不明であった。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=27802
(私も上記の記事から、先に“2人のチベット人が中国に追い返された”と簡単にお知らせしていた)

このようなケースは2003年に子どもを含む18人のチベット人がネパール警察により中国側に引き渡されて以来初めてである。この時は国際的非難の声が上がった。

ICTは辺境の国境地帯で、報告されていない、このような引き渡しが他にも行なわれている可能性があると指摘する。

ネパール政府と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR),の間には、ネパールがチベット難民に対し難民認定を行なわなくなった1989年に、チベット人難民を安全に国内通過させるという「紳士協定(Gentlemen's Agreement)」が結ばれている。

ネパールは、この3人のチベット人を強制的に中国の国境警備隊に引き渡したことで、UNHCRとの確立されていた紳士協定を犯し、国際法の規定を破ったことになる、とICTは表明する。

最近新しい代表となったICTのMary Beth Markey女史は「我々はネパール政府とUNHCRが共同して今回の事件について調査することを要請する。同時に中国の領土外への干渉を調査し、二度とこのような事が起こらないよう対策を講ずべきだ。国境警備隊と入国事務所に対し、正しい国際的人権基準に基づいた訓練を行なうべきだ」と述べている。

ネパール政府は最近、自国開発資金を提供する中国に対し、その友好を強化するために、国内における「反中国活動」をより一層強く取り締まることを約束している。

この強制帰還も、最近中国がネパールの国境警備を強化するために約束した援助パッケージ協定の後に起こったものだ。











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2010年03月06日

アンナプルナ内院トレッキング・第七・八日目

シヌア村の子供アンナプルナ・トレッキング第七日目
ドバン2520mーーー>ジヌー(ジヌダンダ)1780m


トレッキングも終わりがちかい。
雪山もしだいに谷間の奥に遠ざかる。
2000m付近からグルンの村が始まり、また里に帰って来たことを知る。

モディ川最上流の小さな村シヌワのチャイ屋で休んだ。
ここのおばさんも日本語が喋れた。とにかくこの辺には日本語が話せる人がいくらでもいる。
みんな日本に数年いたことがある人たちだ。
一昔前には日本人トレッカーが多くて日本語ができるガイドの需要が高かった。
そのために旅行会社から日本に日本語習得のために送られたという人もいたが、大概は働いて金をためるために出稼ぎに行ったのだった。

ここのおばさんは埼玉の工場で数年働いていたという。
「日本はどうだった?よかった?」と聞くと。
「いや〜、たいへんだよ、もう行こうとは思わないね。ここでのんびりしてた方がいいよ」と言ってました。

チョムロン村への道でこの日の楽しみは何と言っても温泉だった。
特にこの日の行程にはアップ・ダウンが多く、汗をかかざるを得ない長い坂が続いたので、お風呂への期待も大きくなっていた。
さらに、この温泉で大きなさっぱり感を味わうために5日間シャワーも浴びていなかったし。



ジヌーのコテージ温泉のあるジヌーには午後2時半ごろ到着した。
泊まった宿はこの辺ではめずらしくチベット人が経営するものだった。
気持のよい中庭にはタルチョが張ってあった。
厨房に入るとすべてがチベット風だった。カプセや干し肉がテーブルの上に盛られており、座るとさっそくチャンを勧められた。チャンを断るとバターティーが出てきた。
ここの厨房ではチメと同じポカラのタシ・ペルケル・キャンプのチベット人である母と娘が働いていた。
チメはこれまでの宿では見せなかったくつろぎ方を見せ、陽気な声で盛んにばかジョークで笑いを取っていた。

しばらく休んだ後、温泉に向かう。温泉はすぐそばにあるのではなく、さらに下の川まで200mは下らないといけないのだ。30分はかかる。
しかし、温泉への道は深い原生林の森の中を進む、クオリア一杯の道だった。
鳥も沢山いた。

ジヌーの河原にある露天風呂河原に到着すると、そこが温泉だった。
露天の浴槽が3か所ある。一番下流のが一番熱いうちだった。
私は普通の人より熱めの湯が好きなのだが、ここの湯は一番熱いやつでもぬるかった。
おそらく38度ぐらいだ。それでも長く入っているとちょうど良くなった。
湯は無臭、無色透明で、石張りの湯船は清潔だった。
初めは誰も他に人はいなかったが、その内大勢やって来た。
ちょうどその頃、川の反対側の高い木々の上にハヌマーンという顔が黒くふさふさの毛が銀色の大型サルの群れもやって来た。この猿はダラムサラにも沢山いるので私には別に珍しくはなかった。
湯船に浸かった現地のポーターやガイドはサルが高い木から木へとジャンプするたびに奇声を上げ、さかんにサルに大声で話しかけていた。サルが登っていた木の高さは相当高かった。下の川までは20m以上はゆうにあった。いくらサルでもジャンプに失敗して落下すれば、ただでは済まないであろう高さだった。
だいぶ後になり我々への缶ビール持参で降りてきたYoYoに「なんでサルはわざわざあんな高くて危ない木に登るかね?」と言うと。
「なんでおれたちは高い場所に行くのかね?」と返してきた。
「、、、、」

なお、女性も水着等があれば入れる。

グルンの子供たちアンナプルナ・トレッキング八日目・最終日
ジヌー1780m―――>ビレタンティ1025m―――>ポカラ820m


今日はただひたすらモディ川に沿った道を下り、ポカラへの車の道が来ているビレタンティを目指す。相当長いがアップダウンは少なく歩きやすい。高度が下がると暑くなってくる。
以下、写真は通り過ぎた村々で見つけたワイルドな子どもや青年に美女、農家と花だ。




グルンの少年たちこの辺の村の住人はそのほとんどがグルン族。
グルン族はイギリスがグルカ兵として有名にした「グルカ」の元になった民族ではあるが、今では実際のイギリスの傭兵である「グルカ兵」の中には他のモンゴル系であるタマン、ライ、シェルパ等もいるし最近はアーリア系民族でありこの辺にも沢山いるチャットリなども増えているという。

少々驚く話ではあるが、今もイギリス軍は年に一回このネパールまでやってきて、この国
でもっとも優秀そうな人材を引き抜きにくるのだ。



グルンの若者ネパールの特に田舎の青年ならだれしも、若い時から勉強ではなく身体を鍛え、いつしかイギリス軍に入ることを夢見るのだ。この試験に受かれば、一生その家族を含め、生活は安定した豊かなものとなると信じている。それほど給料がいいし、他の補償もしっかりしているという。
これに受かるのは毎年200人前後。もしもこれがだめなら次にいいのがシンガポールや香港の警官に採用されることだという。それもだめならインドの軍隊に入れることだって田舎の青年にとってはラッキーなことなのだ。最後はネパールの軍隊だがこれは月に7000ルピーほどにしかならず、いいとはいえないらしい。
最近は稀に勉強して大学に入ろうという青年も現れ始めたという。


グルンの農家軍隊がだめなら、次はクエートなどの中東産油国に行って建設現場やドライバーの仕事を探す。
それもだめならブローカーに数百万円払い、アメリカ、ヨーロッパ、日本などのビザを手に入れ、不法労働覚悟で出稼ぎに行く。





グルンのベイビーこれらがここの人たちの出世道なのだ。5年、10年と外国で苦労して働き、首尾よく金をためることができたものは、ポカラやカトマンドゥにゲストハウス等を立て、結婚し、家庭を持ち、その後の人生を余裕で暮らすというのがその算段だ。もっとも現実は大概計算通りには行かないものだ。
ポカラで泊まっていたゲストハウスのオーナーは、日本で4年働いて貯めた金と友人からの借金とでゲストハウスを建て経営しているが、マオイスト問題と過当競争で日本人宿の経営はうまくいかず、私立学校に通う子供の教育費も高くて、生活は楽じゃないと言ってました。






道を行く人々内陸のネパールに世界は投資せず、電気もなく、もちろん産業はおくれたまま。たまに来るのは日本のナイーブ援助と中国の政治的、軍事的援助のみ。日本でも景色の美しいところは人が貧しいなんて、昔から言われているが、ここもそのたぐいのようだ。





チムルン村の女チムルン村で

























グルンのベイビー























Erythrina stricta











チャトリの娘最後の一枚。このセクシーな少女はポカラの宿の娘。グルン族ではなくチェトリ族。







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2010年03月05日

アンナプルナ内院トレッキング・第六日目

今日の朝10時ごろダラムサラに帰ってきた。昨日は嵐だったとか。今日は快晴。雨後の空が青く澄みきり、山は真っ白に輝いている。
やっぱ、ダラムサラが一番と再確認。
法王は三日前から「サンワドゥッパ(秘密集会タントラ)」の教えをされている。

アンナプルナ・ベース・キャンプにてアンナプルナ・トレッキング六日目
ABC(4130m)―――>ドバン(Dobhan 2520m)


ABCに二日いてもいいかなと思っていたが、次の日は朝から曇り空。
夜中に星を見ようと起きた時も曇っていて星は見えなかった。
チメは昨日から頭が痛いと言ってるし、寒いしで、降りることに決めた。

下りは早い、あっという間にMBCを過ぎ、下界への門も通り過ぎ、聖域の山々も視界から消えていった。

行きに泊まったヒマラヤに昼ごろ着いたが、ここの飯はうまくなかったということで昼食は次のドバンで取ることにした。ヒマラヤを出たころから、空は俄かに黒い雲に覆われ、やがて雨が降り始めた。
雨はみぞれとなり、雷が派手に鳴って大きな雹が降り始めた。雹の後は雪となった。
我々3人はだれも雨具を持っておらず、びしょ濡れになりながら、ひたすら次のバッティ(宿)まで駆け下りた。
一時間ほどでドバンに着いた。早速、ずぶ濡れの服を脱いで、着替え、温かいチャイにあり付いてホットする。

イエロー・ポピーの若株写真はイエローポピーの苗。
イエローポピーは去年の夏、ランタン谷に咲いていたのを紹介した。
一メートルほどになり美しい黄色い花が沢山咲く。
この辺りには至る所に群生していた。夏には他の高山植物と共に谷間を彩ることであろう。

ドバンで雪の止むのを待っていたが、中々止まない。今日はこれまでとして、ここに泊まろうかと思い始めていた。
上から何度も同じ宿になったことのあるスランス人グループが雨具完全装備で降りてきた。
YoYoはいかにも金持ちそうなそのフランス人団体さんとは混じりたがらなかった。
「宿を取るなら他のバッティにしよう」と言い始めた。
次に、中国人と思われるグループが下りてきた。
これを見て「Oh! フレンチ、チャイナ、Oh.No!」と叫ぶ。
私も「これでこの宿はバツだね」と同意して、隣の宿に移ることにした。

マチャプチャレ夕方、空はまた晴れ、マチャプチャレのピークだけが真上に浮かび上がっていた。

「マチャプチャレ」とは「魚の尾」の意だが、ここから見るとその名前の由来が納得できる。
右前方の南のピークが7000mに3mだけ足りない6997m、左後ろのピークは6993m。
南と北の岩壁はほぼ垂直に近く、雪が付くこともない。
この山は聖山として地元の人びとに崇められている。聖山であるが故に登山許可は下りない。
本当はどうだか判らないが、未だ誰も登ったことがないことになっている。


マチャプチャレ遅くなったが、宿の話をちょっとしよう。
宿はこの街道1〜2時間ごとにある。たいがい3,4軒かたまってある。
どの宿の仕様もほぼ同様。部屋は木張りで2,3ベッドが標準。宿代はどこも一部屋一泊200ルピー(250円)だった。
宿代は安いが、飯はちょっと高い。私は山に入るとネパール定食の「ダルバート」しか食べない。
外人以外はポーターもガイドもみんなこれしか食べない。何杯でもお変わりできる。みんな驚くほどよく食う。私も行には自分でも驚くほど大食いしたが、帰りには自然にお代りはしなくなっていた。
この値段は上に行くほど高くなる300ルピー以下から始まり、ベースでは400ルピーになる。
実はこの値段にはポーターやガイドの飯代も入っているのだ。ルートにはよるがここではポーターにも50ルピー払わせていた。
一人で食うと高いが、ポーター、ガイドをつれて食うと実際にはそれほど高くないというわけだ。

マチャプチャレ3一人や二人のトレッカーが、よくガイドとポーターを連れて歩いているのを見かけるが、これは如何なものかと思う。一人でも道に迷うようなことはまずない。ポーターを雇うことは、、、これを一度味わうと癖になるほど楽で楽しい。私の荷物は10キロにもならないのでポーターには何でもない。ポーターに一日700ルピー払えば彼にもいい収入になる。それに比べガイドと呼ばれるもの達は荷物も運ばないのにポーターの倍のお金を取る。ポーターはガイドよりも地元の道の事をよく知っており、宿にも案内してくれる。
要は、ガイドは不要だし、見てくれも大名行列みたいでみっともないと言いたいのだ。

ここで、これからこの方面にトレッキングされる人のために、今回同行してくれたタシ・ペルケル・キャンプのチメ氏の携帯番号をお知らせする。チベット語でなくても英語も何とか話せます。ぜひ使ってやってください。彼と行けば、楽で楽しいトレッキングになること間違いなしです。ついでにチベット・キャンプも案内してもらうといいでしょう。
+977−9806501078

アンナプルナ3アンナプルナ掘7555m)

ドバンの宿には後から韓国人グループが入って来た。
彼らの夕食は目立った。国から食材を何でも持ち込み、料理人も特別に雇っていた。
食卓にはまず、韓国製の金属製の箸が並べられる。
その後キムチ、ノリ、漬物が並び、味噌汁と小さなお椀に盛られた白米が出る。
ここで、これらを見ると、日本とほとんど同じだなと思う。
ま、かつて沢山来ていた日本人グループの中には、これと同じようなことしてたグループも多かったかもしれない。

昼間の月、ドバンにてこの日、雨後の月
















ドバンの夜空朝の三時ごろ目が覚めたので、外に出て見ると、狭い谷間の上に輝く帯となって星が瞬いていた。

写真は失敗作だが、大きくしてみると少しは感じが味わえるかも?













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2010年03月03日

アンナプルナ内院トレッキング・第4&5日目

今日はカトマンドゥ最後の日、明日インドに帰る。
カトマンドゥで良くないことは昼間電気が二時間ほどしか来なくて、その間しか近くのネット屋が開かないのでネットもできないということだ。
それでも今日は一気にアンナプルナ・ベースまでの二日分を載せるつもりだ。
今日のはぜひ写真をクリックして大きくして見てほしいと思う。

内院への谷アンナプルナ内院トレッキング四日目
ヒマラヤ(2900m)―――>マチャプチャレ・ベース・キャンプ(MBC、3700m)
 

ヒマラヤを朝6時半に出発。朝食は次のダウラリで取ることにする。同じ宿にはフランス人グループが大勢いたので、朝食を頼んでいると遅くなると思ったのだ。それと、ダウラリを過ぎると雪道になると聞いていたので、雪がかたいうちに登りたいと思ったのだ。
写真はダウラリ3200m付近。谷の奥に見えるのはガンガプルナ(Ganggapurna 7454m)

ダウラリを過ぎ、間もなく行くと道には丸太が掛けてあり、「この先雪崩危険地帯故迂回せよ」という立て札が立っていた。見上げると左手には千メートル以上の絶壁がそそり立っている。
右手の河原に向けて、雪の上に細い道があった。丸太の橋を渡り雪の積もった河原の道を行く。
道は曲がりくねっており、登り降りも多くて判りにくい。急な坂になると滑りやすい。それでも、私の靴はいつものようにただの運動靴だが、杖一本あるので、問題はなかった。朝早く雪が固まっていたので埋まることも少なかった。

聖域への門4時間ほど聖域の門のような、直腸のような、狭い渓谷を登ると、視界が急に開け内院に入ったことが知覚された。
MBCのロッジが見える。
左手にはマチャプチャレからアンナプルナ靴悗寮變った峰がつづき、右手にはヒウンチュリからアンナプルナ・サウスそして主峰アンナプルナ機複牽娃坑隠蹇砲猟困盻蕕瓩童ることができた。














Hiun chuli 6441mヒウンチュリ北面

MBCには12時過ぎに到着。
この先にある最終目的地のABC=アンナプルナ・ベース・キャンプまでは二時間ほどだ。
南アンナプルナ氷河のサイド・モレーンの雪原をさらに400mほど登れば着く。
しかし、時間も余っていることだし、急に高度を上げれば高山症状を来す可能性もあるということで、この日はMBCに泊まることにした。

バルハチュリ(Bharha Chuli /Fang 7647m)バルハチュリ(Bharha Chuli /Fang 7647m)

コテージで休んでいると、道中何度か会って話を交わしたフランス人の若者が登って来た。
彼もここに泊まるようだ。彼や私のような一人トレッカーは今では稀のようだった。
かつては自分で自分の荷物を担いで登る個人トレッカーが主流だった。
今は、とにかくフランスと韓国のグループがどこでも目立っていた。
彼は普段はドミを所望するらしいが、あいにくその宿にはドミはなかった。
彼が「あんたとルームシェアーしてもいいか?」と聞いて来た。
私は基本的にルームシェアーしない方針だが、こんな山奥のことだし、まあ、いいか、という気になって「ウイ、、、シブブレ(あんたがそうしたいなら、いいんじゃない)」と答えた。

Machapuchare BCお陰で、この日から三日間、遠い記憶を頼りに錆びついたスランス語をとつとつと繰り出さねばならぬ羽目になった。(それにしても、今さらだが、フランス人はよくしゃべる)
ノルマンディー出のYoYoと名乗る29歳の彼は、全くのボヘミアンでもう何年も世界中で仕事しながら旅を続けているようだった。
昼間は明るくジョークを飛ばすが、夜になると真面目な顔して盛んに何かノートに記しているのだった。


マチャプチャレ北東稜のヒマラヤ襞マチャプチャレ北東稜のヒマラヤ襞










ヒウンチュリ北面ヒウンチュリ(Hiun Chuli 6441m)










マチャプチャレと一番星陽が沈み一番星がマチャプチャレのそばに現れる頃










MBCの夕暮れ、、、、、、


























マチャプチャレから登る朝日アンナプルナ・トレッキング第五日目
MBC(マチャプチャレ・ベース・キャンプ3700m)―――>ABC(アンナプルナ・ベース・キャンプ4130m)


朝7時半、MBCを出る。雪はよく固まっていて歩きやすい。
サクサクといい音がする。固められた踏み後をそれ、誰も歩いていない雪原の道を勝手に行っても埋まることはなかった。これが午後だと、踏み後をそれればすぐにひざ上まで埋まってしまうのだ。

しばらく行くとマチャプチャレの左肩から陽が昇った。
辺りの雪原が一斉に輝き、眩しくて、サングラスをしていても目がいたいほどになった。

つまんない話だが、私はとにかくこれ以上日焼けしたくないという思いがあって、海や山は避けたいと常に思っている。だのに、またもや最悪の状況に陥ったというわけだ。

ABCのタルチョ二時間ほどで今回のトレッキングの最終目的地ABCに到着した。

写真はABCの上方にあるタルチョ塚。右手にベースの建物が見える。
これらのタルチョはシェルパを中心にチベット系のガイドやポーターがここまで持ってきて祈りと共に括りつけたものと思われる。もっとも最近は地元のグルン人の仏教徒化が進み、彼らも祝い事にカタを使ったり、祈りのためにタルチョを使ったりし始めたと聞いた。だから、このタルチョにはグルン人の祈りも込められているかもしれない。

気がつけば、急に思い立ったせいか、私は今回はタルチョもゲダル(チベット国旗)も持ってくるのを忘れていた。

ABCで記念写真右にアンナプルナ・サウス、左にアンナプルナ気鬟丱奪にABCで記念写真
右端がYoYo,真ん中がチメ。
この後YoYoは時間をもてあましたのか、今日はここに泊まらずに下に降りると言う。
それではこれまで、と別れのあいさつをした。
しかし、昼過ぎになって再びABCまで彼は登って来た。
「何で、また帰ってきたの?」と聞くと、「君たちともっといたいと思ったのさ、、、」と可愛いことを言っていた。気が変わりやすい若者なのだろう。それにしてもご苦労なことに、この高地でMBCまでの道を往復するとは、余程元気が有り余っているものと思われた。

アンナプルナ機。牽娃坑隠アンナプルナ(Annapurna 8091m 世界第10位の高峰)

「アンナ」は「穀類」、「プルナ」は「沢山ある」との意。
まとめて「五穀豊穣」をもたらす山という意味と思われる。





ガンダルバ・チュリガンダルバ・チュリ(Gandharwa Chuli 6243m)

この山、確かによく見れば、両翼を広げたインド起源の神話上の聖鳥、ガンダルバに似ていなくもない。
「チュリ」は「峰・頂」の意。


















マチャプチャレ北稜からガンダルバチュリ方面マチャプチャレの北からガンダルバ・チュリ方面










内院北写真左手はアンナプルナ気世そこから右手に続く稜線上には7500m級のピークが連続する。
一番奥に見える白いピークはこの辺りで唯一チベット名が付けられているカンサル・カン(Khangsar Kang/Rock Noir 7483m)だ。カンサル・カンは訳せば「新雪山」となる。ちょうどこの山の裏あたりからチベット圏が始まっている。
その右手に突き出た白いピークはシング・チュリ(Singu Chuli 6501m)。
このピークは一番右手に見えるタルプ・チュリ(Tharpu Chuli/Tent Peak 5695m)通称・テントピークとともにABCから数日から一週間の軽い登山で、登ることができる。
もっとも高度があるのでここで高度順応期間が必要だろう。
装備については、何も持ってなくても、このABCでアイゼン、ピッケル、ロープにテントを借り、ガイドやポーターも雇うことができる。
ここまで来ても元気と時間が余っている人は行ってくるがよい。

ヒウンチュリABCの真上に迫るヒウンチュリ(6441m)

装備とは呼べないにしても特に冬のトレッキングには厚手の羽毛スリーピング・バッグとジャケットがいるが、これはカトマンドゥやポカラのトレッキング・ショップでレンタルできる。一日たったの40ルピー(50円)ずつ。リュックは買っても3000円ほど。そのほか何でも日本の10分の1ほどで(コピーだが)手に入る。終わったら誰かにやって帰ればいい。
靴も登山しない限り普通の履きなれた運動靴で十分だ。
連れのチメの靴は底に穴のあいたバスケット・シューズだった。いくらなんでもこれじゃABCへの雪道はきつかろうと思い、「チメはABCには行かないでMBCで待ってればいい」と言ったのだが。「いや。行きたいよ。靴の中にビニール巻くから大丈夫」といってついて来た。
思い出せば、私も昔は雪道を靴にビニール巻いてよく登ったものだった。
ようするに、何も用意してなくてもトレッキングにはすぐに行けるということだ。

雪崩1偶然目撃した雪崩
昼から空は曇り寒くなって来た。ぼぉ〜と外に立っていた時、突然ゴ〜〜という不気味な音が谷間を震わせた。
すぐに辺りを見渡すとアンナプルナ・サウスの東面に雪煙りが見えた。
雪崩だ!と判った。その時カメラを持っていなかった。素早くカメラを取りに部屋に走った。
部屋の前から撮れた時にはすでにかなり下まで崩れ落ちていた。

雪崩2雪崩は相当大きなものだった。長い間ゴ〜〜という怖い音は谷間に反響していた。
あの辺りにもしも人がいれば、助からなかったことは間違いないと思われた。






マチャプチャレ、ガンダルバチュリ、アンナプルナ3右にマチャプチャレ、真ん中がガンダルバ・チュリ、左にアンナプルナ掘7555m)









夕焼けマチャプチャレの上にかかる夕焼け雲










朝焼けのアンナプルナ・サウス朝焼けのアンナプルナ・サウス東面
























アンナプルナ・サウスとアンナプルナ1アンナプルナ・サウスとアンナプルナ気猟










ABCの宿でABCの宿には、ここまで来たことの印を記念として残しておきたいと思うもの達が自分の写真などと共にコメントを付けて壁に貼り付けているのを沢山目にした。
このところ急に中国人も増えているようで漢字のコメントも多かった。
しかし、ここには写っていないが圧倒的に目立つのが韓国人グループのミニ旗だった。
日本人には結局ここまで一人も出会わなかった。
日本人は性格的にここいら辺に来たからと言って記念旗を掲げていく人はいないと思われるが、それにしても少ない。
かつてはネパールの山には日本人トレッカーが溢れていた。
だから、この辺の人は日本語が話せる人が驚くほど多い。
10数年前まで、まだマオイストがこの国を騒がせる前まで日本人は多かった。
しかし、危険許容度の極めて低い日本人たちは、それ以後「ネパールは危ない」との思い込みから山に来る人は激減した。
その間もフランス人はコンスタントにやってきていたと聞く。

Streaked Rosefinch (Eastern Great Rosefinch)19cm FemaleStreaked Rosefinch (Eastern Great Rosefinch)19cm Female
冬のABCにに居残る野鳥はこの子ぐらいだ。
この高山種の野鳥は肺と心臓が高地仕様になっている。
夏には5000mを超える場所まで行くという。

で、マオイスト騒ぎが一応収まった数年まえからトレッカーは順調にまた増えはじめた。
しかし、日本人はもう帰って来ず、代わって韓国人と中国人が増えた。
最近の日本人の若者はもう外国に行きたがらないとも聞いた。
何でもある日本でゲームなどしている方が楽しいらしい。
結局外向きの好奇心が薄れてきた証拠であろう。
国が興隆する時期には外国への好奇心、冒険心も旺盛だが、それも終わったという訳で、この現象も日本が衰退期に入った一つの証拠なのかもしれないと感じる。



Streaked Rosefinch (Eastern Great Rosefinch)19cm MaleStreaked Rosefinch (Eastern Great Rosefinch)19cm Male

日本は今や「マンガ」と「かわいい文化」で世界に知られる過去の国になったという訳だ。
確かに今の日本には可愛くて女性的な首相がいるしね。

昔は夏になれば海焼けの、冬には雪焼けの男たちをよく見かけたものだが最近はそんな人も見かけないようだ。だから、私は日本に行くと目立って黒いのでいやなのだ。
かつてのテストステロン社会への反動から戦後はエストロゲン社会を目指した結果であろう。
一見平和でいいようだが、周りを見渡すと不安を感じる。

ここまで来て日本を思だすこともないか、、、

今日はひな祭りか、姉の誕生日だ、メールしないと。













































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2010年03月02日

アンナプルナ内院トレッキング・第三日目

チョムロンから、朝焼けのアンナプルナ・サウス第三日目:チョムロン(2170m)ーーー>ヒマラヤ(2900m)
写真は再びアンナプルナ・サウスだが、今度は麓のチョムロンから間近に見た、朝日に映えるやつ。






チョムロンの朝同じくチョムロンの朝の景色。
左からアンナプルナ・サウス7219m、ヒウン・チュリ6441m、マチャプチャレ6997m。








アンナプルナ・サウス東稜アンナプルナ・サウス東稜。
後ろに頭だけ見えているのはサウスの北東に連なる峰7126mと思われる。








サクラソウの一種2この時期道端を彩るのはピンク色のサクラソウばかり。
沢山咲いている。









妖精の森そのサクラソウも2500mを超えた辺りから種類が変わって葉も花弁も大きなタイプになった。この花が深い森の下一面を覆っていた。
まさにフェエリックな道だった。





















女神デビィを祭る祠ヒマラヤの手前にある、この聖域を住所とする女神デビィを祀った小さな祠に捧げられていたのも赤いシャクナゲとピンクのサクラソウだ。







この辺りの動物図鑑この辺りで出会う可能性のある「Colourful Friends of Nature」一覧ポスター







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アンナプルナ内院トレッキング・第二日目

トルカより、夕日に映えるアンナプルナ・サウスアンナプルナ内院トレッキング二日目:トルカ(Tolka1700m)―――>チョムロン(Chhomrong2170m)
一日目はポカラから車で30分ほど走ってカンデ(Kande1770m)という村まで行き、そこから200mほど登ってオーストリア・キャンプと呼ばれる尾根に出た。
そのあとは尾根伝いに2000m前後の森を歩き、最後に急な坂を下りてトルカまできて宿を取った。

写真はその日の夕日に染まったアンナプルナ・サウス7219m。
このアンナプルナ・サウスはアンナプルナ連峰の中でも一番南に位置するので、マチャプチャレと共にポカラからもよく見える。

*ひつこいようだが、写真はクリックすると大きくなる。

トルカの宿の竈夕方厨房に暖を取りに入ると薪の火が燃えていた。久しぶりに目にする薪の炎と真っ赤な熾火に見入っていると、、、今回二カ月いた日本の記憶が遠のいていく気がした。。
これから先では薪の使用は禁止されているとか。
道中ガスボンベを背負うポーターが目に付いた。



名前は分からないが、この時期狂い咲きのラン森の中の木々には沢山の様々なランがへばりついていた。
雨季には一斉に花を咲かせることであろう。
名前は知らない、このランだけが咲いていた。一株だけの狂い咲きと思われる。

















ヤギの子供春先の農家の周りにはいろんな家畜の生まれたばかりのベイビーが目立った。
写真はヤギの赤ちゃんだが、その他、かわいいヒツジや水牛、牛のベイビーを沢山見かけた。







織物に励むばあさまのんびり道端で織物を織るばあさま。











チメと吊り橋、ジヌーの下。このルートのトレッキングの難はアップ・ダウンが多いことだ。
一旦2000mに上がった後にこの長いつり橋がかかる1340mまで下り、そのあと一気に再び2170mまで登る。そのあとまたもや1500mまで下がり、2500mまで登るのだ。
この日は温泉のあるジヌーを、帰りに入ろうと通り過ぎ、2170mのチョムロンまで登り、3時ごろ宿に入った。














トレッキング・マップこの辺りの村にはどこにでも掲げてある、トレッキング・マップ。













ジヌーの宿の石垣に花と蝶ジヌーの宿の石垣の間から生えたワサビ状の茎から咲く花とその蜜を漁る蝶




















シャクナゲと野鳥シャクナゲと野鳥(名称不詳)


















Gold-naped Finch 15cmGold-naped Finch 15cm























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2010年01月19日

10人のネパール越境チベット人は国連に引き渡された

17日にお知らせした、ネパールのドラカで拘束された10人のチベット難民は無事UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に引き取られました。

これは18日付パユルからの情報です。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=26431&article=Nepal+hands+over+detained+Tibetans+to+UN%3a+report

それによれば、ネパールの移民局は彼らを尋問した結果、反中国運動のためではなくインドにいるダライラマに会うために越境してきたことが判明したので、国連に引き渡したという。

ネパール当局は当初、盛んに「彼らは中国大使館に引き渡されるであろう」と言っていたそうだ。それなのに、意外とあっさりUNに引き渡したのは、やっぱり、外が騒いだことが影響したのか?

ネパール政府や軍隊、警察が、国境を越えてきたチベット人たちを、中国側に引き渡すということは、これまでにも何回もあったのだ。一部報道はこれまでにネパールから中国に引き渡された亡命チベット人はいないと言っているのは間違いだ。

例えば、2003年6月に18人のチベット人がコダリで中国側に引き渡された様子はパユルの以下の記事に詳しくレポートされている。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=4280&t=1&c=1

友人でもある元政治犯のチベット人は、95年頃、ヒマラヤ越えの後、ネパール側で軍隊に捕まり、中国国境へとトラックで護送される途中、トラックから谷に飛び込んで助かったと私に話した。

そのほか、国境付近でネパールの警官や軍隊に見つかった場合は金を要求されるというケースが多いと聞く。
何日か拘留されたのち、国境付近まで連れて行かれ、「帰れ」と言われて解放されたというのもある。

これからも中国の圧力により、国境警備は益々厳しくなり、UNの力は弱くなるばかり。亡命するチベット人たちのリスクは増すばかりだ。



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2010年01月17日

ヒマラヤを越え、亡命を試みたチベット人たちがネパール側で逮捕

ネパールのドラカで、亡命を試みた10人のチベット人が逮捕される。

http://www.nepalnews.com/main/index.php/news-archive/2-political/3542-ten-tibetans-arrested-from-dolakha-.html

1月17日付けNepalnews.com

ドラカの地方警察は、ネパール領土に不法に入国したチベット人を少なくとも10人逮捕した。

Kantipur FM 放送によれば、チベット人たちは1月15日に逮捕され、今日、入国管理局に引き渡されるという。

8人の男性と2人の女性が Barang VDCのJagateから来た警官により逮捕された。彼らはLamabagarを経由してネパールに越境してきた。逮捕者の氏名は公表されていない。

ネパールを経由して、ダライラマの指導下で反中国の抗議活動に参加するためにチベットを離れるチベット人がこの数年増加している。このことを中国政府は懸念している。

中国政府は、ネパール政府に対し、領土内であらゆる反中国活動を許さないことを繰り返し要請している。

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ドラカと言う場所は、大まかにはカトマンドゥとチョモランマを直線で結んだ中間点辺りだ。
この辺りで越境したチベット人が逮捕されることは稀だ。
彼らは明らかにヒマラヤの国境の峠を歩いて超えた人たちだ。

亡命を目指すチベット人は冬に国境を超えることが多い。
理由は、チベット側の警備が手薄なこと、道中の障害となる河が凍結して渡りやすくなること、降雪が少ないことなどだ。
それにしても、厳寒の峠越えは命がけとなることも多い。
彼らも高い峠を越え、幾日も歩いた後、やっと車の走る道に出たところで逮捕されたのであろう。

彼らは中国に引き渡される可能性が高い。

この記事はネパールのオンラインニュースに載っていたものだが、最後の方で気になる書き方がされている。
「ダライラマの指導下で反中国の抗議活動に参加するためにチベットを離れるチベット人」という書き方は全く中国政府のプロパガンダを踏襲したものだ。

もしもこのメディアが政府系でなく、ただの民間メディアであるならば、ネパールでは政府だけでなく民間も中国側に付いた、とこの記事を読むことになる。

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2009年11月29日

閉じゆくチベットの門 (朝日新聞社)

珍しく朝日新聞の記事から:

asahi.com(朝日新聞社):閉じゆくチベットの門 ネパール 巨竜の影(6) - 月替わりルポ - 週刊アジア - 国際
http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY200911210253.html

2009年11月28日

■辺境、物資と兵の波

 標高8千メートルを超すアンナプルナ、ダウラギリ両山系の間を縫う深い谷を北へ抜けると、木々もまばらな荒涼とした風景が広がってくる。空気は澄み切り、黒みがかった青空は宇宙を感じさせる。ネパール領ムスタンはヒマラヤ山脈の北、チベット高原の南端に位置する辺境の地である。

 ヒマラヤの南のふもとから北上する山岳道路はカグベニ村で途切れている。かつて王国の都だったロマンタンまで、ここからさらに3〜4日歩かなければならない。

 静寂に包まれたこの一帯で、かつて戦争があった。1959年、チベット動乱で故郷を追われたチベット人が、ここを拠点に中国軍に対するゲリラ戦を展開した。72年、ニクソン米大統領(当時)の訪中後、米中央情報局(CIA)が支援を打ち切るまで戦いは続いた。

 30年余りの時を経て、中国側からムスタンに道路が通じた。2006年末のことだ。わずかな作物しか育たない村の生活は一変した。米、衣類、家電、ガソリン、建築資材。「トラックが毎日のように来て、何でも手に入るようになった」と村人は言う。南からロバや人の背に揺られて来た物に比べ格段に安かった。ゲリラの拠点はあっという間に中国経済圏となった。

 ところが08年、中国は国境を突然封鎖した。3月に起きたチベット騒乱と8月の北京五輪を控えた緊張の中で、中国物資を運ぶ車は姿を消し、ムスタンの物価は高騰した。

 貿易は国境で年2回ある交易会に限定された。農業の傍ら雑貨を売って生計を立てるタシさん(23)は交易会で目を疑った。標高4千メートルを超える荒野に、無数の中国兵と軍用車と兵舎が並んでいた。

 チベット仏教徒であるムスタンの住民は、中国側から逃れてくるチベット難民を同胞として助けてきた。99年末にインドへ亡命した活仏カルマパ17世もこのルートをたどった。寺院や家々には最高指導者ダライ・ラマ14世の写真が飾られている。

 タシさんは中国人から「ダライ・ラマの写真は飾らない方がいい」と忠告されたことがある。「中国との商売はありがたいが、何だか複雑だ」と話した。

■難民に強まる圧力

 国境を無数の治安要員で固めた中国は今年9月、ネパール政府に対しても、約1200キロの国境沿いに1万人の警備隊を配置するよう求めてきた。ネパールが同様の措置をとれば、難民は中国の目をかいくぐることができても、ネパール側に拘束されて現場で中国側に突き返される可能性が高まる。中国への送還は厳罰を意味する。

 9月末、首都カトマンズのチベット難民が集中する住宅街の一角を警官隊が包囲した。あちこちに検問所を設け、外へ出ようとする難民をしらみつぶしに尋問した。

 昨年、カトマンズの中国領事館前では、連日300人を超える難民が抗議デモを繰り返した。今年は10月1日の中国建国60周年を控え、再発を恐れる中国政府の要請にネパール当局が応じた。予防拘束された難民は100人近くに上る。デモは実施されたが、参加者は数十人程度と腰砕けに終わった。

 ある難民は「中国の圧力はすごい。デモや集会が当局に事前に察知されている。スパイがいるかもしれない」と危機感を募らせる。

 ネパールには約2万人のチベット難民が定住し、新たに中国から逃れてくる難民に「自由への入り口」を提供した。国境を越えさえすれば、国連難民高等弁務官事務所を経て、ダライ・ラマが住むインドへ向かう、というルートが確立していた。

 その門が、閉ざされようとしている。

 ネパール政府が中国へ傾斜する背景には、巨大な援助がある。チベット自治区ラサまで引かれた青蔵鉄道をネパール国境、さらにカトマンズ近郊へ延伸する計画が浮上している。中国物資を扱う物流拠点の建設、10億ドルの低利融資と、大型案件が目白押しだ。

 一方でチベット亡命政府と接触したネパールの国会議員に対し、香港へのビザ発給を拒むなど、中国は「アメとムチ」を徹底する。

 対中外交に詳しいネパールの元外交官はこう指摘した。「中国の微笑の裏には自国の利益がある。ネパール接近の目的はチベット問題で最大限の協力を引き出すことだ」(カグベニ〈ネパール〉=武石英史郎)

 〈ネパールと中印〉 ネパールは伝統的にインドと経済的、政治的関係が深かった。70年代以降、インドの内政干渉を嫌う国王が中国に接近した。08年の王制廃止後も、その傾向は続いている。ネパールの輸入全体に占める割合はインド55%、中国13%だが、中国チベット自治区ラサとカトマンズを結ぶ幹線道路があり、中国製品の輸入が増えている。

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このままではネパールはもちろんのこと、アナチャル・プラデッシュ州もパキスタンも台湾も北朝鮮、(韓国、日本)も中国にいづれは併合されることは間違いないと思うのです。
特に、このまま共産党独裁政権が続けばですが、、、





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2009年05月18日

紛争地帯に囲まれ

tibet突然ダラムサラも暑くなってきました。
もっともまだ30度ほどです。
下界のデリーとかは40度を越える日々が続いています。
このところ、この周りは暑い上にももっと熱い紛争地帯ばかりです。
インドの総選挙はやっと終わって国民会議派が圧勝。
チベット、法王との関係は良好のままでしょう。
インドだけはまだ平和です。

パキスタンはここからほんの100キロ足らず、スワット谷も近いのです。
すでに十万以上の難民が発生しています。
1000人のタリバン兵を殺したとパキスタン軍は誇らしく言っていますが、実際に殺された者の中には村が襲われ若者がタリバンにされて戦わせられた者も多いことでしょう。

ネパールでは武力闘争が成功して政権を取るまでになったマオパティの行方が再び不透明になってきました。
10年間戦いの相手であった軍隊同士が一緒になるということは簡単ではないでしょう。

スリランカのタメル・タイガーはとうとう全滅させられました。
こちらも数十万の難民が爆撃、銃撃戦の中を大移動すると言うことになり、その悲惨さは日々見ているだけでも堪え難いものでした。
タメル・タイガーのボスは殺され、副官二人は自殺したといいます。
25年間の民族自決武装闘争の結末は絶滅という悲惨な結果となってしまいました。
それにしても、政府軍は中国やロシアが後ろにいると思って、やりたい放題メディアを入れず凄惨なせん滅作戦を実行したようです。
よくテレビに映し出されていたタメル・タイガーの大勢の女戦士たちはどうなったのでしょう。
彼らも国内で多数派に差別される二級市民にされていたのです。
でも武器を持つと誰も同情してくれなくなる。
送られてくるのは共産圏の武器ばかり。

ビルマでは今日からアンサンスーチーさんの秘密裁判が始まりました。
もちろんビルマも中国と一緒で法治国家ではありません。
おそらく彼女は有罪とされ3〜5年の刑期を受け、この後監獄で過ごすことになる可能性が高いでしょう。
何と言うことでしょうか!こんなに世界中のまともな国の多くがその解放を要求しても軍政府はすべて無視します。
無視できるのは中国の後ろだてがあるからです。
圧力をかければかけるほどに、彼らは中国に近づいていきます。

私がビルマに行った時、まずアンサンスーチーさんに会えないまでもお家を見たいものだと思って、空港から市内に入るタクシーにさっそく「アンサンスーチーさんの家は知ってるかな?行けるかな?」と聞くと「全く近づくこともできないよ、、、」と答えられました。
今回のアメリカ人が湖を渡った件も常に監視している軍側は彼が湖を泳いで渡るのをわざと見過ごしたのではないかとの憶測も流れています。

cosmos galaxy地球の人々は本当に愚かです。


以下イギリスの若松さまがまとめて報告して下さったものです。
本日ガワン・サンドルさんがチベット問題をEUで取り上げてもらうためのアピールをされるそうです。

欧州ニュース

ブリュッセル欧州連合(EU)欧州委員会と中国との 間に開かれる予定のサミットの準備でICT(International Campaign for Tibet http://www.savetibet.org/)は
現在アメリカ在住の元政治囚、尼僧ガワンサンドル さんを迎えて、EUに対して中国への強い発言を求める ための記者会見が開かれます。

日時;18 May 2009(月曜日)2 pm to 3 pm
会場;- R醇Psidence Palace (Schuman) - Room Passage
ブリュッセル ベルギー

ICTによる“第11回 EU-China サミット: チベットについ てのEU政策最新版はこちらからダウンロード可能です。(18日以降 より)
http://www.savetibet.org
参加できるメディアの方、ご連絡下さい。(若松でも結構です)
広報担当官 Kate Saunders
email: kate.saunders@ictibet.co.uk
Tel: + 44 (0) 7947 138612

このサミットは前回フランスのサルコジがダライラマと会ったことに腹を立てた中国がドタキャンをしたサミットですが、これに先駆けてロンドンに本部を置くフリーチベットも、プラハで開かれたEU/中国サミットの一環である人権協議に、今回のチベット人に対する死刑宣告について言及するよう強く要請しました。

http://www.freetibet.org/newsmedia/130509

このプラハではチェコ国会議員連名が自国の大統領に同様の要請をしています。











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2009年03月16日

ネパールの現状、野田氏のトーク予告

7c60d15b.jpgPhayul.comのニュースに3月14日、カトマンドゥで三人の外人が中国大使館のビザ、ビザセクションの前でスローガンを叫んだとして逮捕された、というのがあった。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24180&article=Three+foreigners+detained+in+Nepal+for+Anti+China+Protests
三人はドイツ人、ノルウェー人、イギリス人。
叫んだスローガンは
「Free Tibet」「China,out of Tibet」

もっとも外人と言えば去年日本人の友人がチベット人と一緒にデモして、何度も逮捕され、刑務所に入れられた話は紹介しましたし、今に始まったことではないのです。
ラサでも外人狩、カトマンドゥでもチベット外人狩です。


ただ、今月のネパールは特別中国にぺこぺこして、チベット人いじめを強化しているようです。

3月10日にはバスに乗って国境に中国国境に向かっていた140人のチベット人が、独立分子として逮捕されたとか。

「レコードチャイナ:チベット独立派140人を逮捕―ネパール 」
http://www.recordchina.co.jp/group/g29375.html

これは、中国の外務省事務次官が先月カトマンドゥを訪問した時、ネパール政府に対し「チベット人の反中国活動を阻止せよ」と命令したことに始まる、新しい締め付けキャンペーンと言えるでしょう。

この辺のところはカトマンドゥにお住まいのばなな猫様のブログをご覧ください。
http://banana-cat-cafe.blog.so-net.ne.jp/3月10日前後の様子がよく分かります。

以下、3月9日分転載させていただきます。

ーーー

明日、3月10日チベット民族蜂起50周年 in カトマンズ [チベット]
明日、チベット民族蜂起50周年をひかえたカトマンズの警戒態勢はマックスです。
今日UN本部の前を通りましたが、去年のデジャブーのように
機動隊が配置されていました。
中学生達がよじ登った塀には、鉄線がはりつめられ・・・

話によると、ジャワラケルとスワヤンブのチベット人に対して、
警察から「明日はボダに集まらないよう」という通達が出ています。
・・・・・??
つまりジャワラケルの、あの二またの交差点に、またもや警官隊が立ち、
「どこに行くんだ?ボダに行くんじゃないぞ!」と脅しをかけるらしいのです。
いや、行った所で逮捕とかできるはず無いじゃん、とお思いのあなた、
ネパール警察はそんなに甘くありませんのです。
拘留する理由なんて、いくらでもあげられます。
ああ、まるでこれではどこぞの人民解放軍のよう・・・
ラサも明日は、チベット人は外出もままならない事でしょう。

現にボダに住むチベタン・ジャーナリストがおととい自宅から連行、
拘留されています。
「独立運動を率先している」といちゃもんをつけられ、
「今後運動に関わったら、実刑にする」と脅され、
今日、大金(保釈金?ワイロ?)を積んで出してもらいました。

で、明日はどうなるのかといいますと、
いつものようにボダで、法王の声明が読み上げられて、
プジャが執り行われるのですが、
問題はその場所・・・・
例年はストゥーパにて、オープンに行われていたのですが
(かつては、デモも警察の許可をもらってやっていた)、
5年ほど前から、法王の写真の掲揚などが禁止され、
去年、おととしは、お寺の中庭へ警官隊によって追い込められ、
今年はどうやら、中庭もNGという警察からのダメ出し。
仕方ないので、ゴンパの中か、集会所ですることになりそうです・・・・

はあっ・・・・・・。

デモ????あり得ません。
無駄に死人を出しても仕方ないです。
思い切りデモしたい若者はもうみんなダラムサラに行ってしまいましたし。

現在、共和制であるはずのネパールは今、
確実にマオイストが与党の共産党国家になりつつある気がいたします。
民主主義なネパールはもう、本当に終わってしまったのですね。。。

うわさによると、2009年度のチベット難民へのアメリカン・グリーンカードは、
8000通用意されているそうで、、
、、
つまりもう、じいちゃんばあちゃん以外はみんなアメリカへ行け、ってことです。
難民がいなくなれば、「難民問題」も無くなるってことです。
UNもチベット問題が、UNHCRやヒューマンライツ事務所、
その他の活動の妨げの引き金にならぬよう、
苦汁の選択を迫られているようです。

どうか、どうか、悲しいニュースが舞い込んで来ませんように。
明日は裏のお寺でバターランプでお祈りします。

ーーーーーーーーーーーーーー

上の写真はカトマンドゥのボーダナートの仏塔の周りを左回りに行進する武装警官隊です。

この写真をいち早く見られた、S女史から以下のようなメールが届きました。
「みなさん」宛てのメールだったので、無断転載させて頂きます。

ーーー

 昨日のphayul.comの記事と写真を見て、ショック!バウダ (ボーダナート/チベット正月にみなさまにお送りした写真の場所)の コルラーに武装警察が!これまで無かったこと。急いでカトマンドゥの 友人にメールしました。すぐに下のような返事がありましたが去年の秋 から事情が急変しています。

 理由は、最近ネパールを訪問した中国外務省事務次官級(?)の要人のせい。ネパールがこれほど中国の思惑通りに動くとは思ってもみな かった。これまでも、中国大使館へのおもねりから、表面だけでも亡命 チベット人の動きを取り締まっているようには見せていた。けれどほと んど即日解放されてた。それが、今、平和のシンボルともいうべき チョーテン・コルラーにあのように警官を繰り出している。ここはチベット人もネパール人もみな平和を祈って灯明をあげ祈る場所だ!聖地なんだ!

 友人の話では個別訪問でデモ先導者をあぶり出そうとしている。また、IDCを所持しない者は逮捕されて3年以上の禁固。IDCというのは多分ラキェル、難民証明証。亡命チベット人(1959−79年までの難民)と新難民(1980−89)は大抵もっているけれど、90年以降難民センターを経由しないでネパールに居着いたものに
は与えられていないはず。この話は前々回難民センターを訪ねた時、聞いていた。逮捕された者はいないけど、所持しない者は多くいると聞いていた。しかし実は、昨秋センターを訪ねた時は、14、5名が難民センターに引き取られていた。実際は留置場に入れられるところを国連高等弁務官事務所が引き取って、センターに収容したのです。彼らはいずれも証明証をもっていず、デモに参加(中国大使館前)して捕まってしまった。老若男女、年齢もそれぞれ。その後彼らはどうなったのか?ネパール在住10年の家族もいる人もいた。

 お話が大分それてしまったけど、この「IDC不所持の者は逮捕すべし」というのは中国の圧力です。オリンピック前数年のころから、中国とネパール政府(前政権=国王の時代からマオパティ主導の現政権)の距離が縮まり始めて、この話が具体化してきたという経緯があります。「不所持の者は当然中国人であるから、中国に帰還させるべき」という論理です。

 中国の思惑通りに政府が動いているとしたら、チベット人の人権も表現の自由も封殺されていると考えてよさそうです。何とかネパール政府に圧力をかけられないものでしょうか?.....あの国も右往左往、未だ制憲国会が軌道に乗らず......でも何かやってみます。

 友人は言っています。「昔はネパールは天国だった。」あのオールアバウトな空気がなつかしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

カトマンドゥでチベット難民一時収容所に行くには

カトマンドゥと言えばつい先月ナンパ・ラ(峠)行きの前後に寄ったばかりです。

思い出す話が一つあります。

N2氏と私の二人は山に行く前と後、二回チベット難民の一時収容所に行ってインタビューと写真を撮ることをトライしました。
数年前まで「トライ」何て必要なく、中で働く知り合いに電話すればすぐに入れたものでした。
それが、今回は友人曰く「UNの許可がないと入れないよ。まずUNの誰それに会って、、、」と。
何だかな、、、と思ったが、N2氏が「あ、UNなら知ってる。すぐ行こう」というのでタクシー走らせてUN・・・のオフィスに入った。
要件を伝えて、係りがいないと言われ。それでも帰らないで粘っていると、
次に若いフランス人の女性係官に詳しくインタビューされ、、、後から連絡すると言われ、帰った。
後から電話がかかって来て「私たちの事務所ではそんな許可書な出してないそうです」と言ってきた。

後で判ったことだが、NU違い!の事務所に入っていたのでした。

しょうがないので、結局その時は直接友人と一緒に中に入り、ボスと話して、ナンパ・ラ・コネクションだけを聞いて帰りました。
難民たちにも会って、話も聞きましたが写真は撮りませんでした。

ナンパ・ラ行きを終え、帰ってきたカトマンドゥで再びUNに挑戦してみました。
目指すはUNHRC(国連難民高等弁務官事務所)です。
見つけるのに相当苦労しました。
町はずれに隠れるようにして建っていました。
普通の住宅のようでした。
変わったことは、門の前に黒人が沢山いたこと。
彼らは何とソマリア難民!?だったのです。

我々を見つけるとさっそく自分たちの窮状を訴え始めました。
我々が厳重なドアの中に入れることになったのを知ると、誰それにこう言ってくれ、とか伝言を頼まれるのでした。

中に入って二人目の係官はネパール人の若い女性。
話の中で彼女が「チベット問題は大した問題ではないので(low Profile)、、、、」とか言ったので、少しカチンときて、「それはどういうことかいな!?」と詰め寄ったりしました。
彼女はブータンから追い出された10万人のネパール難民の話をして、この方を取材したほうがいいなどと言うのでした。
結局、「ではこのネパール政府の事務所に行って許可を申請してください」と言われました。(この時点で申請は諦めました)

何と、いつの間にか、国連は独立した機関ではなく、ネパール政府にコントロールされるまでに落ちぶれたということです。そのネパール政府は中国政府にコントロールされてるしね、、、

友人の話では中国はネパールにUN機関が沢山あるのが目障りで一挙にUNをネパールから追い出そうとしているとか。
特にUNHRCには毎日中国から嫌がらせメールが送られてくるとか。

実際ネパールにある国連機関の予算のほとんどはアメリカが出しているので、中国対アメリカの戦いなのです。

今回ネパールにいるチベット難民を最大2万人までアメリカに移住させるという計画は、もうネパールに住むチベット人に将来は無いと見たアメリカのチベット人救済政策の一環でしょう。
しかし、この計画実際には少しも進んでおらず、チベット人がアメリカに大量移住できるという話はただの夢に終わるかもしれません。

ネパールは中国にコントロールされてチベット人のデモを規制している、というが、
ここで思い出すのは、日本の話。

3月7日、私は日本の東京にいて、その日の朝行われた、SFT主催の中国大使館前抗議デモに参加しようと、六本木の地下鉄の出口でどっちに行こうかと迷っていました。
気がつくと前に警官がいたので、中国大使館はどっちに行けばいいのか?と尋ねた。
すると、答える変わりに、「失礼ですが、中国大使館に何の用で?」と聞いてくる。
はは〜〜〜と、思ったが「デモがあるんで」と言った。
「中国大使館はあっちですが、あまり近づかれないように、、、」とか言ってた。

近くで迷ってもう一人に聞いた時も同じ質問に遭った。

やっと現場に近づくと、みんなが大使館から離れた所に集まってる。
私が大使館前に行こうとすると、警官が止めた。
「どうしたのですか?どうして通さないのですか?」ともめていると
世話人がやって来て、特別にと了解を取って見るだけだと言って警官に連れて行かれた。

その間私はしつこくその警官に「チベット人をこれほどまでに弾圧している中国政府を日本政府がこれほどまでに守る必要があるのかね!もう日本も半分中国だね!」と、ヤジを飛ばし続けていました。

結局大使館前、道路反対側に5人ずつが交代にスローガンを叫ぶことのみが許されているとか。

また、日本人はみんな大人しく黙ってそれに従っているのが風土(病?)でしょうか?

日本も似たようなものだということです。

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N2氏とS女史の話が出たついでに、以下S女史が企画されN2氏のトークと映像が見られるイベントを紹介いたします。

N2からナンパ・ラのまた違った話も聞けることでしょう。写真もプロ、ビデオも沢山撮ってましたから、大いに期待できます。
是非、参加して見てください。

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チベットの歴史と文化学習会

─休憩(15分間)─
日時:2009年4月11日(土) 
18 : 00〜21: 00 開場17 : 45
●主催:チベットの歴史と文化学習会 ●お問い合わせ:
e-mail : trb.gakusyuukai@gmail.com

場所:文京区民センター3階 3-A会議室

講師:吉水千鶴子(筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻准教授)

講座 チベット仏教の潮流 第2回「仏教のチベット的展開」お話:渡辺一枝(作家)
チベット報告「受難ということ」

報告:野田雅也(フォトジャーナリスト)緊急報告「国境線リポート」

基調報告:長田幸康(I love Tibet!ホームページ 主宰)

質疑応答「Tibet2009 vol.2─チベットの政変から60年」

参加費:¥600

下記アドレスよりお申し込みください。
http://www.tibet.to/gaku3/ 
FAXで申し込みの場合はお名前、連絡先を
ご記入の上、下記よりお申し込みください。
FAX : 03-3229-1124 
参加申し込み
※当日参加もできますが予約を優先させていただきます。
 定員になり次第締め切らせていただきます。

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野田氏は今ダラムサラにいます。

カトマンドゥで私と別れた後、ポカラに行き「元ゲリラ兵にインタビュー」した後、
ナンパラで果たせなかった悲願難民遭遇、今度はすぐにダム方面に「越境難民」を追って潜入。
結果は如何に?

ダラムサラでも相変わらず、毎日精力的に色んな人へのインタビューを繰り返しています。
アマアデにインタビューしたり、新しく来た難民にインタビューしたり、今度TCVの子供の1日を追うために、朝4時から学校に行くとか言ってました。
僕はつき合わないからね、、、









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2008年12月04日

法王のヨーロッパ訪問/ネパールは間もなく中国領か?/野田雅也氏

fffd03b3.JPG左の写真、牧野先生と一緒に写ってるインド美人は8月にTYCが死のハンストを行った時最初の5日間一緒にハンストを行ったご婦人です。「女性は私だけで、年寄りも私だけだった」とさりげないが、話すほどに熱いチベットへの愛が感じられました。
マドラスでチベット人孤児や学生の母親代わりをされています。

ーーー

ダライ・ラマ法王は12月2日チェコのプラハで行われた記者会見の席上、

「私はいつも友人たちに言っている、中国のような巨大な国と良好で緊密な関係を築くことは大事なことだ。しかし関係は経済ばかりでなく、、、一方に、表現の自由、人権、民主主義とかの原則がある、、、この立場は堅持されるべきだ。頑固さを受け入れる空間があることが真の友情の証だ。最後には相手もそのことを評価しよう」

「もしもあなたが何に対しても<はいはい大臣>で、悪いことに対してもそうであるならば、その者達はその悪い行為もOKなのだと考えるであろう」
「他者の間違いを指摘することは大事なことだ」
と語られました。

11月30日にチェコ首相ミレク・トポラーネク氏
12月2日に外務大臣のカレル・シュワルツェンベルグ氏、及び前大統領ヴァ―ツラフ・ハヴェル氏と会見された。
3日にはいよいよブルッセルで欧州全体会議で声明を発表される。
6日にはポーランドのグダンスクで行われる式典にて、フランス大統領ニコラス・サルコジ氏と会見することになっている。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23317&article=Friendship+with+China+is+Essential%2c+But+not+Just+For+Economy%3a+Dalai+Lama

以下にすでに欧州会議後のインタビューが載っています。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23336&article=Stand+Firm+on+Human+Rights%3aDalai+Lama+to+EU

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ネパールはいよいよ中国の手に落ちようとしている

外務大臣ヤン・ジエチを筆頭とした10人の中国政府外交団がネパールの最初のマオイスト首相となったプシュパ・カマル・ダハル(プラチャンダ)及び外務大臣のウペンドラ・ヤダブとカトマンドゥで会談を行った。
ネパール国内での反中国デモを全面禁止する見返りに、中国はネパールに対し一億元(約13.5億円)の技術的、経済的援助を与えることが決定された。

ネパールが要望しているという?ラサ〜ネパール国境までの鉄道の開通は将来のトランス・ヒマラヤ鉄道によるネパール経由での中国とインドの結合への布石となるが故に、中国側はこれを積極的に進めたいとの考えを示した。

先の9月にはネパールのマオイスト防衛大臣ラム・バハドゥール・タパが北京を訪問したとき中国政府は一億ネパールルピー(約1.5億円)の軍事援助を(足代に)与えた
先月には北京はグゼン将軍に引き連れられた軍事顧問団をカトマンドゥに送っている。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=23333&article=Nepalese+PM+Gives+Reassurance+to+China+on+Anti+China+Protests

ネパールから亡命チベット人が追い出され、一時収容所も閉鎖される日も案外早く来るかも知れません、、、、。


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写真家の野田雅也氏は今年3月ダラムサラを撮ってからはチベット一筋、今年はすでに二度もチベットに入り取材されています。

その彼からの嬉しいお知らせ:
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今年3月のダラムサラの写真で、上野彦馬賞の「毎日新聞社賞」を頂きました。受賞作品の巡回展が、東京の写真美術館をはじめ、全国で始まります。お近くの方は、ぜひ足をお運びください。

○上野彦馬賞 受賞作品展
http://www.kyusan-u.ac.jp/hikoma/2008_sakuhin/index.html

毎日新聞社賞 野田雅也 「チベット〜Refugees 2008〜」(出典は5点のみ)

○東京展

平成20年12月6日(土)〜12月14日(日)
場所 東京都写真美術館 恵比寿ガーデンプレイス内
東京都目黒区三田1-13-3
http://www.syabi.com/index.shtml



○ 福岡展 平成21年2月17日〜2月22日

場所 福岡市美術館

○ 長崎展 平成21年3月17日〜3月22日

場所 長崎県美術館

○ 熊本展 平成21年4月22日〜4月28日

場所 鶴屋ふれあいギャラリー

○ 兵庫展 平成21年6月13日〜7月5日

場所 尼崎総合文化センター

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彼はこのところ長野の信濃毎日新聞紙上に
「チベット 人々の祈り」(計6回)と題された記事と写真を連載されています。
本人の許可を得て、今日から三日に一度のペースでこのブログにも連載させて頂きます。

写真は紙面と同じではないのですが、野田氏から別口で頂いたものからです。
ーーー
2008年 チベット 写真・野田雅也
信濃毎日新聞 文化面 08年11月7日掲載

チベット 人々の祈り> (野田雅也)

第1回 迫害の歴史、抗議の根に


九月下旬から三週間、チベットを訪れた。一九九九年に初めて行ってから、これが八回目の渡航になる。チベット自治区に入るのは、一昨年以来二年ぶりだ。
今年三月、チベット全土で起きた僧侶や市民らによる激しい抗議デモを、中国政府は圧倒的な軍事力で鎮圧し、チベットを事実上封鎖した。それから半年。北京五輪が終わり、外国人観光客にも再び開放されたラサは、穏やかな日常を取り戻したかにも見える。
しかし、町を歩くと、銃を携えた治安部隊が巡回し、私服の秘密警察が人びとの会話に耳を立てている。仏教寺院にも、僧侶の袈裟を着た監視員がいた。そして、道路わきなどのいたるところに監視カメラが設置されている。チベット仏教の聖地ラサは、監視と密告という見えざる眼の下にあった。
「オリンピックなんて見たくもなかった」と尼僧のガワン(30)=仮名=は言った。三月、彼女の寺院でも大きな抗議デモが起き、義兄を含む僧侶二十一人が拘束された。黒い覆面をかぶせられ、縄でつながれた彼らは、抗議デモで掲げたダライ・ラマ十四世の顔写真を、見せしめに首から下げさせられ、一列になって町を歩かされた。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ十四世を中国は国家分裂主義者と非難し、その写真を持っているだけでもチベット人は投獄される。僧侶たちが首から下げた写真は、群集の前で焼き捨てられた。
ガワンの寺院は抗議デモの後、人民解放軍による厳重な監視下に置かれた。屋根には中国の紅い旗が掲げられ、本堂や僧坊には、監視カメラと盗聴器が取りつけられた。「外出もできず、水や食べ物がほとんどない状態が三カ月間続いた」と言う。その重圧のなかで、ガワンは拘束された仲間たちの無事を祈り続けた。
ほかの寺院でも、僧侶たちへの愛国教育が強化された。彼らはそのなかで、中国共産党を讃えること、分裂主義者に加担しないことを誓わされる。しかし僧侶たちにとって、心に嘘をつくことは仏教の教えに背くことであり、信仰の指導者を非難することは苦しみの極みである。この愛国教育のために、チベット各地で僧侶の自殺が相次いだ。
一方で、北京五輪の前には、中国政府からチベット人に生活支援金として一人五百元(約七千五百円)が配られたという。ガワンは「お金で人を操ろうとするなんて、信じられない」と怒りに声を震わせた。
五輪中はさらに厳しい監視が続いた。町には治安部隊が溢れ、道路には軍の検問所が増設された。多くのチベット人が家の外に出ることさえ恐れていたという。しかしそのチベットの内情が、外に伝えられることはなかった。
ガワンは今も繰り返し同じ夢を見る。それは、秘密警察に拘束され、体に紅い旗を巻きつけられてビルの屋上から突き落とされる夢だ。極度に追い込まれた心理状態が、そんな悪夢を見させるのだろう。「何か不吉な暗示ではないか」と彼女はおびえていた。
 中国はチベットへの監視と抑圧を強め、抗議デモの再発を防いでいる。しかし、独自の文化や信仰をもつチベットの人々を、一九五〇年の侵攻以来、半世紀以上にわたって迫害し続けてきたその歴史が、今回の騒乱の根にはある。北京五輪を終えた今も、声にできない祈りをチベットの人々は唱え続けている。


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2008年09月16日

法王召集の重要会議の日程、日本人がネパールでチベットのために4回のデモ

92fa5809.jpg昨日の法王の御様子についての話はあくまでも非公式の裏情報の一つとみなして頂きたい。
特に報道関係の方は他の情報筋も参照されますように。

ーーー

先に発表された法王ご自身が特別に招集された「特別会議」の日程と場所が議会により決定された。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=22807&article=Tibet+Emergency+Meeting+In+November

来る11月17日から22日までの6日間、ダラムサラのTCVホールで行われる。
会議の出席者は現大臣及び大臣経験者、チベット議会現議員及び議員経験者、政府副書記以上経験者、各チベットNGO代表、チベット人知識人、専門家、青年その他という。
もっともこの決定は議会の草案として法王に提出されるものであり、法王の意見を入れて変更される可能性もある。

議会では外国のNGOを参加させるべきかどうかの議論が盛んに行われたが結局、チベット人限定の会議と決定された。

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だいぶ前のことになってしまったが、ある友人(日本人)にインタビューした。
彼は4月に24時間のハンストをいっしょにやった仲間でもある。
短期間にチベット語もマスターし、今ではすっかりチベット化されてしまった一人だ。

以下は同席したT女史が彼女のブログ上でまとめて下さったものです。
http://newborder.exblog.jp/
ーーー

先日、ダラムサラに滞在していた日本人の方が、カトマンズでチベット人たちと
「フリーチベット」のデモに参加し連行されたそうだ。数日して帰ってくると聞いていたが、偶然ルンタの隣のカフェでお会いしたので、私たちはデモの話を伺うことにした。

S氏は元自衛隊員。今は休職し、一年ほどネパールやダラムサラなどチベット文化圏を旅している。
今年の8月7日から3日間、カトマンズの中国大使館前でデモを行いネパール警察に連行された。
ポカラのチベタンキャンプからカトマンズのベースキャンプまでは、大勢のチベット人と一緒にバス2台で移動した。
オリンピック前夜ということもあり、検問はとても厳しかったが、なんとか無事に切り抜けた。

そして、合計4回のデモに参加した。

一回目、8月7日のデモ
S氏一行に加え、カトマンズに住むチベット人たちが大勢集まり、大規模なデモへと
発展した。するとネパール警察がやってきて、ダライラマ法王の大きな写真を棒で
殴りながら、「ただちに解散せよ!」と叫んできた。トラックに詰め込まれたが、ガソリンがないから帰ってよいと言われた。

チベタンキャンプからやってきた一行はカトマンズの工場跡地をベースキャンプにしていた。
スパイなどもいるため、カムフラージュでデモを決行するといって、突然中止になることもあった。
次の決行をいつにするか、ベースキャンプでそのタイミングを待っていた。

2回目、8月9日のデモ
一行を束ねているボスの号令がかかり、再び中国大使館の前でデモを行った。一度目はポカラからなので検問が厳しかったが、二度目はベースキャンプからタクシーでの出動だったので、パスポートを見せ観光客を装い、フリチベTシャツや国旗も隠し持って行くことができた。
それぞれ近くのレストランで着替え、中国大使館前へ向かった。

そこには100人のネパール警官隊が待ち構えていた。
ジャーナリストがカメラを回しているときは何もしないが、カメラのないところでは手荒な暴行を加えたり、時計や身につけているものを奪い取ったりしてきた。友人の女性は棒で顔面と脚を強く殴られ、目がひどく腫れて片目がつぶれてしまい片足も負傷したが、次の日もデモに参加していた。
みんな決死の覚悟でここまで来ているので、何があっても引き下がらない、根性が座っているのだ。
S氏も棒でお腹に一発食らったが、気合が入っていたので大した痛みではなかった。

オリンピックの開幕式の次の日ということと、ニュース報道が来ることもあって、1000人近くの群衆がデモに参加していた。けれども、みんな塊でなくバラバラにやってくるので、ネパール警察に一網打尽にされてしまった。2,3人の警官に担がれ、次々にトラックへ放り込まれた。
お婆さんが悔しくてずっとすすり泣いていた。
群衆全員を収容仕切れないため、ネパール警察署の二、三か所の運動場へ別々に連行された。法律で何かあるのか、夜の10時には釈放され、みんなでベースキャンプへ帰った。

3回目のデモ(日付不明)
2回目と同様にして捕まり、別の運動場へ収容された。
トイレに行こうとしたら警察にダメだと言われた。怒りが沸点に達し「叩かれたので日本大使館に電話してください!」と抗議した。
すると上の者が出てきて、「お前は日本人なのか。それなら帰っていい。」と言われ
たが、仲間を裏切れないし、ベースキャンプまでの道も定かでないため、みんなと一緒にとどまることにした。そして、同じように夜には釈放された。

4回目、8月14日のデモ
みんながポカラに帰ってしまい、S氏はボドナートの宿に移った。近くの店のオーナーや従業員たちが店を閉めてデモをやるというので、一緒に参加することにした。
例の如くすぐにトラックに放り込まれ連行される途中、3,4人の警察にボコボコに殴打され、立てなくなっている老人の姿が目に留った。
それは、楽しんでやっているようであまりに惨たらしい光景だった。
S氏は頭にカーっと血が上り、「やめろー!」と叫びながらトラックから飛び降り、気がついたら警官3,4人の足を無心に蹴り倒していた。
そして当然のごとくボコボコに殴打されたが、その時S氏は怒りのあまり頭の中が真っ白だった。

== == == == == == == == == == == == ==  
一連の騒動では、警官による僧侶や老人に対しての暴力が特に酷かった。激しく殴打され、歩けなくなるお婆さんもいた。女性は体を触られ、ポケットに入れていた財布を抜かれる者もいた。

ネパール警察が、1000人もの人をわざわざ形だけ逮捕するのには理由がある。
チベット人を一人捕まえると、中国から500ルピーもらえるのだ。ガソリンが買えないくらい金銭的に窮している彼らにはチベット人逮捕は小遣い稼ぎなのだろう。
捕まると必ず回覧板のような紙が回って来て、名前と国籍などの個人情報を書かされる。
その数が、彼らの小遣いに比例するわけだ。

以前、S氏はカトマンズでマオイストのデモを見た。彼らは木の棒を振り回し、石を投げ、過激な破壊行為に及んだが、ネパール警察はただ見て見ぬ振りをしていたのだ。
今や、ネパールではマオイストが60%の支持率だ。国家の言いなりの警察は、結局長いものに巻かれるのだ。

以上、S氏から伺った話の概要です。





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2008年07月09日

G8は終った

365b3243.JPGまずは、産経の山本さんというチベットの事を心にかけてくださってる、素晴らしい人の記事から。

【洞爺湖サミット】チベット問題はどこへ (1/2ページ)
2008.7.9 19:56
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080709/chn0807092000008-n1.htm

 9日に閉幕した主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)は、拡大会合に参加した中国に対して、主要8カ国(G8)側が「北京五輪の成功」を願い、温室効果ガス排出抑制の枠組みへの参加を促す対応に終始した。世界に衝撃を与えた3月のチベット騒乱に対する中国当局の弾圧は、この日行われた米中首脳会談ですら事実上、棚上げされている。中国の加盟などサミット拡大構想も浮上するなか、「自由、個人の諸権利の尊重」を掲げた先進7カ国(G7)時代の理念が、岐路に立たされている。

 サミット閉幕の直後、会場内で中国の胡錦濤国家主席と会談したブッシュ大統領は、「人権、政治的自由」については米側の考えを述べたと記者団に説明したが、チベットの名は挙げなかった。一方の胡主席は、「北京五輪開会式への大統領の出席を歓迎する。大統領が五輪の政治利用に反対したことを称賛する」と述べて、会談を終えた。

 米中首脳の直接会談は、チベット騒乱後、これが初めて。中国当局の弾圧を非難し、一時は五輪ボイコットに大きく傾いていたフランスのサルコジ大統領もこの日、胡主席と会談したが、チベットや人権問題の追及にかわり、「五輪開会式への出席」を表明した。

 洞爺湖での五輪出席表明は、福田康夫首相も同じ。すでに出席を表明していたブッシュ大統領は、「五輪開会式の欠席は、中国人への侮辱」とも述べていた。

 チベット問題が回避されたのは、中国と米仏など、2国間レベルの会談だけではない。議長国を務めた日本側の説明では、中国、インドなど5カ国が参加したサミット最終日のG8拡大会合でも、やはりチベット問題は取り上げられず、サミットの政治関連の声明でも言及はなかった。


【洞爺湖サミット】チベット問題はどこへ (2/2ページ)
2008.7.9 19:56
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080709/chn0807092000008-n2.htm

 チベット問題がサミットで棚上げされた理由は、米国など各国が中国に求めていたチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の側と中国当局者による「実効ある対話」が実現された、との判断による。

 ダライ・ラマの特使らは、今月3日まで北京を訪れ、中国共産党統一戦線工作部の杜青林部長と会った。双方の対話は、騒乱後これが2度目。内容はともかく、次回の対話を10月とする日程では合意したことで、「実効ある対話」が、サミット直前に整う形となった。

 1975年、民主主義の価値観を共有する西側先進国が、世界経済への責務を果たす目的で発足したサミットは、80年代に入り政治討議の比重を高めた。

 88年のトロント・サミットで採択された東西関係に関する政治宣言は、民主主義がもたらす繁栄への強い信念のもとで、「自由、個人の諸権利の尊重、および法の支配の下での平和裏の生存を求めるすべての人々の希求について、共通の信条を有している」とうたいあげていた。

 チベット騒乱の直後には、宗教・文化的な権利を求めるチベットの現状に、多くのG8メンバーが、20年前に掲げられた「自由、個人の諸権利」「平和裏の生存」を重ね合わせていた。チベット問題が棚上げされた今回のケースは、中国への対処にとどまらず、サミットの拡大が共通の理念を見失う危険をはらむことをみせつけたようだ。(山本秀也)

ーーー

人気も経済的余裕も無く、中には任期もない首脳様たちがどんより曇った北海道に集まり、結局何もこれといった成果は無く、やり易いからとジンバブエを取りあえず悪者第一とし、後はオリンピックサービスでチベットは棚上げ。
良くない傾向です。

ーーー

今日情報省次官のサンペル氏に他の用で会ったので、ついでに一つ聞いてみた。

「今回の会談、ギャリ・リンポチェの記者会見では、まったくの失敗、破談と聞いている。
でも中国は、今回の会談は成功であった、中国側の4つの要求をダライラマ特使が了承したから、と言ってる。サルコジ初めG8だって会談は成功した(らしい)からもう今回はチベットのことは忘れることにしよう、なんて言うことになった。
これどう思う?」

「4項目なんて、最初からまるで実態のないことばかりじゃないか?
法王はずっと前から、独立などいってない。オリンピックを支持してる。平和主義者だ。TYCチベット青年会議がテロリストというが、もしそうならまずインド政府が彼らを逮捕するであろう。でも彼らをよく知ってるインドもそうは思ってない。」

もっと突っ込みたかったが、あまりに明らかで、これ以外に事実はないし、今さらではあるが、再び各国に裏切られ可哀そうなチベット政府を傷つけるような質問はもうできませんでした。

ーーーーーー

ダライラマ法王は昨日7月8日、ラジャスタンのアジミールに行かれ、その地のヒンドゥー教の寺院にお参りされました。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=21905&article=China+Has+%22Never+Understood%22+Tibetan+Culture%2c+says+His+Holiness

その折、メディアに対し法王は

「中国政府はチベットの遺産、文化、伝統を決して理解したことがない。これがすべての問題の根本原因だ。しかし中国は逆に問題の責任を私に帰す」

「1959年以前に中国との間に<17条の条約>が締結されていた。しかし中国はチベットを理解しようとはせず、そのことが問題をさらに悪化させた」

「1980年代には中国政府はいったんチベットの統制を緩め、より<リベラル>な姿勢を見せたが結局長期的な解決を見出すことはできなかった」

等、語られました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ネパールで先月逮捕されていた、一時収容所の所長、チベット婦人協会の正副地区会長の3人が解放されました。

それとこの前もお知らせした秘密の帰還行進隊の現況を

Sさんが知らせてくれていますので以下コピペさせて頂きます。

ーーー

嬉しいニュースを二つ。VOT (Voice of Tibet)によれば、友人
のケーサン・チュンさんと他2人の女性計3名にネパール最高裁から釈
放の命令が出されました。
ケーサン・チュン・ラーたちは6月19日、自宅にいた所を「ネパール
の平和と中ネ友好」を侵害したとして逮捕され、3ヶ月の拘留を言い渡
されていました。釈放に当たっては、EUやアメリカの圧力があっ
たようです。(日本は入っていないみたい...)明日、カトマン
ドゥへ電話してみよう。

 もう一つもVOTから。もう一つのチベットへの帰還マーチがソ
ル=クンブ地方経由で、チベット国境まであと3日の所まで来ました。
6月28日にカトマンドゥを出発。既に東へ500キロ(200キロの
地点まで車)を歩き、途中ニンマ派トゥーシー・リンポチェのトゥプテ
ンチュリン寺(エヴェレストの南ソル地方)を経由(か、同寺の僧侶が
合流したのか聞きそびれたが)、現在コーナンという聞いたことのない
地名の南に達しました。僧侶たち10名。彼らは不慣れな山歩きで頭痛
や腹痛に悩まされながらも、ネパール警察に妨害されることもなく、進
んでいます。バッテリーの切れそうなモバイルの声は、チベットで同胞
に出会ったら、クンドゥの言葉を伝えて、ああもしたいこうもしたい、
喜びに満ちていました。

どうぞ、雪山の荒ぶる神々、彼らを無事にチベットに迎えてください!


<6月20日に読んだ詩をもう一度掲げます。>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

チベットへの帰還讃歌 
Rakra Thupten Choedhar(ラクラ=トゥプテン・チュダル)作 普阿尼訳

キキ ソーソー Lha ギェロー!
チベットの神々に勝利あれ!

ああ 故郷の兄妹たち輩(ともがら)たち かくも久しくご無沙汰して
います
私たちも異国に年月を重ねましたが 今 母なる国へ向かっています

ああ 有雪の山 荒ぶる神々よ
幾多の峠越え 谷越えに 御身の道案内を乞います

ああ カンチェンラワ(雪氷の障壁) 国境を護持する女神たちよ 
通過するのは私たちです その国の門を私たちのために大きく開いてく
ださい

グルラチュクスム あなたの妙なる詩を聞けば 
幾多の峠越え、谷渡りも 草花の楽園となりましょう

故国へと急き立てたのはあのラサの民衆の魂 
今 私たちの胸は歓喜に高鳴ります 
宝蔵の峰の守護者 テンマチューニーよ
荒野を進む私たちに和して 共に歌ってください

ああ ラサ、神々の住まい 
かけがえのない わが同胞たちすべての都

私の足がひたすらあなたのもとへと駆りたててなりません
もと来た道を戻るなんて考えは とっくに捨ててきました

ラサの輩(ともがら)たち お迎えの酒はあとにしてください
ゆっくりと酒を酌み交わし、思いの丈を語り合う時間もありましょう
まずは チョカン寺シャキャムニ仏のご尊顔を拝したいのです
友よ、待っていてくれますね 








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