ランタン

2009年07月01日

ランタン最終回

朝やけランタン谷七日目以降、最終回。

その日をキャンジン村最後の日と決めていた。
もう一日居れるかも知れないと、デリー行きのフライトまでの日数を計算しながら、迷いながらも珍しく早めに発つことにしたのだ。



キャンジン・リ頂上にあるタルチョとナヤカン峰読経会が始まるのは朝8時。
それまでに、朝まず、村の上に聳える岩山(キャンジン・リの手前)の頂上まで登って帰ってくる予定。そこの高さは4350mだから、500mほどほぼ直登することになる。
宿の人に「何時間かかる?」と聞くと、「一時間半」とのこと。
「昨日はランシサまで3時間と言ってたが、4時間かかった。上まではきっとお前には一時間半で、俺は2時間かかるだろう」と言った。その計算で朝4時過ぎには歩き始めた。
しかし、上までは案外近くて1時間丁度で着いてしまった。

キャンジン・リ頂上にてその間にランタンの朝焼けを堪能した。
頂上にはタルチョが沢山結び付けられていた。
ここで、私も持ってきた自分のタルチョをタルシンに結びつけ、すべての有情が様々な苦しみから救われ、様々な幸せを得ることを祈った。
次にこれもカトマンドゥで買った「チベット雪獅子国旗」を取り出し、<プ・ゲロー!>と一叫びして、ランタンをバックに一人で記念写真。

キャンジン村とナヤカン峰帰りは斜面が急なので真っ逆さまにゴンパに向かってカラスが急降下しているようでした。
20分で下りてしまいました。











朝、8時ちょっと前に急いでゴンパに入ろうとすると、前に座り込んでいたおばさん連が「朝は食ったのか?これをまず飲んで行け」と、私は遅れそうだと急いでるし、ちょっと見た目にうまそうでないので、断った。

キャンジンゴンパの前ででも、どうしても飲んで行けとしつこい、それはツァンパを緩くお湯に溶いたもののなかに何か根っこのようなものが入っていた。
不味くて、吐きそうだったが、我慢して胃の中まで流し込んだ。





読経会みんなは私を待っていたようだった。
今日最初に回ってきたお経は「二万五千偈般若」の終わりの方。
これも、とにかく私の大好きな「トンバニ(空・空性)、、、トンバニ、、あれも、これも、私の中も外も、トンバニもトンバニ、、、すべての現象は夢だ、幻だ、水月だ、マジックだ、虹だ、、」の連続なので調子よく、読みやすいのでした。

しかし、午後からは「宝積経」に移った。このお経自体、初期大乗仏教時代のお経を集成したものだから、話題は色々変わる。このお経に入ってからはぐっと読むスピードが落ちてしまった。
意味が解らないと、中々大きな声で読み上げることは難しいものだと思った。

ランタン・リルン南東陵ここで、このカンギュル読経会の会計の話を少ししよう。
この一か月以上にも及ぶ大掛かりな読経会がこの谷で行われるのはこれが初めてだという。
最初、お茶くみに回っている大施主の奥さんから「この谷初めてのこのカンギュル読経会に遠い外国から読みに来てくれたとは、本当にうれしいことだ」と、ただの冷やかしなのに、うまくおだてられたものだ。

読経会を覗きこむ子供どうして今年この会を行うことになったのかについては聞かなかったが、経済的余裕からくる新仏教復興運動の流れでしょうか。
私は自分で寄付をした後、仲間から「何でお前が寄付したんだ?あっちから貰うのが当たり前だよ」と言われた。
読み手はそれぞれ一日500ルピーの読代を貰うのだそうです。
その上、数日かけてここまできた者にはその費用も出るという。

キャンジン・ゴンパこの辺では悪くないバイトだと思いました。
その他、お茶と食費等を入れて全部で予算は日本円で150万円ぐらいかかるそうです。
このお金はランタン谷周辺の12村落が分担して拠出したそうです。

できれば3年は続けたいとの話でした。
来年もやるなら、日本から読経隊を組織して、乗り込むことを約束した。

キャンジン村の子供この辺の人たちはお金をまず子供の教育に使います。
子供は早いうちからカトマンドゥの寄宿舎付きの学校に送られます。
この学費は相当高いのです。年間5万〜8万ルピーだそうです。
外人の来ない谷の人々は現金収入の機会が少なく、子供を学校に送れないものも多いそうです。例えば、シャプルベシから北のチベット国境までの村では子供は学校ではなく僧院に送られることが多いのです。一緒にお経を読んでた若者たちがその例です。

教育の次には、こうした仏教的行事に使われるようです。
私は今回少しだけこの谷の読経会に参加させてもらい、本当に楽しかった。
こんな山奥で、こんな素晴らしいことが行われているということが楽しかったのです。

イエロー・ポピーとタルシン日本の田舎で一か月かけて「大蔵経を読む」ということはあり得ないことでしょう。
日本では本当に読むと時間がかかるというので、ある宗派のある有名なお寺では、アクロバティックにお経を空中に右から左へと飛ばして、それで読んだことにするそうです。
きっと中国語が読めないのでマニコロと同じ発想で始まったのでしょうかね、、、?

その夜はバカ若者に「おい、今日は最後の夜だろう。俺は今から女の所に行く。お前もあれとどっかに消えるといい」と言われ。

かまどの前の夕食の時には女の替え歌に「昼間は〜〜写真ばかり〜〜とってる〜〜
夜は〜〜〜何するの〜〜〜」とやられ。
またみんなから笑いの種にされる。
そのうちチャンが回って来て、いよいよ盛り上がった。

次の日の朝、後ろ髪を引かれるようにしてキャンジンを後にする。
ランタン村を駆け抜け、一気にラマ・ホテルまで下った。
割りと、早く着いたので、本気なら一日でシャプルベシまで下れたのよな、、、と思った。

次の日にシャプルベシに着いて、まずは噂の温泉に行って見たが、ちょろちょろのかけ湯だけだったので、ガッカリした。

帰りのバスと同型その日にはバスがカトマンドゥから来なかった。
マオパティが交通バンを行ったとのこと。
もちろん次の朝出るバスはない。
その次の日、苦行バスの一番前の席に陣取り10時間頑張った。
とにかく下界は暑かった。



カトマンドゥへの帰り道で
空性が故に現れる、これら稀有な因果に従った幻は、だから美しい。



















キムシュン峰 6745m





rftibet at 19:36|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2009年06月30日

ランタン六日目 ランシサへ

ランシサへの道2ランタン六日目、ランシサ(牛死地)へ

今日はさらに、谷を奥に向かって歩き、ランシサ・カルカまで行き、帰ってくる予定。
午後早く帰ればまた読経会に参加しようと思っていた。
ランシサまで、宿の人は片道3時間と言った。しかし、実際には4時間かかった。
往復8時間。25キロほどは歩いたと思う。
パン一枚しか持って行かなかったので最後に腹が減って力が抜けてしまいました。

最初の計画だと、キャンジンでテントを借りて、この先チベット国境まで行くつもりだったが、読経会が楽しいので日帰りでお茶を濁したわけです。




ランシサへの道すがら2道は、河原が広がったランタン・コーラ沿いのほんとに気持ちのよい楽な道でした。
もちろん道の周りは花ばかり、馬にヤーにヤギがまるで野生のように生まれたばかりの子供たちを連れて、家族で移動したり、草原で眠ったりと気ままにやっていました。
見張っていそうな人は誰も見かけませんでした。まったく自由にやっているようでした。


ランシサへの道すがらあるヤーの大家族が上から下ってくるところに出会いました。
右手はすぐ川なので逃げ場はないなと思い、私はカメラを構えてそのまま待っていました。
ところが、すぐ手前まで来て、先頭の大きなヤーが突然川にザンブと入り、川を渡り始めました。すぐにみんなそれに続いて川に入ります。川は浅くなく、流れも急です。


川を渡るヤーの家族大人のヤーでも流されそうになりながら渡ります。今年生まれたばかりと思われる子供も川に入ります。流されながら、泳ぐのです。中にはかなり下流でやっと岸に着くものもいます。
ヤーは最初から泳げるんだ、、、と発見しました。

それにしても、そのあたりでは川は何本にも分かれているので対岸まで行くには何回も川を渡るのです。夏でも氷のように冷たい川です。ヤーは冷たくないのかな?と自分も冷たくなりながら、家族全員無事対岸に渡りきるまで眺めていました。
悪いことしたな、、、無事でよかったけど。

14.6.09ランシサへの道この日は朝5時頃宿を出ました。
ド・サンにこの日も「今日は荷物もないし、一人で行くから、ド・サンはお経読んでるといい」と言ったのですが、「ランシサにはグル・リンポチェに所縁のある岩や洞窟があると聞いた。山には仏が現れるともいう。行ったことがないので一緒に行きたい」とのことで、一緒に出かけました。


ランシサへの道4キャンジン村を離れ、広い気持ちの良い谷を上に行くにつれ、後ろのランタン・リルン峰に朝日が当たりはじめました。
朝早くから子馬が母親の周りではしゃいでいます。
朝日に朝露がたっぷりの乗った草原の花が輝きます。



ニャンと呼ばれる野生のヤギ?体長1.8mほど。しばらく行ったところに小さな池があり、回りにはヤーが沢山いました。
と、突然ド・サンが「あれを見ろ!」と指差す方向を見ると、水辺に見たことのない大きなヤギのような動物がいるのが目に入りました。
体長は2メートル近くあり、がっしりした体で茶褐色の毛が輝いていました。





飛び上がるニャンあちらも気が付き、しばらくはじっとこっちを見ていましたが、駆け始め、飛び跳ねながら、あっという間に、山の崖の上まで駆け上がって行きました。
足が相当強いと感じました。
「名前は?」と聞くと「ニャンだ」との答え。
この辺で「ニャン」と呼ばれる野生動物ということしか解りません。














右手にランシサ・リ峰6427m,奥にゴルドゥン峰6480m最初はガンチェンボ峰6387mを目指して歩くが、しばらくして目の前にランシサ・リ6427mが現れてくる。
このランシサは訳すと「牛死地」となる。何だか縁起の悪い名前だが、これにはこの谷全体に関わる言い伝えがあるのだ。




ランシサへの道1ド・サンから聞いたバージョン:むかしむかしチベットから一頭のゾォ(雌ヤー)とその子供、それに一頭の雄牛が飼い主から逃げてボテコシ川沿いを下ってランタンの近くまで来た。後ろからは飼い主が追いかけて来ていた。
今のブリディムのところに来た時、ゾォとその子供は危うく飼い主に捕まりそうになった。ゾォとその子供は捕まりそうになると近くの大きな岩に飛び込んだ。
二頭はそのまま岩の中に消えたという。
その岩を「ゾォディム(ゾォが中に入った岩)」と呼び、村の名前になった。今は自分の村はブリディムと言うが本当はチベット語ではゾォディムなのだ。

パンゲン・ドゥプク 5830mその後雄牛はランタン谷に入った。ある場所で一度雄牛は飼い主に捕まってしまったという。今もその岩にはその牛を繋いでおいたという、不思議な形の取っ手のようなものがある。
しかし雄牛は逃げた。逃げて逃げてずっと谷の奥まで行った。
でもランシサまで来て、牛は死んでしまったとさ。
だから、その場所をランシサ(牛死地)と呼び、上の山をランシサ・リ(リはチベット語の山)と名づけたのだ。

橋この話にもちょっと違ったバージョンも聞きましたが、これはこの谷ではみんな知ってる話でした。
チベットからヤーが来るならチベット人の南下説の裏づけにもなって、解り易いが、、、牛なのがちょっと詰まらないですね、、、ランシサは4200mなのでここでは普通の牛は飼えないという話でしょうか。



Spongiocarpella purpureaランシサには河原に大きな岩があってその岩がグル・リンポチェ所縁の岩。
「グル・リンポチェが嘗てここで瞑想された。その岩の上には涸れることのない小さな泉が湧いている」
と聞いたのですが、その岩の上には確かに不思議な形に抉られた風呂桶のような場所はありましたが、残念ながら水は涸れており、草が生えていました。

そこで一緒になったお坊さんはガンチェンボ峰を見ながら、「どこか、山肌に仏やグル・リンポチェの姿が見えると言うが、、、、見えないな、、、、」と残念そう。

ランシサカルカにてここが終点ということで偶然集まった5人で記念写真を撮った。

ランシサ・カルカの近くには3方向から氷河が迫っている。いずれの氷河もチベットとの国境線の山から始まる。中心の氷河をずっと遡ればチベット側でシシャパンマ8012mに至る。ここから三日行程で行ける。

山は6000mを越えると山らしくなり、いつまで見てても見飽きない。
写真には名前と高さが記されています。

Rhodiala tibetica花は手元の本では確認できないものが多かったようです。
そん中で何本もの長い茎の先に小さな赤い花が咲いているRhodiola tibeticaというやつは「ヒマラヤ人参」とか名づけられて、怪しげな健康食品になっている「紅景天(ソロ・マルポ)」の代用品だそうです。この花については最近ダラムサラを離れたチベットの医者小川くんにメールで確認しました。小川くんによれば「宇宙旅行の常備薬」だっと、というし本当に何らかの効果があるのでしょうかね?
特に肺の酸素交換機能を高めるというので高山病にはこれだそうです。
もっともチベット人には高山病という病気はなかったので、チベット医学では薬草ではないそうです。
詳しくは以下へ。
http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_ogawa027_1.html

ウルキンマン峰 6151m









名称不詳









ランシサへの途中



















右手ガンチェンボ6387m、ウルキンマン6151m









名称不詳



















ランシサ・リ 6427m









名称不詳


















ゴルドゥン峰 6480m




















理解し難い遊び









パンゲン・ドゥプク峰 5830m









hanabatake

rftibet at 16:01|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2009年06月29日

ザンカの計画/ランタン五日目

ランタンの朝ザンカ(ザンスカール)のこと。

昨日、ザンスカール出身のデブン僧院のゲシェと仕事の事で会った。
仕事というのはザンカに僧院と尼僧院を建てたいので手伝ってくれ、図面を書いてくれ、というものだ。
この話、一年前ぐらい前から有って「是非一度、私と一緒にザンカに行こう!」と誘われていたのだったが、私は「ザンカは遠いよね、、、時間かかるしね、、、」と言って適当に無視を続けていた。

今回ランタンから帰ってくるなり彼から会いたいと電話があった。
私の頭の中ではすぐに「ザンカ、、、夏、、、花、」と繋がって、口調も軽く「いつでも、会いましょう」と言ったのだ。


キャンジンの子供計画は二つ、ザンカの中心、カルシャ寺に新しく100〜150人用の僧房、図書館、ホールを建てるのと、
カルシャ寺(僧院}の上の方にある、ドルジェ・ゾン尼僧院にも100人用の同様の施設を建てる、というものです。

別に実際に敷地を見に行かなくても写真だけでも、図面は描けるわけですが、わざわざ行きたくなったのです。

尼僧院の方は図面ができればお金の当てはあるそうです。
しかし男の子用の方はまだ、当てもないようでした。

キャンジンの子供2しかし、彼の意志は固いようでした。彼はどうしてまた新しく僧院が要るのか?との私の質問に答え「最近僧侶になるものが減ってきている。カルシャの多くの僧も家に帰っており、僧院にいる者は少ない。この原因の一つは寺の老朽化にある。
最近フランス、スイス、ドイツなどの援助でザンカにはいい学校が沢山建った。
これはいいことだ。
伝統的には子供の内一人は僧侶にさせたものだ。しかし、お陰でこれが崩れ始めている。
ザンカは伝統的に本当に仏教が生きてた土地だった。しかし、今モスリムが沢山入り、外人も来て伝統的な社会は崩れ始めている。
でも土地の人々は仏教を欲している、法要も多く必要としているのだ。




ヤ-法王も常に自由の地にあるヒマラヤ地域の仏教徒は仏教の伝統を守るよう頑張らないといけない、とおっしゃっている。
私は特に新しい僧房ができたら、故郷に帰りタクツェ(問答)を始めようと思っているのだ」と話されていました。

私が花の写真が撮りたいから行こうと思う、と言うと、「そうか、8月15日から三日間法王がザンカに来られて教えと潅頂を行われることが決まったし、7月終わりにはカルシェ・ゴンパで仮面舞踏のお祭りがあるからそのころにどうか?」と。

タルナにたなびいていたルンタ「では、、、7月終わりごろ、ラホールのダルチェから歩いて峠を越えてザンカに入ることにする。帰りはカルギル、スリナガール経由で帰ろうかと思う。よろしく」
と言うことになった。

ザンカには古い寺が多いので寺めぐりと花めぐりの旅になりそうです。山はヌン峰7135m・クン峰7067mがあるし。
法王のティーチングもあるという、、、どうですか、みんなでツアーでいきましょうか?

ツアーといえば、ツアーといってもフリー・ツアーだけど、ランタンに来年7月にまたカンギュル読経会があるなら、花見を兼ねて行こうと思ってます。
これも、現地集合フリー・ツアーにしましょうかね?
興味なる方は連絡してみてください。
いや、複数だと花も見つけやすいかと思って、、、、

ついてくるヤギの子供本当は今年の夏はチベットのカム、アムドに入って去年以降の衝突のアセスメントに行こうと、生意気に計画していたのですが、今回ネパールで6っが月ダブル・エントリーのビザした貰えなかった。日本に一回父の法事のために帰らないといけないので、もう今年はチベットにいきにくくなったというわけなのです。

ランタンなどのチベット周辺の地域は平和で政治的な意味は少ないが、間接的には関係があると思う。一口にチベットと言っても地方ごとに色んなユニークな魅力がある。とにかくチベットの山、花、人、宗教、歴史を知れば、チベットが好きになるであろう。好きになれば、それに従って自然に政治的関心も持つようになる、と思うからです。失くすにはあまりに惜しい、美しく不思議な楽しい世界だと思うように必ずなるでしょう。


------------------------------------------------------


読経会ランタンの続きです。
第五日目。
その日は日長一日みんなとお経を読でいた。

大体チベットの仏教がここまで広まったのは、チベット人がずっと昔にチベット語で読める仏典をたくさんもっていたことによる。
この辺は日本と違うところだ。普通の日本人は漢語(今はたくさん現代語もあるにはあるが)の仏典が読めなかった。だから、坊さん様の読むお経も意味不明のままだ。
チベットでは普通にチベット語が読める人ならお経の意味は(少し慣れれば}すぐ解るのだ。もちろん深い意味は別段階としてもだ。

昼食今回みんなが読んでいたのは「カンギュル」と呼ばれるチベット大蔵経の仏説部で、全部で100巻以上ある。一巻は厚さ10センチほど。
今回どのバージョンを読んでいたのか、確認しませんでした。

この日の朝は昨日に続いて般若部の中の「十万偈般若」でした。
最初はゆっくりでしたが、なにしろ般若系のお経は繰り返しが多いので、自然に声を出して読んでいると調子が良くなってくるのです。
とにかく「空だ!、、、、空だ!、、、これも、あれも空、外も空、中も空、空も空、、、」とみんなで連呼するわけです。

キャンジン・ゴンパ別館私たち7人だけ、この日から日当たりのよい別棟に移されました。
我々のグループのウンゼ(導師)はティムレというチベット国境間近の村から招かれています。弟子のような三人の若者を連れています。この20歳を越えたばかりの元坊主たちは調子者ばかりで、終始笑いをとっていました。
ウンゼも急におかしな節回しで読み始めたりして笑わせ、お茶の時間には即興替え歌を連発していました。

他の二人の内一人はド・サン、彼は立派に早くお経を読むことができました。
もう一人の私の隣に座っていた中年のおじさんはド・サンと同じブリディムの人。
お経は読めるが速度は非常に遅い。
でも一生懸命、解らない風のところは何度も読んだりして真面目に読んでおりました。

読経は8時から始まって中、お茶の時間を入れて11時半ごろに昼食のカネ。気持ちの良い外で中々うまい飯を頂く。
すぐにまた始まって、でも一時間ほどで休憩時間になる。これが一時間ほど続く。

また、お茶を飲みながら二時間ほど経つと、飯だと言って外に出る。
11時過ぎのは朝食だったと解る。
飯がすむと一旦すぐにまた読み始めるというのが決まりらしい。でもそのあとまた、長い休みがある。
夕方5時を過ぎるころ、カンギュルは終わりとなり、その後ニンマ派のお経セットを30分ばかり唱える。これは私以外はみんな覚えているので、非常に速い。
終わって一旦引けて、夕食がまた7時ごろから始まる。

昼休みに外に出るとたむろしていた女性連に捕まる。
「まあ、ここへ座れ、ここだ、もっと近く、すぐ横に座れ」
と手に木の枝を持ち、地面を叩きながら「結婚だよね。私たち結婚するんだよね」
周りも、「そうだ、そうだ、今日だ、パティーだ!」
もう一人のおばさんが隣のド・サンの腕をつかみ「私はこの人と消えるから、あんたもあれと消えるといい」とド・サンを無理やり立たせる。

男たちも加わり、何だか下の話で盛り上がり出す。みんなヒヒヒ。。。。。と笑いこける。
今まで、中ではあんな真面目なお経を唱えていながら、この様、この落差がチベット的、いやニンマ的でよろしいです。

しかし、その彼女、そのあとみんないなくなって二人になると、「冗談だよ。Sadakaneの知り合いだというし、あんまり調子に乗るといい付けられそうだしね、、、、本当は旦那が居て6歳と3歳の子供がいるよ。カトマンドゥにいるけど、、、お前は子供はいるのか?」とか冗談抜きの話になってしまいました。
<Sadakane>が効いたようでした。

読経会彼女がお茶を注ぎに部屋に入ってくると、ウンゼは素早く「び〜〜〜じん、びじん、、ああ、び^^じん、びじん。こころがきれいがほんまのびじん。」と一節うなる。弟子はすかさず合いの手を入れる。





読経の最中の腹芸バカな隣の若者は突然何を思ったか、お茶の時間に腹を出し、う〜〜んと力を入れて無い腹筋を浮き立たせようとした。
余興に腹芸披露というわけだ。
彼は6年ダラムサラのチェチョリンというゲルク派の僧院で学んだ後、最近村に帰り、後は嫁を探すだけの身だそうです。








rftibet at 16:35|PermalinkComments(4)TrackBack(0)

2009年06月27日

ランタン三日目の午後

キャンジンゴンパへの道すがら昼前にキャンジンに着いたので午後はのんびり、ゴンパに行ったり、辺りを散歩したりしていました。














ゴンパに上がる道のそばの草原に、ここでもランタン村で見たのと同じような、男たちが輪になって集まり、激しくつばを飛ばし合っている光景に出合いました。
何を言ってるのか、私には現地語は理解不可能。

村の集会チベット語の解る人に説明を聞いたところによれば、論点は主に二つ。

まず、このところの観光客の不増加、または減少により今のゲスト・ハウスの総数が多すぎる状態になってきた。このままでは共倒れする。そこで、これからは村ごとに4軒のみがすべてを管理することにする。ただしこれは輪番制とする。
この際、もう宿は閉めるというものには規模に見合った補償金が支払われる。

結局、ギルドを作るということか?意味は良く分からなかったが、その4軒をどこにするとか、補償金の額とかについて言い争って(議論して)いたようです。

キャンジンゴンパもう一つはトレッカーにも間接的に影響があることなのですが、これまでは外人トレッカーが連れてきたポーターとかガイドには宿側はただで泊めて、食事を与えてきたのだが、これを改め、今度からは彼らからもそれなりの宿代と食費代を取る、というものです。

自分たち外から来たトレッカーの食事代が非常に高いのは、もちろん一つには米を始め、ほとんどすべての食糧を下の町から担ぎあげるために金がかかってる、ということもあるのですが、何よりも連れの食うものの値段も含まれているからなのです。
ということは、連れなしで一人で食べる人の食費は割高で連れの多い人にはお得と言うわけです。

キャンジン村、集会の成り行きを見守る主婦たちある宿のおかみさんの話では「アメリカのおばさんなんか、ガイドにポーターを付けてここまで登って来て、今日はお腹の調子が悪いから食事は要らない、とかいってお茶を数杯飲むだけとかいうことがある。そのポーター達は嫌と言うほど食う。たちの悪いポーターやガイドだと、やれチャンを持ってこい、アラを持ってこい、女だ、とか言うやつまでいる。
だから、今度彼らから金を取ることは良いことなんだよ」ということでした。

これはトレッカーにどう影響するか?
まず、ポーターはこれからは「食事付きかそうでないか?」をまず聞いてくるであろう。
今もそう聞いてくるポーターもいるが、これは値段を釣り上げるためのただの手、なのです。これからは本気でみんな聞いてくる。<付き>でない時は日に3〜400ルピーは高くなるであろう。
では一方で外人用のメニューの値段が下がるか?といえば、そんな面倒なことはしないように思う。だからトレッカーはこの村令には反対すべきなのだが、、、、

キャンジンゴンパへの道ともあれ、この村の話合いというものは言葉の途切れることは全くなく、草原の上で朝から晩まで二日間行われているそうです。周りには奥さん方が成り行きを見まもっていました。
何はともあれ村は民主的に運営されているようでした。



キャンジン・ゴンパ内読経会キャンジン(キャンチェン)のゴンパはこのあたりでは唯一のまともなゴンパだが、外観はただの平屋の農家の屋根に宝塔が一つ載ってるだけというものです。

しかし、中に入ると折しも読経会が開かれていたので、その読経の大声が堂内に響き渡り、周りの古い壁画の尊像も迫力ありで、突然のアドブダの世界だな、、、と思いました。

キャンジン・ゴンパ内の読経会後もうひとつ驚いたことは早口で読経してる男たちはみんな僧衣を着ていない、どころかごくごくラフな格好で陽気に読み上げている、ということだ。ダラムサラあたりで読経は僧衣を着た僧侶がやるものという固定イメージがあったので、少々変な気がした。
しかし、後に自分も入ってやってみると、この普通の雰囲気がとても気に入ることになるのだ。

なお、このキャンチェンゴンパの由来については、今回貞兼さんにメールでおたずねしたところ以下のように説明されました。

「キャンチェンゴンバの建立者は、ドゥッパカギュパで、当時は瞑想の小屋程度だったろうと思います。さらに今のような規模にしたのは、前便に書いたリンジン・ペーマ・ドルジェ(ミンギュル・ドルジェの息子または甥)あるいはその息子あるいは甥のクンサン・ギュルメー(有髪で頭頂に飾りあり)。この2名によって、実質的な宗教活動が始まっています。18世紀後半。
 かつて、両ゴンバには幾多の尊像が安置してありましたが、多くが盗まれました。観光化が進んできてからです。ドゥッパカギュ派のランリーパ(ランリーレーチェン。ミラレーパと同じ歌唱スタイル)像も盗まれましたが、最近みつかったようです。私にとって、もっとも興味をひくのは、正面左側に安置された真鍮の仏塔。近世の碩学リンジン・ツェワン・ノルブの遺骨の一部がおさめられています。」

キャンジンゴンパ内、近世の碩学リンジン・ツェワン・ノルブの仏塔左の写真:この真鍮の仏塔が左手、右手下には読経中のカンギュル経典群。

この谷を伝説の「秘密の谷」と断定したミンギュル・ドルジェ以降、次第に谷ではドゥッパ・カギュ派からニンマ派への移行が行われたようです。

いずれ、「秘密の谷」というのも、その当時のニンマ派の布教キャンペーンの一つだったのかも知れません。
風本に:「秘密の谷」の多くがチベット高原の周辺部分に存在することと、秘密の谷とはいわないまでもニンマ派の勢力がその部分に進出してきたこと、中央や西チベットでの政治の変動とが奇妙に一致することに気づく。そこに分け行ったテルトンたちの時代の心理が一つの足がかりとなったことは確かであるようだ。

お堂の中の壁画だが、貞兼さんの助けを借りて少しだけ解説すると、
キャンジン・ゴンパ入口左、入口側の壁画東面する入口を入って入口側の壁、正面に向かって左側にはグル・リンポチェ(パドマサンヴァバ)に調伏され仏教を守るとの誓いをたてた護法尊たち。最下段左から2尊目(女神のような所作)がランタン・リルン峰に宿るこの谷の最高神<ゲニェン・レール>。

キャンジン・ゴンパ入口右手の壁画反対右手の壁にはドルジェ・レクパ?を中心に仏教パンテオンの末席に仏教を守る存在として描かれた多くの谷の精霊たち。


南面には一般的顕教仏、密教仏それにミラレパなどの祖師像が描かれ。

三十五懺悔仏北面にはナーガルジュナをはじめとする哲学論師と三十五懺悔仏が描かれていました。






キャンジン・ゴンパ正面仏壇正面にはチベット大蔵経カンギュル、テンギュル、ニンマ所縁のタントラ諸像、
そして中尊はと言うと、、、

貞兼さんからのメールに「もしこの尊像が塑像であれば、ミンギュル・ドルジェ。 またもし真鍮製であれば、ミンギュル・ドルジェの息子又は甥のリンジン・ペーマ・ドルジェだろうと思います。大きな目がこのクラン人の特徴です。」
ということです。

キャンジン・ゴンパ 3




















キャンジンゴンパの女ところでゴンパから出ると隣の炊事小屋へ、お茶を飲んでいけというので入った。
中には火が焚かれていた。

しばらくして、ドタドタと入ってきた大柄な女性、隣に座ると、挨拶代りに「結婚しよう、私はお前と結婚したい!結婚だ、結婚だ、お前は明日どこに行くのか、お前と一緒に行こう。どこへでも連れて行ってくれ、すぐに結婚だ」と鼻息が荒い。
前にいたもう一人の女も「そうだ、そうだ、すぐに結婚するといい。ヒヒヒ、、、」とくる。

キャンジン・ゴンパの外「アレー、結婚ね、、、、結婚は急ぐと良くないとダライ・ラマ法王もおっしゃってるし、、、お前の言ってることが良くわかんないしね、、、ま、考えとくよ」と
交すが、次々と仲間を引き入れ、結局みんなで私を笑いのタネにし始めた。
今日は早めに退散したほうがよさそうと感じ、部屋に逃げ帰った。













キャンジンゴンパ



















下級神たち


































rftibet at 13:39|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2009年06月25日

ランタン・トレッキング第二日目

ランタン・リルン(ゲネン・レール)峰7225m南西面6月9日、トレッキング二日目、今日はラマ・ホテル2410mを出てランタン村3330mまで歩く。少し無理をすればキャンジンまで行けるのだが、ランタン村の事は例の風本にいろいろと書いてあったので泊まろうと思ったのだ。
その風本によればこのランタン谷は「豊饒と谷」「秘密の谷」であるばかりでなく「精霊の谷」でもあるというのです。


宿の裏手にあった、グル・リンポチェゆかりの古い仏塔以下、再び風本より:

この神(ヒマラヤの峰々に宿る神)は領域を侵されることをもっとも嫌う。ランタン村の人々が細心の注意を払うのもこの理由による。村びとであれ、旅人であれ、怒りに触れないように供犠と心身の拔除を行い、慰撫することを怠らない。ヒマラヤを旅したことのある者であれば、尾根上の峠や川に架かる橋、ちょっとした岩のそばなどに竹に括りつけられた白やとりどりの色の旗を見たことがあるに違いない。これは精霊たちの領域である証しであり、彼らを慰撫し奉ったことの目印である。








ゲニェン・レールランタン谷の東西四十二キロ、南北十一キロの約四百六十平方キロの空間には、ゲニェン・レール(ランタン・リルン峰に宿る神)のほかにも、岩と水、森林や草原、これら自然の構成要素を住処とする、善悪無数の神々や精霊が棲息している。

村人の伝承に従えば、谷の全ての神々や精霊を統べ、ランタン谷の守護神であり男神であるゲニェン・レールを中心に、三体の土地の神、ドルジェ・レクパ、ピリーツェン、ツァンパ・グランワンチュックが武将のようにこれを取り巻き、その下部に、およそ七十余りのツェン(兇暴霊)、サ(厄神)、ドゥ(魔精)、メモ(薬師女)、ルー(水獣神)、テゥラン(一足鬼)等の霊種が配置されている。

馬面のドゥ(魔精)さらにランタン村は東西約四キロの距離に四つの集落、本村のユル地区を中心にその西側高台に寺(ゴンパ)を擁したゴンパ地区、ユルの東上方にムンローとシンドゥムの二つの集落が谷の奥に向かって続く。その居住空間にも各氏族(クラン)の氏神など、足の踏み場もないほど賑々しい。

地図上に精霊の位置をプロットしてみると、谷の周縁部4〜5000mから7000m上の岩と氷のピーク、縁取りの中では湖や出張った岩、わき水や樹木など、まるで谷全体に張り巡らされた警報機のようだ。








ーーー

ゴダタベラ付近さて、実際のトレッキングでは、この日朝7時ラマ・ホテルを出て二時間ほどは相変わらず原生林の中をランタン・コーラに沿って、ひたすら登るやがてゴラタベラ辺りから森が切れ始め、正面にランタン兇伴臺ランタン・リルンの南西綾が見えてくる。




右手ランタン僑僑毅僑隠このあたりからが本当のチベットのランタン谷が始まるのだ。精霊の賑々しい世界がだ。
氷河期に形成された典型的なU字谷だが、ここの特徴は北側のランタン峰から下のランタン村にかけての傾斜角度が特に急でその高度差が4000m近いということだろうか。
後はとにかく花と緑が多いということだ。



ランタン村手前よりランタン谷登りも緩やかになってくる。3000mを越えると、涼しい風が吹いてくる。
道端に高山植物と言える花が増えてくる。
低木のつつじが圧倒的に多い、このつつじは高地に行くと八重で花も大きくなる。
低いアヤメがそこかしこに群生している。下の方ではか細く花の華奢な種類、上の方では葉の太く、花も大きくて色も濃くなっていく。

以下花とランタン村の写真です。
花の写真を擦れば学名など分かったものには書かれています。

学名Thermopsis barbata




















学名 Iris goniocarpa




















学名 Euphorbia wallichii










学名 Cotoneaster microphyllus









ランタン村3









ランタン村









村の集会









ランタン村









ランタン村4









ランタン村の夕日












rftibet at 18:15|PermalinkComments(3)TrackBack(0)

2009年06月22日

カトマンドゥからバスでシャプルベシ

ランタン、ナヤ・カン5844mカトマンドゥからデリー空港に夕方5時過ぎに着いたが、機内に外気温44度とアナウンスが流れると、流石のインド人も避暑帰りということもあってか、「オー・ノー!」と一斉に声が上がった。
酷暑のデリーをすばやく抜けてダラムサラに帰ったが、ダラムサラも雨季が始まらず暑いの盛り。
チベットも「30年来の干ばつ」と聞くが、インドも干ばつ状態です。

帰ってくるんじゃなかった、と早くも涼しかったランタンに帰りたい気分。


ーーー

6月7日サカダワの燈明に映えるボゥドナート仏塔今年のサカダワは6月7日だった。

その日、まず私はランタン谷の入口の町シャプルベシ(シャフルベンシ)までのバスのチケットを買うために、リキシャに乗って教えられたバス・センターまで行った。
思ったより遠くてリキシャ代を値切り過ぎたな、、、と思った。
キップ売り場には人はおらず、「明日朝来い」と隣のキップ売り場のやつがいう。
ボゥドナート/サカダワ困ったかな、、、、と思いリキシャマンに事情を言うと、「シャプルベシに行くなら他のバス停がある。知ってる。乗れ」とのこと。
そこに行き次の日に出るバスのチケットが買えた。
前から二列目。まあまあだ。とにかく私はバスに酔うので必ず前の席でないといけないのだ。バス代はたったの220ルピー(270円ぐらい)。
このバスが遊園地のマシンのように体験的なものであることは後で知ることになる。
とにかくバスのチケットも手に入れ、喜んでタメールに帰る途中のこと。
ボゥドナート3タメールの前にはきつい坂がある。リキシャマンは普通ここで漕ぐ事を止め、乗客を乗せたまま、あるいは降ろして、リキシャを押し上げる。
私はサカダワと言う訳ではないが、降りて一緒にリキシャを押し始めた
しばらく押した後、坂が緩やかになったところで、彼が乗れと言う。
急いで飛び乗ろうとした時のこと、残った片足が足の甲を下に後輪に巻き込まれた。
もちろんサンダルだったのでしっかりけがをしてしまった。
足を出すと血が出始めたが中々勢いよくて止まらない。
ボゥドナート2彼は当たりに落ちていた段ボールをちぎって押さえろという。
通りかかった人が薬局が近くにあるから行けという。
そこで応急処置をしてもらったが、いい加減だな、、、と思いながら見ていた。
とにかく蓋をして一旦終わったことにした。

途中、宿に帰る前にビザを頼むためにツーリスト・オフィスに行った。そこのおやじが足の包帯を見て、どうしたのだと聞く。状況を説明すると。おやじ曰く「だから。他人を助けたりするものじゃない。特に貧乏人を助けると必ず問題が起こる。人を助けるものじゃない」とのたまった。いかにもカースト的考え方というか、インド系と見えるこのおやじ、嫌な奴と思った。
私は傷の事は一旦忘れることにして、夕方からボゥドナートに行って右遶を繰り返した。

途中の人々帰って、包帯を解いて傷を見ると中には小さな黒い石などが残っていた。洗って薬局でもらった薬で処置して又蓋をした。場所が左足の小指の後ろの方ちょうど骨がちょっと出っ張ってるとこだったので。靴を履くとあたるとこだった。
次の日の朝にはしっかり化膿して長さ2センチ、幅一センチの膿の海になっていた。
バスに乗った後は周りが腫れて靴が履けなかった。
実はこの傷とうとう最後まで治らず同じ状態だった。最初の一日は靴を履かず結局ゴムぞうりで歩き通した。
でもサカダワということで自分のドジを忘れ、まるで何もなかったように思うことにした。
お陰で、歩き始めると最初は痛んだが、すぐに忘れることができた。

シャプルベシ行きバスバスは相当だった。とにかく道がこれでもかというほどにむちゃくちゃなのだ。バスとトラックとランクル以外は走れない。カトマンドゥからシャプルベシまで100キロちょっとなのに何と10時間かかった。1331mのカトマンドゥから、1600mほどのカカニの丘に登り、今度は500mのトリスリまで下る。ここまでは道は舗装されていて、まあまあだ。そこからは壊れた道を2400mまで上がり、ドゥンチェを過ぎるとまた1400mのシャプルベシまで下る。途中バスのシャフトが落ちて、その修理に1時間。朝、7時に出て結局夕方シャプルベシにやっと到着した。
バスの上にも人や荷物が一杯載る。ヤギが沢山載っていたもの見た。写真にはバスの上にマオパティ(マオイスト共産党)の青年部が一杯乗ってるところ。

ドゥンチェよりランタンとチベットの山々ドゥンチェからは右手に目指すランタン峰(登るわけではないが)正面に国境を越えたチベットの山々が見える。

ランタントレッキングの出発点シャプルベシの町はチベットから流れてくる川沿いにある。
ここからチベットの国境までほんの数十キロだ。一日で歩いていけるという。ここの国境はネパール・チベット国境線の中でいちばん高度が低い1814mしかない。越えればキロンの町がある。しかし、この国境を越えてくる難民は今は皆無だ。川が障害になっているのだ。国境には橋が掛っているという。この国境の橋の監視人は昔はチベット人だったから地元の者たちはキロンまでは商売などのために行くことができたという。でも今では警備員は中国兵で少しでも近づくと銃を構えて帰れと言うそうだ。

ランタン谷への入口左の写真:右手の川がランタン・コーラ、左にボテ・コシ、下流にトリスリ・ガンガ

川の名前は国境からここまでを「ボテ・コシ」という。ここで東から流れてくる「ランタン・コーラ」と合流し、名前を「トリスリ・ガンガ」と変えて南のインド平原に下り最後はガンジス河となってベンガル湾に注ぐ。
チベット人は数百年前からボテ・コシの東側、ランタン・コーラの北側を中心に住みついている。ボテ・コシの西側にはタマン族を中心に少数のグルン族も住んでいる。
昔からボテ・コシの東に住む者を「シャルパ(東の人)」、西に住む者を「ヌッパ(西の人)」と呼んでいるという。そして、1959年以降チベット人の難民がキロン経由で大勢この地域を通過していった。中にはここにそのまま住み続けている難民もいる。



シャプルベシの子供たちシャプルベシには小さいがチベットの難民キャンプが三か所ある。もっともダラムサラなどに比べ生活は断然厳しいように見えた。子供たちは明るく楽しそうに遊んでいたけど。

驚いたことに、この町には中国人もいた。実はここから先国境までの道を今中国政府の援助でつくっているところだという。町には水力発電所もあるが、これも中国政府が作ったものという。いざと言うときの侵略道路になるのだろうか?

古い話だが、この道を通って18世紀の終わりに清朝の軍隊がネパールのグルカ兵と戦いながらこのずっと下のトリスリまで進軍したことがあったという。
これは、チベットと当時のネパールを支配していたグルカが鋳造貨幣の比率に端を発した戦争をしたときのことだ。チベットはこの戦争のために清朝に応援を求めた。嘗てはこんなこともあったのだ、今の日本や韓国がいざと言うときにはアメリカに助けを求めるようなものだろうか?
それにしても、清軍はチベットに北から入ったのか?成都方面から入ったのか?知らないが、ずいぶんと遠くまで歩いてきたものだ。皇帝は「よっしゃ、ラマがおっしゃるなら助けてやろう」と言うだけですむが、実際にここまで中国から歩いて来て、かつ戦わされた兵士には同情する。

シャプルベシのチベット難民村バスがシャプルベシに着くころ前に座っていたチベット人が話掛けてきた。彼は国境近くの村に生まれたけど今はデリーで働いている、今回久し振りに郷里の母親に会いに帰ってきたとのこと。どうりで解り易いチベット語を話すと思った。私は足が痛むこともあり、最初はポーターなしで歩くつもりだったが、着いたらチベット人のポーターをインホーマーにもなるしで雇おうかなと思い始めていた。彼にチベット人のポーターはいるかな?と聞くとすぐそばに座っていた夫婦のチベット人に話掛けた。その旦那の方が良かったら自分がやると言って来た。体は大柄で力はありそうだった。やさしそうな顔をしていた。チベット語は現地訛りが強かったが何とか理解できそうだったので、彼に頼むことに決めた。
ド・サン彼とはその後10日間も一緒に歩いていろいろと話をした。本当にいい奴だった。
彼の名前はド・サン(善良な石)、国境に近い村ブリディンに代々住んでいて、今は10歳の一人息子をカトマンドゥの学校に送っていて夫婦二人で住んでいるという。
今回カトマンドゥでは子供に会って、そのあとサカダワのボゥドナートで五体投地をしていたという。
彼の話だが、母親は彼を含め14人の子供を産んだが、成人したのはたったの5人だったという。ランタン谷と違い旅行者も来なくて村人はみんな貧しいという。彼は学校に一度も行ったことがないと言っていた。しかし、彼はお経だけは読める、常にお経集を懐に入れていて、寺やパドマサンババの聖地と言われるところに来ると必ず長いお経を上げていた。キャンジンでは一緒に読経会にも参加した。地元にラマがいてお経だけは30過ぎて習ったそうだ。

シャプルベシの学校次の日の朝、彼はやってきた。8日朝7時いよいよ出発。ボテコシに掛る吊り橋を渡りチベット人キャンプに入る。ここには比較的立派な学校がある。チベットの亡命政府もこの学校には援助しているという。

続く、









rftibet at 18:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)