亡命

2010年09月22日

チベットの「歌う尼僧」、2度目の挑戦でインド亡命を果たす

df638bd7.jpg写真左:ペルデン・チュドゥン©ICT

9月21日付けphayulより。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=28176&article=Tibet's+%22singing+nun%22+escapes+to+India+on+second+attempt

ダラムサラ:ワシントンに本部を置くICT(International Campaign for Tibet)によれば、刑務所内で「愛国歌」を録音し、それを外部に持ち出すことで「歌う尼僧たち」として有名となった14人のチベット人尼僧の内の1人がインドへの亡命に成功した。
http://www.savetibet.org/media-center/ict-news-reports/tibetan-singing-nun-arrives-exile-after-second-period-imprisonment

9月1日、インドに到着したペルデン・チュドゥン(དཔལ་ལྡན་ཆོས་སྒྲོན་)はダプチ(ダシ)刑務所(གྲ་བཞི་བཙོན་ཁང་)での8年の刑期を終えた後、一度亡命を試みたが、途中で捕らえられ、さらに3年間の「労働改造所」送りとなった。

パルデンは亡命に成功した8人目の「歌う尼僧」である。
彼女は1973年ラサ近郊のニェモ(སྙེ་མོ)で農家の子として生まれた。
14歳のとき出家し、ラサのシュクセェプ尼僧院(ཤུགས་གསེབ་བཙུན་མགོན་)に所属した。
1990年、彼女はラサのパルコルで平和的デモに参加し、最初3年の刑を言い渡された。
この3年の刑期が終わろうとしていた1993年、彼女は他の13人の尼僧たちと共に刑務所の監房の中で愛国的な歌をテープに吹き込んだ。彼女たちの歌った歌はダライ・ラマ法王やチベットを称えるものであり、それらは外にいる家族や友人へ、ダプチ刑務所の中で酷い仕打ちを受けながらも自分たちの心は少しも挫けたりしていない、ということを伝えようとするものだった。
このことが発覚した後、彼女たちは全員激しい拷問を受けることとなった。そして、その拷問の結果彼女たちの内の1人ガワン・ロチュは命を失ってしまった。

彼女の刑期はさらに5年延長され、1998年に刑期を終えることができた。

「刑期を終えた後、再び元の尼僧院に戻ることは許されなかった。当局は尼僧院に来て私が居ないかどうかをチェックしていた。だから私は尼僧院に迷惑が掛からないようにそこに近づくこともしなかった」とダラムサラでICTに彼女は語った。

14人の内最後に解放されたのは15年の刑期を終え34歳になっていたプンツォック・ニドゥンであった。彼女は今スイスで勉強している。
合計21年の刑期を受けていたガワン・サンドルは11年目に解放され今はニューヨークに住んでいる。
14人の内の5人、テンジン・ツプテン、ガワン・チュキ、ジグメ・ヤンチェン、ガワン・チュゾム及びガワン・ツァムドルはチベットに残っている。その他8人は亡命した。

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彼女たちが獄中で作詞・作曲し歌った歌の一つを紹介する。

<ダプチ刑務所から見上げる空>

ダプチ刑務所から見えるのは空ばかり
空に浮かぶ雲
私たちにはそれが父や母に見える
私たち囚人はノルブリンカに咲く花
霜や雹に打たれても
繋がれた私たちの手が離されることはない
東から来た白い雲(中国)は
縫い付けられた継ぎ当てではない
時は至り、雲から太陽が昇る
そして燦々と輝く
私たちの心は悲しまない
なぜ悲しまねばならないのか?
昼間に太陽(ダライ・ラマ)が輝かなくとも
夜になれば月(パンチェン・ラマ)が昇る
昼間に太陽が輝かなくとも
夜になれば月が昇る」

私が今ダラムサラにいるなら、すぐに彼女に会いにいき直接詳しい話を聞くであろうが、遠く離れているのでそれも叶わない。

取りあえず、「歌う尼僧たち」についての過去のブログなどを補足として紹介する。

彼女たちの内一番有名な12歳で逮捕されたガワン・サンドルさんについては:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51198296.html

彼女の旦那さんは最近までルンタ・レストランで働いていたが、先月彼女に合流するためアメリカに渡った。

彼女の自伝「囚われのチベットの少女」は日本語にも翻訳されている:
http://www.amazon.co.jp/囚われのチベットの少女-フィリップ-ブルサール/dp/4901510061

彼女は上野の森美術館で開催された「チベットの秘宝展」に対しメッセージを送られたこともある:
http://www.youtube.com/watch?v=ZVQQjbwFWKU

14人の尼僧たちの内2人は最近までルンタ・ハウス内の学校に通っていた。
その内の1人リンジン・チュキに私がインタビューし、T女史が起こして下さった記事は:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51101231.html










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2010年01月17日

ヒマラヤを越え、亡命を試みたチベット人たちがネパール側で逮捕

ネパールのドラカで、亡命を試みた10人のチベット人が逮捕される。

http://www.nepalnews.com/main/index.php/news-archive/2-political/3542-ten-tibetans-arrested-from-dolakha-.html

1月17日付けNepalnews.com

ドラカの地方警察は、ネパール領土に不法に入国したチベット人を少なくとも10人逮捕した。

Kantipur FM 放送によれば、チベット人たちは1月15日に逮捕され、今日、入国管理局に引き渡されるという。

8人の男性と2人の女性が Barang VDCのJagateから来た警官により逮捕された。彼らはLamabagarを経由してネパールに越境してきた。逮捕者の氏名は公表されていない。

ネパールを経由して、ダライラマの指導下で反中国の抗議活動に参加するためにチベットを離れるチベット人がこの数年増加している。このことを中国政府は懸念している。

中国政府は、ネパール政府に対し、領土内であらゆる反中国活動を許さないことを繰り返し要請している。

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ドラカと言う場所は、大まかにはカトマンドゥとチョモランマを直線で結んだ中間点辺りだ。
この辺りで越境したチベット人が逮捕されることは稀だ。
彼らは明らかにヒマラヤの国境の峠を歩いて超えた人たちだ。

亡命を目指すチベット人は冬に国境を超えることが多い。
理由は、チベット側の警備が手薄なこと、道中の障害となる河が凍結して渡りやすくなること、降雪が少ないことなどだ。
それにしても、厳寒の峠越えは命がけとなることも多い。
彼らも高い峠を越え、幾日も歩いた後、やっと車の走る道に出たところで逮捕されたのであろう。

彼らは中国に引き渡される可能性が高い。

この記事はネパールのオンラインニュースに載っていたものだが、最後の方で気になる書き方がされている。
「ダライラマの指導下で反中国の抗議活動に参加するためにチベットを離れるチベット人」という書き方は全く中国政府のプロパガンダを踏襲したものだ。

もしもこのメディアが政府系でなく、ただの民間メディアであるならば、ネパールでは政府だけでなく民間も中国側に付いた、とこの記事を読むことになる。

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2009年05月21日

亡命に失敗した尼僧の証言

チベット プランの町写真はカイラス山の南、ネパールに抜ける国境の町プランです。

今日はRFAから泣きながら話す女性の声が聞こえてきました。
ただ、カム訛りが強くてその時は良く話は解りませんでした。
カム語に強いチベット人に助けてもらい、やっと理解できました。

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その38歳の彼女は1998年に一度インドに亡命し、ダラムサラの難民成人用の学校ソガ・ロプタに通っていましたが、途中尼僧になることを決心し尼になり、ダラムサラの山に入り修行生活をしていた。
しかし2005年5月、チベットに残した年老いた両親が病気になったと伝え聞き、両親に会うためにチベットに再び帰った。
郷里で3か月を過ごし、母親の病気も少し良くなったので再びインドに帰ることにした。
もう一人の女性と二人の子供と共に国境に向かった。その二人の子供は11歳の男の子と13歳の女の子で、両親とも死んでしまったのでインドに送られることになったのだ。

以下彼女の話:
カンリンポチェ(カイラス山)の南、国境を前にしたプランで国境警備隊に見つかってしまった。
プランでは5日間毎日一人づつ暗い部屋に連れて行かれ尋問され、殴られた。
最初に警官は私が頭を剃っているのに気づき、「お前は尼か?ダライの犬だな!ダライの使い走りの犬だろう」と言って殴りつけた。
私は、それがチベット人だったので、ショックだった。
同じチベット人が「ダライ」とかいうことが信じられなかった。
本当に悲しくなった。

「子どもまでインドに連れて行ってダライの犬にしようとしているんだな」とも言った。
毎日同じようなことを聞き、答えが気に食わないと殴られた。
何度殴られたかわからないほど沢山殴られた。
私はまだしも幼い子供たちまでもむちゃくちゃに殴られていて可哀そうだった。

5日経つと車に乗せられ、ガリ(アリ)の拘置所に連れて行かれた。
そこで、最初の8日間手錠、足錠をはめられ、真っ暗な棺桶のような独房に入れられた。
そこはほんとうに真っ暗で狭い。
頭を上げれば天井に衝く、足を延ばせば壁にあたる。
人一人横になるほどの広さしか無かった。
そこに入れられたまま、8日間全く一滴の水も与えられなかった。
私は死ぬと思った。

8日後にいきなり外に出された。
外はあまりに眩しくて、すぐに眩暈がして倒れた。
気がついた後に食事と水が与えられたが、全く食べることができなかった。

その後一年間そこで強制労働させられた。
その間、ある夜、二人の中国人看守がやって来て、私に薬を飲めという。
私が嫌がっていると、二人で無理やり私の口に薬を押しこみ水を飲ませた。
その後、すぐに二人が服を脱ぎ始めたが、私は薬のせいで身体が動かず、二人に侵されてしまった。
これで尼僧ではなくなってしまった。
一年後、胸を病んで仕事もできなくなったと言うことで外に出された。
そのまま、ガリ地区で2年間病気の治療をしていた。

今回助けてくれる人がいて国境を無事越えることができた。
ネパールの収容所に辿り着いた時には本当に心から嬉しかった。
これでやっとあの地獄から逃れることができた、と思い安堵した。
酷い思い出したくないことばかりだった。

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以上はRFAが5月19日にダラムサラの難民収容所でインタビューしたものです。
彼女は途中何回も声が震え明らかに泣きながら話していました。






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2009年05月20日

今度はカンゼから勇者二人亡命に成功/チベットの遊牧民が消えれば日本に黄砂が降る

3945b4ed.jpgこのたび、今度はカンゼདཀར་མཛེས་のデモを先導した二人のカンパ(カムの男)が亡命に成功しました。

マデ・ゴンポ氏མ་འདས་མགོན་པོ་41歳とツィスンབརྩི་སྲུང་僧院の僧侶ツェリン・ジグメ氏ཚེ་རིང་འཇིགས་མེད་は昨年3月18日のカンゼ大デモを先導したとして指名手配され、一年の間山に逃げ隠れていたという。

以下はRFAがデリーに到着したゴンポ氏にインタビューしたものです。

http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/two-tibetans-from-kardze-escape-to-india-05182009225211.html

http://phayul.com/news/article.aspx?id=24750&article=Two+more+Tibet+protesters+escape+to+India

ゴンポ氏曰く:
チベットの他の地方でも抗議の火の手が上がったので、我々も法王の長寿を祈願する行進を行ったまでだ。
カンゼ中心部のタチュ・ドから歩き初め二つ橋を渡ったところで、5台の警察車両と2台の軍隊のトラックが到着し、我々に襲いかかった。
その時チベット人は1000人以上いた。
15人が先導者だ。

その内5人は逮捕された。
2人は銃で撃たれた。
私と他の者たちは逃げることができた。
しかし、家には決して近づけない。
私はニャロンやその他の遊牧民のいる山々を転々とした。
時には二、三日何も食べるものがないこともあった。
病気になって熱にうなされたこともあった。

そのうち遊牧民とうまくやれるようになった。
彼らは食べるものをくれた。
ある者はカンゼまで様子を見に行ってくれたものもいる。
でもカンゼから帰ってきた彼は「カンゼではチベット人は撃ち殺されている。帰れるわけはない」と言った。

2008年の5月7日にはカンゼ警察はカンゼ地区から自分とツェリン・ジグメ、その他3人、ダゴ県の4人、セタ県の27人を指名手配した。
情報を知らせた者には1〜2万元の賞金が与えられるとされた。
これはテレビで放送され、賞金は今年に入ってさらに上げられたと聞いた」

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チベット 遊牧民のテント続いては、日本の話です。
内モンゴルやチベットの遊牧民たちを強制定住政策により、以前の草原が砂漠化しそこから黄砂が発生し、北海道を襲うという因果の話です。
(少し長いです)

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草原から黄砂 中国・内モンゴルで発生 (5月18日 東京新聞・中日新聞『こちら特報部』)

ユーラシア大陸中央部で発生する黄砂は、この時期、偏西風に乗ってしばしば日本にも飛来する。元来、黄砂はゴビ砂漠や黄土高原、タクラマカン砂漠などで発生していたが、その中心は今や中国・内モンゴル自治区の草原地帯に移りつつあるという。なぜ、草原から黄砂が? 原因を探ると、誤った遊牧民政策という「人災」の側面が浮かび上がってきた。 (外報部・浅井正智)

●北海道への飛来が増加

近年、被害が顕著となり、国際的な関心が高まっている黄砂だが、北海道江別市の酪農学園大学で黄砂の発生メカニズムを研究するブホー・オーツル教授(44)=内モンゴル出身=は、ある事実に注目している。
「かつてはほとんど見られなかった北海道での黄砂が、今世紀に入ってたびたび見られるようになった」ことだ。
黄砂は九州や関西など西日本に降ることが圧倒的に多い。しかし、気象庁によると2000年以降、北海道でも計34日間の黄砂を記録している。
特に02年は17日間(延べ75地点で観測)という多さだった。
ゴビ砂漠や黄土高原は北海道よりも緯度が低く、黄砂が偏西風に乗っても北海道には達しない。衛星写真で黄砂の流れを分析したブホー教授は、意外な発生源を突き止めた。ゴビ砂漠や黄土高原よりも更に北に位置する内モンゴル、つまり自身の故郷だったのである。

●「遊牧民族政策の誤り原因」

内モンゴルは砂漠を抱える半乾燥地帯だが、新たな発生源は以前から砂漠であった場所ではなく、本来は草原だったことも分かった。
この10年間、毎年現地調査を行った結果、教授が得た結論はこうだ。
「遊牧民に対する誤った定住化政策のため、緑豊かな草原は砂漠に変わり、黄砂が起こるようになってしまった」

チベット 遊牧民●ヒツジ移動できず・・・定住化推進で急速に砂漠化

中国当局は内モンゴルや新疆ウイグル自治区、チベット自治区などで、「遅れた生活条件を改善する」名目で、遊牧民の定住化政策を進めている。その際、遊牧民に土地を分配し、それぞれの土地を柵で囲うという措置を取った。
草原は、砂の層に10センチほどの薄い表土が載り、その上に草が生えているという構造。ヒツジは新鮮な草を求めて移動する習性があり、広い草原で放牧すれば、草は一度ヒツジに食べられても、また、すぐ生えてくる。しかし「柵で自由な行動を制限されたヒツジは、同じ場所を掘り返し、草の根まで食べてしまう。すると、草は生えてこなくなり、草原は急速に砂漠化する。その砂漠からはやがて黄砂が発生する」とブホー教授は砂漠化のメカニズムを説明する。
なお悪いことには、人々は生産性を上げるため、より多くのヒツジを飼おうとする。「過放牧」が起き、草原の砂漠化に一層拍車がかかってしまう。


●当局は人災認めず「過放牧」主張

特定非営利活動法人(NPO)「内モンゴル砂漠化防止植林の会」によると、内モンゴルで牧草地として使用可能な草原の面積は、1960年に82万平方キロだったのが、99年には38万平方キロに激減したという。
緑が消えた面積44万平方キロは、日本の国土(38万平方キロ)をはるかにしのぐ。
「草原の砂漠化は共産党による人災だ」と教授は断言する。しかし当局は失政を認めてはいない。逆に「過放牧が砂漠化の原因」として放牧を禁止し、遊牧民を草原から締め出している。放牧を放棄させられた住民は7万人以上とされる。彼らは生きるために農業に活路を見いだしていく。草原がまた掘り起こされ、そこにもやはり草は生えなくなる。
「草原を耕すな」―。遊牧民の間にはこんな言い伝えがあるという。ブホー教授は現地調査の際に地元の人たちを集め、「困難でも遊牧生活に戻る努力をすべきだ」と説いた。しかし、背に腹は代えられない地元の人々は矛盾を感じつつも、砂地でも育つ豆やトウモロコシを栽培し、生計を立てている。

チベットの草原●「3000年の放牧文化 破壊」

モンゴル民族の放牧の歴史は3000年といわれる。遊牧民たちは自由に草原でヒツジを放牧していた。「放牧は自然の仕組みの上に成り立ってきた。しかし当局の政策は、少数民族の生活や文化、感情を考えることはない」と教授は批判する。「長い歴史を持つ遊牧民の文化は、共産党政権の数十年で破壊しつくされようとしている」

●開発で有害物質、付着し日本へ

近年、変化したのは黄砂の発生場所だけではない。黄砂の成分も変わってきた。とりわけ有害物質を含む黄砂が問題視されており、環境省が2002―05年に行った「黄砂実態解明調査」でも、大気汚染物質が黄砂に付着して日本に飛来している可能性を指摘している。

●排煙や排水 垂れ流され

ブホー教授は現地調査の折、排水が放つ異臭に思わず鼻を覆ったことがある。南京市郊外から移転してきた工場が、未処理で垂れ流す有害な排水が異臭の“犯人”だった。
北京や上海など沿岸の都市部に比べて経済的に遅れている内陸部を開発するため、「西部大開発」の名の下、西部辺境地域に工場を次々に誘致している。教授によると、こうした工場のほとんどが、環境保護を考慮せず排煙や排水を野放図に流しているという。
「排水が垂れ流された場所が砂漠化して黄砂になったり、上空の排煙が黄砂に付着すれば、有害物質が黄砂として飛んでいくことになる」
教授は故郷を訪れるたびに「少年のころに見た草原が消えていく現状に深い悲しみを感じる」と話す。広がっていく砂漠を目の当たりにすると、絶望感と無力感にもさいなまれる。できるのは「これ以上砂漠を拡大させないこと」くらいだ。

●国際社会が解決を迫れ

そのために何をすべきか。ブホー教授はこう強調した。「地球の自然環境は人類共通の財産であり、決して中国一国の問題ではない。国境を越えて出ていく黄砂の被害を抑えるため、国際社会が中国に圧力を強め、解決を迫ることが不可欠だ」


☆同地出身の研究者 酪農学園大・ブホー教授☆

ブホー・オーツル 64年、中国・内モンゴル生まれ。95年、中国科学院博士課程修了。中国科学院リモートセンシング応用研究所副教授、北海道環境科学研究センター特別研究員などを経て、現職。理学博士。07年に日本国籍取得。日本名は星野仏方(ぶほう)


<デスクメモ>
この原稿で、数字とグラフが好きなコンサルタントたちを思い出した。生産性を上げようと力んだものの、手法を間違え、とんでもないことに―というのは、なにも自然相手ばかりではない。果実を得る部門の陰に、種をまき肥やしをまく部門があることを軽視した「成果主義」がそうだった。 (隆)


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2009年04月12日

続・ヒマラヤ逃避行 ツェテン・ドルカの場合

ツェテン・ドルカもう一人、ヒマラヤ越えにより凍傷で足の指を失った女性の話を報告します。

先日4月4日、ルンタ・レストランで話を聞きましたが、実は彼女=ツェテン・ドルカの事はずっと前から知っていました。
ダラムサラまでたどり着いた後、ドルカは一緒に峠を越えて来た9歳の娘と一緒に、私の家のすぐ近くの長屋の一部屋を借りて住み始めました。








仕事はそのころ町の福祉事務所が始めた、ごみ収集の仕事です。


ツェテン・ドルカ4今も彼女は毎日朝7時から夕方4時までトラックに乗ってゴミ収集・回収の仕事を続けています。
トラックで回収といってもゴミは決まった場所にまとめて分別して置かれているという訳ではなく、一軒ずつ歩いて回収しなければならない場所も多いのです。
足が悪いのに、大変だと思います。













ツェリン・ドルカの娘ドルマ事情を知って、2001年ルンタ・プロジェクトでドルカの娘テンジン・ドルマの里親を募集しました。
これに応えて下さった、東京の立野綾乃さんが以来ずっとドルマの養育費を支援してくださっています。

さて、ツェテン・ドルカは2000年10月に幼い娘を連れてラサを発ち、途中一か月歩いて、凍傷になり、最後は警察に捕まりカトマンドゥまで連れて行かれました。

以下彼女の話です。


私の名前はツェテン・ドルカ、ラサで生まれ現在38歳です。
家はラサのツクラカンのすぐそばでした。今もラサには両親と姉、弟がいますが、この一年間は全く連絡を取っていません。
あちらが、掛けてこないようにと言われたからです。

23歳の時結婚しました。
夫は結婚して間もなくラサでデモに参加して逮捕されました。
3が月ほどして解放されましたが、すっかりやせ細り、様々な拷問を受けたと話していました。
娘が一人生まれましたが、その後夫とは別れました。

子供が8歳になったとき子供の教育の事を第一に考えて亡命を決意しました。
ガイドには二人分で4000元払いました。
ラサでその夜決められた場所に行ってみると、およそ30人のチベット人が集まっていました。寒くて暗いトラックに乗せられ、ディンリまで走りました。

ディンリからチョモランマに向けて歩き始めました。
昼間眠り、夜歩きます。山を何度も越えました。
ガイドは何度もあの山を越えたらもう大丈夫だと何度も嘘を言いました。
でもそうでも言わないともう子供たちは疲れると歩こうとしなくなるからでした。

結局峠まで20日ほど掛かりました。
峠に近づくに従い雪が深くなってきました。
数日前に降った雪のようでした。
峠の前では私は子供を連れていたのでみんなから遅れてしましました。
グループは二つに分かれ、峠に着いた頃には10人位が一緒でした。
峠は曇っていましたが、雪は降っていませんでした。
しかし、雪は膝の上までありました。
私は子供を背負いながら一歩一歩進みました。
時々突然穴に落ち、頭まで埋まったりしました。
ガイドは峠を越えると安心したのかチャン酒を飲み始めました。
ガイドをするどころか、酔っ払って雪の上に大の字になって寝たりしていました。
みんながガイドを引きずって行くほどでした。

ツェテン・ドルカ2峠を越えて確かザンブ*という場所で最初に寝ました。
*彼女は地名などはっきり覚えておらず、はっきり言って実際にどのルートを通って越境したのかは特定できませんでした。

幸運にもそこでヤッパ(ヤクと共にチベット・ネパールの峠を越えて交易を行う人たち)
に出会いました。彼らは何張りかのテントを張っており、自分たちもその中で眠ることができました。
次の日、雪はさらに深くなり腰までの深さでした。
子供の手を引いたり、背中に背負ったりしていたので、また最後になってしまいました。
足はもう感覚が無くなっていました。
次の日トプテと言う村のようなところに着きました。
人はいませんでしたが小屋の中に入ることができました。
そこで靴を脱ごうとしましたが、靴が完全に凍って固まっており、脱げません。
結局、ナイフで半分に切って脱ぐことができました。
足の先が赤く腫れてきました。足の先に火がついたように痛み始めました。
ガイドはもうネパール側に来たから大丈夫だといって、なかなかその先に進もうとしませんでした。毎日チャンばかり飲んで結局4日間そこにいました。
私の足は益々痛くなり、腫れてきました。

そこから再び下りはじめましたが、私は右足に靴を履くことが出来ず、簡単に布を足に巻いただけで歩くしかありませんでした。
それから何日歩いたのかよく覚えていません。
私はみんなに自分のこどもを連れて先に行ってくれ、と言いました。
自分は杖をつきながらゆっくり歩くことしかできないので、みんなの足手まといになっていると感じたからです。

ツェテン・ドルカ3みんなは先に行き、私は一人で足を引きずりながら歩きました。
足は益々腫れ、痛みも堪えがたいものがありました。
途中で一人の現地人が助けてやるから金をよこせと言って来ました。
お金はほとんどありませんでした。代わりにネックレスやイヤリングを手渡しました。

しかし、彼はしばらくして姿が見えなくなりました。
其のあと警官がやってきました。
彼が知らせたようでした。

警官に捕まり、ドラカールという町まで連れて行かれました。
警察署の中の留置場に数日入れられました。
それから、彼らは私を車に乗せてカトマンドゥまで連れて行きました。
その後、ネレンカン(カトマンドゥにある難民一時収容所)に送られました。
結局警察に捕まり私は助かったのかもしれません。

そのころネレンカンには私のように凍傷になった人が10人ほどいました。
一緒のグループにいた17歳の男の子は踵が凍傷になっていました。
みんな一緒に病院に連れて行かれ、手術を受けました。


















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2009年03月31日

尼僧チュドゥンの物語

アニ・チュドゥンダラムサラの家は小さいけど二階建てで、一階にはよくチベット人とかが住みついたりする。
毎年冬になると、尼さんが3〜4人住みつく。
もう15年ぐらい前から恒例となっている。
冬には下から朝晩読経が聞こえてきて家が尼寺化する。

みんなノルブリンカの近くのドルマ・リン尼僧院の尼僧で、チベットではラサのセラ僧院の北にあるチュプサン尼僧院の尼僧であった。
冬には僧院が休みとなる。
どこにも行くところのない彼女たちは冬にここに来て、春に法王の法話を聞いてから尼僧院に帰るのだ。

みんな若かったが、、、もう全員30半ばだ。
長い間、一緒の家に住んでいたが、当然一人一人にインタビューしたことなどなかった。

最近、その中の二人に話を聞いたので報告する。
全員チベットにいた時には何らかの形で政治活動を行っている。
ヒマラヤを越える時、苦労していることもいっしょだ。

今日はジャンジュップ・チュドゥン37歳の話を紹介する。
彼女は4人の中で、もっともお銚子者だ。
彼女に起こったことは20年前の話ではあるが、去年や今年の状況もほぼ同様だ。
デモを行い、拷問を受け、ヒマラヤ山中を二か月間歩いてやっとカトマンドゥに辿り着いたのだ。

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アニ・チュドゥン2私はラサ近郊メト・クンガで1972年に生まれました。
母は自分がまだ子供のころ、産後の病気で亡くなりました。

家は農家でしたが、ヤクなどの家畜もたくさんいました。
兄弟は6人です。
学校には4年間通いましたが、そのあとは家の仕事の手伝いをしていました。
いつのころからか尼になりたいと思うようになりました。

17歳の時ラサのチュプサン尼僧院の尼になった。
尼僧院には当時200人ほどの尼がいた。
僧院に入ったが、そのころは寺再建の仕事ばかりが多くて、勉強はあまりできなかった。
その上中国人のグループが来て「愛国教育」のクラスを始める。
朝から晩まで、共産党を讃え、法王を非難することを強要される。
そんな状況の中、尼僧たちはこっそり話す機会があればいつも、インドに逃げることか、デモを行うことを話し合っていた。

その頃、セラ僧院に勉強のために通っていた。
そこでガリ尼僧院の一人の尼と知り合いになった。
二人で一緒にデモをやろうということになった。

1990年8月、ノルブリンカでシュドゥン祭が行われた。
ノルブリンカ前には大勢のチベット人が詰めかけていた。
中国政府の役人も沢山来ていた。
この機会を捉えてデモをしようと決めていた。

1988年ラサ C/R 9−10−3 MT 4自分たちが到着する直前に二組がすでに声を上げていた。
ミチュリン尼僧院からとセラ僧院からのグループだった。
どちらもすぐに警官に取り押さえられ、殴られていた。

二人して大きな声でスローガンを叫び始めた。
「チベット独立!」「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と。
数十メートル歩いたところで、大勢の警官に囲まれ殴り倒された。
そして、グツァ刑務所に連れて行かれた。

中庭に並ばされたが、その時他に尼僧ばかり10人が先に並ばされていた。
手を上げろ、と言われそのまま数時間その姿勢を取らされた。
下ろすと殴られる。
それから、一人一人長いロープで手を縛られた。
ロープの一端が目の前にあった大きな木の高い枝に投げ掛けられる。
落ちてきたロープの端を二人掛かりで引っ張る。
すると尼僧たちは木の枝に宙釣りとなった。
ロープは幹に巻かれて固定される。

チベットで中国が使用する拷問道具そのままの状態で殴られる。手足だけでなく、棍棒を使ったり、電気棒で殴られた。
そのたびに悲鳴が上がる。
数人ずつこれを受けた。
目の前で他の尼がやられるのを見ているのは耐え難いことだった。

次の日からも毎日尋問が行われた。
いつも質問は同じで「誰に唆されたのか?後ろに誰がいる?」だった。
「チベット独立とはどういうことなのか?」と訊かれたりもした。
最初の一か月は毎日、殴られ、電気棒でショックを与えられた。
4か月グツァに入れられた後、出された。

しかし、チュプサン尼僧院に帰ることは許されず、家に居るしかなかった。
一年もすると私は又、デモをすることを考え始めた。
しかし、家族には決して話すことができなかった。
今度はチュプサン尼僧院の一人の仲間とデモをすることを決めた。
前の日にこっそり家を出てラサに向かった。

その日の夜はツクラカンの前で寝ることにした。
夜そこにいる時、ツクラカンの僧侶と話をした。
ところが、偶然その僧侶は自分の兄の知り合いだったのだ。
その僧侶はすぐに、兄に私がデモをしようとしていることを知らせた。
兄が来て、デモはもうしないように、二度目に逮捕されたらタダでは済まないだろう、と言って私を説得し始めた。

私は拒否し続けたが、結局その日は兄の家に連れて行かれた。
次の日、兄と家の者たちが相談して私をインドに送ることに決めたという。
その次の日にはもうすべてが手配され、私は強制的にトラックに載せられたのだった。

1992年の春。
グループは60人。二台のトラックに分乗した。
セラ、ガンデン、デブンの僧侶が20人ぐらい、それに10人位のカンバがいた。
子供は4,5人で6歳の子を連れた夫婦、8歳、9歳、、、14歳ぐらいの男の子がいた。
尼は私を入れて2人だけだった。

カン・リンポチェトラックはまずラサから北に向かい、ダムシュンからナムツォ(湖)の北を通って、西に向かった。
そのまま10日ほど走って、カン・リンポチェ(カイラス山)の近くまで来てトラックを降りた。
それから、南に向かって歩き始め、プランの近くまで来た。
ネパールに抜ける国境はそこからすぐだと聞いた。

しかし、そこで中国の兵隊に見つかってしまった。
彼らはガイドと一人の僧侶をどこかに連れていった。
次の日兵隊が来て「彼らを解放したかったら、おとなしく来た道を帰れ」という。
仕方なく一旦来た道を帰ることにした。

次の日には二人は解放され、自分たちに追いついた。
ガイドが帰ってきたところで、再び南に向かって歩き始めた。
国境を越える道は大したことはなかったが、ネパール側に入ってからが長く、大変だった。

ヒマラヤ2ネパールに入ると、低地では雨、高地では雪だった。
昼となく夜となく歩き続けた。
歩きながら眠るという状態だった。
道は分かりにくく、ガイドもはっきり知らないようだった。
だいたいガイドは年を取っていて元気がなかった。
途中でグループは二つに分かれることになった。
元気のいい僧侶たちが別に行くと言い出した。
私もそのグループに加わった。

大きな街道を行くと警察に捕まるということで、街道を避け村も避けながら森の中を行く。
何度も高い山を越えなければならなかった。
食糧も尽きた。
僧侶たちがこっそり村に行って、食を乞うた。

一つ高い雪山を越えた時は本当に大変だった。
急な斜面を腰まで雪に埋もれながら登った。
雪と風で前がほとんど見えない。
体の感覚が次第に無くなり、死ぬかも知れないと思った。

それでも、何度も若い僧侶たちに助けられて、峠を越えることができた。
次の日には晴れて今度は雪目で目がほとんど見えなくなった。

それから先も長かった、クマのいる森の中には何度も冷たい雨が降り、全身ずぶ濡れでそのまま眠った。
足の裏には大きなまめができては潰れた。
流れの速い川を何度も流されそうになりながら渡った。

19歳の少年が森の中で消えた。
探してもいないので、そのまま先に進んだ。

後で聞いたところでは、もう一方のグループの中で50歳ぐらいの男性が死んだという。

結局二か月歩き続け、やっとカトマンドゥ行きのバスが出る町(ジュムラ)に辿り着くことができた。

全員ボロボロで憔悴し切っていた。























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2009年03月29日

ナンパ・ラを越え吹雪に遭い凍傷で足先を失ったニマ・デキの話

ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ昨日26日、N2と二人でナンパ・ラ(峠)を越え、足の指を凍傷で失った一人の女性を訪ね、話を聞きました。
彼女の他、もう一人同じく足の指を失った女性、両足を膝下から失った僧侶にも話しを聞きました。
近いうちに報告するつもりです。











ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ2今回はまず、ニマ・デキという30過ぎの女性の話です。
彼女は現在、ダラムサラはノルブリンカの近くに最近できた外人用仏教・語学センター、トゥサムリンで外人にチベット語を教えています。
春の花が一杯の小道を辿ってトゥサムリンに着きます。

彼女は1997年4月、ナンパ・ラを越えました。
峠を越えると途端に天候が急変し、吹雪が始まったと言います。








ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ3結局22名のグループの内、女の子ばかり4人の子供が亡くなり、3人が凍傷に罹ったのです。
まさに死の逃避行でした。
彼女は「地獄を見た」と言いました。

彼女はラサ近郊ペンボの出身。
ペンボのポト(ワ)尼僧院に14歳ごろ入りました。

以下彼女の話:
(ナンパラの写真は今年2月雪がなく天気のよい日のものです。場所は同じですが状況には天地の差があります)

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1997年、「愛国教育キャンペーン」が始まりました。
毎日尼僧院に警官やら役人やらが現れ、朝から晩まで「共産党を讃え、法王を非難する」という教育が続くのです。
ダライ・ラマ法王を非難する文章を暗記させられ、それを唱えることを強要されます。
3か月間も朝から晩まで、それは続いたのです。
逆らえば、尼僧院を追い出され、二度とチベットの中では尼僧院に入ることができません。
それだけではなく、村に帰って家の農業などの手伝いをする以外に法要を取り行うなどの宗教的活動は一切禁止されます。
村を離れる時には必ず警察に行き許可証を取らななければならないのです。
もしも、すべて中国の言う通りに従えば、その尼僧には「尼僧証明書」が与えられます。

結局その時110人いた尼僧の内、30人以上が尼僧院から追い出されることになったのです。

私のその内の一人でした。

追い出された尼僧たちの多くはインドに亡命することを考えていました。
しかし、それにはお金が要るのです。
親に言えば反対されることは目に見えていたので、私はこっそり、知り合いからお金を集めました。
そして1200元をガイドに払い、4月にラサからトラックで出発しました。

その時同じトラックに40人以上のチベット人が乗っていました。
トラックの荷台のドアを閉められると中は真っ暗です。
急に不安になりました。
何日走ったのか解りませんが、とにかく捕まりはしないかと不安でいっぱいでした。

トラックから下りて峠まで7〜8日歩きました。
夜中歩くことが多かった。道は平たんではなく、幾つもの山を越えなければなりませんでした。
途中に3か所軍の施設があり、そこを見つからずに迂回するのが大変でした。
どこでも犬を飼っているので、犬に気づかれないようにしないといけないのです。

最後の峠の前の駐屯地の前には橋がありました。
ここを通るときには夜中、一人ずつ静かに渡り、しばらくしてまた一人という具合にして渡りました。
犬が吠えだすのではないかと非常に緊張しました。

そこをうまく抜け峠の下に着いた頃、一人の20歳ぐらいの女性が倒れて動けなくなりました。
ガイドはみんなに、行きたいものは先に行け、この子が回復するまで一緒に残るというものは残れ、と言いました。
結局グループは二つに分かれ、約半数の人は先に出発しました。

結局ここが運命の分かれ道ともなったのです。
先に行ったグループは何事もなく無事にカトマンドゥに到着したのでした。
それに比べ、一日遅れた自分たちのグループ22人、内子供6人は地獄を味わうことになったのです。

タルチョを張る国境である、峠のラプツェにようやく到着した時はもう夕方でした。
突然、空が黒い雲に覆われ辺りはすっかり暗くなり、風が吹き、しばらくすると雪が降り始めました。
峠を少し下ったところにヤッパ(ヤクを連れた交易人)がテントを張っているのを見つけました。
そこに行きお茶とツァンパを少しだけ貰いました。
雪はひどくなっていました。
全員テントの周りの氷の上に数人ずつ固まって、上に毛布を掛けて横になりました。
非常に寒かったのですが、あまりに疲れていて、少し眠ったように思います。

朝、目が覚めて、起き上がることができません。
雪の下に埋もれていたのです。
何とかみんなで雪をかき分け這い出しました。
全員全身真っ白でした。

ナンパラ氷河 2歩き始めましたが、雪は膝まであります。
吹雪です、風が強く、何度も飛ばされそうになりました。
道は複雑で何度も登り降りしなければなりません。
雪は止まず、前がほとんど見えませんでした。

その日一日歩き続け夕方、大きな岩の下に子供たちは横になり、他の者たちは再び雪の上で眠りました。
次の日には雪は腰までの高さに積もっていました。
吹きだまりに嵌ると頭まで埋まってしまうのです。
強風も止みません。
全員が一列になり、前の方で強いものが道を作り、間に子供たち、最後に女性が続いて少しずつ前進します。
しかし、風が強く前の人の付けた足跡もすぐに雪で埋まって消えてしまうのです。
もう下半身の服は下着まで濡れ、カチンカチンに凍っていました。
下半身の感覚が無くなっていました。

ナンパラ氷河 4数時間歩いた後、ガイドは全員を集め点呼をとりました。
すると、子供が二人足りません。
誰も気づかない内に消えてしまったのです。
若い僧侶が何人かで探しに行きましたが、無駄でした。
吹雪でほとんど前が見えない状況では不可能でした。
諦めて先に進むことになりました。











クレバス窪地には雪が吹き溜って、そのまま歩けば全身完全に埋まってしまう場所もありました。
そのような場所では毛布を雪の上に広げ、その上を這って進むのです。
そんな場所の一つの前で10歳ぐらいの女の子がうずくまっていました。
声を掛けても「ううんん、、、」と言うばかりですでに朦朧としていました。
彼女を無理やり立たせ、一緒に窪地を渡りました。

毛布を広げてその上にうつ伏せになり、毛布の先を両手で持って少しずつ先に繰り出すのです。
こうして、何とかそこを抜けることができました。
そこからはその子を背中に背負って歩きました。
しかし、その子の足はまっすぐに硬直したままで、腕で私の肩を掴むこともできませんでした。

難民の子供の靴そのころ自分たちはグループから相当遅れていました。
同じように子供を背負った若いお坊さんと一緒になりました。
他の者たちはもう視界から消えていました。
励まし合いながら、必死で前に少しずつ進みました。

暗くなり掛けたころ、再び大きな窪地を前にして立ち止まっていた他の者たちと合流しました。
一人ずつ毛布を敷いて歩腹前進するので時間がかかるのです。
待つ間、私は背中に背負っていた女の子をそばに下ろし、座らせました。
そして、しばらくして、ふと横を向いて気付くと、もう彼女は横たわり、冷たくなって死んでいました。
食べるものもなく、こんな吹雪の中(5000m以上の高地)を二日歩き続けたのです。
死んでも当たり前でした。

みんな、そのまま死んだ子供をそこに置いたまま、先に進みました。
その日の夜は峠を越えて初めて、石で壁が積まれ屋根の載った小屋の中で横になることができました。(おそらくルナックのことでしょう)

lunak一人の女の子が「アラー!アラー!」「ウウ、、、ウウウ、、、」と呻き声を上げ続けていました。
ガイドが自分のところに来て、「あの子に毛布を掛けてやりたいから貸してくれ」と言ってきました。
仕方なく渡しました。
夜中近くになって、その子の呻きが一段と激しくなった。
そして、しばらくして全く静かになった。
ガイドが「死んでしまった」と言いました。
女の子は自分の毛布に包まれて死んでしまいました。

この日9歳から12歳までの女の子ばかり4人亡くなったのでした。

次の日の朝には雲が切れ、空は明るくなりました。。
しかし、雪の深さは胸の高さです。
前に進むことは容易ではありません。
その上、陽が照ったことで全員すぐに雪目に罹り、目が痛く霞んできました。

小屋の前に並んで繋がれたヤクたち昼ごろ下の方からヤクを連れた遊牧民(シェルパ)が自分たちに声を掛けてきました。
彼らと合流し、お茶をもらい、ツァンパを分けて貰いました。
彼らはそこまでの道をちゃんと作っていました。
もしもここで彼らに遭わなければ全員死んでいたと思います。
それほど、みんなすべてを使い果たし、憔悴し切っていたのです。

夕方、彼らの小屋に着きました。(チュレと思われる)
中には大きな火が焚かれ、小屋の中は非常に温かでした。
部屋の隅に座り込んでいました。

ヤク・ストーブすると突然足から腰にかけて火が点いたような痛みが走りました。
痛みは次第に強くなってきて、私は我慢できず悲鳴を上げました。
他にも数人が同じように痛みを訴え始めました。

このとき、初めて足が凍傷になったことを知ったのです。
急に温めたことも悪かったようです。

それからが本当の地獄でした。
さらにナムチェ・バザールまで2,3日はかかりました。
痛む足を引きずりながら歩いたのです。
中国兵に捕まるか、死んだ方がましだ、と何度も思いました。

ナムチェには夜中に着いて、マニ堂の中で寝ました。
コンクリートの床が冷たかったことを覚えています。

ナムチェを過ぎて坂を下って橋を渡ったところで二人の外人に出会いました。
イギリス人のカップルでした。
彼らは私の様子を見て声を掛けてきました。
男性の方が「自分は山に詳しく、凍傷の手当も知っている」と言って
私の足を見たいといいました。

近くの食堂に入り、靴を脱ぎ足を見せました。
足の先が赤く腫れていました。
彼はたらいに湯を一杯作ることを店の者に頼みました。

湯ができた後、そのたらいに足を浸けさせられました。
すぐに私は悲鳴をあげました。
全身に再び火が点いたような痛みが走ったのです。
それでも足を出すことは許されませんでした。
まるで拷問です。
足の先はしばらくすると赤黒く変色してきました。

そのイギリス人はそれでもやさしい人たちでした「必ずあなた達を無事にカトマンドゥまで届けよう。心配しないで」と言いました。
彼はすぐにルクラまで歩いて行って、自分たちのために飛行機のチケットを手に入れようとしました。
しかし、身分証明書のない者にはチケットは売れないと言われたそうです。

仕方なく、彼は私ともう一人の同じように足が凍傷になった女の子をナムチェの上、コンデにある病院に連れて行くことに決めました。
竹で担架を作り身体をそこに縛りつけ、一人四人掛りで急な坂を再び引き返したのです。
病院では、点滴も受け、治療も受け、食事もちゃんと与えられました。

ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ4イギリス人は二日後にはビザが切れるからと言って帰ってしましました。
良くしてくれた二人が帰った後、急に今まで味わったことのないほど寂しさと不安を感じました。

結局そこに一か月半ほどいました、その間にも他に9人の同じように亡命してきたチベット人で凍傷や病気になったものが運び込まれてきました。
近くの飛行場にネパールのネレンカンの手配したヘリコプターが来て全員カトマンドゥまで送られました。

カトマンドゥで凍傷に罹った足の指を切断する手術を受けました。






























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2008年12月15日

ダラムサラの禿鷹と朝焼けと子供たち

b51d6297.JPG今日は朝から、ブッシュ大統領が自身目がけて投げられる靴をひょいひょい避けるシーンを何度も見せられました。

「犬」と呼ばれても「よけるのがうまいだろう!」と自慢するしまつ。
バカは打たれ強くなるのも簡単なのでしょうかね。
「中国の誰かも訪問先で色んな目に遭う。こういうことが起こることもあるさ」とこれは的確な比較でした。

ーーーーーーーー

さて、今日は朝撮った写真とか載せて、軽い話でもしましょう。

今年のダラムサラは本当に温かくて昼間は半袖でもいいぐらいです。
町には子供たちが急に増えました。
今年は学校の冬休みが例年より少し早く始まりました。
家から通っている子と寄宿舎を出てどこかに行くことのできる子は、これから来年の3月9日まで長〜い冬休みです。

二日前に内にもいつものツェリン・ノルブがスジャ・スクールからやってきました。
しかし彼は5日しか休みはないと言ってます。
来たばかりの子どもたちには冬の間も補習クラスがあるので、休みはほとんどないそうです。
ツェリン・ノルブと従兄のジャヤン・タシ
彼は家に着くなり「弟がチベットから逃げて来て、今ネレンカン(一時収容所)に来てるらしい。会いに行かないと」という。
よく聞くとお母さんの兄弟の子供ということで、従兄のことらしい。

さっそく、収容所に言ってみたが、見つからない。次の日の朝もいない。
探し続け、やっとツクラカンで働いている一人のおじさんのところにいることが判った。
この人は親戚ではないが同郷ということで子供を何日か面倒みていたという。

二人が最初に会った時の喜びようは、子供同士というより、仲のいい大人同士が苦難の後に再開した時のような喜びようでした。
子供の時から一緒に遊んだことがあるそうです。
昨夜は二人一つのベット、一つの寝具で仲良く寝ていました。
ツェリン・ノルブはこの前の試験でもクラスで一番だったとか、その従兄も中国の小学校で最後の試験は2番だったと威張って言ってました。

この二人、ほっておくといつも一緒に勉強しています。
遊牧民の集中力を感じます。
二人ともチベットの広大な風景の中で遊牧民の子として生まれました。
一つずつの家族はおよそ歩いて2,3時間ほどの距離で散らばって暮らしているとのこと。
車の通れる道まで馬で一日かかり、それからまた一日車に乗るとナチェンに着くそうです。
里には高い雪山があり、湖もあって本当に綺麗なとこなんだ、と二人とも言います。

従兄のジャヤン・タシは12歳で、これから南インドのセラ僧院に行き、僧侶にあるそうです。
僧侶の伯父さんがそのために亡命させたとのことです。
本人に意地悪な質問を一つ「本当はどっちに行きたいの?普通の学校と僧院と?」
「学校」と答えました。
「ふ〜〜ん、」とノルブと顔を見合わせたまま、それ以上はその話はやめました。
ノルブは嘗てデブンの僧侶だったこともありますが、もう僧侶にはならないと言ってました。
ダラムサラの朝やけ
そのノルブに「ぺー・ラモの日」を知ってるか?と聞いた。
「知ってるよ。その日に女の子にお金を少しでも上げないと、大変なことになるんだよ。
その日にはペー・ラモの力が少しずつ女の子に分けられるから、もしも怒らせると大変な祟りがあるんだよ!」
と解説してました。

このところ順調にどんどん亡命者がダラムサラに辿り着いています。
子供の絵のクラスも再開されました。


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2008年11月15日

2006年9月末ナンパラ峠

7c1966c1.jpg写真中央あたりにナンパラが見える。写真はN氏より。

2006年9月終わり、中国とネパールの国境、ヒマラヤのナンパラ峠5740Mを目前に亡命チベット人のグループが中国軍から発砲を受け、一人が射殺され、一人が足を撃たれた。
このシーンを偶然そこにテントを張っていた外国登山隊が目撃し、ビデオに収めた。
そして、世界中に配信された。
きっと、近くこの映像も日本のテレビに流れることでしょう。

この同じグループにいて、の事件を経験した子供たちに話を聞いたことは、
数か月前に私のブログでも紹介し、NHKも取材してくれて日本にも二度に渡り放映されました。

今度は今日、某テレビ局の人たちと一緒に、同じTCVスジャスクールに行って同じくその子供たちに話を聞きました。
もちろん全く同じ子にインタビューしたわけではありません。

その中の一人の話を少しだけ以下に。

^^^^^^^^^^^^^^^^
Dolma
ドルマはカムのチャムドの近くの田舎で育ちました。
撃たれて死んだケルサンとは幼馴染でした。
10歳のころだったか、ケルサンが「インドに行きたくはないか?」という話を始めました。
そのころインドへ行って帰って来たという尼さんの噂を聞いたからでしょう。

11歳の時ケルサンは尼さんになりました。

15歳ころになったときもう一人の友達と一緒に三人で再びインドに行こうという話が始まりました。
両親に相談しましたが、その時は二人とも「そんな恐ろしいことを考えない方がいい」といって取り合ってくれませんでした。

それからしばらくして、ある日「今からインドに行く人たちがいるぞ」という話を聞きました。三人が集まり、今日一緒に行こうと決心しました。
夜両親を説得しました。
結局両親は「そんなに行きたいなら行くといい」と言ってくれ、お金を渡してくれました。夜中の3時に家を出ました。

ラサをトラックで出発したときには、70人以上集まっていました。

、、、、

最初は歩くのは数日だけだと聞いていました。

しかしディンリから歩き始め結局10日以上歩くことになったのです。
それもほとんど食糧がなく、峠を前にすでに3日間はほとんど何も食べていませんでした。

朝方、やっと峠を目の前にしたとき、バンバンバン、、、という何か爆発するような音がしました。
自分たちは最初それは近くにいた、外国の登山隊が、遊びに爆竹でも鳴らしているのだろうと思いました。

そのうち、誰かが、中国の兵隊だ!逃げろ早く進め!と叫びました。
見ると下から中国兵が銃をこちらに向けババババーンと撃ってきました。
弾が頭の上をヒューヒューと飛び、周りの雪に当ってバシバシと音を立てます。
本当にたくさん弾が飛んできました。
逃げようにも道は一つしかなく、とにかくできるだけ早く峠を越えることだけ考えていました。
峠にはタルチョが沢山ありました。
あそこを超えればもう中国兵は追って来ない、と思いみんな上を目指しました。
でもお腹は空いているし、高地で息も切れ思うように体は動きませんでした。
その上廻りにはまるで映画で見た戦争の場面のように銃弾が飛んで来るのです。

後ろにいたケルサンが撃たれたのが判りました。
すぐに助けようと思いましたが、みんなが先へ行け!止まるな!自分のことを考えろ!というのでそのまま歩き続けました。

やっと峠を越え、ケルサンがやはりいないので大人に聞きました「足を撃たれたが
大丈夫ちゃんと下まで降ろされ、病院に行けるよ」と言ってました。

ケルサンが死んだというのはカトマンドゥについて5日後に知りました。

それからインドに着いて、この学校で勉強するようになったけど、最初のころは全く楽しめなかった、死んだケルサンのことを思って悲しくて仕方なかった。
でも今はもう大丈夫。













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2008年10月25日

TCV(チベット子供村)創立48周年記念日

e4a9bb56.JPG今日はTCV(Tibetan Children's Village チベット子供村)の創立48周年記念日。

手術をされた後のダライラマ法王も御出でになるということで、ダラムサラの住民はこぞって朝早くからTCVへの森の中の長い道を歩いて行きました。

外国からのプレスも大勢集まっていました。

2008年10月25日ダラムサラTCV御訪問のダライラマ法王


TCVは1960年に法王が亡命後初めて孤児院をお始めになったのが始まりだ。

法王は自伝の中でこの時のことを語っておられる。
ある時には120人の子供たちが唯一つの小さな部屋に押し込められていた。
子どもたちは一つのベッドの上に縦に5〜6人が並べられ眠るのだった。
こうして縦にすれば、沢山入るというわけだ。
確かに状況は厳しいものがあったが、私は心に喜びが沸いてくるのを抑えられなかった。
それは、親を失い、貧窮の底にありながらもそこには、自分たちの困難を嘲笑っているかのような笑いと喜びが満ちていたからだ


2008年10月25日ダラムサラTCV「TIBET NEVER DIE」

今では17000人の子供を教育する、亡命社会でもっとも成功した最大の組織となった。
このうち両親が現在チベットにいるものが70%、亡命社会にいるものが30%だ。

実際この学校は中国に対する(知的)戦いの希望を一身に担っているともいえる。

法王がスピーチされました。
以下はその一部分です。

「我々が亡命して、50年が経とうとしている。
人生に例えるなら50年は長い。
私はこんなに長くなるとは思っていなかった。
59年の3月16日にラサを離れた。
我々は帰るという目的のがあって今ここにいるのだ。

私ははじめから寺を建てることより学校を建てることに熱心だった。
仏教だけを知っているとか、西洋式の学問だけを学んだものは、半分の知識しかないことになる。この両方を合わせた知識が求めるべきものだ。心を知り外を知るのだ。

今特に、チベット社会には、現実に即した知と意味を知る行動が求められている。

今年チベットでは僧侶のみならず、老若男女、あらゆる職種の人々が、中国に対して立ち上がった。
中国政府は今回も期待はしたが、結局またも現実を認識しようとしなかった。

中国のように口では民主、現実は独裁という嘘はよくない。
チベットは口先ではなく真に民主的でなければならない。
そういう意味でも、近々行われる会議には期待している。

二週間ほど前に手術をしたが、今はいたって元気だ。心配しないでくれ。
胆石を取っただけだ。これは昔からあった石だがもうない。
ダラムサラに帰って来た時には大勢の人たちが迎えてくれてうれしかった。
入院中には多くの人が集まり私のために祈祷してくれたと聞く。
気を使ってくれてありがとう。

、、、」

ーーーー

TCVの母、ジェツン・ペマ
TCVの母ともいえる、偉大な!ジェツン・ペマ女史












2008年10月25日ダラムサラTCV御訪問のカルマパ
カルマパも終始法王のそばに座しておられました。












2008年10月25日ダラムサラTCV

ミスTCV?










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2008年06月26日

NHKで再びダラムサラから。

11667c3b.JPG次の日曜、6月29日夕方6時10分からの
NHK放送<海外ネットワーク>
の中で、ふたたびダラムサラからのレポートが流れるはずです(90%)。


10分ものになるでしょう。
ヒマラヤの峠を越える子供たちの話が中心です。
うまくいけば、例のナンパラ峠で中国兵が亡命チベット人を射殺したシーンが流れるはずです。
私はこれが流されることを強く要望していますが、、、
これには難しい問題もあるようです。

この一団にいて撃たれて倒れる尼僧を目撃した女の子の証言も流れるかも?
死体確認を命じられ、シガツェの刑務所に二か月入れられた子供の話も、拷問の描写付きで流れるかも?

でもきっと中心は14歳のツェリン・ノルブの学校での生活の様子でしょう。
彼のことは以前のブログで紹介しました。
彼もナンパラを前に中国軍に一度逮捕されシガツェの刑務所に二週間入っています。

彼がそのシガツェの刑務所を描いた絵はなかなかうまく描けてて、私も何度かブログに使ってきました。
ダラムサラにいたころ、ルンタレストランに一人で遊びに来たりして彼は日本人になついていました。
本物の遊牧チベット人の子供だけが持つ、すばらしい笑顔を見れるでしょう。

7月22日から始まる
受難と祈りー、チベットを知るための夏
http://blog.tibet-free-tibet.com/の前哨版かな?

それにしてもNHKデリーカメラマンの0様本当に有難うございました。
これは彼の企画、制作のようなものですから。









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2008年06月16日

峠で中国兵に逮捕されたジャミヤン少年の証言

0cbde4ae.JPG昨日の続きです。

その学校で会った同じヒマラヤ越えをした6人の学生のうち、
ジャミヤン・サムテン当時17歳は寝過し道に迷ってしまったグループにいた
絵はジャミヤンに書いてもらった拘置所と拷問道具、涙を流す彼です。

訂正:日本のガイドブックにはナンパラの標高は5741m(昨日5710mと書いた)となっていました。

ーーーーーーーーーーーーーーー

以下彼の証言:

33人はガイドもいなくなり、道も定かでなくどうすれば良いのか判らなかった。
そのままそこに寄り添ってガイドが帰ってくるのをあてにして3日留まった。
3日後現れたのはガイドではなく、中国兵だった。
彼らは威嚇のためか廻りに銃を発射した。

全員捕まった。
山を下され、タシゾンの軍の駐屯地に連れていかれた。
そこで、中国兵たちの食事のあまりが与えられた。

次の日ディンリ(定日)の拘置所に移された。
ここに4日間いたが、毎日尋問があった。
ツァンパ(チベット麦焦がし)が1日に一回出たが、ネズミのフンが沢山混じってた。
最初の日には名前とか出身地とかの質問だけで何もなかった。
しかし次の日には、「ダライラマを知っているか?ダライラマはどこで生まれたのか?年齢は?」
「知らない、ダライラマのことなど何も知らないよ」
「嘘をいうな!」
と言って、殴ってきた、倒れると足で頭を踏みつけたり蹴ったりした


「父親や母親の名前は?」
「二人とも死んでいない、自分一人でラサで暮らしてたんだ」
「嘘言うな!」
と言ってまた殴る。
それからの三日間は同じような質問ばかりだった。
最後まで何も知らないといい続けた。

彼らは鉄のバックルのついたベルト、棍棒、電気棒を使って殴り続けた。
彼「この傷はベルトで殴られるのをよけようとしてできたものだよ。何度も続けてベルトで殴る」
彼の左手の肘のまわりには何本となく傷痕が残っていた。
私「電気棒でやられるとどんなになるの?」
彼「だいたい首の後ろに押し当てるよ。すぐにすごいショックが全身に走り、体中が燃えるように感じる。すぐに気絶することがほとんどだった。前に倒れたりする。
気が付いてもなかなかちゃんと立てないよ。フラフラになってる


そのあと、今度はシガツェの拘置所に送られた。
そこに2か月入れられてた。
食事は日に一度だけだった。

最初の1か月は大変だったよ。
毎日朝6時から夜の9時まで、
両手を前に上げその上に木の椅子を載せられ、そのまま腰を落として中腰にさせられ、頭の上にガラス瓶を載せられる。
頭からビンが下に落ちると、すぐに監視が来て殴られる。
またやらされる。その繰り返し


最初は5分とそうしてられない、震えが来る、冷汗がでてくる。
そのうちだんだん長く我慢できるようになるよ。
でも死ぬほど辛かった。
外で陽に当たりながらながらだったので喉もカラカラに乾いて辛かった。

後の1か月はそれが無くてまあまあだった。

2か月してラサまで送られ解放された。
金を工面して再び国境行きのトラックにのった。

私「どうしてまたやろうと思ったの?捕まると大変なのは判っていたのに」
彼「自分より小さい子供たちだってちゃんと亡命に成功している。
自分はもう大きいのだから、できないはずはないと思ったからだよ。
でも監獄の中国人は、今度またやったら銃殺だぞ!といってたよ」

「お金は国にいたとき<冬虫夏草>をたくさん採って自分で貯めてたのがまだ有ったし、少しは知り合いに助けてもらったりしたよ」

今回はダムの近くまでトラックで行って手前から山に入って、河を越えてネパールに抜けられた。
2006年の12月13日のことだったという。


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年少であろうと、女性であろうと拷問するのが中国の特徴だ。
恐怖が統治のテーマだから。









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2008年06月15日

続ヒマラヤ死の逃避行

dcc3fced.JPG添付の絵は銃殺を目撃したガンツォが画いたナンパラ(ナンパは「仏教徒」ラはチベット語で「峠」)への道。絵の説明は最後の方です。

ナンパラは標高5710m!。
もちろん夏でも一面雪と氷の世界です。
多くの亡命者はここを冬に越えてきます。

冬は、時として行手の大きな障害となる川が氷り渡り易くなること、
峠の警備が薄いこと、
越えたあと法王の新年好例の長い法会に加わることができること、
春から始まる新学期にちょうど良く間に合うこと、
等の理由によるのです。
もっとも冬に5710mの峠を越えることは、いくらチベット人でも大変な危険を伴うことです。
実際多くの死体が峠で凍ったまま野ざらしとなっているそうです。
私も写真だけは見たことがあります。
また、子供たちは十分手足の防寒に気を付けることができず、手足の指先から凍傷になり、酷い場合は切断ということももちろんあります。

彼女達の峠越えは9月初めであったが、雪が胸までの高さまで積っていたという。

以下はガンツォの証言による。

グループの総勢は亡命者74人にガイド2人。
そのうち10歳ぐらいまでの本当の子供が15人ぐらいいた。
ラサからの車を離れ山に入り12日目、やっと峠の前までたどり着いた。
峠を越える前の日、手前で雪の上に、何時ものように、皆寄り添い何も下に敷くものもなく、上に懸けるものもなくしばし眠りに付いた。
しかしその夜は夜半より行進を始めて一気に朝には峠を越えるという計画だった。
それはガイドが峠には中国の兵隊がいるらしいので、闇にまぎれて突破しようと言ったからだった。

夜半に出発したが、実はこのときこの大きなグループのうち33人は寝過してしまい、ガイドを伴った先発隊とはぐれてしまったのだ。
遅れたグループはそれでも峠と思える方向に向かって登って行ったが、道は定かでなく、迷い続けた。
結局このグループの33人は全員その後中国兵に逮捕されることになった。

その中の一人ジャミヤン・サムテンは撃たれた尼僧の遺体確認やら、シガツェの拘置所に2か月入れられ、拷問を受けたりの経験をすることとなった。解放後再び亡命を試み成功した。
彼の詳しい話は後ほど。



14/6/08 tcv suja 峠を越えた6人
先行隊は夜中峠を目指して登り続けた。
しかし峠が近づくころにはもう夜はすっかり明けていた。

ここでガンツォの絵を見て頂きたい。
まず彼らは外国人登山隊(彼らが貴重な映像を撮って世界に流した人たちだ)のテントを見つけ、そこに寄ってビスケットとかお茶を貰ったという。
彼らはもう二日前から食糧も尽きはて、ただ氷を食べながら進んでいたという。

そこから少し行ったところで、上の方から外人の登山者たちが降りて来て
この先には中国兵がいるぞ!危ないから行かない方がいいぞ!」
と教えてくれた。
しかしみんなそのまま先に進んだ、しばらくすると上のほうに中国兵が現れこちらに向かって「ここまで登って来い!来ないと撃つぞ!」と叫んだ。

みんなその時は極限状態だった。
この二日間何も食べておらず、高地の登りは胸を裂き何も考えられなかった。
ただそのまま一歩一歩前に進んだ。
多くのもの者たちはその時逃げるために身軽になろうと背負っていたリュックや上着を脱ぎ棄てた。自分のそうした。

そのうちグループの誰かが
撃つなら打て!もう何時死んでもいいんだ!もう何も怖くない。撃つなら打て!」と言った。
グループの先頭には尼僧たちが数人いた。
自分たちは数人でその後ろ5,60mのところを歩いていた。

突然バンバンという銃声が聞こえたと同時に頭の上をヒューヒューと銃弾が走る音が聞こえた。
前を歩いていた尼僧のグループのうちの一人に弾が当ったらしく、「キャー!」という叫び声が聞こえた。
私は全身鳥肌が立ち、怖くて身体が震えた


他の尼僧が倒れた尼僧を抱えたが、しばらくして死んだと思ったのか、皆そのまま歩きはじめた。

中国兵は下に降りて来ているようだった。
また後ろから来ていた男の子が足を撃たれ、倒れた。

自分たち3人は近くの山影に隠れ、急いでそこの雪に穴を掘って身を隠した。
朝9時ごろから昼の2時ごろまで5時間はそこにじっとしていた。
死ぬほど寒かった。

もう大丈夫であろうと思い外に出た。
そのまま尼僧たちの歩いた道を行った。
死んだ尼僧の顔は真白だった。
目も白くなってた。
胸から出血していた。

それからじょじょに下って行った。
でも道が良く判らず大変だった。
みんな目が雪でやられほとんどよく前が見えなかった。
また雪の上で寝た。

以上

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絵の説明:
ナンパラ手前の状況。
右端のナンパラに向かって左手から登って来た。
テントはもちろん外国登山隊のもの。
テント右手で上の方からリュックを背負って降りてくる5人が途中であった登山家たち。
右手先頭居るのが尼僧グループ。このうち二番目の尼僧に最初の銃弾が当った赤い色は血の色。
彼女はその後ろの二番手。上の方に一人少し離れている。
さらに後ろに緑色に塗られているのが銃を撃つ中国兵3人。
実際ははじめもっと上から撃ってきたという。
最初の中国兵のすぐ後ろの子供の足から赤い血が出ている(見え難い)。
足を撃たれたのだ。

私が一つ質問した。
「自分はこの時の映像を見たんだが、ひとつ疑問に思ったことがあるよ。
何でみんな撃たれて倒れた人がいるのに、ほとんどそのまま歩き続けて行ったのか?
普通なら、銃声を聞いたと同時に体を伏せるなり、逃げようとバラバラに急いで散ったり、倒れた者を助けようとしたりするんじゃないかな?」

「道はヤクや人が踏み固めた一本の細い条のようで、周りは胸までの雪が積ってる。
横に逃げることは簡単にできない。それにもうみんなその時は疲れ切ってた、夜中から休むことなく歩き続け、食べてない。登れば登るほどに息は苦しくなる。
普通に考えることができなくなってた。一度止まるともう先に歩けなくなるような気がしていた。きっとそんなだったからだと思うよ」

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彼女はその時16歳。
大変な経験をすることとなった。
それでも彼女は中国兵に捕まらず5710mの囚われの国境を銃弾にも当たらず超えることができた。
運が良かったのだ。
捕まったこどもたちには更なる試練が待っていた。






















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ヒマラヤ死の逃避行

前回紹介したラサから来た女の子のいる、学校には他にも大事な証人が沢山いた。

皆さんの中にはヒマラヤを越えるチベット人の一団に中国兵が発砲し、チベット人が倒れるというシーンを捕らえた貴重な登山隊の撮影フィルムをご覧になった方のおられることでしょう。

そのグループにいた6人の子供たちに会ってその時の話しを聞いた。

子供と言ってもこの子たちはその時16,7歳現在18,9歳の子供たち?ばかりだった。
その他もちろんもっと小さな子供もグループのなかにはいたが、取りあえずこの学校に居る子は6人だった。

彼らは全員もういろんなとこに出ているので、本名を出しても良いとのことでした。
前回のガワンと違ってもうこちらにきて2年経ったからであろう、何でも話すよと言った風だった。
彼らは2006年の9月初めにチョウオユウの左肩にあたるナンパラ(ナンパ峠)を越えようとした74人の中にいた。
6人の氏名は:
1)ドルマ・ペキ  18歳 女 カム・チャムド出身
2)ソナム・チュンジェ 18歳 女 カム・チャムド出身
3)ジャミヤン・サムテン 19歳 男 カム・チャムド出身
4)テュラム・ロテュ  19歳 男 カム・チャムド出身
5)ガンツォ     18歳 女 カムチャムド出身
6)ダドゥン     18歳 女 ラサ近郊 ロカ出身

最初はみんな一緒になって話しを聞いていたのだが、状況が判った後には、
実際に目の前で尼僧が撃たれるのを目撃したガンツォともう一人逮捕されシガツェの拘置所に二か月間拘留され、拷問を経験したジャミヤン・サムテンに特に話を詳しく聞くことにした。

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ここで急用あり、いったん中断します。
失礼!。





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3/10のデモに参加し逃げ来った子供たち

ca5ecd09.JPG3月10日にラサで何があったのか
昨日私はこの日ラサにいて、かつケンブ(デモ、抗議活動)に自らの参加し、ダラムサラまで逃げて来た、三人の子供に会ってきた

彼らは今ダラムサラから数時間ところにある、TCVの学校で寄宿舎生活をしながら勉強に励んでいる。

以下本人の希望により仮名とする。
16歳の女の子ガワン、13歳の男の子ソナムそれに9歳の女の子ヤンチェンは同じカム、チャムドの出身だ。みんな親がインドに亡命し、法王に会い、勉強をすようにと送り出した子供たちだ。
三人はラサで出会い、ラサからダラムサラまで逃避行を供にした。

年長のガワンに話を聞いた。
「ネパールの一時収容所にいたときにはオフィスから、外の人にラサのことなど話してはいけないよ、と言われてた。だからネパールでは何も話さなかった。
でもここに来ると、みんなが、話さなければいけない、皆に知ってもらうために話さないといけない、という。」
と言って、恥ずかしさもあるのか始めはあまり話したがらなかった。
こちらにきて間もないからか、長い緊張の日々を経た痕跡が少し感じられる子供だった。
でも話始めると、だんだん大きな目をしっかりこちらに向け一気にしっかり話を聞かせてくれた。

数少ない貴重な証言である。

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ガワンは故郷から三月初めに送りだされ、ラサのラモチェにいる伯父さんのところに身を寄せながら、インド行きを待っていた。

3月10日、彼女は丁度その日、現像した写真を受け取るためにパルコルに行った。
写真を受けっとった後パルコルを廻っていた。
そのうちあたりの人々が騒ぎはじめた、「セラの僧侶二人が<チベット独立>を叫んで、捕まった!殺されるぞ!」
と誰かが叫んでた。
みんながその僧侶が連れて行かれたという派出所に向かった。
みんなが<チベットに独立を!><ダライラマ法王に長寿を!>と叫び始めた。
どんどんチベット人が集まってきた。
ものすごい人がいて、みんなが<チベット独立!(プーランツェン)>と叫んでた。

しばらくすると、30〜40台の軍隊のトラックがジョカンの前に現れて、大勢の軍隊がデモ隊に迫ってきた。
小競り合いはあったが、蹴散らされ、徐々にチベット人は減り始めた。
顔が血だらけになった女の人を見た。かなりの人たちが軍隊に殴られていた。

自分たちも2時ぐらいにはラモチェの家に帰った。でもその時にもまだ半分ぐらいのチベット人はそこで叫んでた。

その日も次の日も伯父さんから外に出ないようにと言われたので外のことは全く知らない。

12日の朝国境行きのトラックに乗った。
途中夜に山の中を何時間か歩かされた。
検問を抜けるためだと言われた。
14日、夜国境の手前で下ろされ、山を歩き、川にかけられたロープを伝ってネパール側に渡った。

カトマンドゥの一時収容所に着いた時には安心し嬉しかったという。

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彼女は話終わり、しばらくして、私の目を見ながら「本当にチベットは独立できるのですか?」と聞いてきた。

私は一瞬言葉を失った。

この子は本気に知りたがってる。

何と答えるべきか?

「大丈夫きっと時間がかかるかも知れないけど、自由になる日は来るよ。
本当には中国が変わらないとね。民主主義にならないとね、、、
でもダライラマ法王も世界を回って皆に助けてくれるように訴えてるし、EU アメリカ 日本も応援してる、、、」
とまで言って急に胸がつまってきて声が続かなくなってしまった。


その子の心からの望みに答えられない、、、
「本当はほんとに難しい話なんだよ、、、」とは言えない、、
絶望的状況。

何かを察して彼女も涙ぐんだ。


写真は3月10日に受け取った<ジョカン前に立つガワン>
この子はいったいいつ再びチベットに帰れるのだろう。


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昨日はさらに同じ学校にいる子供たちにも話を聞いた。
その中で、最近U-tubeにも流れた2006年9月、尼僧一人が銃殺されたナンパラ峠事件の当事者6人の子供に会った話を次回お伝えします。
















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