拷問

2010年10月14日

刑務所での拷問により精神に異常を来した尼僧、家族に引き渡される

d3195c6c.jpg10月12日付けTCHRD(チベット人権民主センター)プレスリリース
http://www.tchrd.org/press/2010/pr20101012.html

当センターが入手した情報によれば、カンゼ・チベット族自治州、カンゼ地区ロバ郷、プルナ尼僧院が行った平和的抗議に参加した尼僧ソナム・チュドゥン(36)は、度重なる拷問の末哀れな姿に成り果てたという。
銃の台尻で何度も殴られた結果、正気を失ってしまった。
それ故、刑務所を出され、彼女は家族に引き渡された。
現在も彼女は精神的に不安定で、泣き止まず、常に介護が必要な状態にあるという。

2008年5月14日、カンゼでプルナ尼僧院とヤンテン尼僧院の尼僧約200人が中国政府に対し平和的抗議を行った。
その場で公安と武装警官は多くの尼僧を逮捕した。
その後、この2つの尼僧院の院長であるトゥルク(転生ラマ)・プルブ・ツェリン・リンポチェも逮捕された。
そして、2009年9月22日、カンゼ中級人民法院はリンポチェに8年半の懲役刑を求刑した。
現在、彼は四川地方のメヤン刑務所に収監されている。
リンポチェは非常に衰弱していると伝えられている。

デモに参加し、逮捕された尼僧の内、プルナ尼僧院のソナム・ラツォには刑期10年、ブモに9年、ソカとヤンチェン・カンドに3年、タシ・ラモに2年の刑がそれぞれ言い渡された。
他のほとんどの尼僧は開放されたが、尼僧院に戻ることは許されず、それぞれの出身地に送り返された。

尼僧ソナム・チュドゥンは銃の台尻で殴られ頭部に深い傷を負った。
その衝撃から彼女は正気を失い、気がふれてしまった。
警察は2008年9月15日、彼女を家族の元に返した。
それ以来、彼女は常に泣き叫ぶことをやめず、一日中介護が必要な状態に陥っているという。

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この記事を読んで、私は1人の元尼僧ナムドル・テンジンのことを思い出した。
彼女に会ったことが、元良心の囚人を主に援助するルンタ・プロジェクトを立ち上げる契機になったのだった。

ある日、私は家の近くで女性が泣き叫ぶ声を聞いた。
その泣き声が余りに大きいので、私は外に出て声の聞こえる方へ歩いていった。
そこには、暴れながら泣き叫ぶ1人の若い女性がいて、そのそばで2人の僧侶が彼女をなだめようとしていた。
彼女の様子は普通ではなかった。
僧侶に「どうしたのか?」と聞くと「この子は元尼僧で、名前はナムドル・テンジンだ。デモの後監獄で酷い拷問をうけた。その後から正気を失ったのだ。出獄した後、こうして亡命することができたのだが、こんなになることが度々ある。一度、こうなると中々治まらない。酷い時は何日も泣き続ける。寺の周りを回りながら叫ぶこともよくある。思い出すとこうなるようだ、、、」という

その僧侶はイシェ・トクデンと名乗り、「9−10−3の会」の会長だといった。
私はそのころ、この会の名前ぐらいは聞いたことがあったが、実際にはどんな会なのか詳しくは知らなかった。
よく聞くと、会は作ったがまだ事務所もなく、本当に貧しく、これと行ったスポンサーもない会であると分かった。
彼はその気がふれてしまった彼女のことを根気よくなだめ、優しく声をかけ続けていた。

その日、私は「絶対に、この人たちを助ける」と誓った。
次の日から、私はお金を持ってそうな友達に連絡したり、ダラムサラに来る日本人に寄付を募ることを始めた。

運良く、大きなスポンサーが付き、浜田省吾くんが資金集めのコンサートを開いてくれたことも手伝って、元政治犯80人を収容する、職業訓練所+学校を建てることができた。立派な事務所もできた。

ナムドル・テンジンはその後やさしい元政治犯と結婚し、次第に落ち着いて来た。今は子供も生まれ、ベルギーに移住している。


ナムドル・テンジンの証言:http://www.lung-ta.org/testimony/namdol.html













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2010年07月31日

ルンタ・レストランで働く元政治犯三人組みの証言

現在、ダラムサラのルンタ・レストランで働く元良心の囚人三人組みの話。

ルンタ・レストランの三人組写真左よりロサン・ギャツォ、ダワ・ソナム、ツェリン・サンドゥップ。

まず、短くまとめられた証言書を持つロサン・ギャツォの話から。

法名ロサン・ダドゥル、俗名ロサン・ギャツォ。
私は1976年、ラサ近郊のメルド・グンカル県ギャマ地区第6村で生まれた。13歳まで家の手伝いを主にしていた。農閑期の冬には学校に通った時もある。14歳になった時、兄と共に僧侶となりガンデン僧院に入った。その頃僧院には700人ほどの僧侶がいた。

1989年、兄を含めたガンデン僧院の一団がラサで平和的抗議デモを行なった。それ以降2年以上、僧院には約200人の中国軍が駐屯し続けた。僧院内には政府の管理事務所が設置され、もしも僧侶が僧院の外に出る時には、一々この事務所に出頭し許可証を発行して貰わなければならなくなった。これは水を汲みに行く時もリンコル(僧院を巡る右遶)をする時などにも適用された。
そして、それ以降、僧院では毎日、当局の送りこんだ政治教育班による共産党の政治教育が行なわれるようになった。そこでは「分裂主義者であるダライ一味を糾弾せよ」がマントラ(真言)だった。

このように全く自由を奪われ、仏教の勉強もまともにできなくなった。
このようなことに我慢できなくなり、仲間4人が集まり抗議のデモをすることを決心した。デモの前に4人が集まり、「死を覚悟する儀式を行なった」。私はその時18歳になったばかりだった。

1992年6月10日、僧院仲間であるツェトン、ツェリン・バクド、ペンパ、ドゥンドゥップ、と私の4人はラサのパルコルで、チベットの国旗を掲げ、「チベットに独立を!」「中国人はチベットから出て行け!」「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と声を張り上げた。5分も経たない内に、我々は武装警官に囲まれ、殴り倒された。警察署に連れて行かれた後、「お前たちの裏で手を引いている者は誰か、吐け!」と言われた。全員「自分たちが決めただけで誰かに言われたわけでではない」と答えた。その後5,6人に囲まれ意識を失うまで滅多打ちにされた。それから、グツァ拘置所に送られた。

そこではまず、丸裸にされた。丸裸のまま部屋の外を歩かされたりもした。もちろんここでも最初に挨拶代わりの暴力を受けた。夕方拘置所の服を着せられ、第1棟5号室に入れられた。監房に入れられると、先に同じように政治犯として入れられていた、プルツォック僧院のパルデンとガンデン僧院のテンジンの2人がボロボロになった私の面倒をやさしく見てくれた。

それから二が月の間、毎週1,2回拘置所の尋問官と裁判所の役人から尋問を受けた。
尋問の時には必ず拷問を受ける。棍棒で殴られ、電気棒が気絶するまで使われた。気絶すると冷たい水をかけられた。頭の上で両手を縛られそのまま天井から長い間吊り下げられもした。「裏に誰がいるのか? ダライがいると言え!」と強要するばかりだが、私は「死んでも嘘は付かない」と決心していた。

数か月後、裁判もなく判決だと言って言い渡されたのが刑期5年と政治的権利剥奪2年であった。一緒にデモを行なったツェリン・バクドには刑期8年、政治的権利剥奪3年、ペンパには刑期7年、政治的権利剥奪3年、ドゥンドゥップには刑期6年、政治的権利剥奪2年が言い渡された。
その後、1992年11月他9名の政治犯と共にダプチ(タシ)刑務所に送られた。
その日、所持品の検査を受け囚人服が渡された。ここでも挨拶代わりに暴行された。
次の日から1か月間刑務所の規則に関する教育というものが行なわれた。

毎日の食事は、朝、卵大の蒸しパン1つとお茶1杯、昼と夜には蒸しパン2つに野菜スープだった。スープの中には砂やごみが混じっており慣れるまで吐き気で中々飲むことができなかった。常に空腹であった。全員日増しにやせ細っていった。

その後、集会が開かれ政治犯は労働のためにグループ分けされた。私には同じガンデンの僧侶ジャンペル・モンラムと共に、ビニール・ハウス内の野菜作りの仕事が与えられた。仕事は簡単ではなく、人糞を撒き、化学肥料を多量に使うので、夏などビニールハウスの中にいると倒れてしまうこともあった。仕事は他にセメント工場で数カ月働かされたこともある。

野菜作りにはノルマが与えられ、1年に15000元以上の利益を上げないと懲罰の対象とされた。その後の1年間、「新しい人間になる」ためという政治教育に毎日出席しなければならなかった。そこでは「考え方を変え」「分離主義的思想を捨てる」ことが強要された。また、政府の役人が刑務所視察に来たときには、行儀よく楽しそうに振る舞えと命令された。しかし、政治犯の内だれもこのような教育や命令に従う者はいなかった。その罰として、軍隊式訓練だといって朝と昼それぞれ1時間半に及ぶランニングなどの激しい運動が科せられた。みんな、十分な食事を取っておらず、病人も多かったが、これには政治犯全員が参加させられた。少しでも遅れると殴られた。夏の暑い日には長時間炎天下、直立姿勢を保つことが強要され、真冬には氷の上に素足で立たされた。少しでも動けば棍棒で殴られる。これはつらい拷問だった。

1997年6月9日、刑期を終了し、刑務所を出された。その日父と姉が迎えに来てくれ、本当に嬉しかった。身体はボロボロだった。病院で検査を受けたが入院を勧められた。結局その後1年間入院していた。

1998年から4年間ラサのある商店で働いていたが、度々公安が訪ねてきて質問された。2002年から他の元政治犯2人と共同で金を借り、ラサで卸しの店を始めた。2004年の初めごろから、再び公安がしばしば現れるようになった。元政治犯の3人が一緒に仕事をしているのは怪しい、再び何か政治的なことをやっているのではないかとの疑いをかけられた。仲間のパサンはラサの北派出所で尋問を受け、ダワ・ソナムはメルド・グンカルの警察に呼び出された。自分も常に見張られるようになった。このようにして、移動などの自由が拘束され、普通の生活を送ることが非常に難しくなった。

このような状況の中、私は亡命を決心した。他の仲間2人と共に、ネパールの国境ダムまでの移動許可書を金を積んで手に入れた。2005年5月仲間のパサン、ダワ・ソナムと共に国境を超えることに成功した。2005年5月19日カトマンドゥの難民収容所に辿り着いた。その後デリー経由でダラムサラの収容所に着き、心待ちにしていたダライ・ラマ法王との謁見を受けることもできた。
ダラムサラでは最初ソガ・ロプタ(トランジット・スクール)で学び、去年からルンタ・レストランで働いている。

ロサン・ギャツォの刺青 「チベット」彼の左手にはབོད་(チベット)と刺青が彫ってある。獄中で入れたという。

ルンタ・レストランの厨房には今3人の料理人がいるが3人とも同じような経歴を持つ。
書かれたものはないが他の2人の話も簡単にお知らせする。

年は3人とも同じ34歳だ。ロサン・ギャツォとほぼ同じ経歴を持つのは同じガンデン僧院出身のダワ・ソナムだ。彼もメルド・ゴンカルの出身で14歳の時ガンデンの僧侶となった。デモを行なったのはロサン・ギャツォたちがデモを行なった6日後であったという。
刑期も同じ5年だった。拷問の受け方もほぼ同じだ。

彼曰く「拷問の様子を本当に詳しく話ても、普通の人は信じることができないだろう。今生きているのが不思議なくらいだ。みんな同じように拷問を受けるが、死ぬかどうかは運の違いでしかない。中には頭を強く殴られ、本当に死んでしまう者もいる。自分が知っているだけでも2人いる。刑務所では拷問で死にそうになると、外に出すことが多い。中で死なすと問題となるからだ。死ななくても一生その後不具になる者も多い」と話していた。
彼はラサでもロサン・ギャツォと共に働き、その後一緒に亡命している。

3人目のツェリン・サンドゥップはラサ近郊のペンボの出身。子どもの時に父親が亡くなったのち、セラ僧院にいる伯父に面倒を見てもらっていたという。学校には行ったことがないがチベット語は僧侶である伯父さんから習っていたという。

18歳の時僧侶となり、ペンボにあるガンデン・チュコルリン僧院に入った。しかし、そのすぐ後1994年の春から僧院には政治教育班が常住するようになり、毎日、ダライ・ラマを非難する等の教育が行なわれた。これはつらい日々だった。数か月これが続いた後6月、仲間3人と共にデモをすることを決心した。

デモの後の話は上記の2人とほぼ同じという。
ただ、彼は尋問の時「自分が先導した」と言ったため6年の刑期を受けた。2000年に出獄したが、政治的権利剥奪の3年間は全く動きが取れなかった。しかし、田舎に帰って見ても、農地は政府に取り上げられた後であり、仕事が無かった。ラサでなんとか仕事を探して店で働いていたこともあるが、しばらくすると公安の職員が来て、店のオーナーに「こいつは元政治犯だ。彼に何かあったらお前も責任を取ることになるぞ」と脅す。オーナーは仕方なく彼を解雇する。そんなことが3度続いたという。

2005年の3月、そのような不自由さに耐えきれず亡命を決心した。亡命のルートは例のナンパラ峠超えだったという。25日間歩いた。その亡命グループは総勢25人だった。その中に子どもが10人含まれていたが、その内の2人は凍傷になった。
カトマンドゥに到着した後、1人の子どもは耳を切断し、もう1人は足の指を何本か切断せねばならなかったという。

















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2010年07月01日

中国のスパイと拷問

chinese spyチベット人も相当拷問されるが、中国で拷問されるのはもちろんチベット人だけじゃない。
民族的には現在チベット人とウイグル人がもっとも拷問に晒され易いであろうが、社会的グループとして一番拷問に晒され易いのは何と言っても「法輪功」の人々であろう。
残酷を極めた彼らへの弾圧は、おそらくチベットを上まるかもしれない。
http://isukeya.iza.ne.jp/blog/entry/1378266/

その法輪功弾圧のために中国政府がゲシュタボを真似て?設立した「610オフィス」という組織がある。
その組織の最高責任者の羅幹と彼を指導したとされる江沢民前総書記はスペインとアルゼンチンの国家法廷により、「ジェノサイドと拷問の罪」により2005年法輪功の人々により告訴された。
4年の審査の結果、去年の暮に両国は二人に対し刑事訴訟手続を起動し、国内や国外において彼らを逮捕するよう決定したという。

で、話はその羅幹なのかどうか定かでないが、近頃ドイツで、この「610オフィス」の責任者と名乗る男と、もう一人の中国政府高官が国内の法輪功の人々に対するスパイ罪の容疑で取り調べを受けているという。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27635&article=Germany+Cracks+Down+on+Chinese+Regime%e2%80%99s+Spying
ドイツのある新聞(Spiegel)などでは、このことが数週間後に控えたアンゲラ・メルケル首相の中国訪問にも影響するかもしれないと伝えているとのこと。

去年の暮れにもミュンヘンの中国領事館付きの外交官がドイツ内部のウイグル人コミュニティーをスパイしたとして国外退去処分を受けている。

ドイツ内務省が6月21日に発表した2009 Constitutional Protection Reportの中で、テロリストとスパイがいかに国を脅かしているかが報告されている。
その中、数ページを費やした中国のスパイ活動についての報告がある。
「中国は組織的、計画的に政治的、工業的、軍事的情報を集めているだけではなく、政府に脅威を与えると見なす一般人のグループに対してもスパイ行為を行なっている」と報告される。
中国政府が、「五毒と戦え」を標語として、体制を脅かす可能性のある「五毒」をいかに弾圧しているかについて述べられている。
「もっとも影響を受けているのは、中国が分離主義者と見なすウイグル人とチベット人、そして法輪功グループだ。それ以外に中国共産党は民主主義運動のメンバー、及び台湾独立を擁護する者たち、この人たちが国家の敵と見なされている」と報告書は述べる。

「610オフィス」
は1999年6月10日、江沢民により、その当時7000万人(政府発表)いたという、法輪功学習者を根絶やしにするために設立された。
現在の学習者の数については政府は迫害の効果あってすでに200万人以下になったというが、実際には今も数千万人の学習者がいると言われている。

彼らに対する拷問について、アルゼンチンで200ページに及ぶ報告者をまとめたラマードリッド裁判官によれば「両被告がこのジェノサイド犯罪を実行する過程において用いた手段はきわめて残忍で、人間の生命と人類の尊厳を著しく蔑視している。
法輪功の根絶を目的とするこの集団弾圧において、不法逮捕、洗脳教育、虐待、拷問、殺戮が日常茶飯事に行われている」
と書き記した。

調書の中、同裁判官は、被告らの罪の重大さに鑑み、「普遍的管轄権」の使用を強調している。
原告側弁護団の一人アレハンドロ・G.カウズ弁護士は、「共産党独裁政権下で生きたことがない人間には、その辛さは到底分かり得ない、とルーマニアのある外交官がかつて語っていたが、4年間の調査を行ってきた中、私は身をもってこの言葉の真意を理解した。自由と真理のため、共産主義の残酷さを暴露するための戦いに参加できたことを誇りに思う。
連邦裁判所の今回の決断は、この弾圧を制止するための第一歩であり、この弾圧は必ず終結させなければならない」と語ったそうだ。

法輪功側の発表によれば、昨年一年間だけでも2200人以上の学習者が新たに投獄され、109人が獄中で死亡しているという。

拷問は色々だろうが、例えば「ある学習者は一度に6本の高圧電気棒を使われたり、爪をはがされた」という。

かつて、このオフィスのメンバーであり2005年にオーストラリアに政治亡命した陳氏によれば、外国にいる法輪功メンバーはすべて調べつくされているという。
外国にいる法輪功メンバーの情報を集めれば5万元までの多額の報酬を得ることができるそうだ。
(チベット人や支援者の情報は幾らかな?)

最近、アメリカで美人を含む10人のロシアのスパイが逮捕され、裁判が開かれているというニュースが流されている。
ドイツでもこうして中国のスパイというか高官が取り調べを受けている。

では、日本はどうなのか?
日本には中国のスパイはいないのか?
そんなわけないのだ。日本の法輪功学習者もウイグル人もチベット人もみんなちゃんと監視されている。
それだけではない、彼らを支援するの日本人だって監視だけではなく、直接、間接の嫌がらせをうけている人だっている。もっとも今のところ、その対象は大物だけだけど。

ある報告によれば日本に中国人スパイは1000人いるという。
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/chin.html世界には1万人という。

しかし、日本政府がこれまでに日本で活動する、スパイたちを告発したという話はきいたことがない。報告書さえ作っていない?
ある議員はあまりに露骨な干渉を公安に報告したが、日本の公安はそれを無視したという(私が直接聞いた話)。
日本は中国の諜報員の活動を自由に許しているがごとしだ。
日本も裁判は到底無理にしても、他のちゃんと独立してる先進国を少しは見習ったらどうかね。
小沢殿がいる限り、無理だってか?











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2010年06月29日

ソナム・ドルカの証言

Marc Riboud以下の証言も、前回と同じように2001年にルンタ・プロジェクトが行った亡命チベット人への一連のインタビューの一つ。
http://www.lung-ta.org/testimony/sonamdolka.html

高橋明美さんがまとめてくださった。

(少々長い。写真はMarc Riboud「1985年」)


■ソナム・ドルカの証言

 私がダラムサラに辿り着いてから、早くも5年の年月が過ぎようとしています。毎日が、重苦しい時間の積み重ねのように感じられます。刑務所で受けた拷問による後遺症は、ますますひどくなる一方で、頭痛とめまいに日々悩まされ続けています。ひどい頭痛のため、何日も眠れない夜が続きます。昼間もなんだかぼんやりしてしまって、時々、自分が何をすべきだったのか、思い出せないことがあります。

そして、まだ刑務所の中にいる父のことが頭から離れず、心配で胸が張り裂けそうです。私の父ツェワン・パルデンは、インドへ亡命しようとした際に、中国とネパールの国境で捕まってしまったのです。ネパール政府はやっとヒマラヤを越えて来た父たちを再び中国へ引き渡したのです。1995年6月のことでした。これからお話しすることは、実際に私たち家族に起きたことです。中国がチベットに侵略して来なければ、決して起こらなかった筈の悲劇、そして多くのチベット人たちが味わねばならなかった苦しみの歴史なのです。

 
Marc Riboud◆ラサでの子供時代

 私はチベットの首都ラサで1967年に生まれました。父は大工をしており、母は洋裁の内職をして家計を助けていました。貧しかったけれども、一人娘だった私は両親からふんだんに愛を受けて育ちました。学校には七年程、ラサの人民学校に通いました。授業はすべて中国語で行われ、生徒はチベット人しかいないというのに、学校でのチベット語の使用は固く禁止されていました。よく農作業や仕事に学校から駆り出されたため、まともな授業はほとんどありませんでした。

 子供の頃、毎日のように政治集会があり、仕事を終えたばかりの両親に連れ出されて、私も集会によく行きました。けれども、幼かった私は話しの内容も分からず、ただ静かに聞いていなければならず、大変苦痛でした。寒い日に凍えながら、終わるのをじっと待っていたことを今でもよく覚えています。タムジンと呼ばれる批判集会もありました。タムジンは私にとって恐ろしい見世物のようなものでした。鬼のように怖い顔をした中国人たちが、高僧だった人たちをつるし上げて、罵声を浴びせながら殴っていました。それを周りのチベット人にも強制するのです。誰も止めさせることが出来ず、目をそむけることも許されませんでした。何故なのか訳が分からず、「お坊さん、何か悪いことしたの? お坊さんが痛い目にあってるのに、どうして助けてあげないの?」と両親にいくら尋ねても、ただ悲しそうに黙っているばかりでした。

 一週間おきぐらいに、中国人の警官が家に来て色々と調べていました。仏像や灯明があるかどうか、ダライ・ラマ法王の写真が隠されていないかを調べました。私はその場所を知っていましたが、何度聞かれても知らない振りをしていました。幼い頃、法具や写真が見つかって両親がタムジンで殴られる夢をよく見ました。朝起きると、急に不安になって慌てて両親の顔を見に行ったりしました。

 もちろん、寺への参拝も禁止されていました。それでも、両親は信仰深かったため、時々こっそりと人目を忍んで、かろうじて破壊から免れていたお堂の鍵を開けてもらっては、仏を拝んでいました。私も両親にせがんでは、よく一緒に連れて行ってもらいました。寺に行くときは、病院に診察を受けに行くと嘘をついて学校を休んでいました。あるとき、その嘘がばれてしまったことがあります。私は、中国人の先生にひどく殴られ、一日中床の上に座っていなければなりませんでした。

 毛沢東が死んだ日のこともよく覚えています。どんな小さな子供でも毛沢東のことをよく知っていました。毎日毛沢東を賛える歌を歌い、毛沢東語録を暗唱させられていたからです。当日、子供たちは胸に白い花を挿して、葬儀に参加せねばなりませんでした。泣いていない子は「どうして泣かないのか」と言って先生から殴られました。私は、目を強く擦り、下を向いてうつむいていました。式の間中、殴られはしないかとずっと怯えていました。

 先生に引率されて、ラサにある博物館に行ったこともあります。そこには、昔チベットが『封建社会』だったころの展示物や写真がたくさんありました。一部の貴族が特権を独占し、民衆からの搾取によって私腹を肥やし、奴隷を虐待している様子。野蛮な刑罰を執行していた様子。そんな蛮行が人形となって並べられていました。贅沢な服に身を包み、豪華な椅子にふんぞり返る太った貴族の脇には、ぼろを着て痩せこけた奴隷が立っていました。罰として目をくりぬかれた罪人、手足を切断された罪人の人形もありました。何のことだがよくわからず、怖くて震えている子供たちに、先生はこう説明しました。

「偉大なる中国共産党がチベット人たちを、野蛮な封建主義者たちから解放するまでは、民衆は常に虐げられ、苦しみ続けていた。少しでも貴族たちに逆らえば、こうした罰が待っていたのだ。毛沢東首席のおかげで、おまえたちはこうやって何不自由なく学校に行け、勉強することが出来るのだ。毛沢東首席への感謝の気持ちを決して忘れてはいけない」

まだ幼かった私は、先生の言葉の真偽を判断することができませんでした。奴隷がかわいそうとの思いと再び昔のチベットに戻ったらどんなに大変だろうという思いで一杯でした。

 家に帰ると、博物館で見たことを両親に話しました。

「先生は、毛沢東がチベットを救ったおかげで、こうして無事に暮らせると言っていたのだけど、本当なの。チベットは昔そんなにひどい国だったの」

両親は私のその言葉を聞くと、とても悲しい顔になりました。

「それは違うよ。確かに懲罰はあったけれども、それは重い罪を犯したり、不正をしたりしたときだけだ。昔、チベットにはちゃんとした法律があって、法律に従って裁かれていたのだよ。誰かがそれを乱用したりはできなかった。中国が来る前と今では確かに生活は大きく変わった。良くなるどころか、本当は悪くなってしまったのだよ。昔は仏教が栄え、人々は信仰によって生きていたというのに」

両親は多くを語りませんでした。けれども、その日から私の心の中に中国人への払拭しがたい不信感が生じたのです。

 私たちの生活は決して楽ではありませんでした。自由に買い物も出来ず、また買うお金もありませんでした。農村では人民公社が導入されて以来、著しく生産高を落としていましたが、都市部でも似たような制度があり、地域単位で食料が支給されていました。労働者には一月に大麦と小麦を合わせて三十ギャマ(一ギャマは約一キロ弱)、非労働者には二十六ギャマ、子供には八ギャマが支給されていましたが、到底足りる量ではありませんでした。砂糖などは贅沢品で、特別の許可証がなければ、買えませんでした。肉、バターなどは、闇市でしか手に入らず、北からの遊牧民たちからこっそりと物々交換で手に入れていましたが、見つかれば刑罰が待っていました。

 
Marc Riboud◆洋裁の仕事

 14歳になると、学校を辞めて、母の知り合いを頼り洋裁の見習いを始めました。家が貧しかったせいもあるのですが、両親がこれ以上中国共産党によるの教育を続けさせたくないと思っていたからです。私も何か手に職をつけたいと思っていたので、喜んで洋裁を習うことにしました。チベットの民族衣装であるチュバという着物やシャツ等の仕立てることを教わりました。最初の一年は給料をもらえませんでしたが、仕事に興味を覚え、一生懸命に働いていました。

 毛沢東が死に、小平が政権に就くと政策が次第に変り始めました。壊された寺の再建が始まり、制限付きではありましたが宗教の自由も認められました。チベット人たちは、寺の再建への協力を惜しみませんでした。布施のために遠くからやってくる巡礼者も増え始めました。父も大工としてラサの三大寺であるセラ寺やガンデン寺に出向いて、無償で労力を提供しました。私も洋裁の先生と一緒にガンデン寺に住み込んで、仏画の外枠や仏像の服、お堂の垂れ幕を縫いました。ガンデン寺は、徹底的に破壊された寺のひとつです。おびただしい数の廃虚と化した壁の残骸が、今は無き当時の仏教の興隆を彷彿とさせるだけで、四千人近くいた僧侶は一人もいなくなっていました。私たちはテントに寝起きして、寺の再建のために必死で働きました。もちろん破壊した当人の中国政府からは一銭の援助もありませんでした。テントの中には、お釈迦様の仏像が一体置かれていました。その周りで朝晩僧侶たちが経典を読んでいました。これがガンデン寺の新しいお堂でした。

 18才になると私は父の紹介で結婚しました。夫も大工の仕事をしていました。まもなく女の子も授かり、一人前の針子として洋裁店へ就職もしました。給料は出来高制で、最も多いときで一日20元(約240円)でしたが、その中から食費7元と電気代4元を差し引かれていたので、手元にはわずかしか残りませんでした。


Marc Riboud◆独立要求デモ

 1987年になると、僧侶たちによるデモが続くようになりました。私は彼らの気持ちが痛いほどよく分かりました。全ての特権が中国人の手の内に握られていて、チベット人たちはいつもひどく虐げられている存在でした。ほとんどの店も中国人経営のため、チベット人は職を探すのにも一苦労していました。失業者が町中に溢れ、チベット人の乞食が町を徘徊していました。

 1988年の大祈祷法会では、その鬱憤が一度に爆発したような大きなデモが発生しました。もちろん私も参加しましたが、デモは予想以上に大きくなり、多くの人が逮捕されるという悲しい結果になってしまいました。少なくとも50人の死者が出て、逮捕数は2500件にも上ると言われています。私は運良く逮捕はされませんでしたが、逮捕された人々は誰もが拷問を受け、多くの人が死刑や終身刑、懲役刑を含む実刑を言い渡されました。私は強い憤りを覚えました。自分たちの国であるはずなのに、どうして自由や権利を主張することが許されていないのか。そして主張した結果、こんなにも苦しまなければならないのか。私は、こんな理不尽なことが行われていることを外の世界に伝えなければという強い思いに駆られていきました。何人かの仲間とともに私は活動を始めました。まず、ダライ・ラマ法王の講演テープを入手し、繰り返し聞きました。ダライ・ラマ法王が亡命し、チベットの自由のための運動を行っているということは私たちに強い勇気と希望を与えてくれました。きっといつか自由になる日が来る、そしてダライ・ラマ法王が戻って来る日が必ずやって来る、と私たちは信じて止みませんでした。そして、そのためにはどんなことでもやるつもりでした。

 1988年の大祈祷法会の際に逮捕され激しい拷問を受けた、4人の尼僧たちと接触する機会を得ました。彼女たちは、グツァ拘置所で7ヵ月間勾留された後、釈放されたばかりでした。私はビデオカメラを手にいれ、彼女たちにインタビューし、そのテープをインドにあるチベット亡命政府に送ろうと決心しました。彼女たちは皆、十八、十九才のまだ幼さが残る若い尼僧ばかりでした。インタビューは私の家で行いました。彼女たちは顔を隠そうともせず、静かに語り始めました。連日のように激しい拷問が続いたこと、電気棒で殴られたこと、そして電気棒でレイプされたことなどが彼女たちの口から聞かされました。あまりの恐ろしさに私は背筋が凍る思いがしましたが、それでも必死でビデオを回し続けていました。同様に、僧侶にもインタビューをしました。彼は1959年の中国共産党の侵略時から投獄され、30年もの長い間牢獄生活を送った人でした。それらを収めたテープを、インドへ亡命する人に預け、必ず亡命政府に渡してくれるようにと頼みました。


◆逮捕

 1989年7月30日のことでした。夕飯の支度をいつものようにしていた時のことです。突然、20人近くもの警官が家に押し入って来ました。彼らは私の名前を確認すると、即座に手を縛ると外に引きずり出しました。家の中では、警官たちが滅茶苦茶に部屋のいたるところをひっくり返していました。殴られているらしい父親の叫ぶ声が聞こえて来ました。娘は母親と一緒にジョカン寺を巡るバルコルにお参りに行っており、ちょうどいませんでした。

 そして、とうとうこの日から1年以上も、両親や娘に逢うことは出来ませんでした。警察は私の居場所を家族に一切教えなかったからです。前日に仲間の一人が逮捕されていたので、自分の逮捕も近いだろうと覚悟はしていました。重要な書類等は既に処分してあったので、どんなに探しても何も出てこない筈でした。けれども、両親は何も知らなかったので、非常にショックだったろうと思います。そして、娘はまだ3才になったばかりでした。

 グツァ拘置所に着くと、すぐに手錠と足枷がはめられ、尋問が始まりました。警察はビデオの件について詳しい情報を得ているようではありませんでしたが、私がダライ・ラマ法王の講演テープを所持していたことは知っているようでした。テープを貸した僧侶が拷問に耐えきれず、私の名前を言ってしまったようでした。警官はいつも4人でした。彼らはまず私を椅子に縛りつけると、電気棒でショックを与え続けました。気を失うまで電流を流し続け、気を失うと水を頭から浴びせました。幾度も繰り返されました。政治組織のメンバーの名前を彼らは聞きだそうとしましたが、私はどんなことをされても決して話しませんでした。

 尋問は、二日に一回行われました。尋問室に呼び出されると、4人の警官に囲まれ、朝から晩まで休むこと無く、尋問が続きました。本当に長い時間に感じられました。彼らは私を裸にすると、椅子に縛り付け、殴る蹴るの挙句、電気棒でショックを与え続けました。30分もの間、電流が流され続けることもよくありました。髪の毛が逆立ち、肉が裂けてしまうのではないかと感じる程強く引っぱられるのです。そして、胃にあるものを全部戻してしまい、血を吐き、鼻血が止まらなくなるのです。朦朧としてくる意識の中で、さらに辛いことが何度も行われました。彼らは、電気棒を性器の中に面白そうに突っ込み、私を凌辱したのです。

 私が何も言わないのを知ると、彼らは私を独房に入れました。独房には体をようやく横にすることが出来るだけのスペースとトイレ用に掘られた溝があるだけで、窓もベッドも寝具も何もありませんでした。食事は一日に二度、上から小さなパンが放り込まれるだけでした。独房にいる間も一日置きに尋問室へ呼び出されました。いつも突然の外の光に目が眩み、ふらふらする足取りで追い立てられながらやっとの思いで尋問室まで歩いていっていました。私はただひたすらダライ・ラマ法王に祈り続けていました。きっと、必ずダライ・ラマ法王が救って下さるに違いない。それだけが頼みで、そして私を生かせつづけていました。47日間を独房で過ごした後、元の監房に戻されましたが、窓があるというだけで何ら独房と変わり無いものでした。

 半年以上も勾留が続くと私は、精神的にも肉体的にも限界に近い状態になってしまいました。九ヵ月後にはもう歩けませんでした。裁判が行われましたが、それが何月だったかはっきり思い出せません。懲役十年の判決を受けました。私は抱えられたまま、裁判官からの判決を受け、そのまま拘置所に戻されました。弁護士も傍聴人も裁判所にはいませんでした。私の意識は朦朧としていて、体中痣だらけで、立つこともままなりませんでした。そのまま警察病院へ運ばれましたが、あまりの状態に医者も匙を投げる始末でした。


Marc Riboud◆亡命

 私は両親の元に帰されたようでした。気が付くと、両親が心配そうに見守っていました。娘もいました。拘置所の中で一番心配だったのは、なにより一人娘のことでした。私がこのまま死んでしまったら、娘はどうなるのだろうか、そんな心配で眠れない夜がよくありました。両親は、手首や足首の傷跡、首のところの大きな傷跡等を見て、私がどんな目にあったのか分かったようでした。両親は涙にむせながら、警察から私が危篤との連絡が入ったこと、治療を理由にどうにか引き渡してもらったこと、そしてチベット医学院の病院に入院させたこと等を話してくれました。両親との久しぶりの再会は大変嬉しかったのですが、治れば10年の懲役が待っている事を思うと心は晴れず、不安と恐怖で胸が押し潰されそうでした。

 両親は毎日のように、食事を持って来て看病してくれました。神経障害があると言われ、チベットの伝統的な薬を飲み、温泉治療も行いました。そして、治療の甲斐あって、ようやく少しづつ歩けるようになった頃のことでした。皆が寝静まった夜更けに友達がやって来たのです。彼らは、私に今すぐインドへ亡命するように勧めました。治ってしまえばさらにこれから10年間も監獄生活を送らねばならなくなる。今度こそ必ず死んでしまうだろう。再び中国人の手に落ちてはいけない。彼らは、着替える服も車も用意してあると言いました。私は果たしてヒマラヤを越えられるか心配でしたが、このままチベットに残れば間違いなく殺されてしまうだろうと思いました。けれども、娘を残して行くことは出来ません。例え私が途中死んでしまっても、娘は助かるでしょうから、きっと両親に私のことを伝えてくれる手がかりになるでしょう。私は友達にどうしても娘を連れてきてくれるように頼みました。

 逃亡用の服に着替えて、病院の裏口からそっと抜け出すと、そこに車が待っていました。中には何も知らずに眠っている娘もいました。車は静かに動きだすと、裏門から警備の目を潜り抜け、ラサの街の外に出ました。そして、西へと向かいました。5日後に22人の仲間と落ち合い、ヒマラヤの方へと歩き始めました。逃亡は過酷を極めました。私は何度も皆にもう歩けないから置いて行ってくれと頼みました。その度に皆に励まされ、やっとの思いでネパールの首都カトマンドゥに辿り付いたときには、ラサを立って既に2ヶ月が過ぎていました。


◆母の死とダライ・ラマ法王との謁見

 ネパールで1ヶ月程静養した後、チベット亡命政府のあるダラムサラに向かいました。ダラムサラでは、難民収容センターで保護されることになりました。そこには、他にも亡命してきたばかりのチベット人がたくさんいました。ようやく辿り着いてほっとしたのも束の間、私はラサ出身のチベット人からあまりにも悲しい事件を告げられたのです。母が亡くなったというのです。何も知らず中国とネパールの国境あたりを歩いていた時のことでした。母は私が捕まってからというもの心労のため心臓の病いを患っていたのですが、私が行方不明になったことで警官が両親を何度も呼び出し尋問したのです。母はもう耐えられなかったのでしょう。私はショックでただ呆然とし、目の前が真っ暗になってしまいました。

 その日は、ちょうど寺で法要が行われていて、ダライ・ラマ法王も儀式に参加してらっしゃいました。皆はその寺の周りを右周りに周りながら、数珠を手繰り祈り続けていました。私もその列に入ると周り始めました。ちょうど本堂の脇に来たときにダライ・ラマ法王のお姿が目に入りました。その瞬間、私はその場に泣き崩れてしまい、もう一歩も進むことが出来ませんでした。周りの人々が可哀相にという目で眺めていましたが、私は後から後から溢れてくる涙をどうしても止めることが出来ず、ただそのまま法王の方へ手を合わせ続けていました。やがてダライ・ラマ法王が気付いたらしく、お付きの僧侶が私の方へやって来ました。ラサから来たばかりであることを説明すると、ダライ・ラマ法王が話しをしたがっていることを教えてくれました。そして次の日法王との謁見が許されたのです。

 私は娘と一緒に謁見に向かいました。母の死をともらってもらうために、わずかばかりのお金を白い絹のカタとともにダライ・ラマ法王に差し上げました。ダライ・ラマ法王は、娘の頭を何度も撫でて下さり、優しく声を掛けて下さいました。私はチベットでのことを出来る限りお話ししましたが、途中で何度も声が詰まってしまいました。ダライ・ラマ法王は一つ一つの悲しい出来事に相槌を打って下さり、優しい言葉を掛けて下さいました。チベットでは法王にお会い出来ると来世の幸せが約束されると信じられています。私は地獄を抜けて今、法王のお顔を目の前にでき、これでもう大丈夫だと、そして母も無事に来世に生まれ変わることができたにに違いないと思わずにはいられませんでした。


Marc Riboud◆父の逮捕

 母が亡くなってから、父はひどく意気消沈し、家の中でふさぎ込む日々が続いたそうです。中国政府の嫌がらせはますます悪化する一方で、連日のように警官が見回りに来ていました。父は私がインドに亡命したことを人づてに知ると、亡命の準備を密かに始めました。家の家財道具の一部を手伝いに来ていた叔母のために残すと、残りを全て売り払いました。残った大工の仕事は仲間に引き継ぎました。そして1992年2月、巡礼とシガツェの親戚に逢いにいくと言ってラサを離れたのです。父はシガツェまで辿り着くと、そこでジープを借りて国境へと向かうはずでした。ところが、亡命の計画が政府に知れてしまったのです。父はシガツェで追いかけて来た警官に捕まり、ラサへ連れ戻されてしまいました。そして手持ちのお金を全て没収された挙句、サンイップ拘置所に連行されてしまったのです。叔母までもがグツァ拘置所に1週間も勾留されて尋問を受けました。家は隅々まで家宅捜査されたため、滅茶苦茶になってしまいました。父は、1年間拘留された後、懲役5年の判決を受け、ダプチ刑務所に移されました。家には叔母だけが残されました。叔母は日雇人夫として工事現場で働き、仕事が終わると近所の家の洗濯や食器の後片付けを手伝っていました。そうして得たお金で、日用品や薬、食料を買い、月に一度の面会の際に父へ渡してくれていたのです。

 ところが、その叔母が1993年に急死したのです。悲しいことに叔母の遺体をともらう者は誰もいませんでした。父が葬儀をどうしても行いたいと申し出ると、3日間だけ家に戻ることが許されました。3人の警官に囲まれて久しぶりに帰宅した父が目にしたのは、叔母の変り果てた姿でした。無理がたたったのでしょう。十分な葬式をやってあげられる筈はなく、儀式が終わるとすぐに刑務所へと連れ戻されました。チベットの習慣では、人が亡くなると49日までは一週間ごとに法要を行うことになっています。刑務所の中ではまったくできなかったと思います。さぞかし父は無念だったことでしょう。父は最初の1年は豚の飼育係りの仕事を与えられ、その後はガンデン寺の高僧ユーロ・ダワ・ツェリンと一緒に鶏の飼育の仕事をしていました。

 1994年、北京は2000年のオリンピック開催地に立候補しました。開催地をめぐって他国と拮抗する中、世界中から中国の人権問題に対して非難が高まり始めました。中国は、高まる非難に対して、何人かの政治犯を釈放することで世論をかわそうとしました。私の父も3年の刑期を残して11月4日に釈放されました。一緒にセラ寺の僧侶トプテン・ツェリン(71歳)とガンデン寺の高僧ユーロ・ダワ・ツェリン(66歳)も釈放されました。ユーロ・ダワ・ツェリンとトプテン・ツェリンは、1987年、イタリアのTV取材のインタビューに対してチベットの人権侵害や政治問題について語ったため、10年の懲役を下され、ダプチ刑務所で服役していました。

 父は、完全に自由の身になれたわけではありませんでした。毎日当局に出頭せねばならず、一日に一度、ジョカン寺に参拝に行くのが認められているだけで、その他の外出は一切禁じられていました。誰かが父を訪ねることも、誰かと話すことも全く許されていませんでした。父は逮捕された時に没収されたお金を戻して欲しいと頼んだらしいのですが、その訴えが認められたのかどうかは、私には定かでありません。


◆二度目の亡命

 父は再び亡命することを決意しました。密かにトプテン・ツェリンとユーロ・ダワ・ツェリンたちと会合を重ね、計画を練り始めました。どうにかお金を借りて600元(約7200円)を作ると、それをネパール国境までの道案内人であるブローカーに渡しました。

 1995年4月5日、父はラサを発ちました。途中で仲間31人と合流し、車はヤンパチェン、ダムシュン、ジャンナム湖を通って西チベットへ出ました。カイラース山近辺にて、車を降り、今度は徒歩でネパール国境へと歩き出したのです。途中で食べ物がなくなり、父たちは物乞いをしながら食を繋いでいました。そして、約2ヵ月後の6月18日、やっとネパール国境を越え、ネパールの地まで辿り着いたというのに、ネパール警察に見つかってしまったのです。ネパール警察は尋問を始め、何の許可証を持っていないのを知ると父たちを逮捕しました。逮捕された者の中には13歳以下の子供が5人もいました。最年少はドルジェ・プンツォクという5歳になる男の子でした。父たちを乗せた護送車は、カトマンドゥの留置所へと向かいました。父たちは、護送車の小さな窓からカトマンドゥの町並を悲しげに見ているしか術がありませんでした。誰かが、チベット亡命政府のカトマンドゥ支部が見えると叫びました。窓に皆が集まり、覗き込みと、チベット文字の看板が見えます。

「助けてくれ!俺たちをなんとか助けてくれ!」

皆、あらん限りの声で叫びました。けれども誰も出てくること無く、亡命政府の支部は空しく遠ざかっていくばかりでした。

 自由の地に辿り着ける筈だったのに、もうすぐ娘と孫に再会できるはずだったのに、年老いた父の胸はどれほどの絶望感に押し潰されていたことでしょうか。どんなに辛かったことでしょうか。仮釈放の身であった父は必ず再び刑務所に戻る運命にあることのを知っていた筈です。ヒマラヤのあの険しい峠を越えて、やっと辿り着いたというのに。後少しでダライ・ラマ法王にも会うことが出来たというのに。

 翌日19人が中国側に引き渡され、2日後の20日に父を含んだ10人がチベットへと送り返されることになりました。父たちはトラックに乗せられ、中国との国境であるダムへと移送されました。皆、悲しみに暮れた表情で外を眺めていました。なんとか、脱出を試みようとする者もいましたが、失敗した時のことを考えると躊躇せざるを得ませんでした。そんな中、ラトゥ寺のダワ(29歳)はトラックがスピードを落としたのを見計らって、監視人の隙を見て飛び降りたのです。彼は森のなかに即座に走り込みました。ダワは、夜中に人目を避けながら険道を走ってカトマンドゥまで辿り着き、その後ダラムサラに来ることが出来ました。私は彼から父の話を聞きました。父は孫娘の写真を大事そうに持っていたといいます。私と再会して家族3人一緒に暮らすこと、ダライ・ラマ法王にお会いすること等をよく彼に話していたそうです。特に孫に逢うことを本当に楽しみにしていたという事を聞いたとき、胸が強く痛みました。どんなに悔しかったことでしょう。

 父は、再びダプチ刑務所に入れられ、懲役6年の判決が下されました。その後、父がどのように刑務所で暮らしているのか何の手掛かりも無いまま一年が過ぎました。1996年8月1日、アメリカのワシントンDCから放送されているチベット語のラジオ放送局The voice of Americaから父が独房に入れられているという情報を得ました。父は64歳なのです。父の置かれている状況を思うと、いてもたってもいられません。今でも独房から出されたという情報は伝わってきません。出来ることなら私が代わってあげたい。毎日佛に祈り続けています。そして、外国の方々にもぜひ力になって頂きたいのです。どうか父を助けてください。貧しくとも、せめて普通の暮らしが出来るように力を貸して頂きたいのです。心の底からのお願いです。


(2001年、ソナムドカの父は仮釈放された。だが、日に一度公安局へ出頭する以外には、外出は禁じられている。家は当局に没収されたため、親戚に身を寄せているという。)




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2010年06月27日

6月26日、国連「拷問の犠牲者を支援する国際デー」/尼僧ガワン・ワンドゥンの証言

26.6.2010 法王横浜講演 photo Tenzin Choejor/OHHDLこのブログにアクセスして下さっている人の中には、昨日の法王横浜講演に幸運にも参加された方も多いかと思う。

(追記:石濱先生が横浜講演の詳しいレポートをされているのを発見。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-20100627.html

ジェ・ツォンカパの「縁起讃」を講義されたとか、素晴らしいことだ。
ジェ・ツォンカパが空(中観帰謬論証派)の見解を美しい詩にして短く説かれたもの。チベットでは非常にポピラーなお経だ。

「縁起讃」はナーガールジュナの有名な「中論」の帰敬序である「八不」の偈から始まる。

「不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出、
戯論の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も優れた人として敬礼す」
(中村元訳)

お聞きになられた方は「縁起=空、空=縁起」の話を少しは理解されたことでしょう。「愛」と「相互依存性」を常に意識することが幸せのカギというわけだ。

法王に直接会えることはもちろん素晴らしいことだが、何よりも仏教は説かれた言葉(法)を第一とする。よくよく何度も法王の説かれた言葉について、お互い考えてみましょう。

法王はこうして世界中に幸福の種を撒きながら遊行される。

で、法王や法王の言葉により、少しは幸せを感じられた方々は、次に少しは法王をはじめとするチベット人の現状を理解し、それぞれができる範囲で可能な限り「虐げられたチベット人たちを助けよう」と思ってほしい。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会昨日は国連によって定められた「拷問の犠牲者を支援する国際デーInternational Day in Support of Victims of Torture」だった。

ダラムサラでは「9−10−3(良心の囚人)の会」主催で、昼間はニマ・ロプタで「中国の拷問政策」に関する討論会とツクラカンでの写真展、夕方には中国や世界の拷問禁止を訴え、今もチベット内の拘置所、監獄の中で日々拷問に曝されている人々の苦しみが慈悲の祈りの力により癒され、一日も早く解放されることを祈るキャンドルライト・ビジルが行われた。

「拷問の犠牲者」として、以下に一人の尼僧の証言を紹介する。
これはルンタ・ホームページ上の「(9人の)亡命チベット人たちが語るチベットの真実」の中で紹介されている。
話は私と高橋明美さんが聞き、高橋さんがまとめてくださったものだ。
(少しだけ長い)

写真は昨日の9−10−3の会主催の写真展より。

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26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会尼僧ガワン・ワンドゥンの証言
http://www.lung-ta.org/testimony/ngawang_wangdon.html

 シェラップ・ガワンが亡くなってから、もう何年も経つけれども、一日たりとも彼女のことを忘れたことはありません。シェラップ・ガワンは、わずか17才でこの世を去りました。

私はロカ地方にある小さな村で、1977年に生まれました。私の生まれた村は、チベットの首都ラサからバスで北へ4時間程離れた貧しい村です。村人は、わずかな家畜と痩せた畑からできる農作物より生計を立てています。畑には大麦を植え、それを炒ったツァンパ(麦焦がし)が私たちの主食でした。村には学校が一つだけありました。三年間だけ通い、初等教育を受けることができましたが、村の子供たちは幼いころから、家畜の世話や農作業を手伝わなければならなかったので、学校に通える子供はわずかでした。どの家も貧しく、学校に通わせる余裕のある家はほとんどなかったのです。


◆ 出家

私は、14才の時にラサのミチュンリ尼寺にて出家しました。1991年のことです。両親は大変信仰深かったので、私が出家して尼僧として暮らしたいと話したときも、反対はしませんでした。シェラップ・ガワンも同じ年に出家しました。確か彼女が13才のときのことだと思います。ラサには尼寺が五つほどありますが、当時、すでに多くの尼僧たちがチベット独立のデモに参加し、逮捕されていました。デモに参加すれば、懲役刑を受けるのはもちろんのこと、拷問や厳しい強制労働を味わうはめになることは、みんな承知していましたが、それでもデモを行う者たちは絶えませんでした。私たちの寺からも、多くの尼僧たちがデモへと繰り出し、そして逮捕されていきました。私もいつの日にか、デモをすることがチベット人として当然の義務のように感じるようになっていました。

私たちは尼僧として尼寺で修行生活を送っていましたが、信仰の自由とは名ばかりでした。出家者は厳しく常に当局から監視され、出家者の数も制限されていました。私たちにとって唯一の心の支えであるダライ・ラマ法王への信仰は固く禁止され、写真を所持することも許されず、代わりに共産党教育の講義を寺で受けねばなりませんでした。全ての利権は中国人の手に握られていて、チベット人は自分たちの国であるというのに、中国人の許可がなければ、移動することですらままなりませんでした。1987年9月27日、デプン寺の僧侶たちが、ラサで初めてのチベット独立要求のデモを行うと、次々にデモが続くようになりました。そのほとんどは、僧侶や尼僧によるものでした。出家の身である私たちには、養うべき子供も家族もいないため、みんな喜んでチベットのために犠牲になることができます。シェラップ・ガワンも幼かったにもかかわらず、チベット独立のために行動するという意志は固く、そのためにはどんな犠牲を払うとも構わないと言っていました。


26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会◆独立要求デモ

1992年2月3日、私とシェラップ・ガワンを含めた5人の尼僧、そしてセラ寺の僧侶1人、計6人でデモを行いました。チベット人のデモは過激なものでは全くありません。ただ、ラサの中心地にあるジョカン寺の周りの右繞道(パルコル)で「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳」と叫ぶだけなのです。

私たちが、パルコルでスローガンを叫ぶやいなや、すぐに公安警官たちが駆け付けました。デモはわずか数分のできごとでした。独立要求のスローガンを叫び始めてすぐに、私たちは警官に囲まれ、手錠をはめられ、後ろ手に縛り上げられました。警官たちは私たちを棍棒で殴り倒すと、トラックの荷台へとまるで荷物のように放り込みました。私たちは全く抵抗しませんでした。こうなることは、初めから覚悟していたことなのです。セラ寺の僧侶は頭から血を流していました。ひどく痛むのか、公安の派出所へと向かうトラックが揺れる度に、呻き声を出していましたが、話し掛けることはできませんでした。

公安の派出所では2時間ほど尋問を受けた後、グツァ拘置所に移されました。そこでは、それぞれ別々の監房に入れられました。私は僧衣を全部脱がされて、身体検査をされ、尋問室に連れて行かれました。グツァ拘置所での尋問や拷問の過酷さは有名で、私は最初から覚悟していましたが、遥かに想像を越えるものでした。公安警官が聞きたいことは一つでした。

「一体、誰がデモを煽動したのか」

私はいつも同じ答えを繰り返しました。

「みんなで話し合って決めたことだから、リーダーはいません。誰かに命令されたわけでもありません。自分たちの意志でやりました」

本当のことを言っているのに、彼らは決して納得しませんでした。弱音を吐くまいとがんばってはいたのですが、時にはあまりにも強い痛みに、叫んでしまうこともありました。その度に警官たちから、

「こんな目にあうのがいやだったら、どうしてデモをしたのか」

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会と顔に唾を吐きかけられ、ののしられました。また、彼らは電気棒を使って拷問しました。電気棒はいろんなところに押し付けられ、その度に肉が裂けてしまうような激しい痛みが体中に走りました。その後、濡れた皮の鞭で体中を殴られました。私が何も答えないのをみると、今度は凶暴な犬を放すぞと脅かされました。彼らは鞭で顔を殴りつけ、体中を蹴りあげました。拷問は数時間続きました。

散々殴られた後、外に連れていかれ、拘置所の塀にむかって手をあげたまま立っているように命令されました。体中が痛み、あげた手はまもなく痺れてきましたが、下ろすと看守から殴られました。みんなはどうしているのだろうと仲間のことだけが気掛かりでした。何時間くらいそうしていたでしょうか。やがて、トイレに行くことが許され、振り返ると、少し離れたところで同じように仲間もそうさせられていました。ひどく殴られたらしく、みんな顔を腫らしていました。日が暮れてくるに連れて、気温は下がり、体中がいたみ、私は涙が止まらなくなりました。外はいつの間にか真っ暗になっていました。仲間の一人が拷問を受けて、さけんでいるのが聞こえました。どんなにひどい拷問を受けても私はしゃべりませんでした。日がとっぷり暮れた後、私は真っ暗な独房に入れられました。誰もいない真っ暗な部屋で、時間はまるで一生続くかのように長く感じました。ときどき看守がドアを叩くたびに、また尋問に呼ばれるのかとゾッとしましたが、私の返事を確かめると去っていきました。3日後、トイレ用のバケツを空けるために、はじめて外に出ることが許されました。5日後から再び尋問が始まりました。同じ質問が繰り返されました。毎回殴られたわけではありませんが、拷問道具は常にテーブルの上に並べてありました。

3ヶ月後にようやく独房から出され、皆と一緒の監房に入れられました。監房にはトイレがついているわけではありません。隅に置かれたバケツがトイレでした。毎朝、一度だけ空にするだけだったので、監房の臭いはひどいものでした。


26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会◆ティサム刑務所

その後、ティサム刑務所に移されました。そこでは労働をしなければなりませんでした。グリーンハウスで野菜を育てる仕事があてがわれました。野菜に肥料を与えるのに、トイレの穴に入り、素手で糞尿を運び出さねばならず、慣れるまでは何度も吐き気を覚え、大変辛い思いをしました。手も服も汚れるのですが、作業の後洗い流すような水は与えられませんでした。

やがて、リーダーとみなされた尼僧プンツォク・ヤンキには7年の懲役刑が下り、セラ寺の僧侶と他の尼僧たちには6年の懲役刑が下り、ダプチ刑務所に移送されました。私とシェラップ・ガワンは、18歳以下の未成年だったにもかかわらず、3年の懲役刑を受けました。

刑務所での生活条件は非人間的で、辛い労働と貧しい食事のため、私はやがて体を壊してしまいました。刑務所には刑務医がいるのですが、医者とは名前だけでほとんど何もしてはくれませんでした。私の体の具合は悪化する一方で、あるとき仕事中に倒れてしまいました。医者が診断をし、わたしはすぐに病院に運ばれました。治療を受けた後、刑務所に戻されたのですが、ずっとその間意識がなかったため、何も覚えていません。看守たちは私がわざとやっているのだと、食事をむりやり口に詰め込んだりしたそうです。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会 やがて、私の具合はとても悪くなり、ほとんど動くことも食べることもできなくなりました。再び、病院に運ばれ、肝臓が悪いということですぐに手術を受けました。7日後に抜糸をすることになっていたのですが、傷口は化膿して膿んでおり、痛みは耐えがたいものでした。この抜糸の日に看守が私を刑務所に移送しにやってきたのですが、傷口が化膿しているのをみると、後三日だけ病院にいてもいいと言いました。

病室は刑務所の独房とまったく変わりませんでした。とても小さく、暗く、ほとんど昼か夜かわからないほどでした。この病室に17日間入院した後、刑務所の監房に戻されました。二ヶ月たっても、傷口は化膿したままで治らず、トイレに行く度に激しい痛みに襲われました。どんなに具合が悪くても、刑務所に戻された日から私は働かなければなりませんでした。無理をして仕事をしている最中に、鼻血が止まらなくなり、吐いてしまいました。それをみた看守がようやく一ヶ月間作業を休むことを認めてくれました。

刑務所では早朝5時から広場に集合して、軍隊の訓練のような運動をさせられました。これは体の具合の悪い者も例外ではなく、グランドを走ったり、長時間整列して立っていたりしなければなりませんでした。少しでも動けば、その場で殴られるのでした。すべての号令は中国語でかけられ、中国語がわからず、遅れてしまう尼僧たちは、いつも攻撃の的でした。

◆ 尼僧たちの歌

ティサム刑務所での生活も2年が経ち、1994年8月10日、夜の10時頃ことでした。私たちは歌を歌いました。チベットが独立する日を夢見る歌、監獄のつらさを歌った歌、そしてダライ・ラマ法王をたたえる歌を。シェラップ・ガワンも一緒に歌いました。監獄では政治囚たちは看守にみつからないように、こっそりとよく歌を歌います。誰が作ったのかは知らないのですが、政治囚たちは歌詞をよく知っていました。新入りの尼僧たちに、刑務所ですでに服役している尼僧たちが歌を教える。監獄の長い夜はよくそうやってふけていきました。

ここダプチ刑務所からは空しかみえない

空を流れる雲たち

それが父や母だったら、どんなに素敵だろう

監獄の友たちよ

わたしたちはノルブリンカの花

どんな雹や霜だろうが

わたしたちのつないだ手を離れさせることはできない

いつか必ず雲の後ろから太陽があらわれる

だからそんなに悲しまないで

たとえ太陽が沈んでしまっても

こんどは月が照らしてくれる

だからそんなに悲しまないで

その晩、私たちは隠れて歌ったりはしませんでした。看守に聞こえるようにわざと大きな声で歌いました。そんなことをしたら、どんなことになることかぐらい分かっていました。私たちは、決して看守たちの言いなりにはならない、自由を求める意思を決して捨てはしないと訴えるために、敢えて歌ったのでした。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会まもなく、看守たちが部屋にやってきて、私たちは全員外に出るように命じられました。そこで、私たちは精神異常の囚人用の小さな独房に入れられるといわれました。私たちは大きな声で独立要求のスローガンを叫び始めました。看守たちは憤り、私たちを殴り倒しました。そして、ひどい暴行がはじまったのです。私たちは外の広場に引きずりだされると、看守たちに散々殴られました。私たちは手錠をはめられており、あるいは後ろ手にしばられた状態で、看守たちの思うがままでした。あまりにもひどい暴行に、ほとんどのものが意識を失っていました。私は看守から肝臓あたりを思いっきり何度も蹴られました。動けなくなったのを知ると、看守たちは靴でこれでもかというほど、頭を思いっきり踏みつけられました。背中を蹴り上げ、鞭や棒で全身を散々なぐられました。倒れるたびに、起き上がらされ、ひざを立てた状態の姿勢でいるようにいわれました。何人かの尼僧たちは血を吐き、血の海の中で動かず横たわっていました。そんな状況の中でも、看守たちはわずかの同情もみせてはくれませんでした。倒れている尼僧たちにむかって唾をはきかけ、死ぬ振りをするのはやめろといって殴りつけるのでした。それは一晩中続きました。

翌朝、三人の尼僧を除いて、私たちはそれぞれ小さな独房に入れられました。その三人は具合がとても悪かったため、監房にもどされたのです。私は小さな独房に一週間もいなければなりませんでした。部屋はほんとうに小さく、食事を投げ込むだけの小さな穴があるだけで、真っ暗でした。一畳程しかないその牢獄には、トイレ用の溝がある以外、寝具もベッドもありませんでした。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会一週間後にふたたび尋問のために、外に連れ出されました。尋問の間、ずっとひざをついた姿勢でいなければならず、そして、電気棒を顔にあてられました。髪をつかまれて、部屋中をひきずりまわされ、壁に強く頭をぶつけられました。そして、体中を蹴りつけられ、強く踏みつけられました。拷問は何時間も続きました。私は鼻からも口からも血を流し、囚人服は血だらけでした。耳は何度も激しく引っ張られたため裂けてしまい、血が止まりませんでした。再び、独房に戻され、そこで一ヶ月過ごさねばなりませんでした。その間、何度も同じような拷問をうけねばならず、看守から呼び出された瞬間に体が震えてしまい、尋問室までまっすぐ歩ける状態ではありませんでした。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会◆シェラップ・ガワンの死

一ヶ月後にようやく監房に戻され、久しぶりにあったシェラップ・ガワンはすぐには誰だかわからないくらいに変わっていました。彼女の顔は腫れ上がり、変色していました。言動もおかしくなっていました。記憶もちぐはぐになり、変なことを口走ったりするようになりました。いつも背中や腎臓、胸の痛みを訴えていました。食欲も落ち、最後には何も喉を通らなくなったのです。よく労働作業中に吐いたり、倒れたりしました。看守たちは彼女の容態の悪さを知りながら無視をしていました。何度も同じ部屋の尼僧たちが看守に頼んでようやく、シェラップ・ガワンが病院で診察を受けることが許されました。でも、少し回復したかと思うと、刑務所に戻されてしまいました。また、ガワン・ニィドルという尼僧も病気で衰弱したため、刑期を終えることなく仮釈放されました。ですが、これは刑務所の態度が軟化したせいではありません。ただ、刑務所で死んでしまって責任をとることになっては困ると思ったからでした。

その後も労働作業は毎日のように続きました。私たちは割り当てられた仕事を時間内に終えなければ、食事をもらうことができませんでした。ノルマをこなすためには、一分たりとも休む時間はありませんでした。何度もめまいを覚え、倒れそうになっても、看守は決して休憩することをみとめてくれませんでした。

1995年2月2日、私とシェラップ・ガワンは刑期を終え、村に戻りました。家族との再会は決して楽しいことばかりではありませんでした。ティサム刑務所に服役している間に、私の父が亡くなっていたことを告げられました。家族は私が悲しむだろうと、釈放されるまで教えてくれませんでした。しばらくしてシェラップ・ガワンに手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。数カ月後、彼女が4月17日に亡くなったという知らせを受けました。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会私は彼女の家を訪ねました。家には残こされた両親だけがいました。私たちは何も話すことができず、ただ泣いてばかりいました。釈放後、シェラップ・ガワンはラサの病院に入院したけれども、容態は好転しませんでした。そして、約2カ月後の4月17日、彼女は息を引き取りました。痛みで叫びつづけていたとも聞きました。まだ17才というのに、苦しみながら死なねばならないなんて。シェラップ・ガワンを鳥葬した人はこう言ったそうです。「こんなにひどい状態の死体は今まで見たことがない。まだ若いのに、腎臓も肺もボロ布のようだったよ」と。

私たちと一緒にデモをした、もう一人の尼僧も亡くなりました。プンツォク・ヤンキは、逮捕された時、19才でした。7年の懲役刑を受けて服役していたのですが、1994年6月4日に亡くなりました。彼女も1994年2月11日に仲間たちと一緒に歌を歌い、激しい拷問を受けたのです。こうして、仲間の二人が拷問によって亡くなりました。私は寺に戻ることを許されなかったので、仏教の修業と勉学を続けようとインドに亡命することにしました。死んでしまった二人のことを外の世界に伝えねばという思いもありました。ヒマラヤを越えるのは容易ではありませんでした。体の弱っていた私は、道程のほとんどを仲間の背中におぶってもらわねばなりませんでした。

釈放されてから、もう何年も経ちますが、いまだに拷問の後遺症に悩まされています。特に腰と腎臓が悪く、先月も入院していました。どうか、チベットがこんなにも悲惨な状況であることを忘れないで欲しいのです。本当に心からのお願いです。









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2010年06月24日

カルマ・サンドゥップ氏の法廷陳述/拷問による自白強要

42fe075b.jpg昨日URLのみ紹介したカルマ・サンドゥップさんの公判に関するウーセルさんのレポートをさっそく、U女史が翻訳して下さった。

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<昨日(6月22日)の法廷で、カルマ・サンドゥプは拷問による自白強要について陳述した>

http://woeser.middle-way.net/2010/06/blog-post_6719.html

昨日の開廷に当たり、法廷に現れたカルマ氏を見た時、夫人の驚きは極度に達した。「もし彼の声を聞かなければ、私はまったく、彼が我が夫だと気付かなかったでしょう」夫人は悲憤を込めてそう語った。

カルマ氏が陳述した、拷問による自白強要の事実は、実に凄惨なものであった。ここ半年程の間、彼は新疆のバインゴリン・モンゴル自治州で拘束されており、チャルクリク、コルラを経て、現在は同自治州内の焉耆回族自治県内に収監されている。尋問は毎日十数時間、90回以上に及び、うち3回だけ腰掛けに座ることを許可された他は全て、吊されたり、身体を反らせたままにさせられるなど、警察によって、曰く言い難い様々な不自然な姿勢の強要による虐待を受け、毎回気を失うまで殴り続けられた。甚だしきに至っては、鼻孔に無理矢理、ある薬物を詰め込まれた。薬物は大脳を刺激し、(頭の中で)大音響が炸裂、目や耳から出血した。警察はそれでも「これは公安部によって使用を批准された合法な薬物だ。こんなもので死ぬことは無いよ」とうそぶいた。

カルマ氏は尋問の後、牢に戻ってからも、休むことはできなかった。関連部門から派遣された所謂"犯罪者"にあの手この手で苦しめられるのである。彼は数分ごとに殴られ、一晩中一睡もできない。これらの"犯罪者"は自称"マフィア"。獄中でカルマ氏を殴るのみならず、彼の行動全て、トイレに行くのにさえ借用証書を書かせる。借金の額面の累計は既に66万元に達した。支払わなければ家と妻子を捜し出し取り立てに行くと脅す。カルマ氏の食べる物をごみのように扱い、蒸パンを床に転がして踏みつけ、汚くなった蒸パンを彼の口に押し込む。硫酸で(溶かして)完全に消してやる、と脅す。

カルマ氏は、「このような残虐な体刑と苦難に精も根も尽き果て、生きる希望すら失わされた」と話した。世界が斯くも残酷で、人心が斯くも悪辣であることを身に沁みて思い知らされ、今が歴史の最も暗黒な時代に退行したのだと感じた彼は、死を覚悟して遺言状を書き、身内に渡して後のことを託そうとした。彼は絶望のあまり確かに遺言状を書いたのだが、警察は未だ、彼の遺言状を身内に渡してはいない。

カルマ氏が、自らの受けたこれらの非人道的な待遇について陳述する様子は極めて平静で、自身の体験を話しているのかどうかすら見極めがたく、まるで遠い過去に起こった恐ろしい出来事について話しているかのようであった。生死はもう彼にとってどうでも良いことのようにも見えた。しかし、陳述を聴いていた彼の親友によれば、これは地獄の如き苦難であった。(法廷にいた)たくましいカムの男達は雨の如く涙を流していた。まして夫人は - 彼女はこの半年余りの間に5回、遠い新疆に通い、心身共に疲れ果てつつも、幼い二人の娘には無理に笑顔を見せていたが、実際のところ最近彼女は衰弱により何度も倒れている - 胸も張り裂け、涙の海に沈まんばかり。2名の通訳も陳述を聴くに忍びず涙にくれ、浦志強、李会清両名の弁護士も涙を禁じ得なかった。

中国の法律、否、世界中のあらゆる国家の法律においては、拷問による自白強要を禁じる明確な規定がある筈だが、実際はどうなのだろうか。

2010年1月3日に逮捕されたカルマ・サンドゥプ氏の裁判は、6月1日に開廷予定であったものが遅延し、同22日に正式に開廷、6月23日現在も審理は続いているが状況は不明。従い、詳細を尽くすことは不可能ながら、昨日の法廷でのカルマ氏本人の陳述について得られた断片的な記録を世に広めるべく、ここに記す。

2010年6月23日 15:40

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尋問の間、拷問が行なわれることは、広く知られているが、このように、法廷で証言されることも、それが法廷から外の世界に直接伝えられることも非常に稀だ。

最近逮捕された知識人たちはもちろんのこと、逮捕された後に程度の差こそあれ拷問を受けないチベット人、特に政治犯はまずいないと思われる。

公安が、外部の拷問専門家(請負人)を雇っているという話は、私も初めて聞いた。
同じマフィア同士、金のために連帯するのは当り前ということだろう。



追記:
カルマの弁護士、浦(Hu)志強氏はtwitter上で逐次裁判の様子を報告されている。
http://twitter.com/puzhiqiang

New York Timesの記事:
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27583&article=Tibetans+Fear+a+Broader+Crackdown



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2010年01月13日

「チベット拷問撲滅!」キャンペーン

イギリス:フリー チベットからSTOP TORTURE IN TIBET 「チベット拷問撲滅!」キャンペーン発信 (若松えり様訳)

リンク入り記事はこちらでどうぞ。
http://freetibet.holy.jp/2010/01/stop-torture-in-tibet-「チベット拷問撲滅!」/

新たに作動した、このサイトではチベットで日常的に行われているチベット人に対する“拷問”の使用について焦点をあてます。

チベット人僧侶、尼僧や一般市民の壮絶な証言をDominic West やAlan Rickmanといった錚々たるイギリス演劇界を代表する舞台、映画やTVでおなじみの俳優達が、朗読します。
http://www.freetibet.org/pages/vid.html

役者の魂は『語りべ:ストーリーテリング』として、最後の“Give Tibetan Their Voice Back, Stop Torture. Free Tibet”(チベット人の声を返せ。拷問をやめろ。チベットに自由を!)まで,一気に、中国支配者の非道な行為と、拷問体験者である一人のチベット人の肉声を生々しく、再現してくれます。

チベット人証言者についてはこちらでご覧頂けます。
http://www.freetibet.org/pages/surv.html

クイズ式になった「拷問とは」のページでは如何に中国支配下のチベットで、拷問が日常的に行われているかを、国連調査資料でどう表現しているか?やどのような拷問が行われているか?一体拷問とはなにをさすのか?また、中国の法律では、どうなっているのか?などを詳しく説明してくれます。
http://www.freetibet.org/pages/kf.html

“テイク アクション”のページでは以下のチベット人に対する拷問について具体的な行動を紹介します。

1;フリーチベットに参加する
2;チベットの拷問の事実について世界中の人々の口に上がるよう
サイトからビデオを転送したり、紹介したりする
3;自国の中国大使館を通して、以下の要請をする

a)国連禁止委員会を招待する
b)2008年の大規模な抗議行動後、身元のわからない1000名以上のチベット人の詳細をあきらかにする
c)強制的な思想教育や愛国教育をやめる
d)中国の全ての刑事訴訟法で、拷問により入手した自白を無効にする

ここにはイギリスとアメリカの中国大使館の住所と大使の名前が明記されていますが、日本からはこちらです。

駐日、中国大使館
中華人民共和国駐日本国特命全権大使
崔 天 凱大使
住所:〒106―0046
東京都港区元麻布3―4―33
代表電話: 03-3403-3388
オペレーター:内線8100
メールアドレス:info@china-embassy.or.jp
地方の駐日 中国総領事館のご案内はこちらから
http://osaka.china-consulate.org/jpn/
http://www.freetibet.org/pages/ta.html

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2009年04月24日

プンツォク・ワンチュクの証言/中国の「国家人権行動計画」

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵まず、最初に一つの証言を報告します。

証言の主、プンツォク・ワンチュク氏は現在9−10−3Movement of Tibetの執行委員の一人で、ルンタハウスに住んでいます。

彼へのインタビューは2002年に行われ、ルンタの高橋さんが纏めて下さったものです。
1999年から2003年まで続いた、ルンタの会報・季刊「ルンタ通信」の2002年第7号に抜粋が載せられたことがあります。

少々長いですが、どうかお読みください。
すべて真実と信じます。
例えば1998年5月1日のダプチ刑務所内での受刑者たちの抗議については他にいくつもの同様の証言を何度も聞いているからです。

すべて真実です。
今も監獄の中の状況はまったく変わっていません。
今も拷問は日常的に行われています。

次に最近中国が発表した「国家人権行動計画」を資料として載せます。

中国の「発表」とか「目標」とかが如何に空疎で、ただ人を騙す目的で作られだ露骨なブラック・ジョークであることが解ることでしょう。

中国はもちろん「真実」も「正義」も十分に知っています。
知らないでその逆の「嘘」は付けないから。
嘘を隠す子供はいつも怯え、自信がないので、ちょっとした真実の指摘に対しても、感情的になり大袈裟に反応してしまう。
一回ついた嘘を守るためにはその先どもまでも、嘘をつき続けなければならなくなる。
罪は隠され続ける。

早く誰か、その子を楽にしてやってほしい。
でないと、これからも何億もの人々が苦しめられることになるから。


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ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵2<プンツォク・ワンチュクの証言>

私は、1973年にチベットの首都ラサの南に位置するロカ地方の村で生まれました。両親は農業を営んでいます。家は決して裕福な方ではありませんでしたが、14年間も学校に通わせてもらいました。村のほとんどの子供たちが2年か3年しか学校に通えない状況の中、両親は教育の大切さを身に染みて知っていたのでしょう。私は村では珍しく、21才まで教育を受けることができました。大変ありがたく思っています。学費を工面してくれた両親のことを思うと今でも胸が痛みます。もう何年も会っていませんが、元気にしているでしょうか。

14年間も受けた教育ですが、チベットに何が起きたのか、という真実の歴史を教えてもらうことはありませんでした。ダライ・ラマ法王のことや仏教のすばらしさ、そして中国政府がチベットにどんな残虐なことをしたのか、そういったことには全く触れられないまま、私は随分と長い間学校生活を送りました。チベットに何が起きたのか、真実に初めて触れたのは、17才のときでした。ある教師が、自分の部屋に何人かの生徒を集め、チベットにこれまで何が起きたのかを自分の体験を通して語ってくれたのでした。当局に見つかると逮捕されるような行為でした。信頼のおける生徒だけが選ばれ、教師は中国の残虐行為について詳細に語ってくれました。その日を境に、私は変わっていきました。チベットの自由を再び手にするために、自分ができることを何かしなければという思いは年を重ねるごとに強くなっていきました。

1994年のことでした。仲間や教師たちと一緒に独立要求のポスターを500枚ほど刷り、村中に貼りました。数日後の6月25日、明け方3時頃、7人の警官が突如学生寮に押し入り、私を含めた4人の生徒と二人の教師を逮捕しました。あっという間の出来事でした。私たちは村の公安警察署に連行され、厳しい尋問と拷問を受けました。3人の生徒たちが2週間で釈放され、続いて2人の教師たちも2ヶ月で釈放されましたが、私は今回の「国家反逆罪」の首謀者として、村の留置所に6ヶ月拘留されたあと、5年の懲役刑を受けました。刑が確定すると、1994年12月1日にラサのダプチ刑務所へと移送されました。そこでは、政治囚が収監されている第5棟に入れられました。ダプチ刑務所には当時全体で1600人の囚人が服役していましたが、そのうち290人が政治囚でした。また、女性の囚人たちは第3棟に収監されていました。

◆ ダプチでの生活

ダプチ刑務所では、ビニールハウスでの野菜栽培の仕事が割り当てられました。それぞれ厳しいノルマが課せられ、達成できない場合は、拷問を受けたり、独房に入れられたり、また囚人たちが何よりも楽しみにしていた月に一度の家族との面会を禁止させられたりしました。ビニールハウスでの作業のほかにも、刑務所内の改装や建設工事の作業をしなければなりませんでしたが、そのなかでも政治囚の私たちは、一般の刑事囚よりも重労働があてがわれました。作業中は常に看守の厳しい監視の下におかれ、割り当てられたすべての仕事を終えるまで、食事を摂ることさえも許されませんでした。一日の終わりには、重たい石などを一時間以上休みなく運んだりするような重労働のため、背中の皮がすりむけ、赤く腫上がっていた囚人もいました。

1995年3月になると、こうした労働はなくなり、代わりに一日中軍事訓練が行われるようになりました。それは今までの看守に代わって、人民軍事警官の監視の下で行われました。訓練の内容はジョギングや行進が主でしたが、暑い日の照りつける中、一日中意味もなく立たされたり、50回以上ものスクワットを立て続けにやらされたりすることもありました。訓練の途中で休んだり倒れたりすると、人民軍事警官から棒やベルトで殴られるのです。時には罰として一日中食事を与えられないこともありました。極度の緊張状態が続くため、労働よりも何倍も辛いものでした。

1988年ラサ、デモ C/R 9−10−3◆ 友人たちの死 

1996年2月28日、すべての囚人と看守たちが集まる毎年恒例の集会がありました。この集会では、看守たちが一年を通してそれぞれの囚人がどのように働いてきたか、そして態度はどのように変わったかを報告することになっています。看守たちはここぞとばかりに政治囚たちを激しく非難し、責め立てるのが常でした。この日のミーティングでは、私を含め、プチュン、ティンレー・ガワン、サンゲ・テンペルの四人が日頃の態度が悪いとして槍玉に挙げられました。プチュンとティンレー・ガワンの二人はミーティングの最中に激しく殴られ、そのまま独房に入れられました。私とサンゲ・テンペルはミーティングの終わった午後三時に改めて呼ばれ、別々の尋問室に入るように言われました。尋問室では、看守からひどい剣幕で怒鳴りつけられました。
「お前の態度は何だ。このダプチ刑務所に入所してから、自分の態度がどのように変わったのかをここに書け」
もちろん書くことなどありません。「何も変わっていません」とだけ書きました。
「変わっていないというのか。だったら、なぜ変わっていないのか、その理由を言え」
看守はさらに声を荒げましたが、私は静かに返事をしました。
「私は何ら咎められるようなことはしていません。それなのに、自分はこうしていわれもない罪を償わなければなりません。中国政府が私や他のチベット人たちに対して人権侵害という罪を犯し続けているのではないですか。態度を改めるべきは私ではありません。中国政府の方だと思います」
すると直ちに看守が私の足を蹴りつけて、床に倒すと首の後ろを『ダユック』で激しく殴りつけました。ダユックはホースの中に砂を詰めたもので、拷問道具として刑務所で使われているものです。殴られて私は気を失いかけましたが、その間も看守は殴る手を止めませんでした。朦朧とする意識の中で、まわりの看守たちがサンゲ・テンペルのことについて話し合っているのを耳にしました。それは彼をどのように拷問するのが一番よいだろうか、というぞっとする内容でした。散々殴られた後、私は独房に入れられました。独房の中でもサンゲ・テンペルのことが心配でなりませんでした。

暗闇の中で10日を過ごした後に再び尋問室に呼ばれ、長時間、尋問と拷問を受けました。翌日、再度尋問室に連れ戻され、拷問を受けた後で刑務所長への手紙を書かされました。
「私はまともな教育を受けたことが無い者です。チベットが長い間独立国であったと信じています。どうか、チベットが中国の一部であったという真の姿を教えてくれる先生を派遣してくれないでしょうか。お願いします――囚人プンツォク・ワンチュクより」
屈辱的なことでしたが、私にはもう逆らう気力も残っていませんでした。独房の中で一人、わずかな食事に耐え、寒さに身を震わせながら、私はチベットの仏教修行者ミラレパのことを思い起こしていました。ミラレパは着の身着のままで、イラクサを食べ、人里離れた山中で何年も瞑想をした仏教行者です。彼が耐えた修行を思い、私はミラレパに対する強い信仰心を起こしました。

一ヵ月後にようやく独房から出ることができ、監房に戻ると仲間たちが暖かく迎えてくれました。けれども、変わり果てたサンゲ・テンペルの様子をみた途端、涙が溢れて止まりませんでした。温和な僧侶だった面影はどこにもなく、顔が紫に変色して腫上がり、誰だかわからないほどです。仲間からサンゲ・テンペルに何が起きたかを聞かされ、私は心が砕かれるような思いがしました。彼は何を聞かれても沈黙を通し、看守らに一切協力をしなかったらしいのです。するとダユックで顔を散々打ちつけられ、タバコの火を顔に押し当てられました。続けて看守が二人がかりでサンゲ・テンペルを押さえつけ、体のあちこちを殴り続けました。サンゲ・テンペルが耐え切れず床に倒れると、今度は足で背中を踏みつけ地面に体を押しつけて、ダユックで滅多打ちにしたのでした。監房に戻されたときには、サンゲ・テンペルは返事もできないような状態でした。同室のロプサン・ゲレックが看守にサンゲ・テンペルを病院に連れて行ってくれるよう懇願したのですが、逆に看守からダユックで激しく殴りつけられたとも聞きました。

二ヶ月経っても、サンゲ・テンペルの容体は回復しませんでした。何度も頼んでも、病院で治療を受けることは許されません。そして5月5日の夜中のことです。サンゲ・テンペルは昏睡状態に陥ってしまったのです。同室の者たちは大声をあげて、サンゲ・テンペルを病院に連れて行ってくれるよう、看守に懇願しました。看守たちはいよいよサンゲ・テンペルが死ぬかもしれないと、その状況の深刻さに気付いたのか、ようやく病院に連れて行くことに同意しました。それから数時間後、彼は満足な手当ても受けられないまま病院で亡くなってしまいました。死後の鳥葬の際に分かったことですが、サンゲ・テンペルの遺体は激しい拷問のために肋骨がいくつも折れていたそうです。

すぐにでも病院で手当を受けていれば、命を落とさずに済んだかもしれないのにと私たちは大変悲しみました。このあまりにもひどい仕打ちに、サンゲ・テンペルの家族のためにも何かをしなければと、以下の内容をしたためた嘆願書を刑務所長に送りました。
「刑務所内のミーティングで全囚人に対してサンゲ・テンペルの死を公表し、その死因を明らかにし、そして政治囚の全員が葬儀に参加できるように取り計らって欲しい」

しかし、当局からは何の返事もないまま、5月8日に刑務所長のみが鳥葬に参列し、葬儀はひっそりと執り行われてしまいました。11時に、第5棟のみで行われた集会で、刑務所長はサンゲ・テンペルの死について冷たくこう言い放ちました。
「サンゲ・テンペルは脳内出血が原因で死亡した。慢性疾患であり、病院ではなす術がなかった。したがって中国政府は彼の死に対する一切の責任はなく、またこの決定に対して反論をしたものは厳しく罰せられるであろう」
こうして、私たちの要求は何一つ受け入れられることなく、サンゲ・テンペルの死は闇へと葬られてしまいました。あんなに辛い状況の中でも周りの人々への気遣いを忘れたことのない優しい僧侶だったのに、悔やんでも悔やみきれません。

こうして刑務所で亡くなってしまった友人は彼一人ではありません。激しい拷問の末、その次の日に亡くなったデプン寺の僧侶ケルサン・トゥトップ。そしてやはり拷問の結果、病に伏し、病院での手当てもろくにうけられないままなくなったデチェン・サンガック寺の僧侶パッサン・ダワ。二人とも、サンゲ・テンペルと同様、死因は明らかにされず、家族には自殺や病気で亡くなったと伝えられました。家族は一体どんな思いで遺体を引き取ったのでしょうか。

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵3ダプチ刑務所でのシュプレヒコール

1998年5月1日はメーデー(労働節)です。私たち囚人は全員刑務所内の広場に集められ、中国国旗の掲揚をせねばなりませんでした。中国国旗が揚げられるのに合わせて、中国国歌を斉唱するのです。メーデーは共産党にとって大切な日でした。静粛に執り行うために、看守たちも目を光らせていました。厳粛に国歌が歌われている中、突如としてカルマ・ダワとソナムが立ち上がり、独立要求のパンフレットを撒きながら、「チベットに自由を!」と叫び始めました。その声に共鳴するかのように、広場の人垣のあちこちから「チベットに自由を!」と叫ぶのが聞こえました。政治囚だけではなく、刑事囚も一緒に叫んでいました。誰も予期していなかったことでもあり、また大人数が一斉に叫んだため、看守たちもすぐに反応することができず、私たちはそのまま「チベットに自由を!」と叫び続けました。一時間近くも叫んでいたでしょうか。ようやく事態を収拾した看守たちにより、囚人たちのほとんどがそれぞれの監房へと戻されました。私たち第5棟の政治囚たちは、建物内に戻されたものの、監房ではなく入り口の床に座らせられました。そこで6人の囚人が殴られ、独房へと連れて行かれました。このときにシュプレヒコールを最初に叫んだ2人の囚人は、刑期を9年も延ばされました。

3日後の5月4日、国際ユースデイの朝、看守たちは再び国旗の掲揚と国歌斉唱をさせるために、60人の政治囚を含めた総勢400人の囚人を中庭に集めました。周りには人民軍事警官が配置されており、さらに門の外にはトラック4台分の武装兵士が待機していました。他にも、刑務医や清掃員といった者たちまでが金属棒や電気棒などを手にいました。午前10時になると国歌が流れ、国旗掲揚がはじまりました。そのとき、ナクチュのカマル寺の僧侶ロプサン・ゲレックが一歩前に出ると、右手を高くあげ、大きな声で堂々と叫びました。
「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳!」
ほかの囚人たちも直ちにロプサン・ゲレックに加わり、再び大きなシュプレヒコールが起きました。人民軍事警官は空に向けて銃を放ち、それを合図にしていたかのように外で待機していた兵士たちが中庭に一斉に入ってきました。600人もの警官や兵士たちが声を上げた約100人の囚人たちを囲み、鉄パイプや電気棒で激しく殴りつけたのです。恐ろしい光景でした。

看守たちは15台ものビデオカメラで私たちの顔や行動をすべて記録していました。それを証拠として、その後、かなりの数の囚人が独房にいれられ、グツァ拘置所やサンイップ刑務所に輸送され、そこで尋問されました。シュプレヒコールが収まると、私たちはひとまずそれぞれの監房に戻され、外から鍵をかけられました。私たちは一様に興奮しており、気持ちをなかなか収めることができませんでした。その日の午後2時頃のことです。ロプサン・チョペルがトイレで首つり自殺を図りました。残された遺書には「私は600万のチベット人のために死ぬ。どんなことがあっても絶対に中国国旗に敬礼などはしたくないのだ」と書かれていました。そして、そこにはダプチ刑務所の仲間たちと来世で再び会いたい、という一文がありました。最初に遺体を発見したのは彼と同室だったロプサン・ダワでした。ロプサン・ダワの泣き叫ぶ声で仲間がトイレに駆けつけ、変わり果てた姿のロプサン・ダワを目にするや否や、第5棟は再び混乱に陥りました。私たちは
「ロプサン・チョペルは中国人に殺されたのだ!」
と叫びました。部屋から出ることができない者たちもドアの鉄格子から拳を出し、叫んでいました。看守たちは発砲して脅したが、それでもひるむことなく、看守に向かってシャツを脱ぎ捨て「打てるものなら俺の胸をうってみろ!」と叫ぶ者もいました。

私たちは一人づつ呼び出され、5人から6人の兵士たちによって袋叩きにされました。水を床にまき、その中に立たせられると、電気ショックが与えられました。中でもリンジン、ツェワン・ドンドップ、ガワン・ツォンドゥ、ドンドル、ロセルの5人がひどく殴られました。特にドンドルは二時間にわたって、歩くことができなくなるまで殴られました。またガワン・ツォンドゥとリンジンは鉄パイプでひどく殴られ、大怪我を負い、病院に運ばれました。

第5棟には、当時72歳だったタナク・ジグメ・サンポという政治囚がいました。小学校の教師だったジグメ・サンポ氏は、1960年から約30年もの月日を刑務所や労働キャンプで過ごした老人で、1983年から懲役28年の刑を受けてダプチ刑務所で服役していました。仲間たちから大変尊敬を受けていました。ジグメ・サンポ氏は、状況を説明し冷静な対応を看守に懇願したのですが、それを聞いて逆上した看守はジグメ・サンポ氏を殴り倒したのです。とっさにダワがジグメ・サンポ氏をかばおうしましたが、彼も殴りつけられました。

この騒動の最中にガワン・スンラップとジグメの二人が銃で撃たれました。そしてその日の夜から朝方にかけて、デモに参加した囚人たち全員を順番に呼んでは殴り続けたのでした。しかし翌日、もっとひどい仕打ちが私たちを待っていたのです。

拷問道具 C/R 9−10−3◆ 拷問、そして自殺未遂

翌日、私は再び呼び出されました。看守たちは、私を刑務所内の作業場に連れていくと、両足を縛りました。無意味な質問が繰り返され、その間私の首は声が出せないほどロープできつく縛られていきました。質問が終わり、ロープが緩められましたが、私はなにも答えませんでした。すると看守は私のズボンからベルトを抜き取り、それがちぎれるまで激しく殴り続けました。そして、考え直す時間を15分だけ与えるといって私を監房にもどしました。15分後、彼らは再び戻ってきて私を別の部屋につれていき、今度は動けないように全身を木の板にくくりつけました。そして薄暗い部屋にうつぶせに寝かされ、拷問が始まりました。この時点で、私はこの部屋から生きて帰れないのではないかと、死を覚悟していました。そして何を聞かれてもただ「チベットに自由を!」と繰り返し叫び続けました。看守たちは私が気を失うまで鉄パイプで何度も何度も殴りつけ、気を失ったところに水をぶちまけて、体中に電気棒を当てて電気ショックを加えました。口の中や鼻、ついには性器にまで電気棒を当てられ、苦しさのあまり声もでませんでした。それでも私は意識が回復するたび、必死に叫び続けました。そして拷問が終わると独房に入れられました。その夜、のどの渇きをおぼえ、コップに手を伸ばしたのですが、あまりの寒さと痛みで、水を飲む前に気を失ってしまいました。暫くして意識を取り戻すと、やっとの思いで水を飲むことができましたが、同時に胃の中のものを全部吐き出してしまい、その上に倒れこんで再び意識をうしなってしまいました。薄れていく意識の中で、看守が殴りつけながら吐きつけるように言っていた「今お前のおかれている状況は全部、お前のしたことに対する当然の報いなのだ」という言葉が再び聞こえました。チベットでは、自由を求めた報いとはこんなに残酷なものなのでしょうか。

次の日の朝、独房の小窓から薬が投げ込まれましたが、それを飲みこむことすらできないまま、独房の床に横たわっていました。ほとんど反応しない私をみて、さすがに看守たちも緊急を要すると判断したのか、私を独房から引きずり出すと、病院に移送しました。私の耳はまったく聞こえない状態で、4日間は目も見えませんでした。そのまま病院のベッドで一ヶ月間寝たきりの日々を過ごしました。

一ヵ月後、体はまだ完全に回復していなかったのですが、退院の手続きが取られ、再びダプチ刑務所へ移されました。看守たちは、再び私が政治的な活動を行わないようにと今までの第5棟の監房ではなく、刑事囚たちがいる棟の監房に移しました。そして囚人たちに私を見張るように命じました。体が完全に回復していないのに関わらず、何度も部屋から連れ出され、尋問室で拷問を受け続けました。その度に5月4日の抗議計画への関与を否定し続け、チベットの自由を叫び続けました。次はいつ呼び出されるかと看守の足音にも脅え、いっそ死んでしまったほうがどんなに楽だろうかと思うようになりました。来世にいかなる生き物に生まれようとも、これ以上の苦しみや地獄は味わうことはないはずです。

7月11日、私は自殺をはかりました。常に同室の囚人たちに監視されていたため首をつることはできず、また薬を入手することもできなかったため、こっそり手に入れた4本の針と、インクのビンを割って集めたガラス片を飲み込みました。その夜、一晩中、体が引き裂かれるような激しい苦痛に襲われ続け、朝が来ると大量の血を吐きました。それを見た囚人たちは直ちに看守たちを呼び、私は病院に運ばれました。死ぬことはできませでした。

ひどい拷問を受けたのは私だけではありません。この5月に起きたシュプレヒコールの後、2人の政治囚が拷問のため亡くなりました。ガンデン寺の僧侶ガワン・テンキョンは5月6日に病院で息を引き取りました。ガンデン寺の僧侶ケドップも亡くなりました。彼は後ろ手に縛られ吊るされたまま何時間も殴られ、両肩が折れるまで殴られました。病院に運ばれることもなく、そのまま刑務所で亡くなりました。そして21人の囚人が1年から5年の刑期延長を言い渡されたのでした。また、5人の尼僧も亡くなりました。尼僧の遺体を引き取りに来た家族には「自殺」したと伝えられたそうです。

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵4◆  釈放

1999年6月16日の朝、ついに5年の刑期を終える日を迎えました。私は事務所に呼ばれ、刑務所長から3時間にわたって中国政府の方針や歴史観について聞かされました。
「お前もずいぶんこの刑務所で学んだだろう。最後に5年の刑期の間にいかに態度を改めたか、そしてチベット自治区についてどのように考えを変えたか言ってみろ」
刑務所長は自信満々のようでした。釈放の日であるわけですから、普通ならばチベットは中国の一部ですと答えるべきだったのかもしれません。でも私はそうは答えませんでした。
「私の考えは少しも変わりません。チベット自治区は中国の支配下にあるべきではありません。争いを通して自由を勝ち取るのではなく、ダライ・ラマ法王がおっしゃるように対話と非暴力を通してチベットの自由を勝ち取らねばならないと思っています」
刑務所長はそれを聞くと顔色を変えました。
「チベットの独立はあり得ない。そんなことよりも自分の人生のことを少しは考えろ。釈放されるのだから、今後は態度を改め、そして今後二度と刑務所に戻らないように行動するように。さもなければ次はここで死ぬことになるだろう」
そう警告すると、私を殴りつけました。そして監房に戻り、出所する準備をするようにといわれました。やっと釈放されるときがきたのです。監房をでて、第5棟の建物のドアから出て歩き、刑務所のゲートに近づいたとき、ゆっくりと後ろを振り返りました。すると仲間たちが第5棟の窓から大きく手を振っているのが見えました。それはあまりにも辛い光景で、私は溢れる涙を止めることができませんでした。

釈放された後の9ヶ月を故郷のロカ地方の自宅に戻って過ごしました。釈放されたといっても、静かな日が待っているわけではありませんでした。公安警察は毎週のように家に来ては、理由も言わず家宅捜査を始めたり、私だけでなく家族にまで尋問をしたりしました。家族に迷惑を掛かるのを避けるために、実家を離れてラサの友人宅に身を寄せていたのですが、再逮捕の危険を感じて、ついにチベットを離れる決心をしました。2000年10月30日、ラサを発ち、車でネパール国境まで向かい、国境からは歩いてネパールに入りました。ネパール人になりすまし、中国側の検問はなんとか通過できましたが、ネパール側の検問でつかまり、そこで5日間留置されました。幸運なことに国連難民高等弁務官の助けを得ることができ、留置所から釈放され、無事にインドのダライ・ラマ法王が住む町、ダラムサラまでたどり着くことができました。2000年12月4日のことでした。その3日後には、ダライ・ラマ法王にお会いすることができました。まるで夢のような出来事でした。

今はこうしてダプチ刑務所から出て、インドで自由に暮らしていますが、決してダプチ刑務所は過去のことになってしまったわけではありません。拷問の後遺症のために、右足首が曲がらず、杖がなければ歩くこともままなりません。腰痛もあります。大きな音には敏感に反応してしまいますし、そして、今でも毎晩のようにダプチ刑務所の夢をみるのです。



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Lhasa 1989 C/R 9-10-3中国が初の「国家人権行動計画」を発表…09−10年

2009/04/13(月) 18:32

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0413&f=politics_0413_010.shtml

  中国国務院は13日、同国初の「国家人権行動計画」を発表した。2009年から10年にかけて、社会の各分野における人権問題で、政策上の具体的な行動目標を定めた。原文は約2万2000文字の長大なもの。以下は、その要旨。

●前文
  人権の十分な実現は、人類が長期にわたり追い求める理想だ。中国人民と中国政府は、長期にわたり、この目標のために奮闘努力する。


■中国政府は、人権問題に関する仕事を不断に推進する。

・就業の権利
  2009年から10年にかけて、国家は国際的な金融危機の負の影響を除去するために努力する。就職促進法を実行し、都市部における高等教育機関の卒業者と農民工(※)の就業問題を重点的に解決する。(※:現金収入を得るため、都市部に出て臨時工や契約従業員として働く農民)

・基本的生活を営む権利
  全国の住民、特に低収入層の収入を徐々に向上させる。最低生活保障制度を完全なものにし、基本的水準の生活を営む住民の権利を守るべく努力する。

・平等に教育を受ける権利
  義務教育、農村部での義務教育事業を優先させた上で、職業教育や高等教育のレベルの向上に注力する。校外教育の推進に一層努め、国民が平等に教育を受ける権利を保障する。

・医療と衛生の権利
  全国で基本的医療衛生制度の枠組みを作る。中国を全住民の基本的医療衛生保険制度が確立した国家のひとつになる。

・震災から復興の権利
  中国は2008年に発生した四川大地震の被災地域の復旧を、3年間をかけて重点的に行う主要任務と決定した。2010年までに被災者住民の生活水準を復旧、あるいは地震発生前以上に引き上げる。全員が住居を持ち、仕事に就けることを保障する。

・環境に関する権利
  環境に係る法治主義を強化し、大衆の権利を保護する。違反企業の閉鎖を進め、大衆の健康を保障する。違法行為や事件は厳しく処罰する。

・農民の権利と古関
  都市と農村の戸籍の二重構造の打破に努める。「新農村」の建設を進め、農民の合法的権利を守る。戸籍制度の改革を進め、農村から中小都市への戸籍の移転の条件を緩和する。

■住民の権利と参政権の保障

・秩序ある政治参加の権利
  各階層、各分野における住民の政治参加を、秩序をもって拡大する。住民の参政権を保障する。

・意見発表の権利
  報道・出版事業で各種のパイプを整備する強力な措置を講じ、住民の意見発表の権利を保障する。

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵6・自白強要の厳禁と慎重な死刑執行
  刑事事件捜査での自白の強要、違法な身柄拘束を厳禁する。死刑執行は厳格に制限し、慎重に実施する。死刑判決までの、審査過程を順守し、再審査の手続きを完成させる。法執行と司法の監督のメカニズムを確立し完成させる。

・身柄拘束者の権利と人道的扱い
  身柄拘束者の取り扱いを監視する法を完成させ、その権利の人道的扱いを保障する。

・公正な裁判を受ける権利と国家補償の見直し
  裁判の合法性、速やかな進行、公正な審理について有効な措置を講じる。裁判でのはっきりとした事実の認定、疑いのない証拠の採用、審理進行の合法性を保証する。国家賠償法の改正を行い、賠償請求者と請求可能な事案、賠償義務を持つ公的機関の範囲を拡大する。賠償までの手続きや算出法も改正する。国民及び法人、その他の組織が国家賠償を請求できるようにする。

・国家機関・関係者を批判する権利
  国民が国家機関と関係者を批判、提案、告訴する権利を保障する。団体、社会組織、メディアに、国家機関と関係者を監督する機能を発揮させる。


■少数民族、女性、児童、高齢者、身体障害者の権利

・家庭内暴力の防止と女性の権利
  女性に対する一切の家庭内暴力を禁止する。予防、制止、保護が一体化した家庭内暴力に対抗するためのメカニズムの設立を探究する。

・国家公務員中の女性の割合
  市以上のレベルの地方政府で、女性公務員の比率を向上させる。5割以上の省・市レベルの行政区画で、トップを女性にする。

・少数民族の政治参加の権利
  少数民族の、民族自治地域の行政と国政への参加を拡大する。全人代の代表(議員)に、55の少数民族がすべて含まれるようにする。人口が特別に少ない民族でも、最低1人の代表を出すようにする。

・児童の権利、胎児の性別判定の厳禁
  「全国児童発展綱要(2001−2010年)」が定めた目標を完全実現させる。「児童の権利を最大に」との考えにもとづき、児童の生きる権利、成長する権利、社会参加の権利を保障するよう努力する。(遺伝病などに絡む)医学的な理由以外の胎児性別の判定と性別にもとづく人工中絶を禁止する。児童の養育放棄などの犯罪行為を厳重に取り締まる。(編集担当:如月隼人)




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2009年03月22日

拷問の後(情報省発表映像)

3d9df29b.bmp昨日急いでて、簡単にしかお知らせ出来なかった情報省発表の貴重映像について、ICT(International Campaign for Tibet)の瓜子女史がMixiに詳しく報告されていましたので、以下転載させて頂きます。

2009年3月20日 ICT

http://www.savetibet.org/media-center/disturbing-new-footage-police-brutality-tibet-released-tibetan-government-exile

チベットで行われている残虐行為の実証ビデオがチベット亡命政府によって発表される。3月10日の民族蜂起記念日の直後、2008年にはじまった抗議行動後からの、チベット人に科せられた警察による残虐行為の数々の映像がインド,ダラムサラにあるチベット亡命政府によって発表された。

写実的で残酷な映像は: http://www.tibetonline.tv/torture/. からダウンロードして視聴できるが、見るものの多くは余りの残虐さに目を覆うであろうと思われる、この映像には、(拷問の結果死に至った)チベット人の医療処置の過程なども含まれ、ビデオの提供者についての詳細は身元の安全を守るため、すべて消されている。

インド、ダラムサラのチベット亡命政府の声明は
”昨年の動乱についての映像は世界中に報道されたが、今回、発表される映像に含まれるのは、警察による抗議行動参加者に対する殴打、拘束者の死や苦痛、ラサ市街地の軍隊武装された様子など、必死で外の世界に持ち出された貴重な映像である。”と語った。

これらの映像は明らかに中国政府によるチベット人拘束者に対する拷問や暴行行為の否認に意義をとなえるものである。
北京党局は一連のチベット高原で起きた動乱を3月14日ラサで起きた一回の暴動として位置づけている。
中国国営放送では3月14日以降、数週間に渡り、僧侶らが警官隊に投石(と報道)するシーンや
抗議者らが店のショーウィンドウを壊す様子や、黒煙の上がるラサ市内で黒こげになった車など、作為された報道映像を流し続けた。

中国政府がチベット人を射殺や、拷問死にいたられている事実を隠蔽しようとする間に、同政府は”3月14日”事件に関するDVDまで作成し,世界中の中国大使館に配布された。
現在、チベットに関する情報を国外に洩らさないための対策としてとられている党局による厳しい対策や、その恐怖から入手が大変困難であり、
本日チベット亡命政府によって発表された拘束中のチベット人の写実的な拷問などを含む映像は2008以降初めてのドキュネンタリー映像といえる。

第一章ではチベット人僧侶と檀家チベット人らが拘束後、地面に転がされ、警棒で連打されているシーンに、もう一人のチベット人が地面を引きずられてくる。
両手首ともロープできつく縛られた状態で、片一方の手首を肩から回して背中で縛るという中国の刑務所で良く使用される、最も苦痛を伴う方法で縛られたまま、四川省のなまりのきつい中国語と、中の一人はチベット語で罵倒している。
途中、中の一人が鎮静する様子も見られる。
警察が(縛られて、寝転んだままの)チベット人に罵倒している言葉を聞き取るのは困難だが、以下の言葉が聞き取れる。
『逃げてみろ!逃げてみろ!』
『もうこれで分っただろ!』(チベット語)
『もういい、もういい、もういい。』(同僚に対して、唯一の鎮静を求める声。中国語)
『伏せていろ!伏せていろ!』(中国語)
『そいつを押さえろ!』(中国語)

これらの映像は大変残酷で正視するのが困難だが、2008年3月以降のチベット人抗議行動参加者に与えられた現状は警棒で連打されるよりももっともっと,残虐を極めている。
拘束者の多くは電気ショックなどをもちいた残虐な拷問にかけられ、刑務所や収容所でもっとひどい暴行を加えられている。その結果多くのチベット人が、四肢の脱臼、骨折、肢体の変形、精神的な後遺症に苦しんでいる。

ーーー

チベット亡命政府,国際情報局によるプレスリリースの全文は以下;

公表;チベットで中国の残虐行為

映像はこちらで; http://www.tibetonline.tv/torture/

ダラムサラ;

昨年の動乱についての映像は世界中に報道されたが、今回、発表される映像に含まれるのは、警察による抗議行動参加者に対する殴打、拘束者の死や苦痛、ラサ市街地の軍隊武装された様子など、必死で外の世界に持ち出された貴重な映像である。

チベット中央議会の発表によると2009年1月31日付けで、これら一連の暴行によるチベット人死亡者は220人、1,294人は重傷を負ったとされ、また5,600人以上が逮捕され、内290人が判決を言い渡され、1000人以上ものチベット人が行方不明になっています。

これまでに中国警察による抗議行動者に対する残虐行為を記録して、チベットの外に持ち出された真実の映像で、強烈かつ見るものに深い痛みを伴ったものでは、1988年のジョカン寺の集団暴行の様子があります。


昨年3月以降の連鎖的に広まった抗議行動に続き強化された弾圧後、中国党局はチベット人拘束者に対して暴行、拷問を使用してきたにも拘らず、中国はこれまで繰り返しチベットにおける拷問の使用を否定してきた。


中国外務省は昨年11月の国連拷問禁止委員会による中国警察による広く使用される拷問の報告を、”無実で抽象的である”とし拒否し、委員会審議メンバーを中国に対して”偏見”を持っていると非難した。

しかしながら、これらの映像が2008年以降の最近のチベットの生きた証言である。

これらの映像は2008年3月10日からチベット全土で連鎖的に起こった抗議行動に参加したチベット人を中国警察が殴打している数少ない貴重な証拠映像である。
これは2008年3月114日ラサの近くで起きたと聞いている。
映像は手錠をかけられロープで縛られた状態のチベット人拘束者を殴打している様子を克明に伝えており、拘束者に対する国際法の侵害行為である。

2つ目の映像は中国携帯電話企業に勤める若いチベット人テンダーについて。
彼は惨い殴打ののち、中国党局による残虐な行為によって苦しめられた。
テンダーは3月14日に、出社途中に目撃した一人の僧侶
が中国警察によって殴打されるのを止めようとしたにすぎない。

彼は、火で焼かれ、タバコの火でやけどをおわされ、右足に釘を打ち込まれ、電気棒で惨い殴打を受けた。彼の負った傷や打撲の生々しいあとは、中国党局による行為の証拠だ。
病院に収容された時、明らかに最低な傷の手当も与えられていなかった、壊死状態にあった傷を見て、医者や看護師らは大変なショックを受けた。

壊死状態にあるビニールで覆われただけの傷口を,映像ははっきりと捉えており、彼の家族が膨大な治療のための費用を用意し、 約2.5kg分の壊死いた部分の摘出を行い、できるだけの処置がとられたが、彼が回復することはなかった。

彼は、2008年6月19日,怪我により死亡した。

伝統に従って鳥葬で葬られている時,爪が「右足の中」にあるのが見つかったと記者声明で述べられた。

三つ目の記録映像は,ラサに展開し配置についている重武装の武装警察軍部隊を映し出した。
今月の3月10日,チベット人が国家的規模で蜂起した50周年 を迎える直前の時期のものである。
「ラサと他のチベット人地域は全て,未だ,実質的な戒厳令下にある」と亡命政府は記者声明で述べた。

ーーーーーーーー

ただ一つだけ訂正が必要。
終わりから二節目<爪(nail)が「右足の中」」とあるところは「爪」でなく「釘」と思われる。

ーーーーーーーーーーーーー

このビデオを最初に手に入れたのは情報局ではなく他の省です。
ちょうどその省の人と昨日昼を一緒にしていました。
話題がこのビデオのことになったとき、私は「どうやってどこから手に入れたのか?」とどうせ教えて貰えないことを解ってて質問した。
もちろん、出所は教えてくれなかったが、

「例のビデオを発表するには危険が大きかった。
公安が撮った人を特定することは簡単だろう。
それでも、その人は逮捕覚悟で発表してくれと言ってきたのだ」そうです。




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2009年03月21日

最近の中国の拷問の実体を伝える貴重な映像が公開された。

e7b83a4f.bmpチベット亡命政府DIIR(情報・国際関係省)は昨日午後3時からプレスを集め、チベット内部から入手した、デモの弾圧、拷問の実態を示す貴重な映像を公開した。

この映像は以下のウェブでご覧になれます。
ただ、中には少々ショッキングな映像も含まれていますのでご注意ください。

容量が小さく早く見えるのは
http://media.phayul.com/

記事は以下。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24241&article=Rare+footages+show+China%e2%80%99s+brutality+on+Tibetan+protestors

政府の発表した重くて、解像度の良い方を見るには以下へ。
http://footage.tibetanbridges.com/

この中、テンダーという若者が去年3月14日、出勤途中に一人の僧侶が警官にリンチされているところに出会い、それを止めようとして逮捕され、拷問され、死んでいく話が紹介されています。

彼は、たばこを押しあてられ、棍棒で殴られ、電気棒で苦しめられた。
足に釘を刺されたままだった。

一応軍病院に入れられたが、まともな治療を受けなかったことは彼の傷の化膿の様から明らかだ。
後、人民病院に送られた。ここで、医者は腐った肉を2.5キロそぎ落としたという。
家族が非常に高い医療費を払ったにも関わらず、彼は回復することなく、2008年6月19日に死亡した。

映像は彼の傷の状態をリアルに伝えている。

彼は亡くなったあと鳥葬されましたが、その時鳥葬人が彼の足に深く刺さっていた釘を見つけた。

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2008年12月25日

拷問死、地下協会

b3563642.JPG以下は12月22日付、チベット亡命政府公式ウエブ発表としてphayul.comに掲載されていた情報です。いつものように要訳です。

ーーー

<一人だけの抗議デモ、拷問死>
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23493&article=Report+confirms+two+arrests%2c+five+tortured+to+death+in+Tibet

チベットからの情報によれば、
11月20日午後5時頃、ラサ市内において20歳ぐらいと思われる若者が一人
「チベット独立!」とスローガンを叫んだ。

ほどなくして、若者はその場で公安警察にかこまれ兇暴な撲打を受けた後、連行されていった。

他の情報として、
11月28日カム、マルカムにあるウーセル僧院の僧院長ジャンパ・ギェルツェン師が公安当局により逮捕されたという。詳細不明。

亡命政府は今年の死亡者リストの中に新たに5人の名前を確定し付け加えた。
何れも死因は拷問、撲打とその後の治療が拒否されたことによるものだ。

5名の氏名は:
ソナム・プンツォとその妻(氏名不詳)、
ジャンパ・ラモ45歳チャムド出身、
テンジン・ノルブ ラサ出身、
ガワン・ツェリン マルカム出身。

以下に5名の現在までに判明した消息を記す。

1、ソナム・プンツォ: カム、チャムド県マルカム地区メパ・チャソ・テンパ村出身。彼は3月14日のラサのデモに参加したとして兵士、警官隊に過剰な暴力を受けた。

盲目の彼の妻はその場で泣き叫び、夫を殴らないでくれと懇願した。
しかし、武装警官はしがみつく彼女の頭を棍棒で撲打した。
彼女は意識を失いその場に倒れた。夫が連行された後、彼女は死亡した。

3月18日、ソナム・プンツォは拘置所内で他のチベット人と共に
「チベット独立!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と再びスローガンを叫んだ。
その結果彼らは監視人により極度の拷問を受けた。
ソナム・プンツォはこのとき電気棒により何度も頭部を強打されたことにより死亡した。
同様の状況で多くのものが死亡している。

彼とその妻は20年ほど前より ラサ、ラモチェ僧院の門前で物乞いをして暮らしていた。彼らが亡くなり、彼らの9歳と7歳になる息子二人の面倒を見る者は誰もいなくなった。

2、ジャンパ・ラモ:45歳、カム、チャムド県キュンポ・テンチェン出身。
出身はカムであるが彼女はラモチェ僧院地区に長年暮らしていた。
3月29日に逮捕されて以後、拷問を受け続けた。
解放されたとき彼女は衰弱しきっていた。病院で治療を受けたが回復することなく11月28日自宅で死亡した。

3、テンジン・ノルブ:ラサ近郊メド・クンガ出身。
彼はラサとペンボの平和デモに参加したとして、逮捕され、拷問を受け死亡した。
フンドゥップ地区の警察から死体が、妻と一歳から七歳までの三人の子供の待つ家族に渡された。

4、ガワン・ツェリン: チャムド県マルカム地区メパ出身。
彼は3月13日病院に入院した(原因不詳)。
医者は輸血が必要だと告げた。
しかし、続く14日騒乱が起こった後中国当局は「軍隊のために優先的に輸血は確保されねばならない、いかなるチベット人にも輸血を与えてはならない」との通告を発した。
その結果、彼は輸血を得ることなく死亡した。

以上

ーーーーーー

例えば3月14日にいったい何人の人が本当に撃たれ、殴られて死亡したのかははっきりしない。
100〜300人であろう。個別の確かな情報が伝わるには時間がかかる。
情報を外部に漏らしたというだけで、発覚すればスパイ罪となり長期の刑期を受ける。
最近伝えられたワンドゥ氏(無期懲役)以下6人が10年から15年の刑期を受けたのはこの例だ。
外国に隠された情報を流しただけ、それも電話やメールでそれとなく伝えただけでも重罪となるとは、そんな国が中国なのだ。
どれほどの恐ろしいことを隠れてやっているのかな?と興味は増すばかりというのが普通の反応でしょう。

一ついつも思うことがある。
中国の有名反体制知識人なら逮捕されても拷問にあったり、長期の刑期を受けることはまずない。外国が注目するということもあるが。
しかし、チベット人の場合は地方では少し有名であろうと何の問題もなく拷問を受け、長期の刑を言い渡される。
乞食で盲目ならばその場で殴り殺される、、、

例えば、天安門のデモを先導した学生たちは、外国に亡命もし、有名にもなった。
しかし、天安門事件の起こる2年前に、文革以来初めてラサで数千人規模のデモを先導したデブン僧院の僧侶たちは今まで何の保護も受けることなく、世界に発言する機会もないままだ。
この差はどこからくるのか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

続いて新華社電より、

「デマ流布」と59人逮捕 中国チベット自治区
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081224/chn0812242303004-n1.htm

2008.12.24 23:03
 24日の新華社電によると、中国チベット自治区ラサ市の公安当局は23日、3月14日に ラサで起きた大規模暴動に関連し、デマを流して国家の安全を害したとして、59人を逮捕した と発表した。

 当局によると、59人はラサでの暴動後、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の支持 者と協力し、共産党や政府に対するデマで民族主義をあおったとしている。(共同)


ーーー

短い記事なので詳細不明です。
中国では<真実>は<デマ>、<デマ>が<真実>が常識です。


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最後にクリスマスのお話。北京の何とも言えないクリスマスの様子です。

それにしても信者が7000万人というのは本当なら信じがたい数字です!
これから暗い世が始まり益々信者は増えることでしょう。
この時期にチベット仏教がもしも布教可能なら、大変な数の信者を獲得できるのは確実でしょう。


ーーー

<北京の地下教会ミサ 緊張の聖誕節 若者・インテリ層にも信者拡大> - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081224/chn0812242152003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081224/chn0812242152003-n2.htm

2008.12.24 21:49

【北京】聖誕節(クリスマス)ムードに包まれた北京市内のマンションの一室でこのほど、中国政府に公認されていない“地下教会”のミサがひっそりと開かれた。50人を超す参加者の多くは20代、30代の大卒者。約半数は女性だ。共産党の指導を拒否し、信仰の自由を求める地下教会が、高学歴層や知識層にも広がっていることをうかがわせた。



 天井と壁を十字架が彩っていた。信者名義の3LDKマンションは教会組織が資金を出し、借りている。女性のピアノ伴奏に合わせて合唱し、牧師(33)が「心の平安をどう保つか」を説いた。一見何の変哲もないミサにみえるが、どことなく緊張感が漂っていた。

 地下教会には、牧師の政府批判などを把握するため、当局側の人間が潜り込んでいるといわれてきた。コンピューター関連企業に勤める30代の女性は「中国共産党の指導やかかわりを拒否したい。でも、政府のやり方はわかっているから、心の中では緊張している」と不安を隠さない。

 著名な反体制派作家で、ブッシュ米大統領に面会したこともある余傑氏の顔がみえた。共産党による一党独裁体制の廃止を求めた「08憲章」に署名した男性もいた。

 もともと公認のキリスト教組織に属していた、ある民主活動家(47)は、聖職者が信者の言動など詳細な状況を当局に報告し、それを受けて信者が拘束されたことを知り脱退。1993年からは地下教会で活動してきた。人権擁護活動に携わって以降、職も失った。「今に至るまで当局に監視され続けている」と小声で話した。

 地下教会の信者数は、共産党の指導を受ける公認組織の信者数をはるかに超える。貧困層の農民から富裕層まで、約7000万人と推定されている。

 ある大学教授は「社会の急激な変化や道徳の低下、拝金主義の中で、精神的よりどころを求める人が増えた」と分析する。知識層や企業家への信者の広がりは、寄付金の拡大にもつながっている。社会情勢の変化次第では、政権に幻滅した勢力とともに党の求心力をそぐ組織になりうる−との見方もあり、中央政府が警戒する理由もここにあるとみられる。

 2006年7月には、杭州の教会建設現場に多数の警官隊が押し寄せ、暴力を振るう事件が起きた。このような露骨な弾圧こそ少なくなってきたが、最近、北京の民主活動家が計画した地下教会のミサは「当局が場所を提供した施設に圧力をかけ、中止に追い込まれた」といわれる。電気・水道を止めたり、マンションのオーナーを通じて退去を迫ったりするなど、見えない圧力が増している。






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2008年07月12日

子供が見せる拷問の跡、 チベットからの電話情報様々

c19a873e.JPG写真は以前にも紹介した。スジャスクールにいるジャミヤン(19歳)です。
ちょっと怖い顔をして、二の腕を出している。
良く写ってないけど、実は拷問で受けた傷痕を見せてくれてるいるところなのです。
彼は二年前例のナンパラを越える時銃撃を受けたグループにいたのですが、中国側に捕まりディンリで4日尋問と暴行を受け。
シガツェ刑務所に2が月拘留されその間の最初の一か月は拷問を受けたのでした。
NHKもすでに彼のことは取材しています。今度の長いバージョンに彼も出ると思います。

左肘当たりの傷はベルトのバックルで殴られるとき無意識に手を上げてよけようとして、怪我をしたそうだ。血はいつも沢山出たという。

もう一つ足に残る大きめの傷を見せてくれた。これは真っ赤に焼けた電気コイルを押しつけられた跡だと言った。

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NHKと言えば、この前主人公のようになってた14歳のツェリン・ノルブが第二土曜日の今日は学校を出て、ダラムサラに久しぶりに帰って来ました。
今夜は私の家に泊りです。もう今は寝てしまいました。
明日彼の出てるこの前のNHK放送を見せて上げましょう。
さぞ驚き、喜ぶことでしょう。

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7月11日付委員会プレスリリース
Y女史訳
http://www.stoptibetcrisis.net/pr110708.html
Tibetan arrested for conveying grievances

国営新華社通信は7月11日、チベット自治区(TAR)副長官ペマ・ティンリーが「TAR公安省は3月14日の事件に関連して953名を逮捕・拘束した」と発表したと伝えた。
そのうち、362名は当局へ自首したという。副長官によると、当該事件との関わりで116名を未だに捜索中とのこと。
彼は法廷で刑を宣告されている42名のチベット人に続くものとして、これらの数字を挙げた。
だが、6月20日に開かれた記者会見では、ペマ・ティンリー副長官は軽犯罪の1157名が釈放され、それとは別の116名が起訴される見通しだと述べていた。
上記二つの発言の間には根本的な矛盾がある。
もし事件後953名しか拘束されていないのだとしたら、いったいどのようにして1157名を釈放し、さらにその上で116名を起訴する、といったことが起こりうるのか?
 953名、1157名といった数字がチベット自治区において拘束された人数として信じるべきものであるなら、少なくとも2110名がチベット自治区だけで逮捕されたことになるのではないか?

ーーー

確認された情報によると、7月最初の週に、カムド県パルバル郡ニンモ・シャンに住んでいたパルデン・チョダクとニィドルの2名が、地元役人の前でチベットの人々の苦情を訴えたかどで逮捕された。
2人は、その地域において治安要員や政府職員として勤務している漢族の中国人が大勢駐在していることについて、憤りを表明した。
彼らは、チベット人であっても中国人と同じように勤務できるとして、チベット人にも仕事を与えるよう要求した。

その二日前には、ギャルショー・ベンカル僧院のチュジョル(24歳)とその兄ドルジェ・タシ(28歳)が、外の世界へ情報を伝えた容疑で、突然逮捕された。
2人ともパルバル郡ニンモ・シャンの出身である。彼らの所在は現時点で不明。

遡って4月16日、青海省シリン(西寧)の中国治安部隊は、クンブン僧院の僧侶であるケルサン・ツンドゥ、クンチョク・サムテン、ジンパ・ギャツォ、ロプサン・ツェリンを密かに逮捕した。
4名は西寧に連行された後、正式な起訴の手続き気を踏むことも自分達の犯罪について弁明の余地を与えられることもなく、絶え間ない殴打を浴びながら長引く尋問に晒されることが予期されていた。
彼らは僧院内で秘密裏に逮捕されたため、親族もその行方について把握できていなかった。
しかし、僧院では徐々に彼らの拘束について情報を把握したため、年長の僧侶達が「逮捕された僧侶は正式には起訴されていない」という根拠に基づいて彼らの釈放を求め、関係各所に掛け合った。その結果、こうした僧院側の努力により、僧侶達は5月15日に釈放されたが、当局によりいくつかの所有物を没収された。密かな逮捕劇の際に、治安警察はコンピューターや貨幣を押収しているが、それらは僧侶達には返還されなかった。


ギャルショー・ベンカル僧院の約30名の僧侶達も所在と状況が不明であり、深く憂慮されている。ギャルショー・ベンカル僧院はナクチュ県ディル地域ベンカル村にある。
30名の僧侶達は、3月にラサで騒乱が起きていた頃、一時的にデプン僧院に滞在し、仏教研究を進めていた。
彼らの連行先、現在の生死についても不明である。

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2008年06月27日

第11回国連国際拷問犠牲者支援デー

580a6d9c.JPGまずは昨日お伝えしたNHKの話の続きです。
例のナンパラの映像はどうやら放映されないことになったとか。
残念ですね。どうやらルーマニアの放送局が中国に脅迫ないしは買収されていると?おっとこれは私の勝手な想像です。
流石のNHKも放映権が得られなかったのですね。
他BBCとかではどんどんやったじゃないかって、、、??

その代わりといってはなんですが、29日に放送される版の拡大版が新たに製作され再び流されるそうです。
相当長い番組になる予定です。
いい話しじゃないですか。

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今日のニュースとしては、

ネパールで始まった帰還行進はもう二日ほどで国境に到着する。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=21773&article=Nepal+Tibetan+marchers+halfway+to+the+border

フランスのムッシューサコジ大統領は8月にダライラマ法王と会談する。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=21776&article=French+President+will+meet+with+Dalai+Lama%2c+reports+French+daily

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以下
ダラムサラのTCHRD(チベット人権民主センター)26日付リリースより抜粋。
http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080626.html

TCHRDは第11回国連国際拷問犠牲者支援デーを記念する

1984年国連総会は「拷問及びその他の凄惨かつ非人間的、恥辱的扱いや刑罰(CAT)」に反対するという国連憲章を採択した。
それは実際に1987年6月26日から施工された。

TCHRDは50年以降のチベット人に対する激しい人権侵害について語り、
今なお6500人のチベット人が収監されていること、
最近の拷問死の事例を数件上げた後、

中でも政治犯は拷問の一番の標的とされる。、、、
電気棒、激しい暴行、顔にタバコの火を押しあてる、動くとどんどん閉まる手錠、指錠、足枷、宙吊り(俗称飛行機)、酷寒、酷暑に長時間晒す、無窓独房に長期間押し込める、眠らせない、強制労働等は一般的に使われる拷問手段のほんの一部だ。
これらの拷問により中国当局はチベット人の民族精神と個人の人格を破壊することを目的としている。
肉体的損傷もさることながら、一般に拷問被害者にとっては心理的、情緒的傷がもっとも破壊的であり癒しがたいものとなる。
さらに刑期を終えてそれぞれの出身地に返されたのちにも、様々の試練が元政治犯には待っている。
まず、彼らは元のように僧侶、尼僧になることは許されない。様々な市民権を剥奪され、当局に監視され続け、ほぼまっとうな人生の希望は奪われ続ける。
このようであるので、多くの元政治犯は自由と新しい生活のために亡命を選ぶのだ。」


中国人民共和国は1986年12月12日この国連憲章を批准し、1988年10月4日より施工された。

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中国の拷問文化の話はもううんざりだが、、
最近のチベットの状況を<ネオチベット文化大革命>と仮に名付けるとして、その
参考書として時間のある方は、嘗て文化大革命の間チベットになにが起こったのかを知るために:

チベット 受難と希望
「雪の国」の民主主義
ピエール=アントワーヌ・ドネ
サイマル出版会

の102p〜134p
<毛沢東主義者の狂乱>の章
をお読みください。
図書館にでも行かないともうないかもしれないけど。




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2008年06月18日

チベット内では今も様々な迫害が続く。

ダラムサラツクラカン千手観音像18.6.08サカダワの今日も夕方からキャンドルライトビジルが行われ、ツクラカンの前庭では集会がありました。
上の本堂の周りはコルラする人、五体投地でコルラする人達で一日中大勢の人がお参りにきていました。
参道には恒例のインド人乞食の長い列が続いていました。
チベット人がこの日には沢山布施をすることを知っていて、近隣の乞食たちもこの日にはダラムサラに集まるのです。

そんな平和なダラムサラですが、
闇に閉ざされたチベットの中で人々は密かに祈っていることでしょう。
サラダワの日にも悲しいニュースは届くのです。

http://www.stoptibetcrisis.net/pr160608.html

連帯委員会 2008年6月16日 リリースY女史訳

確認された情報によると、3月と4月に逮捕された(と複数の情報筋によって確認
されている)大勢のチベット人達の所在が、その家族が捜索し続けているにも関
わらず、不明のままである。たとえば、デプン僧院で学んでいたが正式には僧
院に登録していなかったペマ・ツェリン、ペマ、サムテンの僧侶三名がいる。
彼らはトゥルン・デチェン郡チュサン町の出身で、中国当局により3月10日、デプ
ン僧院で逮捕された。だが、家族や親族達がラサ周辺のあらゆる刑務所や拘置所
を探し回ったにも関わらず、行方は依然として判明していない。
同様に、ラサ出身の僧侶ロプサン・ワンチュク、ロカ出身のタシとその息子のプ
ンツォク・ツェワンは、4月中旬にデプン僧院で90名の僧侶とともに逮捕されて
いる。それ以来、彼らについての情報を耳にした者はいない。

ラサ当局は最近の一掃作戦において、ラサ出身の知識人チベット青年テンジン・
チョダク(通称テンチョ)を、3月の抗議行動に参加した容疑で逮捕した。彼は4
月に自宅で逮捕された。父親はケドゥプと呼ばれている。逮捕されたテンチョと
その他数名のチベット人は、まもなく判決を受けると言われている。
20歳のテンチョはラサの社会福祉団体に勤務していた。


3月14日の抗議活動に対する無差別銃撃で、ソナムという女性がラモチェ僧院付近
で中国側の発砲を首に受けた。彼女はラサ・チベット医学研究所病院に三日間入
院し、手当てを受けていた。
だがソナムは、中国本土で勉強していたという彼女の娘チュ・ラク(フルネームは不明)およびその他の負傷したチベット人とともに、中国治安部隊によって病院から連れ出され、尋問を受ける際に激しい拷問にさらされたという。
母娘は5月下旬に釈放されたが、二人とも身体に障害が残り、深刻な状態に陥っているという。


http://www.stoptibetcrisis.net/pr170608.html

連帯委員会 2008年6月17日 リリース
Y女史訳

確認された複数の情報筋によると、6月15日、チベット自治州カンゼ郡(県)カンゼにて、少なくとも一人のチベット人男性が、平和的なデモを行った後に逮捕されたと伝えられている。この男性の詳細については不明である。
その前日の14日には、カンゼ郡テホルにあるカンマ・ゲンデン・サムドゥリン僧院の僧侶イェシェ・パルデンが、公安省郡役所の前で抗議を行い、「ダライ・ラマ法王にご長寿を!」「法王はチベットにお戻りになるべきだ!」「すべてのチベット人政治囚を釈放せよ!」といったスローガンを叫んだ。
彼は治安部員に鉄棒で激しく殴られた後、逮捕された。

中国政府とチベット政府役人の間の民族問題をめぐる思想の対立によって、セル
タ郡ホーシュル地区のチベット人長官が5月、中国人の上級長官に撃たれて死亡し
た、
と伝えられている。犠牲者の名前はロヤで、中国人職員を怒らせた行動につ
いては詳細不明である。

別の事件では、ランドルという名のチベット人が5月16日セルタ郡ニイチュで中国の五星紅旗の代わりにチベット国旗を3旒(3枚)掲揚した容疑で逮捕された。
このチベット人はツェシュルの遊牧民の村出身で、中国の人々全体が大震災で
苦しんでいる時期に抗議活動を行ったという理由でその場で暴力的な激しい尋問を受けた、と伝えられている。


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2008年05月22日

獄の状況

連帯委員会は21日付のプレスリリースで、
チベットの監獄の非人間的な状況を訴え、国際社会に彼らの保護を求めている。

以下Y女史が翻訳して下さいました。
チベット連帯委員会 2008年5月21日リリース
http://www.stoptibetcrisis.net/pr210508.html


ラサ、シトゥ刑務所チベットの「良心の囚人」の現状

チベットで3月10日以来発生している全国規模の平和的な抗議活動は、収束に向かっているわけではなく、チベット人抗議者達の逮捕も引き続き行われている
中国当局は、これまでにチベット全域において少なくとも5000名のチベット人を逮捕拘束したと推測される。
短期の拘束の後に釈放された人々の証言によると、拘束されたチベット人達は監
獄の中で、職員や兵士らによる冷血で残虐な扱いを受けている。

外部への発覚を避けるため、逮捕されたチベット人達はラサ周辺のグツァ、ダ
プチといったきわめて悪名高い刑務所ではなく、ラサ郊外の倉庫やトンネルから
なる仮設の刑務所に収監
されている。
拘束された人々の多くは、未知の行き先へと徐々に移送されており、現時点で彼
らは完全に行方不明になりつつある。

これらの刑務所では、過剰な殴打により収監者達を不具にしてもよい、との命令が出されているという。実際腕や足を折られている者もいる。
取調べの間、役人らは殴打に加え、時として火のついた煙草を体のあらゆる場所に押しつける、といったような尋問をやる。
拘束されている人々は、鎖の手枷足枷を嵌められ、両手を背中で縛られたまま長い時間吊り下げられ(通称「飛行機」)、おこなってもいない犯罪の自白を強制されている。
特にラサ騒乱の影響で、収監されているチベット人達は、いわゆる騒乱の「首謀
者」「共謀者」ほか加担した人々についての情報を引き出そうとする当局によっ
て、残忍な尋問に晒され続けている。

いくつかの監獄では、収監されている人々は3〜4日に一度しか食べ物を与えられ
ていない。
ほとんどの監獄では、人々は一日あたり小麦粉の団子(蒸しパンか?)を半分しか与えられていない。
しかも、何日も水を与えられていないため、多くの人々は自分自身の小水を飲んでかろうじて命をつなぐ、といった状態に追い込まれている。
大勢が弾圧の際に負傷し、その後も監獄のなかで過剰に殴打されており、何の医
療措置も施されないまま、怪我によって死亡し続けている。
また当局は、亡くなった収監者達の遺体を即座に処分している。


これまでの例では身体状態が極度に悪化すると釈放されるが、その多くは監獄で受けた打撲その他が原因で、釈放後まもなく死亡する。

監獄では収監者達にはベッドもマットレスも与えられず、厳寒の気候であっても
じかにコンクリートの床の上に寝るしかない。
中国政府役人や看守らは気の向くままに収監されている人々を引きずり出し、中国の評判を落とした罪だなどと言いがかりをつけては、リンチを楽しむ
中国軍人の中には、囚人を自分の武術のサンドバッグ代りに使っている兵士らもいる、という。

大勢のチベット人達が四川省にある複数の監獄に入れられていると伝えられてお
り、先日の壊滅的な大地震によって大勢が亡くなっている恐れもある

現在も続いているチベット域内における危機的な状況を鑑み、我々は国連および
国際社会・国際機関に対して、以下の点を大至急要請する:

1. チベット域内に、独立した国際事実調査使節団を大至急派遣すること
2. 中華人民共和国政府に対して、自由な報道機関がチベット全域に無制限にアク
セスできる許可を出すよう、圧力をかけること
3. 中華人民共和国政府に、チベット全域における残虐な殺戮をやめるよう、圧力
をかけること
4. 逮捕・投獄されているすべてのチベット人を即刻釈放すること
5. 怪我をしたチベット人達に大至急、医療措置を施すこと
6. 人々の自由な移動を許可し、生活必需品が手に入るようにすること

チベット連帯委員会

(以上)



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