【旧 二月五日 赤口】春分・雀始巣(すずめはじめてすくう)
 今から155年前、1860年3月24日(安政7年3月3日)のこと。江戸の町には明け方から季節外れの牡丹雪が降りしきっていました。現在の国会議事堂あたりにあった彦根藩上屋敷から江戸城桜田門まで数百メートル。午前9時過ぎに上屋敷を出た井伊直弼の駕籠は60人の供を従えながら、たった17人の水戸(薩摩一人を含む)浪士によって襲われ、わずか数分の戦いで直弼の首を取られました。供回りの侍の刀は柄袋の紐を固く絞めていたため、咄嗟に抜くことができなかったなどの理由は知られていましたが、最近新しい史料が発見されて、呆気無く勝負がついた原因の一つが解明されました。

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Photo:『桜田門外の変』 2010年 東映 から

いたづらに 散る桜とや 言ひなまし 
花の心を 人は知らずて
  ~森五六郎(水戸浪士)

意味もなく散りゆく桜と言われるが、
花の心など人には知られますまい。

 「言ひ」なまし、は「井伊」とかけているのでしょうか。水戸浪士の一人、森五六郎が直訴状を持って籠に近づき、隠し持っていた短銃で至近距離から撃った弾丸が直弼の腰部を貫いたのです。井伊直弼は居合の達人としても知られていました。この一発がなければ、そうやすやすと首を取られることもなかったかもしれません。この短銃は現存していて、コルト社のモデルを水戸斉昭が複製させたものであることもわかりました。

今日もまた 桜かざせる 武士《もののふ》の 
散るとも名をば 残さざらめや
  ~徳川斉昭(水戸徳川家前藩主)

今日もまた桜をかざして武士は
散ってゆくが、その名は後世に残されてゆくであろう。

 こちらは水戸斉昭が、襲撃した浪士のリーダー格の一人だった金子孫二郎に贈った歌。これに対して孫二郎から斉昭への返歌も残されています。

かへるさの 道や絶えなむ 白雪の 
ふるさとをかく 出(いで)て行く身は
  ~金子孫二郎(水戸浪士)

これで帰り道は絶えてしまうでしょう、白雪に
閉ざされた故郷を出てゆく我が身は。

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