万葉歳時記 一日一葉

「万葉集」から1300年の時を超えた現代短歌・俳句まで、
昔と今を結ぶ日本人のこころの歌を歳時記にしました。

【恋情・友情】

#4513 葦原の繁こき小家《をや》に菅畳いや清《さ》や敷きて我が二人寝し

令和7年2月11日(火) 【旧 1月14日 友引】 立春・黄鶯睍睆(うぐいすなく)

葦原の繁こき小家《をや》に菅畳いや清《さ》や敷きて我が二人寝し
  ~神武天皇(B.C.711-B.C.585)『古事記』

葦原の茂った小屋に菅の筵を清めて敷き、私は妻と二人で寝たことだ。

 神武天皇の歌にある妻とは大国主命の孫である事代主命《ことしろぬしのみこと》の娘とされる媛蹈鞴五十鈴媛命《ひめたたらいすずひめのみこと》のこと。神武天皇は平和で豊かな国を作ろうと高千穂の宮から東征し、畝傍山の麓の橿原に都を開いて即位されました。この日が神武天皇元年1月1日。天文学を駆使して現在のグレゴリオ暦に換算すると紀元前660年2月11日になるとされたことから「紀元節」が定められました。

250211_葦原の繁こき小家に菅
Photo:橿原神宮

 戦後、GHQの命令により紀元節は廃止されましたが、その後この日を「建国記念日」として復活しようという法案が9度にわたり提出されています。しかし野党が反動的であるとして反対し、成立に至りませんでした。昭和41年に現在の「建国記念の日」は日本の建国日ではなく、建国を祝う日であるという意味をこめて定められたものです。その趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しています。

梅正に綻びそむる紀元節
  ~正岡子規(1867-1902)

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#4509 ほのかにもしらせてしがな春霞かすみのうちにおもふ心を

令和7年2月7日(金) 【旧 1月10日 仏滅】 立春・東風解凍(はるかぜこおりをとく)

ほのかにもしらせてしがな春霞かすみのうちにおもふ心を
  ~後朱雀天皇(1009-1045)『後拾遺和歌集』 巻11-0604 恋歌一

ほんの少しでもよいから知らせてほしいものだ。春霞の中であなたを思うように心細いのだから。

 第69代後朱雀天皇が亡くなったのは今から980年前。肩の悪性腫瘍の為、1045年2月7日(寛徳2年1月18日)に崩御されています。『光る君へ』の終盤に少年時代の姿が登場していましたね。

250207_ほのかにもしらせてしがな春霞
Photo:敦良親王(後朱雀天皇) ~NHK大河ドラマ『光る君へ』より

 後朱雀天皇(敦良《あつなが》親王)が後一条天皇の下で立太子したのは9歳の時(1017年)。この歌を贈ったのは尚侍《ないしのかみ》であった藤原道長の娘嬉子でした。嬉子はその後即位した後朱雀天皇に入内し、親仁親王(後冷泉天皇)を生んでいます。後朱雀天皇自身も上東門院彰子(道長の娘)の子であることから、甥と叔母、3親等の関係。この当時の皇室は近親婚が多かったので珍しいことではありません。ちなみに後朱雀天皇の皇后は道長の娘藤原妍子《きよこ》の娘禎子《さだこ》であり、こちらとは4親等の従兄妹なので現在でも問題のない関係です。他に中宮として藤原頼通の娘嫄子《よしこ》がいましたが、彼女に先立たれてから1年後の七夕の日に詠んだ天皇の歌が同じ歌集の中にありました。

250207_かすみのうちにおもふ心を
Photo:後朱雀天皇 駒競行幸絵巻

こぞのけふ別れし星も逢ひぬめりなどたぐひなきわが身なるらん
  ~同 『後拾遺和歌集』 巻15-0897 雑歌一

去年の今日別れた七夕の星も今宵は会っているだろうに、それに比べるべくもない悲しい我が身であることよ。

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#4503 夏は扇冬は火桶に身をなしてつれなき人に寄りも付かばや

令和7年2月1日(土) 【旧 一月四日 仏滅】 大寒・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)

夏は扇冬は火桶に身をなしてつれなき人に寄りも付かばや
  ~詠み人しらず 『拾遺和歌集』 巻18-1187 雑歌

夏は扇になり、冬は火桶になって、つれない人に寄り添っていたいものです。

250201_夏は扇冬は火桶に身をなして
Photo:暮らし歳時記

 今日から2月。暦の上での春はもうすぐですが、寒さが一番厳しくなり、降雪による災害が増えるのもこの月です。今はもっぱらストーブやエアコンに頼っていますが、私の子どもの頃の暖房は居間の真ん中に置いた陶製の丸い火鉢でした。寒さが極まれば手をかざしているだけでは足りなくて火鉢にぺたりと手をくっつけて温まっていたものです。石油ストーブと電気ストーブの登場で役目を終えた火鉢は後に庭に出して金魚鉢として使っていたのを思い出します。今日が命日の俳人、河東碧梧桐にこんな句がありました。

手をかざせば睡魔の襲ふ火桶かな
  ~河東碧梧桐(1873-1937)

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#4501 庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも

令和7年1月30日(木) 【旧 一月二日 友引】 大寒・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)

庭つ鳥鶏《かけ》の垂《た》り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも
   ~作者未詳 『万葉集』 巻7-1413 相聞歌

家で飼う鶏の垂れた尾の乱れ尾のように、末長く思いを保つことはできないのでしょうか。

250130_庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の
Photo:伊藤若冲 『動植綵絵』より「群鶏図」(部分)

 二十四節気「大寒」の末候は七十二候72番目の「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」。鶏が春の気配を感じ、産卵を始める頃。自然に育てられている鶏は日照時間が長くなれば産卵率が上がってゆきます。二十四節気も七十二候もこれが大トリの4日間。この4日間が過ぎれば暦がふりだしに戻って「立春」になりますが、本当に温かい春はもう少し先。でも、鶏は季節の変化に気づいているのかもしれません。

鶏の觜に氷こぼるる菜屑かな
  ~加舎白雄(1738-1791)

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#4499 都いでゝ君に逢はむとこしものをこしかひもなく別れぬるかな

令和7年1月28日(火) 【旧 一二月二九日 仏滅】 大寒・水沢腹堅(さわみずこおりつめる)

都いでゝ君に逢はむとこしものをこしかひもなく別れぬるかな
  ~紀貫之(872-945)『土佐日記』

都を出てあなたに逢おうとやって来たものを、来た甲斐もなく別れてしまうのですね。

 「男もすなる日記《にき》といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。」・・・『土佐日記』の冒頭と最初に登場する和歌です。

250128_都いでゝ君に逢はむとこしものを
Photo:柿沢謙二ブログ より

 この旅立ちは承平4年12月21日(935年1月28日)。1090年前の今日でした。仮名の発達と相まって、紀貫之が紀行文を侍女の視点で書いたことに始まり、その後次々と生み出されたのが『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの日記文学です。同時に『土佐日記』は女性作家誕生のきっかけを作った重要な作品でもありました。ちなみに日記の最後は承平5年2月16日、55日ぶりに帰った我が家の庭で詠んだこちら歌が記されています。

見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや
  ~同

以前会った(亡き)娘が松の千年を生きる様子を見られるならば遠い土佐の国で悲しい別れなどしなくてすんだであろうに。

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