万葉歳時記 一日一葉

「万葉集」から1300年の時を超えた現代短歌・俳句まで、
昔と今を結ぶ日本人のこころの歌を歳時記にしました。

【羈旅・望郷】

#4517 うす雪は小雨にとけてうぐひすのささなきさむき藪かげの道

令和7年2月15日(土) 【旧 1月18日 赤口】 立春・魚上氷(うおこおりをいずる)

うす雪は小雨にとけてうぐひすのささなきさむき藪かげの道
  ~木下利玄(1886-1925)『銀』

250215_うす雪は小雨にとけてうぐひすの
Photo:左から武者小路実篤、正親町公和、木下利玄、志賀直哉(明治40年)~春陽堂書店

 今日2月15日は木下利玄《きのしたりげん》の没後ちょうど100年に当たります。本名は利玄《としはる》と訓み、明治19年に岡山足守藩最後の藩主・木下利恭の弟・利永の二男として生まれました。後に利恭の死去により宗家・木下子爵家の養嗣子となり家督を継ぎました。もっと家系を遡れば、豊臣秀吉の妻高台院ねねに繋がる血筋にあたります。短歌は東京帝大在学中に佐佐木信綱に師事。同級の武者小路実篤や志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』を創刊し、白樺派の代表的歌人の一人となっています。

脇差のすこしぬきたる刃の上に蓮華ぞうつる凶事ありし室
  ~同

 いかにも武家に生まれた利玄らしき歌一首。何があったどこの部屋なのか興味をそそられます。

  にほんブログ村 ポエムブログ 短歌へ にほんブログ村
d ^_^;  よろしければ 1Day 1Click を↑

#4511 はるけくも山がひに来て白樺に触りて居たり冷たきその幹

令和7年2月9日(日) 【旧 1月12日 赤口】 立春・黄鶯睍睆(うぐいすなく)

はるけくも山がひに来て白樺に触りて居たり冷たきその幹
  ~斎藤茂吉(1882-1953)『赤光』

250209_はるけくも山がひに来て白樺に
Photo:白樺の林 ~Hello Interior

 シラカバはカバノキ科の落葉樹。その名の通り樹皮が白い樺の木でシラカンバやシロザクラなどとも呼ばれています。白樺は寒冷地に多く見られますが、鬱蒼とした森ではなく日当たりがよい山地に自生します。白樺の群生地として有名なのは北八ヶ岳の山麓に広がる八千穂高原でしょうか。でも白樺の大木というのはありません。というのも白樺の寿命は短く、よく育っても幹径は50cmくらいまで。あの白い樹皮も20~30年くらいで消えてしまうそうです。ちなみに白樺は春の季語。4月から5月頃に花をつけます。そういえば千昌夫の『北国の春』の出だしも「♫ 白樺 青空 南風……」でしたね。

花ゆらぐ白樺立てり雪解風
  ~水原秋櫻子(1892-1981)『殉教』

  にほんブログ村 ポエムブログ 短歌へ にほんブログ村
d ^_^;  よろしければ 1Day 1Click を↑

#4504 さもこそは都のほかに宿りせめうたて露けき草枕かな

令和7年2月2日(日) 【旧 一月五日 大安】 大寒・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)

さもこそは都のほかに宿りせめうたて露けき草枕かな
  ~藤原隆家(979-1044)『後拾遺和歌集』巻9-0530 羇旅歌

さすがに都の外に宿りするとなると、わびしい露に濡れた草枕であるなあ。

 2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では竜星涼が演じた藤原隆家。1044年の今日、2月2日(寛徳元年1月1日)に亡くなった平安貴族です。天下の「さがな者(荒くれ者)」と言われていた隆家は花山法皇に矢を射掛けるなどの乱暴により兄の伊周《これちか》とともに罰をうけ、出雲国に流されています。この和歌はその時に詠まれたものでした。

250202_さもこそは都のほかに宿りせめ
Photo:藤原隆家(竜星涼) ^2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』

 後に許されて都に戻りますが、眼病を患ってしまいます。隆家が大宰府権帥《ごんのそち》に立候補したのは大宰府に眼病の名医がいると知ったからでした。叔父の道長は九州の豪族と隆家が結びつくのを警戒して最初は認めなかったのですが、同じ様に眼病に苦しんでいた三条天皇の温情で彼の太宰府赴任が許されました。そして彼を一躍ヒーローにした「刀伊の入寇」が起こります。海賊化した大陸の女真族が壱岐・対馬の住民を襲い、九州に迫ってきたのを隆家は地元の豪族たちを結束させて見事に返り討ちにしたのです。平安貴族らしからぬ「さがな者」の気骨は本物だったようです。

都府楼
鴫《しぎ》立つや礎残る事五十
  ~夏目漱石(1867-1916)

 「都府楼」は古代の役所・大宰府政庁跡のこと。漱石は礎《いしずえ》五十と詠んでいますが、1890(明治23)年の調査では創建当時の壮大な規模を感じさせてくれる礎石は105個見つかっています。

  にほんブログ村 ポエムブログ 短歌へ にほんブログ村
d ^_^;  よろしければ 1Day 1Click を↑

#4500 夢に見し隕石の原青氷いま我立てりやまと山麓

令和7年1月29日(水) 【旧 一月一日 先勝】 大寒・水沢腹堅(さわみずこおりつめる)

夢に見し隕石の原青氷いま我立てりやまと山麓
  ~永田武(1913-1991)第1次~第3次南極観測隊長

250129_夢に見し隕石の原青氷
Photo:南極に到着した海上自衛隊の砕氷艦「しらせ」~海上自衛隊

 今日1月29日は「昭和基地開設記念日」。1957(昭和32)年のこの日、日本の観測隊が昭和基地を開設したことによります。永田武は第1次南極地域観測隊の隊長として接岸不能地域とみなされていたプリンスハラルド海岸の東オングル島における昭和基地の建設を指導した人物です。「やまと山麓」は現地の氷の盛り上がりを見て、探検隊が名付けたもので実際の山ではありません。しかし、大陸東部のヴィクトリアランドには永田武の功績に基づいて名付けられた標高2140mの「永田山(Mount Nagata)」が存在します。

南極地より捕鯨船剥げて着く
  ~山口誓子(1901-1994)

  にほんブログ村 ポエムブログ 短歌へ にほんブログ村
d ^_^;  よろしければ 1Day 1Click を↑

#4499 都いでゝ君に逢はむとこしものをこしかひもなく別れぬるかな

令和7年1月28日(火) 【旧 一二月二九日 仏滅】 大寒・水沢腹堅(さわみずこおりつめる)

都いでゝ君に逢はむとこしものをこしかひもなく別れぬるかな
  ~紀貫之(872-945)『土佐日記』

都を出てあなたに逢おうとやって来たものを、来た甲斐もなく別れてしまうのですね。

 「男もすなる日記《にき》といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。」・・・『土佐日記』の冒頭と最初に登場する和歌です。

250128_都いでゝ君に逢はむとこしものを
Photo:柿沢謙二ブログ より

 この旅立ちは承平4年12月21日(935年1月28日)。1090年前の今日でした。仮名の発達と相まって、紀貫之が紀行文を侍女の視点で書いたことに始まり、その後次々と生み出されたのが『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの日記文学です。同時に『土佐日記』は女性作家誕生のきっかけを作った重要な作品でもありました。ちなみに日記の最後は承平5年2月16日、55日ぶりに帰った我が家の庭で詠んだこちら歌が記されています。

見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや
  ~同

以前会った(亡き)娘が松の千年を生きる様子を見られるならば遠い土佐の国で悲しい別れなどしなくてすんだであろうに。

  にほんブログ村 ポエムブログ 短歌へ にほんブログ村
d ^_^;  よろしければ 1Day 1Click を↑
記事検索
🎼 I love music ♪

読んでくれたひと(感謝)
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

過去記事すべて見られます▼
📖私の著書です
【電子書籍・紙書籍】


  • ライブドアブログ