万葉歳時記 一日一葉

「万葉集」から1300年の時を超えた現代短歌・俳句まで、
昔と今を結ぶ日本人のこころの歌を歳時記にしました。

【悲哀・寂寥】

#4512 スノー・ドロップの花のみ土に暮れ残り死にたる人はいづこを歩む

令和7年2月10日(月) 【旧 1月13日 先勝】 立春・黄鶯睍睆(うぐいすなく)

スノー・ドロップの花のみ土に暮れ残り死にたる人はいづこを歩む
  ~大西民子(1924-1994)『花溢れゐき』

250210_スノー・ドロップの花のみ土に暮れ残り
Photo:スノードロップ ~PREMIER GARDEN

 スノードロップはヒガンバナ科ガランサス属の球根植物。冬の終わりにこれからやってくる春を告げるように花を咲かせます。学名のガランサス(Galanthus)はギリシャ語で「ミルクの花」。英語の Snowdrop は16世紀から17世紀にかけて人気のあった涙滴型の真珠のイヤリングであるドイツのSchneetropfen(Snow-drop)に由来するそうです。和名は待雪草《まつゆきそう》。エデンを追われたイブを慰めるため、天使が地上に舞い降り、降っていた雪をこの花に変えて慰めたというキリスト教の逸話から「希望」「慰め」という花言葉が生まれました。

春の雪ふる草のいよいよしづか
  ~種田山頭火(1882-1940)

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#4509 ほのかにもしらせてしがな春霞かすみのうちにおもふ心を

令和7年2月7日(金) 【旧 1月10日 仏滅】 立春・東風解凍(はるかぜこおりをとく)

ほのかにもしらせてしがな春霞かすみのうちにおもふ心を
  ~後朱雀天皇(1009-1045)『後拾遺和歌集』 巻11-0604 恋歌一

ほんの少しでもよいから知らせてほしいものだ。春霞の中であなたを思うように心細いのだから。

 第69代後朱雀天皇が亡くなったのは今から980年前。肩の悪性腫瘍の為、1045年2月7日(寛徳2年1月18日)に崩御されています。『光る君へ』の終盤に少年時代の姿が登場していましたね。

250207_ほのかにもしらせてしがな春霞
Photo:敦良親王(後朱雀天皇) ~NHK大河ドラマ『光る君へ』より

 後朱雀天皇(敦良《あつなが》親王)が後一条天皇の下で立太子したのは9歳の時(1017年)。この歌を贈ったのは尚侍《ないしのかみ》であった藤原道長の娘嬉子でした。嬉子はその後即位した後朱雀天皇に入内し、親仁親王(後冷泉天皇)を生んでいます。後朱雀天皇自身も上東門院彰子(道長の娘)の子であることから、甥と叔母、3親等の関係。この当時の皇室は近親婚が多かったので珍しいことではありません。ちなみに後朱雀天皇の皇后は道長の娘藤原妍子《きよこ》の娘禎子《さだこ》であり、こちらとは4親等の従兄妹なので現在でも問題のない関係です。他に中宮として藤原頼通の娘嫄子《よしこ》がいましたが、彼女に先立たれてから1年後の七夕の日に詠んだ天皇の歌が同じ歌集の中にありました。

250207_かすみのうちにおもふ心を
Photo:後朱雀天皇 駒競行幸絵巻

こぞのけふ別れし星も逢ひぬめりなどたぐひなきわが身なるらん
  ~同 『後拾遺和歌集』 巻15-0897 雑歌一

去年の今日別れた七夕の星も今宵は会っているだろうに、それに比べるべくもない悲しい我が身であることよ。

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#4504 さもこそは都のほかに宿りせめうたて露けき草枕かな

令和7年2月2日(日) 【旧 一月五日 大安】 大寒・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)

さもこそは都のほかに宿りせめうたて露けき草枕かな
  ~藤原隆家(979-1044)『後拾遺和歌集』巻9-0530 羇旅歌

さすがに都の外に宿りするとなると、わびしい露に濡れた草枕であるなあ。

 2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では竜星涼が演じた藤原隆家。1044年の今日、2月2日(寛徳元年1月1日)に亡くなった平安貴族です。天下の「さがな者(荒くれ者)」と言われていた隆家は花山法皇に矢を射掛けるなどの乱暴により兄の伊周《これちか》とともに罰をうけ、出雲国に流されています。この和歌はその時に詠まれたものでした。

250202_さもこそは都のほかに宿りせめ
Photo:藤原隆家(竜星涼) ^2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』

 後に許されて都に戻りますが、眼病を患ってしまいます。隆家が大宰府権帥《ごんのそち》に立候補したのは大宰府に眼病の名医がいると知ったからでした。叔父の道長は九州の豪族と隆家が結びつくのを警戒して最初は認めなかったのですが、同じ様に眼病に苦しんでいた三条天皇の温情で彼の太宰府赴任が許されました。そして彼を一躍ヒーローにした「刀伊の入寇」が起こります。海賊化した大陸の女真族が壱岐・対馬の住民を襲い、九州に迫ってきたのを隆家は地元の豪族たちを結束させて見事に返り討ちにしたのです。平安貴族らしからぬ「さがな者」の気骨は本物だったようです。

都府楼
鴫《しぎ》立つや礎残る事五十
  ~夏目漱石(1867-1916)

 「都府楼」は古代の役所・大宰府政庁跡のこと。漱石は礎《いしずえ》五十と詠んでいますが、1890(明治23)年の調査では創建当時の壮大な規模を感じさせてくれる礎石は105個見つかっています。

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#4486 冬枯れのすそ野の原をやきしより早蕨あさり雉子鳴くなり

令和7年1月15日(水) 【旧 一二月一六日 先負】 小寒・雉始鳴(きじはじめてなく)

冬枯れのすそ野の原をやきしより早蕨あさり雉子鳴くなり
  ~藤原俊成(1114-1204)

冬枯れの山裾の草を焼いたあとの野に生える早蕨をあさって雉が鳴いている。

 俊成の歌にある山焼きや野焼きの行事は各地で行われていますが、最も有名な奈良若草山の山焼き行事は毎年1月の第4土曜日。今年は1月25日に開催されます。

250115_冬枯れのすそ野の原をやきしより
Photo:no+t 24

 さて今日は七十二候の第69候「雉始鳴(きじはじめてなく)」。「小寒」の末候にあたるので季節は真冬なのですが、俳句ではキジは春の季語とされています。雉が鳴くのは繁殖期になって雌を求めたり、雄同士で縄張り争いを始めたりするためなのでしょうか。「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざがあるように、あまり警戒心のない鳥で、人が近づいてもなかなか逃げないそうです。昔から食用にもされており、雉撃ちが盛んだったのもわかるような気がします。「頭隠して尻隠さず」ということわざも雉の生態に由来しているとか。

雉啼くや胸ふかきより息一筋
  ~橋本多佳子(1899-1963)

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#4480 山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草も枯れぬと思へば

令和7年1月9日(木) 【旧 一二月一〇日 先負】 小寒・「芹乃栄(せりすなわちさかう)」

山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草も枯れぬと思へば
  ~源宗于(?-940)『古今和歌集』 巻6-0315 冬歌

山里は冬にこそひときわ寂しさがつのってくるものだ。人も訪れず、草も枯れてしまうことを思うと。

 小倉百人一首の28番にも採られた三十六歌仙の一人、源宗于《みなもとのむねゆき》朝臣の歌です。

250109_山里は冬ぞ寂しさまさりける
Photo:源宗于 ~紙本金地著色三十六歌仙図(重文) 医王寺藏

 源宗于は光孝天皇の孫に当たり、光孝源氏・光孝平氏の祖である是忠親王の子。965(寛平6)年に臣籍降下した時、源朝臣の姓《かばね》を与えられ従四位下に昇叙されました。しかしそれ以降、出世とはあまり縁がなかったようで、歌物語『大和物語』には、当時右京太夫であった宗于が宇多天皇の前で位階が上がらないことをこんな歌で訴えたという逸話が載っています。

沖つ風ふけゐの浦に立つ浪の名残にさへや我はしづまむ
  ~同 『大和物語』

沖つ風の吹くという吹飯の浦に、波が立っては退いてゆくような、そんな名残の水にさえ、私は沈んでしまうのでしょうね。

 ところが宇多天皇には歌の心が全く伝わらず、側近の者に「あれはどういう意味であろうか」と不思議がられただけで何の効果もなかったようでした。卒去は西暦940年の今日1月9日(天慶2年11月23日)。生年が不明なので没年齢はわかりませんが、位階は正四位下、官位は右京大夫のまま変わリませんでした。

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