万葉歳時記 一日一葉

「万葉集」から1300年の時を超えた現代短歌・俳句まで、
昔と今を結ぶ日本人のこころの歌を歳時記にしました。

動物

#4466 このころの朝明に聞けばあしひきの山呼び響めさを鹿鳴くも

令和6年12月26日(木) 【旧 一一月二六日 赤口】 冬至・「麋角解(さわしかのつのおつる)」

鹿の角先《まづ》一節《ひとふし》のわかれかな
  ~松尾芭蕉(1644-1694)

 鹿の角が一節目に二股に別れていく事をもって、奈良で出会った弟子たちとの別れの言葉とした芭蕉の句です。

241226_鹿の角先一節のわかれかな
Photo:私の角立派でしょ! ~photoAC(りくそらZ5さん)

 昨日までサンタのそりを曳いて大活躍のトナカイさんでした。今日は故郷フィンランドに帰ってゆっくり休んでもらいましょう。また来年お逢いできますように。ということで、今日から12月30日までの5日間は七十二候の第65候「麋角解(おおしかのつのおつる)」。二十四節気「冬至」の次候にあたります。「麋」は見慣れない漢字ですが、大型の鹿の一種であるヘラジカまたはオオジカのことを指すといわれています。万葉集にも鹿の歌はたくさん詠まれていますが、ほとんどは秋の歌。俳句でも鹿は秋の季語になっています。

このころの朝明《あさけ》に聞けばあしひきの山呼び響《とよ》めさを鹿鳴くも
  ~大伴家持(718-785)『万葉集』 巻8-1603 雑歌

この頃は夜明けに耳をすませると山にこだまする男鹿の鳴き声が聞こえるよ。

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#4451 荒熊の棲むとふ山の師歯迫山責めて問ふとも汝が名は告らじ

令和6年12月11日(水) 【旧 一一月一一日 先負】 大雪・「熊蟄穴(くまあなにこもる)」

荒熊の棲むとふ山の師歯迫山《しはせやま》責めて問ふとも汝《な》が名は告《の》らじ
   ~作者未詳 『万葉集』 巻11-2696 寄物陳思

荒々しい熊が棲むと言う師歯迫山の名のように、いくら問い詰められても、決して貴男の名前は言いません。

 この歌で荒熊に例えられているのはこの娘の母親。娘に変な虫(男)がつかないように見張るのは父親ではなく母親の役目だったようです。

241211_荒熊の棲むとふ山の師歯迫山
Photo:ツキノワグマ ~そらのした Style

 ということで今日は七十二候の第62候「熊蟄穴(くまあなにこもる)」。二十四節気「大雪」の次候にあたり、そろそろ熊さんも冬眠に入る季節だという意味。今年話題になったのは人里に近づいた熊を駆除するハンターに対する風当たりです。殺される熊が可愛そうという抗議電話が話題になったり、北海道では砂川町の要請で駆除のために猟銃を撃ったハンターが、跳弾が建物に当たる「可能性」があったとして銃の使用許可を取り消されたりしたこともありました。これには猟友会が反発し、今後熊の駆除には協力しないと申し合わせることに発展するなど、今までになかった様相を呈しています。熊さんにも言い分があるのでしょうが、スーパーマーケットに入ってきてはいけません。

熊撃ちに行くとふ微笑髯の中
  ~遠山陽子(1932-)

Youtube:さだおのアニメから


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#4420 二十年反原発の歌詠み続け擁護論の人らと共に避難す

令和6年11月10日(日) 【旧 一〇月一〇日 先勝】立冬・山茶始開(つばきはじめてひらく)
二十年反原発の歌詠み続け擁護論の人らと共に避難す
  ~佐藤祐禎(1929-2013)『再び還らず』

 歌人の佐藤祐禎《さとうゆうてい》さんの故郷は福島県浜通りの大熊町。あの原発事故で避難生活を余儀なくされました。そんな共同生活では思想信条の違いは関係なく、互いに協力しながら生きていかねばなりません。これで思い出したのは「呉越同舟」の故事でした。
241110_永田町呉越同舟狸狩り
Photo:大統領候補トランプ氏とハリス氏の討論会(2024/09/10)~ロイター
 NHK大河ドラマ『光る君へ』の第30回(8月4日放送)の中で、紫式部の父為時(岸谷五朗)が道長の長男頼通(大野遥斗)に『孫子』の講義をしているシーンがありました。

為時:「敢えて問う、兵は率然の如くならしむべきか、と」
 そう言って続きを促すと、頼通は暗唱した言葉を続けます。
頼通:「曰く、べきなり。夫れ呉人と越人とは相憎むも、その舟を同じくして渡り、風に遇うに当りて、その相救うこと、左右の手の如し」
為時:「お見事でございます」
 と為時が頼通の学才を褒めたところに道長がやってくる、という場面です。

 この教材がまさに『孫子』の九地篇「呉越同舟」のくだりでした。「呉越同舟」の意味は「たとえ敵同士でも同じ災難に遭えば互いに協力したり助け合ったりすること」。日本の衆議院選や米国の大統領選の結果を見ていると勝敗の決着はついたものの、両派の分断がますます激しくなってくるような不安が残ります。

永田町呉越同舟狸狩り
  ~bungaraya(Sencle
241110_二十年反原発の歌詠み続け
Photo:鳥越・小池・高市・福島各氏の滅多にない組み合わせ:Xで見つけた画像です。みんな若かったね。

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#4350 左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒は食ぐとも吾はそとも追はじ

令和6年9月2日(月) 【旧 七月三〇日 赤口】処暑・禾乃登(こくものすなわちみのる)
左奈都良《さなつら》の岡に粟蒔き愛《かな》しきが駒は食《た》ぐとも吾はそとも追はじ
  ~作者未詳(東歌))『万葉集』 巻14-3451 雑歌

左奈都良の丘に粟を蒔いて、愛しい人の馬が食べに来ても、追い払ったりしませんわよ。

 巻14の東歌の中にありますが、国名不明の雑歌に分類されています。したがって「左奈都良」の所在はわかっていません。自分の家の周りに粟を蒔いて、いつも通りかかる愛しい人の馬を止めさせようという魂胆は、後の平安時代の女達に受け継がれて、貴公子が乗る牛車の足を止めるために、門前に牛が好む盛り塩をするように変化したのかもしれません。

240902_左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが
Photo:粟《アワ》~コトバンク

 さて、二十四節気「処暑」の末候は七十二候の第42候「禾乃登(こくものすなわちみのる)」。水田の稲穂をはじめ、様々な穀物が実る季節です。「禾」の漢字は粟《あわ》の穂がたわわに実った様子をかたどったものといわれます。昔は穀物といえば米や麦ではなく粟や稗《ひえ》を指していました。粟や稗は白米を食べられない貧しい農民がやむなく食べていたというイメージがありますが、必ずしもそうではありません。現在は栄養価の高さが見直され、白米と混ぜて炊き合わせる五穀米や十六穀米として商品化されています。

粟稗にとぼしくもあらず草の庵
  ~松尾芭蕉(1644-1694)

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#4331 君が目の恋しきからに泊てて居てかくや恋ひむも君が目を欲り

令和6年8月24日(土) 【旧 七月二一日 先負】・処暑 「綿柎開」(綿のはなしべ開く)

君が目の恋しきからに泊てて居てかくや恋ひむも君が目を欲《ほ》り
  ~中大兄皇子(天智天皇)『日本書紀』巻二六(斉明天皇編)

母上の眼差しが恋しいばかりに、こうして停泊していてもこんなに恋しく母上の眼差しを懐かしむのです。

240824_かくや恋ひむも君が目を欲り
Photo:宮内庁が斉明天皇陵と治定している越智崗上陵《おちのおかのうえのみささぎ》。~4travel.jp

 西暦661年8月24日(斉明天皇在位7年7月24日)、唐・新羅連合軍との戦いを前にして第37代斉明天皇が遠征先の九州朝倉宮にて崩御されました。この歌は長男中大兄皇子が母の遺体を埋葬するため、海路難波津に向けて出港した船中で詠まれた歌です。遺体はその後明日香川原で殯の後埋葬されました。唐・新羅との戦いは皇太子中大兄皇子の称制(即位しないまま天皇としての政務を執ること)のもとで続けられましたが、「白村江の戦い」において歴史的な敗北を喫しています。中大兄皇子が天智天皇として正式に即位したのは都を近江大津宮に移した時でした。

夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝にけらしも
  ~崗本天皇 『万葉集』 巻8-1511 雑歌

夕暮れになるといつも小倉山で鳴くはずの鹿が今夜は鳴かない。もう寝てしまったらしいね。

 万葉集に「崗本天皇」とあるのは飛鳥岡本宮の天皇の意味で、これは斉明天皇か、あるいは夫の舒明天皇のいずれか。今でもどちらの天皇なのか確証がありません。

240824_君が目の恋しきからに泊てて居て
Photo:飛鳥岡本宮跡と観られる長大な塀の発掘現場(2023年11月22日 産経新聞)

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