カムヒア・タイムズ

DON'T STOP MORE SOUL 妄想を止めない

ヤバい。オレはヤバいのである、何というかヤバいとしか言えない。

別にこれは「オレっちはマジでパないヤベえメンズだから」とかのイキりではなく、単純に自分のケツに火が着いてもうこりゃだめだね的なヤバさなんだ。
もう夏休み最終日なのだけど宿題にまったく手を付けてなくて、むしろドリルを失くしていて、さらに自由研究もあるんだけどそれの存在を忘れているような状態とも言えるような。もしかしたらもう2学期始まっちゃってるかもしれないくらい、それくらいは最低でもヤバい。

とにかくヤバい、ヤバい気がする。気っていうか実存でヤバいね、これ。「焦げ臭いなあ、隣近所かな?」とか思ってたら自分ちの台所で思いっきり鍋が焦げてたみたいなね、モクモクと煙吹いてた。

20代の頃も、まあヤバめではありましたけど未来への可能性や周りの社会状況との兼ね合い、時間はまだまだあるってぼやかすことができたんですね。今はくすぶっているけどこっからだ!って。
それがどうですか、まさか10年以上もくすぶるとはね。びっくりですわ。燻る。燃えもしない、消えもしない、よくそのバランスを保ったもんですよ。

今。
30代という年齢の数字、年収という数字、様々な数字において社会における自分のポジションや価値が如何ほどであるかを突きつけられる。目を逸らすことはできない。向き合い、この数字で生きていく他ない。自分の年齢を考えた振る舞いをし、年収に見合った支出のバランスを考え、少ないようなら頑張って年収の金額を増やしたりする。そう、これが本当のマイナンバーだ。政府がマイナンバー制度を始めるすっと前から、人間は自分の持つ数字で社会を生きてきたのだ。

話が若干逸れたが、オレはヤバい。オレのマイナンバーがヤバい。頑張らないとヤバい。だから頑張りたい。「頑張らないとヤバい」を配置換えして「ヤバいくらい頑張る」にしたい。

とにかくヤバいんだ、これが。 

あけましておめでとうございます、からもう一週間近くになってしまうんですね。時の流れの速さにわりと引いてしまっています。皆さんどんなお正月をお過ごしになりましたでしょうか。

前回は「ここ最近お正月感が全然ないけんのお」というようなことを言いましたが、まあ今年もありませんでしたね。というか年が明けてからは正月休みが終わることの恐怖に「びえーん」とむせび泣いていました。秒針が進むその分だけ、足下からジワリジワリと温度の無い炎に焼かれていくかの如くな焦燥感の中ブルブルと震えていたのです。震年を迎えていたわけです。

そんなことはないんですけどね、「震年」言いたかっただけです、うん。

ほどほどに寝坊して、ほどほどに酒を飲み、ほどほどに初売りに行き、ほどほどに親戚に挨拶をし、ほどほどにゴロゴロするという感じのお正月。 とてもゆったりできた良い正月だったんだな。

しかしまだオレにはこの正月でやり残したことがある。それは初詣だ。
やはり初詣には行っておきたいのだ。

お参りや神頼みに興味のない人は、初詣なんかに意味はないと吐き捨てるだろう。
オレだって別に敬虔深いわけではない。かといってヒステリックに無神論を振りかざすわけでもない。 お賽銭を投げて本当に願いが叶うと思っているわけでもない。たぶん大多数の人がオレと同じようだと思う。

なら何故、人は初詣に行くのか。

きっと初詣で願うことは、自分の生活についてや今悩んでいることの解決、近い未来に達成したいこと、自分自身の中で変革を起こしたいことなんだと思う。今年一年、自分がどうありたくて、どうなりたいかを浮き彫りにし確認するのが初詣なんじゃないか。

誰しもが神様へのお願いというフィルターを通して、自分自身と向き合い、今年一年の決意表明をする。神様にはその後押しをちょっとしてくれればいい。おみくじはただのお遊びだから気にしない程度に気にしておく。

オレはそんな初詣が大好きです。

しっかし、普段は無宗教で御馴染みの日本人が大挙して神社に押し寄せる姿を外人さんはどう見てるのかね。ほんの一週間前は「メリークリスマス!」言うてたわけですからね。一ヶ月半後のは「ハッピーバレンタイン!」とか浮かれポンチになる様を見て「Oh!クレイジー!」とか呆れるんでしょう。

そんな見境の無い宗教たらしな日本人も好きです。 

あけましておめでとうございます。2014年が終わり2015年が始まりましたね。今、渋谷で1000人に「年が明けましたか?」って聞いたら多分996人が「YES」って答えると思います。「NO」って答えた4人は気が触れてる危ない人種なので関わらないことをオススメするよ。

皆さんはどんな年越しをお過ごしあそばれましたでしょうか?

オレはケーブルテレビのTBSチャンネルが、大晦日「笑ウせえるすまん」一挙放送という極めて大胆な番組構成に打って出たことに感動で打ち震えました。一年の終わり、そして新たな一年の始まりという重要な節目に、人間の人生バッドエンドを放送し続けるというTBSチャンネルの大胆な姿勢には敬服するのみであります。テレビ離れが騒がれる昨今、そのぐらい攻めの姿勢がなければ生き残れないのでしょう。オレ自身テレビというものから離れつつある今、何か新しい時代の光を見たような気がしました。

ところで周りの友人も言っていることですが、何かここ数年、昔ほど大晦日に対してのドッキドキが薄れているような気がするのです。ドキドキというか、ワクワクというか。

以前は大晦日を愛して止みませんでした。
朝起きた時から肌にまとわりつく非日常感。
その非日常感は時間が経つにつれ加速してゆき、0時を超える時に言葉にしようのないものに変わる。
そのドキドキ、ワクワク。それが今はもうない。今日なんて気がついたら22時過ぎでしたからね。 言葉にしようのない「あの感覚」が失われつつある。

何でそうなったのか。その原因を多角的に分析した時に見えたものは何か。

ここで言う昔とはいつかと考えると、小・中学生くらいの時分かなあと思うわけです。その時分に大晦日にやっていたこととはと思いを馳せましょう。
その頃は、テレビを見ながら親がお正月の準備をしている空間の中にいたな、と。
自分は何をするわけでもなく、ただただ受動的に年が明けるのを待っていたのだ。お客様気分で待っていた。

きっともう違うんだ。ガキの頃みたいにテレビを楽しいとも思えない、色々と準備だってしなきゃならない。そうか、いつの間にか、オレは「誰か」の大晦日を楽しませる側になっていたんだ。自分から楽しもうと思わないと大晦日はただの12月31日でしかなくなってしまうんだ。それが「大人になる」ってことなんだ。

だってお年玉もらえないからね! 

というわけで今年もよろしくお願いします。今年も楽しんで参りましょう。

今年中にこれだけは言っておきたいから言うぞ!

よくテレビでタレントが「辛い料理が好きなんです」とか得意気に言って実際に激辛料理をパクパク食べてMCとかが 「え?辛くないんですか?」と驚き「うん大丈夫、美味しい美味しい」と平気な顔で食い続けるのがすごーいみたいな展開がよくあるけど、それは違うんだよ。

てめえのそれは「辛いのが好き」なのではなく「辛いのが平気」なだけだからな!

本当に辛いのが好きってのはそんな冷静なもんじゃないから。
「あー辛い!うっわ、すっごい辛いわ!やばい、コレはやばい!え?コレ辛過ぎない?すごいってマジで。ああ辛いわー。でもウマいね、うん。あ!痛い!口が痛い!痛いって!コレもう料理じゃない!殺しにかかってる!武器だよコレ!ある意味!あーでもウマいわ、止まらんわー」 ぐらいの乱痴気騒ぎを起こしながら、口内で巻き起こる大爆発を汗ダラっダラ流しながら楽しむことを言うから。

マジでそこんとこ勘違いすんじゃあないよ!
そういう勘違い発言する輩はなあ、若手女性モデルに多い!アレか?「すんごい辛い料理も平気で食べちゃうアタイってカッコイイ」とか思ってんですか?別にカッコよくもなんともねえぞ!シュールストレミングスを「平気平気、メッチャ美味しい」と完食したら本気でカッコイイけどな。

とにかくもう、これに懲りたら軽はずみに辛いのが好きとか言うなよ!わかったな!そんなんだとついついオレも発言が「辛口」になっちゃうんだぜ!
 

今日は仕事納めでした。
いや、今月に入ってから迷惑メールがバンバン来るようになって1日20通以上は来てたんだけど今日になってピタリと止みまして、「あ、こいつら年末休みに入りやがったな」、と。迷惑メール業者の連中がオレよりも1日早く仕事納めだったことに対して行き場のないほんのりとした怒りが涌き上がりました。
皆さんはどんな仕事納めだったでしょうか。

明日からはいよいよ長期休みに入るので心はウキウキです。しかしながらそのウキウキの下に隠れたドス黒い影にオレは怯えているのです。オレの心は甘々なソフトクリームの下に苦いブラックコーヒーが並々と注がれているコーヒーフロート状態です。

だって連休が長いほど、楽しいほど、その連休明けの仕事始めがクッソだるいじゃないですか。
怖いね、ひたすらに怖い。こんなつらい思いをするならいっそ連休なんてなければいいのに。連休なんて幻だ、どこにも存在しない。窓から部屋を覗いているのは誰だ!出てこい! 

とまあ、「その昔手痛い失恋をしたことで『掴んだ幸せを失うのが怖い』と人を好きになることを遠ざけるようになった恋愛小説のヒロイン」みたいテンションになっちゃってるのがオレです。こんばんわ。
連休は要ります、絶対的に。 

今から休み明けのことを考えても意味がないですよね。重要なのは如何に連休を充実させるかということ、それだけ。来年のことを言うと鬼が笑うってのはこういうことなんだなと肌で感じました。先のことを考えて塞ぎ込んでいるよりも今の瞬間を楽しく過ごせと、人間のくだらない不安を鬼は笑い飛ばしてくれるのです(パンツ一丁で)。

何だ、鬼はすごいいいヤツじゃないか。さしあたり酒を飲もう。宴だ、宴。 

今年もクリスマスがやってきましたね。街は浮かれています。これが26日になれば街からクリスマスのクの字も消えてしまうというのは、どこか盛大なドッキリを仕掛けられているように錯覚するのね。

クリスマスが皆を浮かれさせるために仕掛ける攻撃はいくつかある。イルミネーション、プレゼント商戦、クリスマスグルメ。わかりやすくクリスマスを象徴して、皆のテンションをあげさせるもの。

その攻撃の中でも最たるものは、音楽であろう。 

この世界には数えきれない程のクリスマスソングがある。
いや、もしかしたら実際に数えてみると20個くらいで意外と簡単に数えきれちゃう可能性もあるけど、 多いのは事実じゃないですか。敬老の日ソングなんて多分多くても2曲くらいだと思うんですよ。それに比べればクリスマスソングはメチャ多い。これは間違いない。

 街中でクリスマスソングがヘビーにローテーションしてる。

オレは数あるクリスマスソングの中で、どうしても納得がいかない曲がある。
その曲というのは「赤鼻のトナカイ」だ。 

みんな知ってますよね、赤鼻のトナカイ。その歌詞をざっとおさらいしましょう。

鼻が赤いトナカイは、仲間たちからいつも赤い鼻を馬鹿にされていた。クリスマスの夜、そんなトナカイにサンタクロースは言った。「暗い夜道はピカピカのお前の鼻が役に立つのさ」。それを聞いたトナカイは今宵こそはと喜んだとさ。

はい、これね。まずね、夜道で赤い鼻が役に立つってね。

そんなもん明らかにウソじゃないですか。

トナカイのノリがよかったら「わしの鼻はLEDやないんやから!」とかツッコミ入れますよ。
人間で例えるなら、「頭髪が人間の平均本数の10万本を大幅に下回る人」に対して、あ、わかりにくいですか?わかりやすく表現すると「ハゲ」の人に対して「お前のピカピカ頭は夜道で役に立つ」と言い放っているに等しいということではないのでしょうか。

周りからも嘲笑される自己のコンプレックスを、傷口に塩を塗り籠むかの如く追い打ちをかけるサンタにトナカイは喜んでついていくはずがない。オレは前々からそう感じていたのです。

だけど、サンタクロースという存在と多角的に考えていた時、実生活では全く役に立たないであろう閃きがオレを貫いた。赤鼻のトナカイにおける電撃的新解釈。これからそれをストーリー仕立てで皆様にお伝えしたい。以下、電撃に打たれるがいい、皆の衆。



目の前に立つ老人のことをトナカイは知っている。サンタクロースだ。クリスマスの夜に世界中の子供にプレゼントを届ける老人。実際に目にするのは初めてだった。
さっきこの老人はトナカイに何を言った?「お前の鼻はピカピカで夜道で役に立つ」と言ったのだ。
「わしの鼻はLEDやないんやから!」なんてツッコむほどトナカイは温厚ではない。日頃から仲間に馬鹿にされている自己のコンプレックスを、無神経にも揶揄されたとトナカイは理解し、自慢の蹄でサンタの肝臓あたりを蹴り上げてやろうと居直った瞬間、トナカイは見た。サンタの不器用な笑顔を。

その笑顔はあたかも、初めての婚活パーティーに出席し「今日の目標は一人でも連絡先をゲットすること!」ささやかな目標を定めた純朴な青年が、精一杯女性と会話している時に見せるそれに似ていた。

その笑顔を見た瞬間、トナカイはすべてがわかった。「そうか、サンタクロースというやつはすごく不器用な人なんだな」、と。

世界中の子供にプレゼントを届けるのに、たった一晩という短いスパンを選ぶ計画性の欠片もないサンタクロース。
子供たちにプレゼントを届ける手段として、不法侵入という手段をとるサンタクロース。
どちらかといえば肥満体型なのにも関わらず、頑に煙突からの侵入を試みるサンタクロース。
子供たちにバレてはいけないのに、真っ赤な服にたくさんのヒゲ、おまけにベルを鳴らすという自己アピールがすごい、行動に一貫性のないサンタクロース。

ひたすらに不器用なサンタクロース。目の前で恥ずかしそうに、困ったように、それでも自分を元気づけるように笑うサンタを見てトナカイは思った。「自分を救おうという気持ちは本物なんだろうな、ただ、もうちょっとマシな理由は思いつかなかったのかな」、トナカイは満たされた気持ちになり、今宵こそはと喜びました。

 
この解釈でほぼほぼ間違いなので、近々曲を作った人に話を聞きにいきたいです。他界してるならイタコに会うべく青森に向かいます。 

この間のことである。小説を読んでいてあることに気がついた。それは物語を読むという上で致命的とも言えるが、差支えがないと言えばない。しかしながら、理解をした上で物語を読み進めるためには捨てて置けないのと共に、オレ自身の人間性の底というか浅さのようなものが、湖の水が干からびて露呈してしまったかのような感覚を発したのだった。

文中に出てくる登場人物の服装の説明が、まっったく理解できないのだ。

例を挙げてみよう。

「カラシ色のコーデュロイのパンツにモスグリーンのフィールドコート。」(石田衣良 「1ポンドの悲しみ」より抜粋)

1ミリたりとも絵が浮かんでこない。イメージに霧がかかるとかのレベルではなく、ビッグバン以前の宇宙みたいに存在すらしていない。かろうじて理解できるワードは、「カラシ色」「パンツ」だけである。
というかカラシ色と黄色の違いは何か。コーデュロイって何だ、スウェーデンのポップスバンドか。モスグリーンってどういう緑だ。フィールドコートの用途は。
いまだにズボンのことをパンツという風潮に馴染めていないオレにとってはハードルがべらぼうに高いオシャレワードの数々。今までの人生の中でオレは一回も口にしたことがないと100%言い切れる。

もともとそこまで服装にこだわったことがない人間なので、この手の話題にはまったくついていけないのである。そもそもね、そこまで服装を詳細に語る必要があるんですかね。過ぎたるは及ばざるがごとしって言葉がしっくりきますわ。
そら表現はことこまかい方がいいかもしれない。小説という文のみで構成されているアートにっとては、いかにして文章表現により読者にヴィジョンを思い描かせるかが著者の腕の見せ所であると思う。ただしそれは、説明力ではなく事物をどうやって上手く表現するかってことに重きが置かれるべきなんジャマイカ。

まあシャレオツな方々は、「いや、普通わかるっしょ(in青山)」みたいにしたり顔かもしれんな。なのでみなさんにオレの気持ちを体験させてやろう。

例えばだ!こんな文章があったらどうする!

「その時の彼の立ち振る舞いは、グローリーネクスト社の人気シリーズである『ボイン大好きしょう太くんのHなイタズラ』の主人公、しょう太くんのようにセクハラめいたものだった。」

わけわからんだろ。女性群ポカーンだわ。男性でも一部の人間にしか通じんぞ。

と、このように実際に存在するものにシーンを当てはめるのは簡単なことだ。でもそれじゃ伝わらない人もいる。小説に限ったことではなく、日常の中にでも。
難しいのは如何にしてAという限定的な事物をみんなにわかるような最大公約数でありながら、それしかないというオンリーな言い方で表現するかだと思うの。でなければ心に響かない。

というわけで被害妄想丸出しな文章はここで終わる。

ブログネタ
“昼ビール”好きですか? に参加中!
困ったらテーマブログだよね。テーマ、「昼ビール好きですか?」

もう大好き。場合によっては起きたらすぐさま呑むくらい。正直たまらん。
とんでもなく美味しいと感じますな。休日のために昼ビールがあるのではなく、昼ビールのために休日があると言っても過言ではない。

勘違いしないでいただきたいのは、酒がないとやってれないというアル中的退廃行為などじゃないってことだ。あくまでも昼ビールは、今この瞬間が休日であることを強調するためのイベントなのである。平日の仕事の真っ最中には酒が呑めないが、今は違う、仕事という枠でオレは縛られていないことを認識する一大イベントってことだ。心地よい酔いが非日常感を加速させる。天気が良ければなお良し。歌え。

だからね、昼のビールもちょっとは許してくれよ。心ウキウキの休日をもっと楽しくさせてくれよ。

酒が目的になってはダメなんだと思うの。酒はあくまでも幸福感を増幅させるアイテムに過ぎない。友との語らいも酒が入るとなお一層楽しいのもそう。花をより美しくみせるために、泣きたい夜の慰めのために。アルコールの酔いそのものに欲望を向けることは、女の体だけを求める愚行に近い。

アルコールは魔物だ。だんだんと心に進入して来て、気がついたら自我を乗っ取られてしまう。お前が大きくなって酒を呑むようになったら、十分注意するんだよ。夜も遅い、もう寝なさい。

老人は寝室に走っていく孫を見つめながら、昔を思い出していた。友との宴の中、暴言を吐き彼を傷つけてしまったこと、その後話すこともなくなってしまったこと、戦争で彼が死んでしまったこと。一言あやまりたかった、そう思いながら老人は息を引き取った。

毎回毎回、ブログの記事を更新する時にはその書き出しをどうするかで少し迷うのである。

文章というのは基本的には「起承転結」で構成されてるものよね。
起で「こういうことがある」と投げかけて、承で「それってこういうものでね」と語って、しかし転で「でもこれってあれじゃない?」とクルっと翻し、結で「だからあれはそうなんだよ」と締める。現代文の授業で習う初歩の初歩だ。

書き出しとは、起の中の起。戸愚呂弟の100%中の100%みたいなもんだ。とても重要。映画でも小説でも名作といわれる類のものは、冒頭の一番最初のシーンや一文で「お?」と人々の意識をゴソっと奪い去る。いわばスタートダッシュである。ここで勝負の半分が決まると言っても過言ではないと思うの。

小学校の頃の作文での書き出しはほぼ全てが「ぼくは、」から始まった。運動会だろうが芋ほり大会だろうが夏休みの思い出がテーマではあろうが、まずは「ぼくは、」からスタートしその後はただひたすらに何があったかを時系列順に書き連ねるのみだった。自分の感情とそこから連なるmore soul(妄想)を挟み込むこともなく、「楽しかったです。」の結びにひたすら向かっていくのだ。

「ぼくは運動会でかりもの競争に出ました。50メートル走が終わってから、入場門のところに並びました。行進をして座って待ってました。走る順番が来ました。いっしょにとし君と走りました。ぼくは足が早くないけれどいっしょうけんめい走りました。5位でした。ノートをもらいました。楽しかったです。」

こんなものを何十人分も読まなければならない先生の凄さに30歳手前にして敬服するのみである。文章がオール過去形。もう書かされている感マルダシだね。

そう、あの頃は作文などひたすらにめんどう臭く、今目の前にある原稿用紙のだいたい5分の4くらいを埋めることだけに必死だったのだ。自己表現やユーモアを効かせると言う概念は欠片も存在していなかった。

しかし!クラスメイトのほとんどが「ぼくは、」で書き出している中、別の手法で作文を書き始める輩もいた。オレは忘れない。花火を見に行ったテーマの作文でてっぺい君が「どーん!」から書き始めたことの衝撃を!100回作文を書けば100回は「ぼくは、」から書き始めていたオレにとって「どーん!」は花火ではなく自分の脳みそを揺さぶる音に感じられた。

てっぺい君はそらもう元気で活発な男の子でね。ドッジボールでは率先してボールジャンプからキャッチと縦横無尽に動きまわっていたよ。まあオレはその頃からドッジボールが、何故あんな無益なものが存在するのか本気で悩むレベルで大嫌いだったもんで、彼からボールをぶつけられる立場でしたよ。

そんな話はどうでもいいんですけど、彼の「どーん!」は間違いなくオレの何かを揺さぶり、その後のオレの作文の書き方は別に何も変わらなかったけれど、10何年の時を超え今まさにこのブログを書いているオレに対して影響を与えている。

桜が満開になりつつある最近のエブリデイ。でも見に行けない歯がゆさったら。
朝は人間で満開の電車に乗り込み、夜暗くなるまで働く。桜率が0パーセントの日常。花見もできやしないの。

学生の頃は贅沢だったなと思うね。大学の前は桜並木でイヤでも目に飛び込んでくるんだよ!時間は腐るほどあったから花見だってし放題だった!その気なれば授業サボって大学の横の公園で仲間たちと花見酒さ!ホント最高だったよ!

なんとなく洋楽アーティストのインタビュー日本語訳風に語ってみたが、まあマジであの頃はよかったよ。今は気がついたらあっという間に桜に緑の葉っぱが混じっていて、桜の生き急ぎっぷりにびっくりしてる。

「桜の木の下には死体が眠っている」

誰が言い出したか知らんが天邪鬼な輩だ。桜の葉の桃色から血の色の連想という高等テクをかますのは相当のヘンタイである。

でも人間は、美しい・素晴らしいものとイヤなものを結び付けたがる癖があるね。

「綺麗なバラには棘がある」、「上手い話には裏がある」、「ただより高いもんはない」、「うまいもんは太るんだよ(byタモリ)」、とかな。

しかし、人ってそういうのも好きじゃないですか。実はいい人が極悪人だった的ストーリーの映画はたくさんある、ような気がする。あの芸能人が私生活ではとんでもない暴れん坊!なんて聞いたら、ババア興奮し過ぎて鼻血出すわ。
ギャップというものだ。マイナス×プラスの相乗効果。あの美しい桜の下には死体が眠っている、そう考えると今まで見ていた桜がどことなく不気味で妖艶な雰囲気を纏う。それがまた良い。アイスの天ぷらも美味い。

キラッキラ光るものの裏にできる影をわざわざ想像する人間、そして黒い影から目を離せない人間。何と業の深いことであろうか。べんべん。

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