レンタル掲示板

2008年02月25日

命はおいくら?

 「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」というのが日本にある。確かに日本では、横断歩道をみんなで渡れば車はそれをみてしっかりと止まって、歩行者が渡りきるまで待っていてくれるかもしれない。私も小さいころ、この言葉を信じて同級生と赤信号を渡ったことがあるが、一度も車に轢かれたことはなかった。

 

 さて、中国でこれをやったらどうか?御存知のように、中国の車の運転は極めて乱暴である。横断歩道を渡っているので安全だと思って通っていても、右折の車が「どけどけ」と言わんばかりに走り抜けていく。ひどい場合には、外地からきた大型トラックが赤信号を無視して猛スピードで交差点を通り過ぎる。中国では幼稚園、小学校の子供については、すべて父母またはお手伝いさんが迎えに行くのも、誘拐が多いからというより、交通が極めて危険だからだと思われる。だから、私は、娘に「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」というような恐ろしいことはとても言うことができない。

 

さて、こういう交通状況だから車の増加に伴い、交通事故で死亡する案件も当然増えている。これは外国人も例外ではない。先日、弊所に相談があったのは、ある日本人男性が、日本での仕事に嫌気をさして、日本から中国に仕事を探す目的で上海に来たところ、たまたま横断中にトラックにはねられ死亡し、その御両親が加害者に賠償を求めて弊所に相談に来たという案件である。その両親の方は、すくなくとも加害者に日本円で最低でも3000万円から5000万円の賠償が欲しいという。さて、中国ではこの両親の希望する金額の賠償を加害者に要求できるだろうか?

 

日本であれば通常の仕事をしている成人が死亡すればこれくらいの金額にはなるであろう。というのは、日本の賠償は基本的に死亡した時点を起算点として平均余命まで取得できる逸失利益を基準として金額を算定するので、通常の人の所得であればこれに近い金額まではいく。だから、日本であれば、この御両親の希望する金額は得られるだろう。

 

中国ではどうかというと、日本に比べると著しく低いといわざるを得ない。中国における死亡した場合の賠償金の計算式は、基本的に【前年度の都市住民(又は農村住民)の平均可処分所得】×20である(最高人民法院関于審理人身損害賠償案件適用法律若干問題的解釈第29条)。

 

昨年、60歳未満の外国人が上海、北京、天津で死亡したとすると、それぞれの金額は、以下のようになる。

上海:413,360人民元  北京:399,560人民元   天津:285,660人民元

 

すなわち、中国で死亡しても外国人は、せいぜい日本円で多くても600万円くらいしかもらえないのである。もし、家庭を持っているお父さんが若くして死亡した場合、この600万円では残された家族は到底生活をすることはできないだろう。

 

今回事故で死亡した日本人の方は、生命保険にも海外傷害保険にも加入していなかったそうだ。したがって、法的に御両親がもらえる金額は、600万日本円程度ということになる。

 

この話を聞いて御両親は非常に無念だったようだが、中国の法律ではこういう処理となる。もちろん、交渉により金額を吊り上げるよう努力することは可能だが、実際その増額は容易ではない。

 

そういうことを考えると、中国に来る日本人又は中国で生活している日本人は、会社が保険をかけない場合でも、リスクヘッジのことを考えて、しっかりと日本の生命保険又は海外の傷害保険に入っておく必要があるかと思われる。特に駐在員の奥さんと子供には会社からこれらの保険がかかっていない場合があるので注意が必要だ。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 23:25法律相談コーナー

2008年02月18日

定款の再チェック!

 最近、不正を行う総経理が後を絶たない。昨年は、二件、本年は、すでに一件私の方で処理したが、その処理の過程で、定款に総経理解任事由をわざわざ限定している会社が少なくなった。

 

すなわち、総経理を解任できる事由としてわざわざ、「私利を貪り又は著しい失職を行ったこと」を要求しているのである。

 

総経理は、不正を行っているのだから、これを記載していても問題ないのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、それは違う。

 

当該事由は、訴訟になった場合、会社側が立証しなければならない。しかし、例えば、取引業者からリベートをもらっていたり、友人又は親族の会社を代理店としてその代理店に多くの商品を取引させていたとしても、これら事実を訴訟で勝てるような証拠として掴むことは現実問題なかなかできないのである。

 

おそらく、当該事由は、中外合資経営企業法実施条例第38条に、「総経理、副総経理及びその他の高級管理職に私利を貪り又は重大な失職行為がある場合は、董事会決議を経ていつでも解任できる」という条文から来ているのであろう。

 

しかし、外資企業法法及びその実施細則並びに公司法には、そのような限定はない。

 

だから、少なくとも独資企業に関しては、そのような限定をつける必要がないのである。総経理を情況に応じて董事会の決議でいつでも解任できるようにするためも、以上のような不必要な事由は削除しておいて方がよいであろう。

 

ついでにもう一つ指摘しておこう。

 

多くの会社は、雛形の惰性からか、利益配当は一年に一回しか行わないと規定している。確かに、中国では中間配当を認めていないので、年度決算が終わって利益が確定しないと利益は配当できない。

 

しかし、未処分利益については一年に一回しか配当してはならないという法律上の規制はない。会社によっては、一度に利益を配当するのではなく、情況に応じて、何回かに分けて配当していくという必要が生じる場合がある。

 

これに対応するためにも、一年一回の配当という限定ははずしておいたほうが会社にとっては利便性が向上するのではないかと思われる。

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 21:08Comments(1)新公司法

2008年02月04日

事実

熱いものを冷ますのに熱湯をかけ、冷たいものを暖めるのに氷水をかけたらどうなるだろうか?熱いものはもっと熱くなり、冷たいものは更に冷たくなるのは誰でも分かる。

 

 しかし、企業トラブルを見ていると、こういった処理をしているケースが少なくない。

 

 例をあげてみよう。中外合弁企業で、業績が悪いとする。日方から派遣された総経理は当該責任を本社から追及されるのを怖れる。そこで、この業績の悪い理由を中方にすべて押し付け、中方を排除すれば業績がよくなると日本本社に対して提案。日本本社は当該提案をまともに受け独資化を決定。独資化の話が上れば中方は事業継続で利益を上げることには興味がなくなるので、業績はどうでもよいことになり、独資化交渉だけに関心が集まり、業績は益々悪化。長らく続いた交渉によってやっと中方の持分を買って独資化できたと思ったら、業績が上がらない。そこで、本社からの責任追及を免れるため架空の売り上げを上げる。本社からお褒めの言葉を受ける。しかし、しばらく経って、売り上げたとされた商品がすべて返品される。実は、これは、代理店に商品を置いてもらっただけで本来売り上げとしては計上してはならないものなのであったのである。本社からの責任追及が来る。総経理は、これから何とか逃れようとするため、すべての責任を営業部長に押し付けようとし、営業部長を解雇する。しかし、営業部長はこれを不服として労働仲裁を提起する。訴訟が泥沼化に。総経理の直属の本社上司も、自分の部下に対する監督責任が追及されるのを怖がり、総経理と一緒になり、中国人の悪さを本社社長に訴える。スタッフ一新をスローガンに現地の幹部をすべて外国語が話せるものに入れ替える。すると、外国語が話せないものの営業で成績の高かった者が続々と辞職。ライバル会社へ転向。業績が更に悪化。話すと、まだまだこの先があると思うが、こういうことが延々と続くのである。

 

 この総経理は、「大変だ。大変だ」と慌てられていて、多くの弁護士、コンサルタントにご相談されているみたいだが、弁護士、コンサルタントに相談しても、根本的な問題に目を向けないと、解決にはならない。

 

 この総経理の間違いは何であったか?簡単なことだ。

 

 この総経理は元々人事権をすべて握っており、中方は単に出資持分を持っているだけで経営にはほとんど口出しをしていなかった(董事会も日方が過半数を把握)。だから、業績が悪いのは、中方のせいではなく、当該総経理の経営能力に起因しているわけである。

 

 これを隠蔽するがために、色々なことをしたために、情況が益々悪化したのである。当該総経理が悪いのは言うまでもないが、当該総経理の話をそのまま聞き入れた上司も無能以外の何者でもない。総経理が自分の経営上の失敗を隠すときに提言してきたことに対し、しっかりと原因を理論的且つ客観的に検討すれば、このような事態は生じなかったのである。そもそも考えてみればよい。日方が董事会の過半数、総経理がすべての人事権を握っているにも関わらず業績が悪いというのは、これだけみても、中方とはあまり関係のない話である。これを中方と関係があるとするのは非常に理屈で物事を考えない人の思考である。事実、中方も、同じ業界でビジネスをしているが、毎年20%以上の売り上げの伸び率であり、同業界でも当該中方の経営力は評価されているのである。

 

 松下幸之助は、「経営は難しいものでもない」と言い、その要領を、「雨が降れば傘をさす」というように「当たり前のことを当たり前にやれば成功する」と言っている。

 

 雨が降って傘をさすためには、まず、雨が降っていることをしっかり認識しなければならない。すなわち、『事実』の認識を正しく行わなければならないのだ。

 

 上述の例でいえば、業績が上がらないのは、総経理の責任以外のなにものでもない。だから、この事態に対応するための方法としては、総経理に反省させるか、総経理を解任する必要があったわけである。

 

 これをやらないで、事実に反したことをやっていたがために、松下さんの例を借りれば、雨が降ったら、傘をささないで、服を一枚ずつストリップショーのように脱いでいったため、風邪を引き、肺炎になってひどい目にあったのである。

 

 私もこれまで、紛争を色々みてきたが、この『事実』に即した対応ができていないがために、簡単な問題を泥沼化させる企業がかなりあった。

 

 その意味で、経営をするにあたっては、この『事実』を的確に把握すること。これを忘れてはならない。そして、遠く離れた場所にいる本社の人間も、一部の人間に耳目をふさがれて過った判断をしないよう、日頃から『事実』を正確に把握できる能力を養わなければならない。

 

 事実から離れた処置は、過ちを呼び寄せるだけで、いつまで経っても解決とはならないのである。

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 11:10経営

2008年01月29日

残業代基準で損しないために

 1 1 日に「全国年間祝日・記念日休暇弁法」が改正施行され、法定休暇日が10 日から11 日に1日増えたことに伴い、今月13日、労働社会保障部は、「関于職工全年月平均工作時間和工資折算問題的通知(労社部発【20083号)」(以下、「新通知」という)を公布し、2000317日公布の労社部発【20008号通知(以下、「旧通知」という)を廃止し、月平均労働日数及び日給、時給換算方法を変更した。

 

 これにより、月平均労働日数は、従来の20.92日から20.83日に変更された。

 

 従来の残業代は、旧通知に基づき、月基本給与を20.92で割って日給を算出し、更に8で割って時給を算出していたので、法定休暇日が1日増えたことにより除数が20.92から20.83へと小さくなれば、1時間あたりの残業代が若干上昇すると考えられて、労働者からも歓迎の声が上がっていた。

 

 しかし、新通知の第二条をみると、法定休暇日はそもそも当該休暇日数に対して給与が支払われるのであるから、除数算出に当たっては法定休暇日数を控除しないとし、結果として、日給、時給換算時の月平均労働日数は、21.75日となり、旧通知の20.92よりも除数が大きくなり、労働者の期待とは裏腹に、日給、時給が安くなるという結果になった。

 

 これだけを見ると、政府は労働者に冷たくなったと思われる方もいらっしゃるかと思うが、新通知第二条で示す理由の方が論理的であり、逆にこれまで7年近く残業代計算の基準となっていた旧通知の方が非論理的であまり問題視されていなかったこと自体驚きである。この点、筆者は、中国政府も少し論理的な部分でも成長したなと思って笑ってしまったのだが、、

 

 さて、何はともあれ、残業代計算の除数が大きくなったことにより、これにより残業代が若干安くなるわけだが、以下の点で注意が必要だ。

 

    新通知適用時期

 

元々新通知は、法定休暇日が11日に1日増えたことに対応して出てきたわけなので、13日に新通知が公布されても11日から適用されるようにも解釈しうる。しかし、新通知は単に法定休暇日の日数に機械的にあわせたというだけではなく、上述の通り、法定休暇日数を除数算出の際に差し引かないという変更もしており、法は遡及しないとの一般原則の通り、新通知は11日からではなく13日から適用されると解釈される。

 

    規則改訂の要否

 

当該規定は労働社会保障部から出ているので何もしなくても企業に有利な21.75日が自動的に適用されると思われがちだが、必ずしもそうではない。

 

 多くの会社は賃金規定を独自に定めており、これによると残業代の計算は20.92日を基準としているところがほとんどである。

 

労働法第44条は、法定基準以上の残業代を支払うことを否定しているわけではなく、むしろこれを歓迎しているわけだから、会社の規則で20.92がそのまま残っていれば新通知公布後も残業代計算の際は、20.92が用いられると解釈しうる。労働法は法律よりも労働者に有利な部分は否定するものではないからである。

 

 したがって、賃金規定等で20.92日と明文化している会社で、新通知のメリットを受けたければできるだけ早く、規定を改訂し、21.75日にあわせる必要があろう。

 もし、会社規定に20.92日が明文化されていなければ、規定なければ法律法規によるべしの原則により、13日から自動的に21.75日が適用されることになる。

 

 以上の点、残業代計算を間違わないよう、注意されたい。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 12:28

2008年01月22日

量より質

弁護士業というと残業することがステータスのようになっているが、毎日深夜まで残業している弁護士を見ていると、大変だなと同情する一方、何でそんなに毎日残業しなくてはならないかと疑問に思うことが少なくない。

 

どういうことかというと、メールで15行くらいで結論と根拠法を示して簡単に答えればよいものを何十頁も一生懸命に意見書を書いているのである。何十頁も意見書を書くのだから当然7時間から8時間は必要となり深夜残業となる。

 

それではなぜこのように一生懸命に意見書を書いているかというと、考えられる理由は二つある。

 

              クライアントが量を求め

              量が多いと報酬が増える

 

以上の二点である。すなわち、多くのクライアントは、小学校時代の学校の先生が生徒に作文の量を求めるのと同じよう、弁護士にも量を求めるのである。そして、量が多いことにありがたみ、弁護士はよく仕事をしてくれたとして安心感を覚えるのである。また、弁護士の方もタイムチャージでやっているところがほとんどなので、量が増えれば増えるほど報酬が増えるので、いっぱい書こうとする(弁護士によっては20万字あまりのレポートを書いたと言ってウェッブ上で宣伝しているところさえある)。これは意見書に限ったことではない。契約書の起草についてもそうだ。クライアントに分厚い契約書を差し上げると非常に喜ばれる。そして、弁護士も分厚い契約書を作れば報酬が増えるので、できるだけ量を増やすよう努力するのである。

 

このように弁護士とクライアントの量に対するニーズが一致して、弁護士イコール深夜残業という文化が出来上がってしまったのである。

 

このような情況が果たしてよいのか?私は決して健全な姿ではないと思う。「時は金なり」というが、まさにこれである。クライアントは、弁護士の費やした無駄な時間のために余計な出費を余儀なくされ、弁護士も量を稼ぐためにゆとりのある生活ができず毎日深夜残業という事態に陥る。もちろん、お金を追求し続ける弁護士にとっては意図的に時間をかけて稼ぐのが快感かもしれないが、、、、

 

弁護士にとって重要なのは、日頃から知識、経験をつけ、その意味では毎日自分で勉強して、クライアントの質問の回答、問題の解決に短時間で結論を出せるよう日々努力することである。この勉強代はクライアントに転嫁してはならない。

 

その意味で、量が多いことをよかれとしていた文化は、高コストをもたらし、お互いの時間を無駄にする悪しきものとして排斥しなければならないと思う。そうすれば、コストも下がり、クライアントもリスクヘッジのために弁護士に気軽に質問できるだろうし、弁護士も余計な量を増やすために時間を浪費せず人間らしい生活が実現できるかと思う。

 

シンプルにするのは簡単だと思う方がいらっしゃるかもしれないが、シンプルにするには、思考を明晰にし結論をはっきり示すので欠点が目に付きやすく、書くほうからすればリスクが高いので、むしろ精神的には書きにくいのである。だから、大手の弁護士事務所は、そういったリスクをとりたくないので、量をできるだけ増やし、何を言いたいのか曖昧にして責任を回避しようとし、読んでいる方も分かったようで分からなかったような感じになるのである。

 

量から質への発想の転換が、クライアントと弁護士との間で今後は必要かと思われるがいかがであろうか?

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 16:05

2008年01月16日

裁判傍聴・・・正義とは?

高校時代、好奇心で何回か東京地裁に行って覚醒剤事件について傍聴したときに、非常に印象に残った対照的な二つの事件がある。

 

一つ目の事件の被告Aは、覚醒剤所持の前科があり今回二回目の覚醒剤所持による逮捕である。法廷での弁護人の陳述では、「被告Aは自動販売機でジュースを買ったときにジュース出口の下に白い粉の入った袋が落ちており、警察に届けようと思ってそれを服に入れてホテルに入った。ホテルの部屋で寝ていたところ警察に踏み込まれて覚醒剤所持の容疑で逮捕された。被告Aは覚醒剤所持の認識を持っておらず、したがって無罪だ」と主張し、次に被告人への尋問に移り、被告人も弁護人の主張に合わせ、「白い粉はきっと誰かが間違って落としたと思って警察に届けようと思った」という。検察が、「その白い粉の袋は2cm×2cm四方の小さいものなのにわざわざ警察に届けようと思ったのか」と問いただしたところ、被告人は、「小さい頃からおばあちゃんから、落ちているものがあったら警察に届けるよう言われていたので、そのように思いました」と答える。次に、裁判官が、「なぜすぐに警察に届けないで自動販売機のすぐ近くのホテルに行ったのですか?」と質問する。被告人は、「当時非常に疲れていたからです。」と答える。検察が、「なぜ疲れていたんですか?」と質問すると、弁護人が、「それは本件とは何ら関係がない!検察の質問は不当だ!」と異議を申し立てる。裁判官が異議を却下すると、弁護人が怒りをあらわにした。結局、その被告人は検察の質問に答えられず、その日のうちに結審という形となった。

 

もう一つ目の事件も覚醒剤所持の事件だが、被告Bの弁護人は、検察の冒頭陳述が終わると、「今回の事件については全く検察の主張するとおりで事実関係については一切争いません。ただ、被告Bは非常に反省しており私の前でも二度とこのような事件を犯さないということを誓いました。被告Bの母と姉も被告Bにこのようなことを二度とさせないよう保証すると申しております。したがって、裁判官のお時間をお許しいただけるのであれば、被告Bの母と姉に話をさせて頂く機会を頂きたい」と申し立てると、裁判官もこれを許可し、母と姉が裁判官の前で息子に対する思いを熱く語った。その際、感極まってか、母と姉も涙を流していた。最後に、被告Bへの尋問になったときも、「もう二度としません。どうか許してください」と自分のやったことを悔いてか、言葉は涙ぐんでいた。この裁判も一日で結審となった。

 

それでは、二つの事件の結末はというと、被告Aに対しては懲役3年の実刑、被告Bに対しては執行猶予付きの懲役1年となった。

 

皆さんはこの事件についてどう思うだろうか?

 

まず、被告人Aの弁護人の覚醒剤所持の説明だが、普通の人がまともに聞けば、子供騙しの弁解のように聞こえるのではないだろうか?普通の成人が、白い粉の小さな袋を拾ってそれを警察に届けるということはまずない。しかも、この被告人Aは前科者である。もし、警察に届けに行く前に捕まったらあらぬ疑いをかけられるのだから、それは拾わない方が身の安全である。触らぬ神に祟りなしである。もし、万が一本当に拾ったなら、すぐに届けに行かないと危険である。しかし、届けにいかないで、ホテルで休んだ。このあたりは理由としてどう考えても通らない。この弁護人の年齢は32歳くらいで恐らく弁護士に成り立てであったと思われる。弁護人としては、自分の仕立てた物語に絶対の自信があったような感じだが、裁判官にも検察にも自分が馬鹿にされている感じを受けて、怒りをあらわにし、法廷に気まずい雰囲気が漂った。そして、絶対勝訴の意気込みで弁護人がやった結果は、懲役3年である。

 

これに対して、二つ目の事件の被告人Bの弁護人は、事実関係を素直に認め、被告人の反省というのを軸に弁護活動を展開した。傍聴している私にも、被告人Bの反省している様子が確かにみえ、裁判官もその反省を認めているような印象を受けた。この弁護人は年にすれば65歳くらいの女性弁護士で、一つ一つの言葉に老齢ながらも力と気迫がこもっていた。そして、結果は執行猶予付きの懲役1年である。

 

弁護士に成り立てだと、どうしても裁判をゲームだと思って、自分の仕立てた物語通り話せば全面勝訴できると思いがちである。しかし、世の中、相当の頭のよい人でないと一貫した嘘というのはつきにくいものである。しかも、被告人と弁護人の歩調が当日ずれることは日常茶飯事である。そうすると、弁護人の考えたとおりに進めるというのはむしろ困難なのである。そして、その歩調がずれ又は話の一貫性が欠けた場合、その失敗の責任はすべて被告人一人が背負うものとなる。その背負うものというのは懲役という金銭では代替しえないものであり、また弁護士が肩代わりできないものなのである。

 

その意味からすれば、被告人Bの弁護人のとった法廷戦術というのはさすがに経験もあるのであろうが、的を得ていたものだと思う。

 

二人の弁護人の違いは経験の差もあるだろうが、最も大きな違いは哲学の差であろう。

 

私の恩師の近藤先生は、「弁護士になるとついつい驕りがでて、自分の思った通りにすべて事が運ぶと誤解しがちである。そこで、依頼者に良かれと思って、ゲーム感覚で、勝手な物語を作ったり、依頼者の言いなりになって、正義に反するようなことをしたり、言ったりしてしまうことがある。しかし、正義に反することをしたらどうなるか?それは、二つの事件の結果を見ても分かるだろう。被告人Bの弁護人は正義の観点から犯罪事実を肯定しこれを前提に被告人を反省に導いて執行猶予を獲得した。しかし、被告人Aの弁護人は事実関係に反してでもすなわち正義に反しても被告を無罪にしようとし、結局嘘がばれて懲役三年の実刑を受けることになった。これをみても分かるように、嘘という形で正義に反して依頼者を保護しようとすると、逆に依頼者に害を及ぼすことになるのである。だから、弁護士たるものは、やはり正義を軸にして動くようにしなければならないのである。多くの弁護士が依頼者の利益保護と正義の実現とは相反するものと考えているようだが、それは大きな間違いだ。依頼者の利益を守るというのが弁護士の役割であることは間違いない。しかしその守るべきは依頼者の「正当な」利益である。刑事裁判に即して言えば、冤罪から救うこと、被告人がうまく言えないことを代わりに主張してあげること等である。決して「不当な」利益を保護することではない。そこを勘違いしている人が多すぎる。正義を前提にして初めて依頼者の本当の利益というのは守られるのである。依頼者が正義に反することをしようとしたら、それを説得し正義に基づくよう軌道修正し、依頼者の長期的な利益が最大化するよう努めるのが弁護士の努めである。その意味では、弁護士は尻拭い的な弁護だけではなく、依頼者を正しい方向に導く『先生』とならなければいけないときもあるのである。弁護士は『先生』と呼ばれることが多いが、『先生』的な行動・態度ができず、依頼者の言っているままに動く『機械的』弁護士、ゲーム感覚で弁護を行う『ゲーマー』弁護士がいるが、そういう弁護士は『先生』と呼ばれる資格はない。社会に害をばら撒くだけだ」と仰っていた。

 

二つの事件の結果そして近藤先生の話を聞いて、正義を基準にすることの重要性を当時痛感した次第である。

 

翻って、現在の弁護士業界を見てみるとどうか?金儲けに盲目的となり、金儲けさえできれば、何をしてもいいやという感じで、弁護士が自ら事を大きくしたり、依頼者の言いなりになっていたり、いい加減に処理している例も少なくない。

 

『先生』と言われていながら『先生』らしい行動をしていない弁護士をみるにつけ、ため息が出る次第である。

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 10:54

2008年01月08日

欲望の塊

人間は元々「善」なのか「悪」なのか、昔から性善説、性悪説という形で論じられてきた。

 

しかし、私が思うに、そもそも「善」とか「悪」という次元で人を論じること自体ナンセンスなのではないかと思う。

 

例えば、会社のお金を横領したり、業者からリベートをもらった労働者を例にとって考えてみよう。この労働者は会社からは、間違えなく性悪説のレッテルを貼られるであろう。しかし、こういう労働者は例えば家に帰ったり、友達と付き合っているときは、家族から又は友達から「よい人」すなわち性善説的に見られていることが少なくないのである。

 

もっと卑近な例を挙げよう。中国にいると中国人女性と懇意にされる日本人男性が少なくない。だが、かといって日頃、家族、仕事を大事にしていないかというと必ずしもそうではない。妻が事実関係を知れば、裏切り者ということで、性悪説のレッテルを貼るであろうが、もし事実関係を知らなければ、よい亭主、お父さんということで性善説的に見ていることも少なくないのである。

 

すなわち、人間が「善」「悪」を論じている場合、実はそれは論じる人自身にとって、自分に害悪を及ぼすかどうかを基準に判断しているので、その判断結果は極めて断片的なものであり全体的なものではない。したがって、一人の人を一刀両断的に「善」とか「悪」に綺麗に二分することはそもそもできないのである。

だから、人は「善」か「悪」かという議論よりも、なぜ、人はときに「善」的行動をとり、ときには「悪」的行動をとるかという、その原因を究明した方が有意義である。

 

それでは、その原因とは何か?

 

私としては、それは「欲望」の発現の仕方の違いと考える。

 

前述の横領し、リベートをもらうことは金銭欲、浮気は性欲に起因していることは間違いない。

 

しかし、横領しない人、リベートをもらわない人、浮気を行わない人も世の中にはいる。それは、なぜかというと、二つの原因が考えられる。一つは、金銭欲、性欲が少ないこと、もう一つは、別の欲望が金銭欲、性欲を牽制しているのである。

 

前者についていえば、欲望というのはそれ自体がエネルギーであり、これは人それぞれに強弱が違う。食欲を考えてみればよく分かるであろう。いっぱい食べる人もいれば、食が細い人も入る。だから、欲望が弱ければ、例えその欲望があったとしても、身体を動かすまでには至らない。それでは、欲望の強い人はどうかというと、欲望が強いから下手すると身体を動かすことになる。しかし、人間が人間たる所以は、大脳の周辺に、猿とか犬にはない、名誉欲とか自己保身欲という高度な欲望があり、それが本能的な欲望を牽制する構造となっているのである。上述の例でいうと、金銭欲が強い人は、横領したいとか、リベートをもらいたいと思う。性欲が強い人は浮気をしたいと思う。しかし、そこで、大脳周辺の名誉欲、自己保身欲がこれを抑えにかかる。すなわち、横領したり、リベートをもらったりすると、名誉に傷がつくぞ、場合によっては刑務所に送られるぞ、浮気をすると奥さんや子供に捨てられるぞ、仕事を失うかもしれないぞと、名誉欲、自己保身欲が脅すのである。もし、この名誉欲、自己保身欲が金銭欲、自己保身欲よりも強ければ、金銭欲、性欲は効果的に抑えられることになる。しかし、この名誉欲、自己保身欲も上述の金銭欲、性欲と同じく、人それぞれに強さが異なる。弱い人は、金銭欲、性欲が勝って、ついつい悪いことをしてしまうのである。

 

従来、人間には「理性」というものがあり、この「理性」が欲望を抑制すると考えられてきたが、私は、人間には哲学的な「理性」というものはないと思う。すべての行動はつきつめて、考えれば、上述の名誉欲とか自己保身欲等の欲望と関係しているのだと思う。もし、人間が理性的であれば、人を殺し国力を疲弊させる戦争やテロなどは存在しない。戦争やテロほど、理性的に考えれば愚かなことはないからである。戦争やテロを行うのは彼らは自分の行動を正義と思っており、自己の名誉欲、征服欲を満足させたいからなのである。

 

中国の唐の時代の太宗は、名君としての誉れが高いが、彼の言動を記した貞観政要をみると、彼の欲望の葛藤が面白いほどよく分かる。すなわち、本能的な欲望と、名君として歴史に名を残したいという名誉欲が常に葛藤しているのである。太宗のすごいところは、歴史に名を残すための名誉欲が通常の人よりも強く、自己の本能的な欲望を上手に抑制していたところであろう。

 

次に、日本人と中国人という軸でみてみよう。日本人は、他人のことを考えて行動する傾向がある。これに対して、中国人は、自分勝手な行動をする傾向がある。その違いは何か?それは、日本人は、集団帰属欲が強いのに対し、中国人は集団帰属欲が弱いからである。日本人は集団から「悪」のレッテルを貼られ、集団から除名されることにものすごい恐怖を覚える。だから、悪い欲望が出てきても、集団帰属欲が出てきて、悪い欲望を上手に抑えられるのである。これに対して、中国人は集団帰属欲というものはむしろ淡白であり、集団は自分を守ってくれないと思っているから、集団のことはあまり考えないで、自己中心的に考える。したがって、自己中心的な行動が出やすいのである。

 

だから、これまで日本人がよいとか悪いとか、中国人がよいとか悪いとかという議論がされてきたが、よいか悪いかという問題ではなく、欲望の差なのではないかと思う。この点をしっかり認識しておくことが、すべての問題解決の糸口となる。

 

よって、中国で中国人をうまく管理しようとすれば、雲のようにつかみ所のない理性を信じるのではなく、現実として存在する中国人の行動の源泉たる欲望の内容、強さをしっかり捉える必要がある。その源泉は、言うまでもなく、金銭欲である。そしてこの金銭欲は日本人よりもはるかに強い。日系企業が中国で失敗しているのは、中国人も日本人と同じく集団帰属欲が強いと誤解し、だから給料が横並びで個々人に差がなくても日本人と同じように満足するだろうと誤解しているからである。しかし、上述の通り中国人の集団帰属欲というのは弱い。だから、集団帰属欲が弱く、金銭欲が強いことを前提に経営を行う必要がある。だから、単刀直入的にいえば、金銭をちらつかせて、金銭というものを使って中国人を管理するのが重要である。これをうまくやっていれば、皮肉な結果だが、精神教育しなくても会社を辞めない。そうすれば、非常に簡単に管理できるのである。日系企業が中国の労務管理に苦しんでいるのは、金銭をちらつかせて、金銭で人を管理するという手法に慣れていないからである。中国の成長企業をみれば、すぐ分かるが、この金銭による人の管理というのが常識となっている。

 

それでは、中国人は金銭欲はあるが名誉欲がないかというとそうではない。日本人のように他人からどう思われるかという名誉欲の観点から欲望を抑制することを期待するのは難しいが、自尊心という観点から名誉欲を刺激してあげると、非常に効果がある。簡単に例をあげると、従業員に辞職勧告するとき、「あなたは、こんな変な会社にすがっていないとやっていけないくらい能力がないのか?」と言ってあげると、従業員は自尊心を刺激されて「そんなわけないだろう。俺はこんな会社なんかにいたくない」ということで辞職していくのである。中国人は面子欲が極めて強く、交渉の際には上手にこの面子欲を利用することが重要なのである。

 

このように、人間を「欲望の塊」として考え、それぞれの人の欲の内容、強さを基準にして考えれば、どのようにすれば人を簡単にコントロールできるかよく分かるかと思う。

 

その意味では、経営術というのは、人の欲望をどのようにつかみ、この欲望を経営のためにどのように利用するかという技術なのかもしれない。

 

相手の理性を信じるだけで、相手の欲望を利用する術を知らなければ、単に神に祈っているのと何ら変わりがないのである。その意味で、私は理性という概念を捨てて、表に欲望というものを出したい。

 

「欲望の塊」というと批判的に捉えられることが多いが、脳の実際の構造としては、私は「欲望の塊」なのではないかと思うのだが、いかがであろうか?

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 15:24

2008年01月03日

有限的思考

1225日、中国で御世話になったおばあさんの葬式に参列した。上海での葬式は私も初めての経験だったが、日本に比べると非常に簡素だ。基本的に御通夜はなく、告別式だけである。その告別式も、坊さん、神父、神主等は呼ばず、葬儀屋が儀式を仕切り、友人、家族代表が一人ずつそれぞれ5分くらい話し、死者ご本人の生前のスライドを10枚くらい見せ、後は死者に対して献花し、火葬するという段取りである。正味の時間で約45分くらいである。日本の場合、葬式が終わると火葬場に行き、火葬を始めてから終わるまで1時間半くらい待ち最後骨を拾うという段取りだが、昨日の場合、葬式が終わると遺体をそのまま隣の火葬のスペースに入れておしまい。家族、参列者は火葬が終わるのを待たず、骨を拾わないですぐに家に帰るという段取りだ。後で、聞いた話だと、骨は火葬場の方で責任をもって骨壷に収め、後日遺族に引き渡すとのことである。最近参加した結婚式は、日本よりも派手にやるところが増えてきているので、葬式も派手にやるかと思ったが、意外にも簡素なことには驚いた。

 

葬式は簡素な方がよいか、それとも、内容が充実していた方がよいのか、人それぞれに価値観があると思うが、ただ、言えるのは、このように簡素なのは、家族、参列者にとっては非常に楽であるということである。私も実は、午前中葬式に参列し、お昼には事務所に戻ることができたので、ほとんど負担というものがなかった。

 

さて、簡素であっても、葬式に参列するといつも何だか重苦しいものを感じる。なぜ、重苦しいものを感じるかというと、自分の死というものを否応なしに認識させられるからだ。自分もいつかは、こうなるのか、そういう思いが巡るのである。私の記憶にあるおばあさんの生前の笑顔、元気な様子と眼前に横たわるおばあさんの遺体とのギャップが、また自分の死への認識を強めさせるのである。

 

日々何気なく生活していると、自分の死というものを認識させられるということは少ない。そして、日常会話でも死というものに触れることはあまり歓迎されない。むしろ、死については、腫れ物のように、あまり触れたくないというのが通念であろう。

 

しかし、私は最近、死というものはやはり明確に意識して生きる重要性を感じている。それは、なぜか?

 

それは、資源、時間にしても「無限」と思っていると、無意識のうちに無駄使いしてしまうからである。水だって石油だって、2年後はなくなるといったら、すべての人は無駄使いをやめ、今ある水、石油を大事に大事に使うはずである。人生だって同じではないだろうか?死というものを認識するのは、確かにつらいことである。しかし、死を認識しないと、ついつい人生も「無限」にあるかのような錯覚に陥り、毎日の生活で、無駄な時間の比率が大きくなってしまうのである。もちろん、生活にはゆとりも必要である。だから、ゆとりを否定するわけではない。むしろ、ゆとりは重要である。しかし、ゆとりというのは無駄なものではなく、これも意義ある時間なのである。

 

それでは、意義のある人生とは何か?人それぞれに意義の定義が違うかもしれないが、私としては、死ぬ間際に振り返ってみて後悔のない人生といえるかどうかが重要だと思う。すなわち、視点を死の時点において今の自分を見つめ、死ぬ間際に後悔が残らないよう現在から死ぬまでの人生をしっかりと計画、設計するということである。

 

こういう視点をもてれば、自分の父母もいつかは死ぬから今のうちに親孝行しておこうとか、妻、子供から「よいお父さんだったね」と言ってもらえるよう妻、子供に恥じない人生を歩もうと思うし、少しは社会の誰かが自分のことを覚えてくれるようにしたいと思えば、進んで社会奉仕の活動もするだろうし、会社からこの人がいてよかったと思われたいと思えば、日々の仕事を一生懸命にやるし、部下に対する思いやりというものも自然に出てくるだろう。

 

最近、生きる意義を失った人が多いせいか、生きる意義についての書籍が多くなってきている。しかし、正直言って、読んでいて自分と完全にフィットするというものは少ない。それは、おそらく、これらの本はその本を書いた人の生きる意義であって、私の生きる意義と微妙な違いがあるからだと思う。

 

それでは、自分の生きる意義というのはというのをどのようにして見つければよいか?それは、自分で考えて見つけるしかない。ただ、盲目的に見つけようとしても、簡単に見つかるものではない。しかし、上述のように、視点を現在ではなく、自分の死という時点において、死の時点から振り返るようにしてみれば、今後どのようにして生きていくべきなのかがそれぞれの判断で決められるのではないかと思う。

 

また、死という時点を視点に持てば、人を騙したり、人を悲しませたり、人を裏切ったり、人を傷つけたりという行動も自然と慎むようになるのではないかと思う。

 

人生は後戻りができない。しかし、後悔先に立たずということで死ぬ間際に嘆くのも情けないものである。私としては、「わが人生悔いなし」で生きたい。

 

その意味で、人生においても、「有限的」思考をもつこと、これが大事かと思われるが、いかがであろうか?

  
Posted by richardlawfirm1623 at 18:14

2007年12月18日

ネットビジネスで中国人を変える可能性

   最近、我が家の購買ルートが変わりつつある。

 

   食料品や日用品はもちろんこれまで通りスーパーに行って購入するのだが、その他の物は、ネットで購入するケースが増えている。

 

   それは、なぜかというと、二つの理由がある。

 

   一つは、価格メリットが非常に大きいこと、もう一つは、安心して購入できることにある。

 

   前者の価格メリットについては、日本でも同じだと思うが、最近、中国でも大都市を中心に家賃、給与の値上がりが著しく、そのため店としても当該家賃、給与を商品価格に転嫁しなければならなく、その分、価格が必然的に高くなる。その点、ネット販売だと、基本的に無店舗型であり家賃負担がほとんどなく、従業員も多く抱える必要がないから、その分安い。その分というと、どれくらいかということになるかもしれないが、物によっては店舗で売っている物に比べて三分の一とか、二分の一とかということも少なくない。

 

  次に、後者の点だが、これは日本よりも以下の点で進んでいるかもしれない。私がよく利用する陶宝を例にとり紹介してみよう。

 

(一)消費者からの格付けがある

(二)供託的支払いが可能

(三)消費者が自動的に感想を書かざるをえない状況になっている

(四)常に双方向通信が随時できる

 

  まず、(一)だが、格付けは、ハートの個数、ダイヤモンドの個数、冠の個数で表される。右に行くほど信用が高くなるわけだ。右に行くためには、一つ一つの売買で、

 

  買主から好評の数を蓄積していかなければならない。すなわち、好評の数に応じて、ハート→ダイヤモンド→冠に移行できるわけだ。これらの格付けは第三者ではなく、商品を買った買主自身が行う。だから、買主から好評を多く獲得した店は、冠が与えられるのに対し、評判のよくない店は、少ないハートもしくはゼロハートとなる。だから、消費者としては、基本的に、5つのダイヤモンドか、冠の店で買えば、詐欺に合うということはほとんどない。ネット販売では、顔と店舗が見えないので、客観的な買主自身による格付けがあるというのは、非常に大事なことだ。

 

  次に、(二)だが、陶宝では、支付宝という支払いシステムがある。どういう制度かというと、買主は、まずすぐにお金を売主に渡さず、中立且つ公正な立場にある支付宝に供託という形で売買代金を預ける。売主は、供託が確認された後商品を出荷し、買主は商品を受け取って問題ないことが確認された時点で、支付宝に対して支払いの指示を出し、売買代金が売主に払い込まれることになる。ネットで買主が怖いのは、お金を払っても商品が来なかったり、写真と違う商品が来ることだ。このようなとき、買主としては、クレーム内容を書いて、売主への支払いを拒絶すればよい。だから、買主にとっては安全な制度だ。日本でも着払い制度というのはあるが、中国では、商品が着いたとしてもすぐに支払う必要はなく、商品に間違いや欠陥があれば、その分支払いを遅らせ、又は拒絶することができるので、買主保護という観点からは日本より安全だ。

 

  ただ、買主も悪意的に支払いを遅らせると、自分の評価も落とすことになる。すなわち、陶宝では、買主も売主から評価されるのである。だから、買主も変なことをすると、今度は売主から商売をしてもらえないということにもなりかねない。その意味では、陶宝では、買主の信用も問われるといえよう。

 

  第(三)だが、(二)で支付宝に対して支払いの指示を出すと、自動的に売主評価の画面に移る。基本的にはボタンを押すだけだが、支払いの指示をしたあと、自動的にこの画面に移るので、買主としては、半ば強制的に評価せざるをえない。そのため、逆に多くの買主からの直接的な評価が集まり、正確に売主を評価できるというわけだ。この点、日本の感想記入の方式とは違う。日本の場合には、書きたい人だけが書くという形なので、逆にサクラ的なコメントが出ることも少なくない。

 

   第(四)だが、陶宝では、チャットシステムが組み込まれており、商品についてわからないことがあったら、電話をしなくても、直ちに、チャットで詳しいことを聞くことができる。ネットに書かれた内容だけでは分からないことが多いので、リアルタイムに話をできるというのは非常にありがたい。また、チャットを通して売主の性格、責任感もよく分かる。私は購入前には、どんな商品でも、チャットでまず売主と話をする。そこで、感じのよい人であれば購入し、感じの悪い人からは絶対に買わない。そして、これまで、200件あまり購入した経験からいうと、感じのよい人から買った場合は、商品に問題があったということはほとんどない。また、問題あったとしても、迅速且つ責任をもって対応してもらった。その意味では、店舗販売よりもむしろサービスがよいと言っていいところもあった。

 

   このように、中国では現在、ネットでの購入も、安心して、気持ちよく、安く購入できる環境が整ってきているのである。

 

   これまで中国では信用やサービスというもの自体を理解している人が少なく、したがって、外国人が不愉快な思いをすることが少なくなかった。それは、一つには教育、文化、歴史とも関係してきているかと思うが、大きな原因は、これまで以下のようなことがあったからだと思われる。

 

顱縫機璽咼垢鬚茲しても自分の収入は変わらない。

髻望暖饉圓ら厳しく格付けされるということがなく、また格付けがあっても公開のものはなかったので、消費者には孫子の兵法を用いて、詐欺的な話術で騙しているケースが多くあった。

鵝妨楜劼箸泙犬瓩縫灰潺絅縫院璽轡腑鵑垢襪箸いΔ海箸呂覆、消費者に感動を与えるということはなかった。

 

   この点、顱砲世、ネット販売は、サービスをよくすれば、収入が上がるという明確な因果関係があるので、サービス向上について、誰から言われなくても自発的に努力するようになる。

 

髻砲世、上述(一)のように格付けがされ、格付けが公開されるので、詐欺的な方法をやっていれば、すぐに顧客は来なくなる。

 

鵝砲世、面と向かって話すより、人は、チャットソフトで話をした方が、色々なことが話せる場合が少なくない。だから、十分なコミュニケーションが可能となり、消費者はこれを通して感動を得られる機会が増える。売主は、このような経験を通して、消費者に感動を与えることの意義、その楽しさを実感するようになり、サービスというものの意義を自然と学習していく。

 

   商売というのは、信用が第一だと言われる。しかし、口で言われても、自分の体験として『実感』しないと、なかなか分からない。分からないと、信用を損なう行動というものが出やすい。

 

   その意味ではネットビジネスの拡大は、中国人にとって、信用、サービスの大事さを体験を通して認識させるすばらしいもののように思う。

 

   今後10年後、20年後は、このネット商売で、これを掴み取った人達が増え、先進国並みのサービスが提供できるきっかけとなることを期待する次第である。

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 14:39

2007年12月10日

駆け込み改訂の注意点

今年も残りわずかとなった。

 

来年の1月1日の労働契約法施行に備えて、現在、就業規則その他規則を改訂している会社は少なくないと思うが、その改訂に関して、今年中であれば、法律上会社が完全に従業員を無視して改訂できると誤解されている点があるので、今回は、改定時の法律上要求されるプロセスを念のため記しておくことにする。

 

まず、規定を見た方が早いので、関連規定を紹介することにする。

 

    工会法

 

38条第1項 「企業、事業単位が経営管理及び発展の重要問題について検討する場合、工会の意見を聴かなければならない。給与、福利、労働安全衛生、社会保険等従業員と密接な利益に関わることを討論する会議を招集する場合、工会代表を参加させなければならない。」

 

    公司法

 

18条第3項 「会社が、組織改変及び経営方面の重要問題について検討決定し、重要な規則制度を制定する場合、会社工会の意見を聴き、且つ、従業員代表大会又はその他の形式で従業員の意見及び提案を聴かなければならない。」

 

    上海市工会条例

 

20条 「企業の董事会に工会代表がおらず、董事会が従業員労働報酬、生活福利、安全生産及び労働保護、社会保険等従業員と密接な利益に関わる問題について検討決定する場合、事前に工会の意見を聴き、工会代表を当該会議に列席させなければならない。」

 

以上の規定をまとめると、会社が、従業員と密接な利益に関わる問題について決定する場合、以下のプロセスを踏む必要がある。

 

1)   工会及び従業員からの意見及び提案を聴く

2)   決定する会議(多くの会社は董事会)に工会代表を列席させる

 

  したがって、現行法の規定でも、会社が従業員側を全く無視して一方的に規則関係を制定、改訂してよいということにはならないのである。

 

  もちろん、上述の規定は、労働関係そのものを律するものではないので、これに違反して制定又は改訂された規則関係の効力が直ちに無効となるとまでは判断できないが、労働仲裁になったときに、当該プロセスをとっていない場合は、労働仲裁がこれを斟酌して、その効力を認めないということもありえる。

 

 したがって、工会のある会社は、まず、工会に規則改訂の草案についての意見を事前に聴き、改訂案を決定する場合にはこれを決定する会議に工会代表を参加させる必要があろう。

 

 工会がない場合については、特別の規定はないが、上述の規定からすると、最低でも、改訂草案を従業員に対して事前に開示し、その意見を募り、その意見を聴いた後に、改定案を決定するというプロセスが必要となろう。

 

 駆け込み改訂で、効力が不安定にならないよう、上述の点について御注意頂ければ幸いである。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 14:59

2007年12月03日

神様⇔豚

 「顧客は神様」である。

 

 最近、中国人の間でもこのような言葉が口にされるようになった。

 

 改革開放前の、物を買おうとしても店員が面倒がり物を売ってくれなかったり、クレームをつけても無視されるしかなかった時代から比べると、「顧客」を神様の地位に上げたということは、ある意味で、中国にとっては革命的なことかもしれない。

 

 しかし、考えなければいけないのは、顧客を神様の地位まで上げる必要があるかということだ。

 

 まず、「顧客は神様である」という意味はどういうことだろうか?

 

 恐らく当初このスローガンを作った人の意図としては、二つの意図があったと思われる。

 

    感謝の心

 顧客が物又はサービスの対価として、お金を支払ってくれて自分の生活が成り立っているのだから、顧客が自分を養ってくれているという見方もできる。神が万物を育んでおり、それに対する感謝の気持ちが必要とされていることにちなんで、この言葉には、顧客に対しても感謝の気持ちを持ちなさいという意味が込められているのであろう。

 

    顧客の絶対視

 神は絶対的存在とされ、したがって、神には過ちという文字が当てはまらない。だから、顧客を神様とするというのは、顧客の言っていることは常に正しいとして扱えということだ。顧客がクレームを言ってきたりしているのは、火のないところに煙は立たないわけだから、売主又はサービス提供者は、まず自分に非があることを認め、顧客の主張にしっかりと耳を傾けよという意味があるのであろう。

 

 どれも、意味としては正しいところもあると思うのであるが、先程述べたように、これを言うのにわざわざ顧客を神様まで持ち上げる必要があるかということだ。

 

 顧客を神様の地位に持ち上げてしまうと、反射的に、顧客に物を販売したり、サービスを提供する者は、顧客の僕(しもべ)という地位に落ちてしまう。僕(しもべ)の立場で、プロとしての仕事ができるかどうか?

 

 また、上述△寮簑仞を強調しすぎると、顧客が明らかに間違っていてリスクを冒そうとしているときにも、顧客は絶対であるということで、顧客の過ちを指摘しないでそのまま見過ごすということになる。これが果たして顧客のためになるかどうか?

 

 私も、中国で「顧客は神様である」と口にする人に何人も出会ったことがあるが、実際は商品を販売するときや、契約を取るときにだけ、おべっかで「神様」扱いし、こちらが商品を買ったり、契約をしてしまうと、あとは究極の無責任となるのである。これは、その担当者のモラルの問題かもしれないが、日本でもこれを口にしている人の中でこのような人が多かったことからすると、この言葉は意外と、道端で「社長。こちらへいかがですかー?」とか呼び込みをしている人のように、ある意味ではおだて文句、場合によっては、これが進んで顧客を欺く手段となってしまっているようにも思える。

 

 だから、私は部下には、顧客は神様ではないと言い切っている。むしろ、自分が顧客と平等に接することができるよう、プロとしての知識、経験をつけなければならない。顧客を神様として持ち上げるのは、そうしなければ自分のサービスを買ってくれないからで、これほど情けないことはない。また、顧客が事務所に来るのは、我々にプロとしての智恵を求めているわけで、もし顧客の考えに間違えがあれば、顧客が間違った道に入り込んで損害を蒙らないよう、顧客の耳に痛い言葉でもしっかり言わなければならない。顧客の御機嫌取りをしているのであれば、弁護士はやらない方がよいと言っている。

 

 これは、もちろん顧客に対して傲慢になれということではない。謙虚な態度は重要である。しかし、それはわざわざ顧客を神様にする必要はない。顧客にどうすれば喜んでもらえるか、競争に勝つためにはどういうサービスが必要か、自分の果たすべき役割は何か、顧客は自分に何を求めているかという『商売の基本』というものに立ち返って、もっと根本的なところから考えれば、分かる話である。小手先で神様とおだてて商売をとっても、長続きするものではない。逆に、スローガン的に、「顧客は神様である」というのは、自分が、商売の中で具体的に何をすればよいかということを不明確し、商売の基本というものを忘れさせてしまいやすい。その結果が、商売を取る際は、「神様」と持ち上げて、商売を取ったら、梯子をはずすという態度につながるのである。

 

 その意味では、私は、「顧客は神様である」というスローガンは嫌いだ。私は逆に、自分が顧客から「プロ」と評価されるよう地道に努力を重ねなければいけないと日々の努力の必要性を強調したい。

 

 「顧客は神様である」というのが、結果的には、「豚もおだてれば木に登る」になってしまっていたと考えるのは私だけであろうか?

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 17:35

総経理の労働契約してますか?

来年11日から労働契約法が施行されると、就業開始から1ヶ月以内に書面による労働契約を締結しないと、就業開始から1ヶ月を超えた部分については2倍の給与を支給しなければいけなくなる。

 

多くの日系企業も、これを警戒して、すでに、一般従業員に関してはほぼ書面による労働契約を実施しているところが多いようだ。しかし、書面による労働契約について、どうも忘れ去られていることが一点あると思うので、今回はそれを取り上げたい。

 

それは、何かというと、標題にも書いてあるように総経理の労働契約だ。総経理は、日本語において、よく、「社長」と翻訳されることが多いせいか、労働契約が締結されていないことが多い。日本の社長という名称自体、法律用語ではないが、正式な法律用語は、代表取締役だ。この取締役というのは日本法上、会社との関係は、一般に委託関係とされており、労働関係ではない。したがって、取締役との間では労働契約は当然のことながら必要はない。

 

しかし、中国の総経理は、会社との関係では、あくまでも、労働関係である。すなわち、労働者の地位を前提としているわけだ。労働関係である以上、労働契約法に基づいて、書面による労働契約を締結しなければならない。

 

それでは、総経理とどのようにして労働契約を締結すればよいか?多くの会社では、一般従業員の労働契約については、総経理が会社側の署名者になっているはずである。そうすると、総経理の労働契約についても、総経理となろうとしている者が、自分で自分の労働契約を締結することになるのか?

 

この点については、《関于貫徹執行〈中華人民共和国労働法〉若干問題的意見》(以下、「若干意見」という)第11条後段で、「会社制を実施している総経理及び関連の経営管理者は、《中華人民共和国公司法》の規定に基づき、董事会と労働契約を締結しなければならない」と規定している。

 

問題は、董事会とどのようにして労働契約を締結するかである。董事全員が労働契約書に署名しなければならないのか、それとも、董事会で総経理選任について承認した董事だけの署名でよいのか、、、この辺がよく分からない。

 

また、よく考えてみると、そもそも董事会が労働契約を締結できる資格があるかというのも問題である。というのは、董事会というのは、あくまで会社の内部機関であり、労働契約の締結については、会社を『代表』する行為が必要なのであるが、董事会は会議体であるがゆえに、公司法上も『代表権』が与えられていないからである。法定の代表権があるのは、法定代表者である。法定代表者は、公司法第13条で、定款に基づき、董事長、執行董事、総経理の何れかに指定される(もちろん、定款に基づいて又は法定代表者からの個別的な授権に基づき更に別の自然人に授権して代表させることは可能)。

 

そうすると、上述若干意見の規定との関係で、総経理の労働契約をどのように締結すればよいかという問題にぶち当たる。若干意見は現在も有効な規定なので、無視するわけにもいかない。この点の解決方法については、政府も公式の見解を表明しておらず、関連の解説もないようなので、あとは、ロジックで考えていくしかない。

 

まず、公司法第50条では、総経理は、董事会で任命されるとしているので、総経理の任命に董事会決議が必要なことは疑いがない。次に、労働契約の締結との関係でどうすればよいか?

 

若干意見が、そもそも、董事会により総経理の労働契約を締結させるとしたのは、総経理となる者が自ら自分の労働契約を締結すること(すなわち、双方代理)を防ぐことにあったと思われる。だから、そうならないよう、総経理の任命機関であり、上部機関である董事会を選んだ。すなわち、董事会によって、総経理の労働契約を『管理』しようとしたわけである。そうすると、労働契約が、董事会によって、しっかり『管理』される方式で締結すれば、若干意見の目的は達せられるはずである。

 

この目的達成の方法としては、董事会決議書を多少工夫する必要がある。これまでの董事会決議書の決議事項では、普通、○○を総経理と任命するとしか書かれていなかったと思うが、上述の董事会による『管理』という観点からすると、以下の事項をしっかり入れておく必要がある。

 

1、 重要な労働条件の明示

 公司法第47条第9号でも、董事会が総経理の任免だけでなく、総経理の報酬も決定するとしているから、当然のことながら、董事会決議書には、報酬がしっかり明記されなければならない。あと記載しなければならないと考えられるのは、任期、勤務場所、勤務時間等の労働契約上の重要条件であろう。

 

2、 労働契約の締結権者

 これまで述べたように、董事会に会社を『代表』させるのは問題があるので、董事会以外の者に『代表』を行わせることになる。ただ、若干意見が要求する董事会による『管理』も無視することはできない。

 

この観点からすれば、董事会決議書で、総経理との労働契約を誰が代表者として締結するのかも明示しておかなければならない(毎回董事会決議で決定するのが面倒であれば、定款で一律に決めておいてもよい)。一般的には、法定代表者でよいだろう。ただ、法定代表者と総経理が同一人物である場合、双方代理の危険があるので、そのときは、董事会は、法定代表者以外の董事を以って会社を代表させ総経理の労働契約を締結させればよいと思われる。

 

そして、会社を代表して労働契約を締結する者は、上述1.で董事会が決めた条件に必ず従って労働契約を締結しなければならない。もし、締結に当たって当該条件を変更する必要性が生じた場合には、会社側の締結権者は、董事会決議で条件変更承認決議を経て締結する必要がある。

 

 以上のように処理すれば、会社の『代表』行為と若干意見の要求を矛盾なく処理することができるように思われる。

 

 皆さんも御存知のように、最近中国人といえども、総経理クラスの人の給与は決して、日本人からみても安くはないレベルになってきている。 来年11日以降、総経理から労働契約法の規定に基づいて、二倍給与の請求がされないよう、くれぐれも、上述の点について、御注意頂ければ幸いである。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 17:34

殺すなら殺してみろ!

「殺すなら殺してみろ!」

 

これを勇気をもって現在も言える人はどれだけいるだろうか?

 

子供の頃だと、特に男の子は血気盛んな時期なので、我が身を省みず、むしろ英雄伝にあこがれて、「殺すなら殺してみろ!」と口にしたことがある方も少なくないかと思う。

 

労働紛争、契約紛争等が起こった場合、労働者又は契約の相手先は、大概矛先を経営者トップに向ける。そのとき、向こうは逆上していたり、または、脅しの意味で、「ぶっ殺してやる!」と気勢を上げることが多い。その際に、経営者トップとして、どう対応すべきか?

 

少年時代のときにように、「殺すなら殺してみろ!」とやり返せる人がどれくらいいるだろうか?

 

私がこれまで見てきた例をいうと、このように相手が「ぶっ殺してやる!」と気勢を上げると、すぐに縮こまってしまう方が少なくない。縮こまってしまう気持ちは当然理解できる。しかし、これが進んで、怖気づいてしまったら駄目だ。

 

この場合、まず、トップとしては、トップらしく、相手の言っていることに理があるかどうかを恐怖の中でも理性的に判断する必要がある。しかし、私の経験からして、このように「ぶっ殺してやる!」と気勢をあげる人に理がある人というのは少ない。だから、理のない人の要求を脅しに負けて受け入れてしまえば、理が立たないことになる。そして、この理のない人に対抗した場合に、本当にぶっ殺されるかどうか、冷静に判断する必要がある。まず、「ぶっ殺してやる!」との気勢だが、現在の世の中で本当にぶっ殺すほどの気合が入っている人というのは実は多くない。なぜか?それは簡単だ。ぶっ殺せば、中国では、特に、外国人を殺せば、「死刑」という制裁、それも、早い時期で執行されるからだ。簡単に言えば、外国人をぶっ殺せば、ぶっ殺す方も国家から、近いうちにぶっ殺される関係にあるからである。だから、こういうやつには、「お前が俺をぶっ殺せば、お前もぶっ殺される」と脅してやればよい。また、こういう脅しがなくても、実際、人を殺す勇気のある人なんてそういる者ではない。だから、基本的には、単なる「脅し」として聞き流してやればいいのである。この「ぶっ殺してやる!」に怖気づくのは、「脅し」を「脅し」としてとるのではなく、いわば、自分が殺される現実の姿をリアルに想像してしまうからである。そこは、犬の遠吠えと思って扱わなければならない。

 

そして、あとは、万が一の場合もあるので、ぶっ殺されないようにするための予防措置も重要である。それは比較的簡単で、相手が「ぶっ殺すぞ!」と脅している部分を録音しておき、これを公安にプレゼントしてあげることである。彼らの「ぶっ殺すぞ!」という脅しは、中国でも、脅迫罪又は恐喝未遂罪に該当する。そうすれば、必要に応じて公安の力を借りて彼らを封じ込めることもできる。現地の公安が動かなければ、省レベルの公安に告発してもよい。省レベルの公安が動かなければ、在中国日本大使館又は領事館を通じて、適切な保護を行うよう圧力をかけるよう要請すればよい。

 

私は、このようにアドバイスすることが多いのだが、そのときに、ほとんど一律に返ってくる言葉がある。それは、何か?

 

「私はサラリーマンなので、無理です」

 

この一言である。この気持ち、立場は理解できる。彼らとしても、日本から派遣されて来ているわけで、日本本社のサラリーマンであることは違いない。したがって、言っていること自体に間違いがあるわけでもなく、気持ちも理解できる。

 

しかし、致命的なものが一つある。それは、それは何かというと、「トップとしての心構え」である。

 

組織のトップというのは、集団を導き、集団を守り、その集団を社会に貢献させていく責務がある。この責務を果たすためには、いざという場合には、「命がけ」という態度がなければならない。不正と対決しなければ、集団、社会秩序が崩れるかもしれないというときに、命乞いして、トップが縮こまっている様子をみて、部下はどう思うだろうか?

 

恐らく部下は、「彼はやはりサラリーマンだ」と自分が答えたとおりのことを思ってくれるだろう。すなわち、自分の生活、命を託す組織の「トップ」としては駄目だと認定してくれるのである。まさに素直なリアクションである。そして、人によっては、脅せば多くの金額をもらえるから、自分も、ごねて同じように脅してお金を取ってやろうという人も出てくる。また、そこまでならなくても、給与は毎月800元くらいなのに、脅せば40万元から50万元ももらえる。まじめに働くのが馬鹿らしいという気持ちを起こさせるだろう。

 

よく帝王学なるものが解かれるが、「学」と文字を付け加える自体間違っている。トップとしての道というのは、「学」門のレベルではなく、心構えが重要だからである。だから、学問のように難しく暗記したり計算が必要なわけではなく、ようは、簡単で、そういう心構えをすればよいのである。ただ、言うは易く行なうは難しである。そこに、トップとしての道の厳しさがある。

 

雑誌をみていると、いかにも、現地法人の総経理が、「私が一流のトップである」というようなコメントで書かれているのがほとんどだ。

 

しかし、このような事態に、「殺すなら殺してみろ!」と言える人はどれくらいいるだろうか?

 

私の知り合いで従業員200人規模ながらも日本人一人で命がけでやっている人がいる。その人の話だと、労働紛争が起きたときにも、弁護士、公安を呼ばず、全員を相手に戦ったそうである。もちろん、殴り合いをしたわけではない。従業員の言い分を聞きながらも、一人で自分の考えと会社の将来について徹底的に説明し、従業員を説得させたそうである。そのときは、12時間に及んで総経理室に監禁されたそうである。しかし、それに屈しなかった。むしろ、その過程で、従業員に総経理の真意を理解してもらったため、その後は、従業員との間に深い絆ができ、管理が以前よりも楽になったそうである。

 

その総経理が私に語ってくれたのは、「このようなときに、弁護士を呼んでも駄目だ。というのは弁護士というのは第三者であるがゆえに立場的に命がけでクライアントの代わりにやるのは難しいからだ。しかも、会社内部のことである以上、弁護士が説得するのは難しい。これは法的な問題でもない。従業員を説得できるのは総経理だけであり、命がけにならなければならないのは、総経理自分以外誰にも代替できない。下手に第三者である弁護士を入れれば問題がこじれるだけだ」と。これを聞いて、まさに、仰るとおりだという気がした。

 

部下に対して平時において、「俺がトップだ!」と威張ることは、誰でもできる。しかし、非常時において、トップが会社のために、「殺すなら殺してみろ!」と言えるくらいの気概がなければ、部下を本当の意味で導くことはできないのではないだろうか?

  
Posted by richardlawfirm1623 at 17:28

2007年11月13日

B型肝炎よる差別の禁止

中国では人口の約10%がB型肝炎ウィルス所持者とされる。数にして約1.2億人だ。ただ、この数値はあくまで統計数値である。実際はこれを遥かに上回る人がB型肝炎キャリアとして存在するだろう。

 

 これだけの人がB型肝炎だとすると、会社が採用する際又は採用した後に、従業員に対して血液検査を実施すると、大体毎年従業員の誰かがB型肝炎者ということで出てくる。そうすると、大体のクライアントが慌てて、弊所に電話をかけてきたり、メールを送ってきて、B型肝炎者の「内定を取り消したい」とか、「すぐ解雇したい」と言ってくる。

 

 エイズに対しては、かつてこの病気がマスコミに登場したとき、「握手、空気、食事で感染する」とか言われて、世界を驚愕させたが、最近は、映画やキャンペーンの効果又はエイズ患者の社会活動での活躍もあって、普通に生活している分には、ほぼ感染の恐れ無しという知識が定着したせいか、エイズ患者をみて動揺する人というのは少なくなった気がする。

 

 しかし、B型肝炎については、そういったエイズのときのようなキャンペーンがなされていないため誤解が多い。ある新聞社が日本でアンケートを行ったところ、B型肝炎は一緒に食事すると感染するか?という質問をしたところ、40%くらいの人が感染すると答えたそうだ。しかし、答えは×である。B型肝炎も、エイズと同様、感染源は基本的に、血液、性交渉である。したがって、通常生活している分には感染しない。また、急性で進行する場合もあるものの、多くは、慢性でゆっくりと進行していくので、すぐに業務に大きな支障を来たすという事態は生じないそうである。

 

 だから、医学的に言えば、B型肝炎者だからといってすぐに慌てる必要はないのだが、このようにB型肝炎に対する正確な知識の不足ということもあって、社会から差別待遇を受けることが度々あるのである。

 

 さて、この差別は政治的話題に何度も上り立法的措置を採ることが何度も検討されたが、なかなか明文によって禁止する法的措置が採られなかった。

 

 しかし、この度、労働部より《就業服務与就業管理規定》が10月30日に公布され、同規定第19条第2項で、「法律法規でB型肝炎者が従事することができないという業務を除き、会社は採用を行う際、B型肝炎ウィルスの血清学指標を健康検査の基準とすることを強要してはならない」と規定し、これに違反した場合、同規定第68条により、「労働部門から1000元以下の罰金に処され、また当事者に損害を与えた場合には、賠償責任を負わなければならない」と罰則も明記された。

 

 病気を持っている人よりかは健康の人を雇うのがもちろん会社にとっては有利であるが、ただ、中国のようにB型肝炎者の比率がこれだけ多いところでは、あまりこれを理由に差別的なことをやっていると、これが原因で従業員と感情的な対立になり、ひいては労働仲裁にまで発展することもある。外資系だと、これがマスコミに取り上げられ、B型肝炎者(この数も無視できない)から大きなバッシングを受け、売り上げ等に大きな影響を与える可能性もある。

 

 その意味では、上述規定の公布をきっかけに、B型肝炎に対する正しい知識を身につけると共に、B型肝炎者に対して会社として今後どのように向かい合っていくのか、じっくり考えた方がよい時期が来たように思える。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 12:09

2007年11月09日

上を向いて歩こう

 昔 、復旦大学で中国語を勉強しているとき、中国語の先生が、ある面白い話をしてくれた。それは、こんな話である。

 

水槽の中でカエルが気持ちよさそうに泳いでいる。しかし、そのときにある人が、水槽の下にアルコールランプを置いた。しかし、カエルは次に何が起きるかなど予想だにせずに、同じように気持ちよさそうにしている。次に、その人がアルコールランプに火をつけた。しかし、カエルは何事もないかのように泳いでいる。水温は徐々に上がっていく。しかし、水温は徐々に上がっていくので、水温の変化にもなかなか気づかない。最後に熱いと思って逃げようと思ったときには、逃げようと思っても水温が高くなりすぎてもう手遅れになって死んでしまうという話だ。

 

この話の趣旨は、当然のことながら、「環境の変化に敏感になり、これに早く対応しないと、気づいたときには命取りになる」ということである。

 

しかし、先生の話はこれで終わらなかった。先生は、続いて、

 

中国の若者は現在一人っ子で昔よりも豊かな生活をしており、いつも誰かが守ってくれるという甘い考えを持っている。しかし、現実はどうかというと、確実に「弱肉強食」の時代に突入している。「強いものが勝ち、弱い者が食われる」という簡単な道理だ。

 

この道理では、周りが自分を守ってくれるというようなことはなく、自分が周りから食われないように自分で自分の身を守らなければならない。自分の身を守るにはどうすればよいか?それは、親や会社に依存しても駄目だ。親はいつか死ぬし、会社だって倒産する。両者は何れも永遠ではない。だから、頼れるのは最後は自分だ。自分を頼みにするには、自分の実力を他の誰よりも高めていかなければならない。そのためにはどうすべきか?みなさんを見ていると、いつも自分の横か下ばかりを見ていませんか?それでは、自分以下の人間、自分と同じ人間しかみていないので、ある意味安心してしまって、自分を高めようという気持ちは出てこない。だから、横や下を見てはいけない。

 

私は、日本人歌手で坂本九が好きだが、その歌で「上を向いて歩こう」というのがある。皆さんに申し上げたいのは、人生では、自分よりも上の人をみて歩いた方がよいということだ。日本がここまで成長したのは、もしかすると、この歌の題名にあるような生き方をしてきたからかもしれない。それでは、具体的にどうすればよいか?仕事にしても勉強にしても、会社又は学校から与えられた仕事を平均的にこなしているだけでは駄目だということだ。それには二つの方面からのアプローチがある。

 

1、与えられた課題に対しては「不満足」の態度で臨むこと

2、課題を処理する以外の時間に自己啓発をすること

 

まず、1だが、与えられた課題を他の誰よりもうまく処理するためには、現状で満足してはならない。常に、もう少し改善できないか?不足はないか?を考えて、それを限界までチャレンジしてみる必要がある。

 

特にいけないのは、平均点というのを視野に入れて仕事をすることだ。平均点のような仕事はある意味では大多数の人が到達できるレベルだから、競争が激化していくにつれて、弱肉強食との関係では、「弱者」の仲間入りをしてしまう。だから、平均点を到達レベルに設定するというのは愚の骨頂だ。基準は自分の極限に置く必要がある。

 

もし、自分の極限というものが把握しにくければ、先程の「上を向いて歩こう」との関係でいえば、少なくとも自分よりも優れた仕事をしている人を参照にすることだ。日本人がここまで世界を凌駕する製品を生産しているのも、実は、極限を追求していたからだ。だから、最初はアメリカやヨーロッパから勉強していたが、結果的にはこれらの先輩国をいつの間にか追い抜いてしまった。なぜ追い越されたか?アメリカは中国と同じく、「まあまあ」主義と「傲慢」主義のところがあるからだ。すなわち、現状に甘んじるところがあるのである。この点は、中国人はアメリカの二の舞にならないよう「次は我が身」と思って気をつけなければならない。

 

次に2、だが、世界で成功した人を見ていると、1.も当然のこととやっていながら、2、の仕事以外の時間を有意義に使っているということである。仕事だけでは、日々の仕事の渦の中に巻き込まれて、先程のカエルの例ではないが、外が見えなくなるときもある。この点、仕事以外の時間を使って、色んな業界の人と交流したり、成功した人から話を聞いたり、また、経営、哲学の本、新聞を読んだりして、外界の動きを知ると同時に、自己の修養に努める必要がある。毛沢東主席は、読書という点では、何千冊も読んだというのは有名な話だ。この読書量がなければ、農民の彼がここまで大きな事業は出来なかったであろう。毛主席の成功という観点からすると、この2.の部分が大きなウェイトを占めていると思われる。

 

皆さんは、食うに困るという生活をしてきた人は少ないと思う。この点、皆さんは、水槽の中のカエルと似ているところがある。しかし、すでに皆さんの下には、「弱肉強食」というアルコールランプに火がついている。これに気づかずに生活していたのでは、このカエルのように気づいたときには命取りになる。だから、世の中は「弱肉強食」であることをしっかりと認識した上で、「上を向いて歩いて」いって欲しい。

 

この話は授業の最後に話されたことだが、中国の先生にしては、自国、世界の現状、日本の事情をよく知っておられ、私としても、この話を聞いて非常に感銘を受けた。

 

自戒の意味も含めて、「上を向いて歩こう」を肝に銘じていかなければならないと思う。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 14:48

2007年11月05日

1+1は?

最近、弊所で交渉に強い弁護士を雇いたいときにまず質問してみるのが、標題にある「11は?」である。

 

 みなさんだったらまずどう答えるだろうか?

この質問をするとあっけにとられる弁護士が多い。そして、ほとんどの弁護士が、「2」と答える。しかし、「2」と答えた場合、その弁護士は弊所では採用されない。なぜだろうか?

 

まず質問される弁護士によーく考えて欲しいのは、我々のような事務所が、小学1年生でも答えられるような質問するかどうかである。

 

交渉において必要なのは、口が達者であることだと思われがちだが、我々の経験からするとそうではない。むしろ重要なのは、読心術なのである。相手が何を考えているかということを読むことが重要なのである。次に、相手の心を読んだ上で、瞬時に頭を回転させる能力である。

 

標題の件でいえば、我々が単純に「2」と答えて欲しくて質問しているかどうかを考える必要がある。我々が、小学1年生の知能の人を雇おうとしているわけではないということは簡単に分かるはずである。だから、「2」と直ちに答えて欲しいはずではないと読心する必要がある。だから、すぐに「2」と答えてはいけない。そうすると、質問の裏には別の意図があるはずだと考える必要がある。すなわち、「11」は「2」以外になる場合もあるかどうかを瞬時に頭を回転させて考えなければならない。「2」という答えはそもそも数学の領域における答えである。だから、これ以外の解を求めるには、数学の領域を離れてみる必要がある。

 

それではまず、「生物学」の領域だ。卵子と精子はお互いに独自の存在だが、受精すると御存知のように受精卵となって「1」つの存在になる。次に、「仕事」の領域だ。これはケース・バイ・ケースである。非常に呼吸が合いお互いの不足を補い合える関係でお互いの智恵の交換ができれば、単純に個々人の力を合わせた以上の力が発揮できる。そうすると数値では表せないプラスの結果が出てくる。逆に、呼吸の合わない仲の悪い者同士が一緒に仕事をし、お互いに足を引っ張りあう者同士が仕事をすると、一人で仕事をしたときよりも遥かに悪いマイナスの結果が出てくる。最後に、ドラマ的に「愛情」の領域では、くさいせりふだが、「無限」という答えも出てくる場合がある。

 

これ以外にも色々な答えがあるだろう。すなわち、「11」というのは、それぞれの領域ごとに答えが異なる可能性があるのである。

 

だから、読心術があり、頭の回転が早い人だと、「11」はと聞かれたときは、逆に我々に質問してくる。「どの領域での質問ですか?」と、、、

 

クライアントの総経理と話していると、人材の能力の見極めが難しいと嘆いている方が少なくない。しかし、それは適切なテストをすれば結構分かるものである。それは、問題集とか過去にやったことがある質問をしてもよく分からない。人の能力は意表をつく質問をしたときに意外と分かるのである。

 

今回は弁護士採用のテストを御紹介したが、このような質問は、同じく読心術、頭の回転が必要な、総経理職、営業職、人事部の担当者を採用するときにも応用できるのではないかと思う。

 

最終面接で会社の重要人物を雇おうとする場合、ぜひ試して頂きたい。

 

  
Posted by richardlawfirm1623 at 11:36

2007年10月22日

電動歯ブラシ

   昨日弟と国際電話で話していたところ、また虫歯になったということである。今回の虫歯により虫歯のない歯はなくなってしまったというから大変だ。

 

  こういうと、弟は歯磨きしていないのではないかと誤解されてしまうかもしれないがそうではない。毎日ちゃんと歯磨きしているのである。それでは、なぜこんなに虫歯になるのか?うちの家族は、父と姉を除いて、母と私と弟は虫歯になりやすい体質らしい。歯医者にも聞いたところ、私達の唾液は酸性らしく、したがって、歯垢が粘々しやすく虫歯になりやすいとのことである。

 

 それでは私はどうかというと、弟のように全滅になっていない。なぜなら、6年前から電動歯ブラシを使うようになったからだ。それまでは、歯垢がなかなか落ちないので、歯医者の指示に従い、恥ずかしいが、手鏡をもって30分くらい歯磨きを一生懸命やっていた。しかし、それでも歯垢が頑固でなかなか落ちなかったので、何年かに1度は虫歯になったものだ。電動歯ブラシは、駄目もとで買ったものだが、効果は抜群であった。それまでは、奥歯の歯垢は特に落ちにくかったのだが、短時間で綺麗に落ちるようになったのである。それからは、幸いなことに、虫歯は一本も増えていない。

 

 このように電動歯ブラシのおかげで虫歯予防ができたので、すぐに弟に勧めたところ、弟も虫歯が発生しなくなった。ところが、弟が何かの用事で歯医者に行ったところ、歯医者から、「電動歯ブラシは歯の磨耗が激しいので、使わない方がよい」とアドバイスをうけたそうで、それ以来使わなかったらしく、虫歯が毎年のように増えていってしまったそうだ。

 

 確かに、この歯科医が言うように、電動歯ブラシは高速回転しているので、ずっと使うことで歯の磨耗もあるであろう。しかし、磨耗は普通の歯ブラシでも生じることであり、電動歯ブラシだけのことではない。電動歯ブラシの説明書でも、長時間強く当てて使っていると磨耗するので、短時間に軽く当てるよう注意書きがある。要は、使い方次第の問題である。

 

 この歯科医は、弟の歯垢が普通の歯ブラシでは歯垢が落ちにくいということをまず念頭に入れてアドバイスすべきであったのではないだろうか?すなわち、電動歯ブラシを使うリスクと電動歯ブラシを使わないことによるリスクを天秤にはかり、もし、使わないことで虫歯のリスクが高くなるのであれば電動歯ブラシを使うを勧め、その上で電動歯ブラシによる磨耗を軽減する方法をアドバイスすべきかと思われる。二つの選択肢がある場合、どちらもデメリットがないということは少ない。その場合比較考量という手段をとらざるを得ない。その上で、選択したもののデメリットを如何に最小限に抑えるかを検討すべきかと思われる。

 

 専門家の専門性というのはもちろん重要なことだが、専門であるがゆえに、「木をみて森を見ず」ということも発生しやすい。この世の中での出来事は、簡単に白黒つくことばかりではないのだから、本件の虫歯の例でいえば、歯医者は、電動歯ブラシのデメリットを伝えてそれを使うなというような短絡的なアドバイスではなく、患者にとっての最終的な利益(歯を健康的に継続して使える)という観点からどちらの方がよいかということ比較考量し選択し、次に、選択したものにデメリットがあれば、どのようにそれを抑制するかを考えるべきだったかと思われる。

 

 このような考え方は、電動歯ブラシに限ったことではない。選択肢がいくつかある場合にいつでも応用できる考え方である。もっというと、こういう考えを習慣づけてやらないと、自分の利益というものが守りにくくなる。

 

 後に、歯医者の友人にこの件について質問したところ、やはり私達のような情況であれば電動歯ブラシを使った方がよいとのことである。そして彼が更に教えてくれたのは、「歯科医はあまり電動歯ブラシを勧めたがらない。虫歯になりにくくなるからだ。そうすると、商売が、、、」と言っていた。弟の医者がしたアドバイスは、私利に基づいていたところもあったかも知れない。

 

選択に困ったときは、この電動歯ブラシ的思考を参考にして頂ければと思う。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 17:40

2007年10月15日

不打不成相識

   日本では、「喧嘩するほど仲がよい」という言い方がある。これは、仲がよいから喧嘩するというように、喧嘩は仲がよいことを前提としているようにも解釈される。しかし、世界から日本人同士は単民族でお互いに仲がよいと言われているにも関わらず、日本人は、決して喧嘩を好まない。また、この言葉を反対から捉えると、日本人が喧嘩を好まないのは、お互いに仲が悪いからということにもなりかねない。そうすると、この言葉の意味は一体何だということになる。

 

さて、この点、喧嘩との観点で、中国を見てみると、道端に行けばすぐ分かる。道端を歩いていると、殴り合いは多くないが、口喧嘩している姿を見かけることが多いはずである。中国人は日本人よりもはるかに喧嘩好きなのである。

 

中国では、喧嘩に関する成語として、「不打不成相識」というのがある。

 

「不打不成相識」の意味は、直訳すると、「喧嘩をしないとお互いのことを知り合えない」ということである。なぜ、喧嘩しないとお互いを知り合えないのか?それは、喧嘩をすることで、お互いが自分の思っていることをぶつけ、相手に自分の思っていることを知らせることができるからである。日本では、以心伝心というのがあるが、常識、文化、慣習レベルではこれで行けることがあるが、個人的なことになると、いくら日本人でも以心伝心といかないことが多い。この点、中国人は、喧嘩を通してお互いの考えていることを知るという文化があるのである。

 

先月だが、小生の元部下で現在総経理助理をやっている女性が弊所に遊びに来てくれた。たまたま上海に出張ということで忙しい中立ち寄ってくれたのである。彼女は、大学を出て初めての就職であったこともあって、弊所に入ったときは学生気分が抜けておらず、いい加減にやったり、ミスがかなり多かった。私もそのときは日本部門を立ち上げたばかりだったので、真剣だったこともあり、彼女をときには、1時間から2時間立たせて怒鳴ることがあった。それでは、彼女はおとなしく聞いていたかというとそうではない。彼女も気が強いので、反抗的な言い方をしてきたりして、私もそのとき若気の至りで喧嘩のようになることもあったのである。事務所の周りの人からみると、「高居は何て怖い人だ」と思われていたらしい。彼女が、私の怒りに触れて、涙を流したことは恐らく10回は下らなかったと思う。私だって、ものすごい勢いで怒るから気持ちがいいものではない。しかし、彼女とはこのような喧嘩が何度もあったが、結果的には、仕事を一生懸命やってくれ、私について来てくれた。

 

さて、その彼女が弊所に遊びに来るということで、私のことを怒っているのかなあと心配していたのだが、彼女は、「高居さんの厳しい教育があったおかげで、現在働いているボスから非常に高い評価を得て、重要な仕事をやらしてもらっている。高居さんには本当に感謝している。生涯の恩師だ。だから、今回上海に来た以上高居さんに会いたかった」と言ってくれたのである。私も当時は真剣勝負でやっていたので、これを聞いたときは、涙が出るほどうれしかった。彼女とは、色々喧嘩したが、逆に強い信頼感というものが出てきたような気がする。また、人間的成長という観点からしても、今思うと、これまで雇った部下よりも高かったかもしれない。その後、弊所のボスから、「お前は部下を怒鳴ってばかりで下品だ!」と逆に怒られ、紳士っぽく振舞えと言われたので、その後は、他の部下に対しては彼女に対してみせた喧嘩みたいのは一切やめてしまった。そのためか、彼女との間に生まれたような信頼感というようなものは感じにくいものになってしまった。

 

私がクライアントの労働問題を処理していると、部下に文句はあるもの、実際部下とは冷戦だけで、喧嘩までに発展するというケースは少ない。

 

私の例で恐縮だが、私の場合、彼女とこのように喧嘩したおかげで、彼女とは信頼関係も出来、彼女も成長してくれた。

 

そう考えると、「喧嘩するほど仲がよい」という言い方はおかしい。喧嘩してこそ仲良くなれるわけで、仲良くなるためには喧嘩が重要なのである。すなわち、仲良くなるための『手段』として喧嘩を利用するわけである。したがって、日本式の仲がよいことを前提とした喧嘩という言い方は、順序が間違っていると思う。「喧嘩しなければお互いのことを知り合えず、仲良くなれない」として、日本人は、もっと、部下と喧嘩を通して部下との理解を深め信頼関係を構築すべきではないかと思うのである。

 

もちろん、無目的な喧嘩、八つ当たり的な喧嘩は駄目である。これをやると、逆に、部下から上司としての尊敬を失うだけである。部下に伝えたい熱いものがあって、喧嘩をすることが大事なのである。そして、部下の方も言うべきことがあったら遠慮せずに自分の考えをはっきり上司に主張すべきなのである。自分が正しいと思った考えを主張できない部下は、上司の顔色ばかりみるいわば正義感にかける者として会社経営ではあまり役に立たないことが多い。

 

上司が部下に言うべきことは言い、部下が心の底で分かるまで真剣に言い続け、部下も自分が正しいと思ったことをしっかり上司に主張し、お互いの主張をぶつけあえば、喧嘩になるかもしれないが、お互いの考えを理解し、ときには、上司が部下から軌道修正するきっかけをもらったり、部下が上司から自分の間違えを軌道修正してもらえるきっかけとなるだろう。そうすれば、会社経営における失敗というものも少なくなると思う。

 

中国では「沈黙は金なり」ではなく、沈黙は会社としてときには沈没を意味するものと思われるが、いかがであろうか?

  
Posted by richardlawfirm1623 at 12:36

2007年09月24日

スパイ

  

スパイというと日本人はすぐ拒絶反応を示すが、中国人はスパイというものを非常に重視する。

 

   最近ソニーの盛田さんも言っていることだが、企業間の競争というのは戦争に非常に似ている。戦争において何が重要かというと、相手を打ちのめすための武力と並んで情報であることはあまり知られていない。孫子の兵法では、有利な情報を取得するためには金を一切惜しんではならないとしているし、情報を制するものが戦争を制するとまで言っている。それだけ、企業間の競争に打ち勝つためにも情報というのは重要なのである。

 

   ここまで読むと何だか私が相手会社の秘密を盗むことを勧めていると思われるかもしれないが、そうではない。それをやることは場合によっては犯罪になるし、モラルという観点からも問題がある。企業間の競争に勝つと言ってもルールは無視してはならない。

 

   それでは、どういうところでスパイを使わなければならないか?私が強調したいのは、トップが自社の中でスパイを上手に使いこなすことなのである。スパイというと悪いことをするだけが能のように偏見をもたれがちが、そうではない。スパイというのはあくまで情報を収集する職業であって、悪となるのはそのやり方が不法となる場合である。やり方が不法でなければ、ある程度のところまでは、情報収集のためこれを使わなければならない。

 

   この考えを教えてくれたのは、ある中国人の経営者である。この方は、個人オーナーであるが、7社も会社を持っている人で、個人資産としては10億元以上ある方である。彼は、私にこう語ってくれた。

 

  「経営者というのは全知全能の神ではない。自分の会社が大きくなってからは、自分は直接の実務に携わらなくなったので、実際現場がどうなっているのか分からないことが多くなった。しかし、ビジネスの基本は、現場にある。現場を理解するためにはどうするか?常に現場に行くという方法もあるが、行ったからといって現場の人が正直に話してくれるとは限らない。それは幹部の人や周りの人の目が気になるからだ。それでは、幹部に聞けば分かるかというとそうではない。人間というのはわが身を守るためには嘘をつくというところがあり、幹部に聞いても特に幹部に不利な情報というのは報告されることはない。そこで、私は考えた。自社内にスパイをおくことである。それは・・・」

 

   こう言って彼がスパイをおくことにしたのだが、そのスパイというのは何かお分かりであろうか?

 

   分かった人は才能ありである。

 

   誰かというと、掃除のおばさんである。彼は、掃除のおばさんのスパイの適性について以下の理由をあげる。

 

  1、 いても気にされない存在

  

   誰でも経験があると思うが、気になる存在の前では本音を語らない。しかし、気にならない存在の前では意外と軽率にも本音を語ってしまうものである。彼の話によると、掃除のおばさんは、自由にあちこちに行くことができ、また、業務を行っている人に近づいてもあまり意識されることがないので、業務の実態をありのままに見ることができるし、場合によっては、業務の連中が語っている話を盗み聞きすることができる。

 

  2、 利害関係が生じにくい

 

  掃除のおばさんというのは、企業においては一般的な出世ルートからはずれているし、実際の業務に携わっていないので、企業の見方について利害関係を生じにくく、だから、素直に会社の実態を把握できる。これが、業務を行っている人ということになると、自分の業績の悪さ、失敗を隠すためあるいは上司を引きずりおろすために嘘をつくことが少なからずあるので、真実に近い情報というのは得られにくい。

 

   3、 耳がよく情況把握能力あり

 

  彼の話によると、女性というのは緊急事態への対応能力には欠けるところがあるが、男性よりも耳がいいのと、平常時の情況把握能力については男性よりも勝っているとのことである。確かに、うちの事務所にいても、女性は私が小声で話していることも結構よく聞き取っているのに対し、男性はこの点鈍感なところがある。

 

   以上の適性に基づいて、掃除のおばさんを使ったところどうなったか?彼の話によると、幹部、現場の人が彼を神様扱いしだしたとのことである。幹部、現場の人からすれば、隠してあったことについて、彼が手にとるように分かっているので不思議で仕方がなかったそうだ。また、掃除のおばさんをスパイとして利用してからというもの、情報がいろいろ入ってくるので、社員の不満というものもよく分かり、爆発する前に手を打つことができるようになったので、社員の離職率や社内トラブルの発生も激減したとのことである。

 

   ただ、彼が私に言ったのは、「掃除のおばさんを重視していることを周囲に悟られてはならない」ということである。これが周囲にバレれば、周囲は掃除のおばさんに情報が入らないよう対策をとるからである。スパイがスパイでいられるのは、情報収集する相手にスパイであるということが分からない間でしかない。そして、彼は、第二の注意点として「掃除のおばさんにも、自分がスパイであるということを意識させてはならない」ということである。どういうことかというと、スパイであるということを意識させてしまうと、自分に特権ができたと思って下手するとそれを悪用するケースが出てくる。したがって、掃除のおばさんにはスパイであることを意識させてはならない。それでは、どうやって掃除のおばさんから情報をとるかというと、掃除のおばさんの日頃の仕事を労いながら、世間話を通して情報収集するそうである。

 

  彼の話だと、掃除のおばさんは普段、会社の誰からもまともに相手にしてもらえないので、トップが関心を寄せてあげると非常に喜び、それに報いようと、「何か最近会社で気になることはありますか?」と聞くと、かなり事実に沿った貴重な情報を提供してくれるとのことである。

 

  私も試しに、うちの事務所の掃除のおばさんと世間話をしていたら、その彼の言っていることの正確さを身にしみてよく分かった。弊所の掃除のおばさんがどこまで知っているかいろいろ聞いてみたら、スタッフの人間関係、家庭情況、他の部門の業務情況、事務所の財務状況とかかなりのマル秘部分まで知っていた。どうやって分かったと聞いたら、「結構みんな電話で話していたり、立ち話をしているときにそういう話をしており、それをたまたま聞いてしまっている」とのことである。

 

  「トップというのは孤独だ」と言われるが、それは、トップのことを考えて誠意をもって正直に話をしてくれる部下が実際は少ないからである。むしろ、失敗する会社はトップが部下に耳目を塞がれていたことが原因となっていることが多い。

 

  そういう意味からすると、企業の健全性の確保及び情況の適切な把握のためには、企業内スパイをもっと上手に使いこなさなければならないと思う。

 

  最後だが、彼の話で感銘を受けたところがあるので、それを紹介して終えたい。

 

  「掃除のおばさんを軽視、蔑視している人が少なくない。しかし、掃除のおばさんがいてくれるからこそ工場、事務所も綺麗でいられるのであり、事業の中で必要不可欠のポジションである。工場、事務所が汚かったら、従業員だってそこで働くのは嫌だし、外から来た訪問客も、そんな汚いところだったら、信用がないのではないかということで取引をしないだろう。そういう観点からすれば、掃除のおばさんも会社の環境作りそしてイメージアップに十分貢献しているのである。だから、私は、掃除のおばさんの仕事に対して敬意を表している。事業で失敗している会社を見てほしい。100%断言できるが、掃除のおばさんに対して人間的な尊重を行っていない。田舎から来たとか、給与が低いということで、掃除のおばさんを無視するのは、企業の成果はそれぞれの人の働きに依拠していることを理解しておらず、表面的な名声及び格好にとらわれているからである。だから、聞こえのよいことばかりをいう奸臣を重視したり、その奸臣の話ばかりを聞いて自爆してしまう。」

 

  会社のトップは、どれだけ、掃除のおばさんに対して尊重の態度をしているだろうか?彼の話を聞いていると、スパイの利用術だけではなく、人間と人間の接し方までしみじみと考えさせられるところがある。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 13:04

2007年09月21日

盗人

 先日、友達に勧められて中国の大手ネットショップモールである「陶宝」で、1GBのUSB記録メディアを買ってみた。

 

 日本ではアマゾンや楽天など有名なネットショップモールがあり、よく利用しているのだが、中国では初めてなので、すごく緊張した。到着した記録メディアはどうだったかというと、意外にもグッドで偽物ではなかった。

 

 さて、この陶宝はやってみると分かるのだが、ほぼ何でも売っている。しかも価格の比較が容易にできるので、馬鹿高い値段で買わされることもない。売主にも、信用度の評価があって、ハート、ダイヤモンド、冠と右に行けばいくほど信用度が高くなる。だから、冠の店の物を買えばまず騙されることはない。

 

 さて、その後、ポータブル・ハードディスクなども買って問題がなかったので、次はナイキの靴を買おうと思って物色していたところ、面白いことが分かった。

 

 正規品(1200元)よりもものすごく安い価格(380元)で売っているので、チャットソフトで「本物かどうか?」を聞いたところ、「本物だ」と答える。通常よりも3分の1くらいの価格なので、おかしいと思って、「何でそんなに安いのか?」と聞いたところ、答えない。写真を見る限りは、どうみても本物である。そこで、チャットソフトで適当におしゃべりしているうちに仲良くなって、さりげなく聞いたところ、仕入れ方法をこっそり教えてくれた。

 

その店主の話だと、ナイキの正規工場で働いている従業員がこっそり靴を盗み出して売りに来るそうで、だから正規の箱がついていないそうである。盗みは、かなり組織的で、保安係、生産科長がぐるになっているそうである。大体何回かやって、みつかって解雇されるが、解雇されても、また別の新人が盗みをやって売りに来るそうである。

 

先日もお菓子を作っている会社の総経理と話をしていたところ、商品の横流しがものすごく多いとのことである。

 

おそらくこういう盗みは、レアケースではあるまい。恐らく、本エッセイを読んでいる読者の会社でも起こっていると思う。特にブランド物を作っている会社の被害はかなり大きいのではなかろうか?

 

日本にいるとこういうことはあまりないので、ついつい盗人に対する警戒については、油断しがちである。しかし、ここ中国では金のために平気で盗みをやる人がいるということに気をつけなければならない。

 

そういう意味では、監視カメラ、持ち物検査等の管理が徹底していないところは、上記事件をみて今一度見直しを行っておかなければならないと思う。

  
Posted by richardlawfirm1623 at 14:07