2008年02月21日

ドクターフィッシュ(原稿用紙換算枚数41枚)

 以下の文章には、性描写が含まれています。
 男性の方、18歳未満の方、性描写の苦手な方はご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。

 また、ご親切にも拙作を読んでくださり、感想、批評など書いてやろうかと思われた方がいらっしゃいましたら。
 こちらのコメント欄には字数制限があるようですので、長文を一度に送信できません。
 よろしければ、こちらのコメント欄を使っていただいた方が便利かと思われます。

 では、宜しくお願い申し上げます。

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 決めた。
 ドクターフィッシュ。
 ここにしよう。

 その日は朝から曇り空で、私はほんの少し憂鬱な気分だった。そう、ほんの少し。布団が干せないだとか、洗濯物が乾かないだとか、そんなことが前日の夜からずっと気になっていたくらいの憂鬱。でもほんの少しの憂鬱から、いろんなことが面倒になることだってある。だからこう言ったのだ。
「別れてもいいけど、その前に、一度旅行に連れて行って。そうしたら何も言わずに別れてあげる」
 私がそう言うと、一樹は眉根を寄せてから、首を小さく傾げた。
「……俺、今、悠美と別れたいって言った?」
「言ってない」
「だったらどうしてそんな話になるわけ?」
「同じ意味だから」
 決して良好ではない気分でいるところに、一樹は『女房が妊娠したみたいだ』と言い放ったのだ。私の一人暮らしの部屋で、テレビを見てくつろぎながら。私の気分がますます下降していくのは、仕方のないことだろう。
「同じ意味……のつもりはないんだけど」
「同じよ」
 私は、一樹に妻がいることは知っている。けれども最初は得意先の営業の人、という認識しかなく、そのときは知らなかったのだ。
 どうしてこんな関係になってしまったのだろう、と考える。彼は指輪をしていなかった。だから分からなかった。気付いたときには、私の気持ちは止められないところまできていた。そんなあまりにありふれた理由に、私は失望のため息をつきたくなる。
「別れるつもりはないよ」
「そう? まあいいわ。とにかく、旅行に連れて行ってよ」
 私がきっぱりと言うと、一樹は何か言いたげにいったん口を開いたけれどすぐに閉じて、テレビの方に向き直った。テレビではスポーツニュースをやっていて、野球の結果が流れている最中だった。
 CMが流れ始めたところで、こちらには振り向かないままで、「考えておく」と彼は言った。

 それから二週間は、まるでそんな話はなかったみたいに、私たちはいつも通りだった。仕事が早く終われば私の携帯に連絡が入る。私は特に拒否することもなく、彼を部屋に迎え入れる。
 けれども、彼は私との話を忘れてはいなかったらしい。
「今週末、九州に出張なんだ。ついでみたいで悪いんだけど、そのとき温泉にでも行こう」
「えっ、本当?」
「うん。でも、予約するのは頼んでいい?」
「うんいいよ、やる。あんまり高級そうなところじゃない方がいいよね」
「それは任せる」
「ホテルがいいかな。旅館かな」
「悠美の好きにしたらいいよ」
 最後だし。きっと、本当はこう言いたかったのかもしれない。
 例え私が言い出さなくとも、近いうちに別れなければならなくなったことは、彼だって分かっているだろう。
 彼の遺伝子を継いだ子供がこの世に生まれてくる。
 そして私は「要らない人間」になるのだ。
 夢の時間は、もう終わる。

 私はテーブルの上に置かれたノートパソコンの画面を見ながら、彼に言った。
「ドクターフィッシュ、って知ってる?」
「なに、それ」
 テレビを見ていた彼が、さすがに興味を惹かれたのか、こちらに振り返った。
「お風呂の中にね、魚が放してあるの。足をつけると魚が寄ってきて、悪いところを食べてくれるんだって」
「へえ、面白そう」
「なんか前にテレビで見たことがあるんだけど、旅館にも用意してあるところがあるらしくて。ちょうど空き室があるみたい。そこでいい?」
「いいよ」
「露天風呂つきの部屋も空いているみたいなの。ちょっと高くなるけど」
「そんなに変わらないだろ、別にいいよ」
 彼の返事を聞くとすぐ、画面上の「予約」というボタンをクリックする。
 私はあれから毎日のように、家に帰るとノートパソコンを前に、あれこれと旅館を探した。一樹と旅行なんて初めてだ。最初で最後なのだから、できるかぎりいいところを探したかった。妥協なんかしたくなかった。
 旅行を言い出したのには訳がある。よく「結婚を考える相手とは結婚前に旅行に行くべき」と聞くからだ。それは、旅行に行くと付き合っている最中には見えない相手の欠点が分かってくるから、という理由のようだ。要するに、結婚生活の予行演習ということだろう。実際それで、「この人とは暮らせない」と別れてしまうカップルもいるらしい。
 だとしたら。私も一樹を嫌いになるかもしれない。そうすれば、何の未練もなく身を引くことができるだろう。それは精神衛生上、とても良いことのような気がした。
「あ」
 そんなある日、私はとある旅館の紹介ページを見て、声をあげてしまった。画面に顔を近づけてじっくりと読んでみる。
『ドクターフィッシュのいる宿』と書いてあった。その聞きなれない言葉に反応したのだ。
 それまでは、せっかくだから人目を気にしないよう……いや、九州という遠く離れた土地であるのだからそれはあまり気にしなくてもいい気もするが……でも、万が一ということもないよう、離れがあるようなところばかりを探していた。
 けれども、ドクターフィッシュという単語が出てきた時点で、それらの計画は頭から抜け落ちてしまった。
 念のため彼の了承を得るまでは、と思ったから今日まで待っていたが、部屋が埋まらないかと内心ではヒヤヒヤしていたのだ。無事に間に合ったらしく、予約確認のメールがやってきたところで、私はほうっと息を吐いた。
 彼が私の横にやってきて、画面を覗き込みながら、言う。
「いいね、そこ。面白そう」
「でも大丈夫?」
「なにが?」
「出張のついでって言っても……どこに泊まるかとか、一応考えておいた方がいいんじゃない?」
 私の言葉に、それは大丈夫、と彼は自信満々に頷いた。
「俺、大学が九州だから。『いい機会だから友達のところに泊まる』って、何の違和感もないだろ?」
「なるほどね」
 おあつらえ向き、というわけだ。
 考えていないようで、案外、考えているのだな、と思った。決して壊したくないものが手の中にあるのなら、それも当然なのだろう。
「楽しみだね」
 言いながら、彼が私の肩に手を置いた。その置かれた手を、ぼんやりと眺める。
 最後になる旅行。こうして抱き合えるのも、それが最後になる。楽しみだという彼の言葉に、すんなりと同意することはできなかった。
 肩を抱かれたまま、ゆっくりと床に横たえられる。彼の唇が首筋を這う。
「……電気、消して」
 私の提案に、彼は耳を貸さない。私は明るいところでするのはあまり好きではないのだけれど、それを何度か言うと彼が拗ねてしまったことがあるので、それ以来あまり強く言うことはない。
 私の身体中を彼の手と舌が這いずり回ったあと、充分に濡れていることを確認すると、彼は私の中に一気に侵入してきた。
 背中がフローリングの床に擦れて少し痛かったが、私はあえて何も言わず、ただ喘いだ。
 それが、彼の望んだ女のかたちだったから。

 当日は彼は仕事があったので、大分駅で待ち合わせた。仕事を終えた足でそのまま来た彼はスーツ姿だったので、どうにも旅行と言う気分になれない。
 駅からはタクシーで宿に向かう。有名なのかどうかは知らないけれど、宿名を言うと、運転手はあとは何も聞かずにタクシーを走らせてくれた。
 宿に到着すると、女将と思われる、着物を着た女性が玄関にやってくる。
「いらっしゃいませ」
 私たちは用意されたスリッパに履きかえる。受付に案内されると、宿帳を前に出された。脇にあったボールペンを手に取る。どう書くべきなのだろう、と思っていたが、何の心配もないようだった。予約者である私の名前と連絡先を書けばそれでいいようで、彼との続き柄とか名前とかは書く欄すらなかった。
「ではお部屋にご案内いたしますね」
 女将が私の手から荷物を受け取る。受付の後ろにあった待合室でタバコを吸っていた彼も、吸殻を灰皿に押し付けると、立ち上がってやってきた。
 部屋は一階のようで、エレベータの前を素通りする。部屋に露天風呂が付いている、ということだから、それも当たり前か、と納得した。
「こちらのお部屋になります」
 案内された部屋に入る。畳のいい匂いがして、私は思い切り息を吸い込んだ。
 中に入ると、そのまま窓辺に寄る。窓から外を覗くと、小さな露天の岩風呂が目に入った。だからなのだろう、隣室から見えないように敷居がしてあって手狭な感じはしたが、小さな日本庭園という風情で、私は満足した。
 振り返ると、女将がちょうどお茶を煎れたところだった。そして簡単に挨拶をし始める。私はそれを聞きながら、ゆっくりと彼の向かいに座った。
「お食事は何時ごろになさいますか?」
「ええと、七時くらいでお願いします」
「かしこまりました」
 あとはお風呂の時間とか何かを聞いてきたが、それは全部彼が答えた。
「では、ごゆっくり」
 女将が出て行くと、私たちはほっと息を吐いた。
「なんか緊張するよな」
「そう?」
「相手が丁寧だと、こっちも丁寧じゃないといけないのかなって思う」
 言いながら、彼は足をくずす。なるほど、正座だったのか。
「意外。そんなこと気にしない人かと思った」
「そう? 結構、小心者なんだけど」
「あ、そうか。小心者ではあるよね」
「……そういうときは、否定して欲しいんだけどな」
「さすがにそれは否定できないな」
 私は頬杖をついて、置いてあったお菓子をひとつ手にとって、包みを開くと頬張る。
 ときどき、彼が携帯で話をしているのを聞いていると、明らかに動揺しているときがある。そういうときは、聞かずとも相手が分かるのだ。
 あんな調子で、奥さんに知られていないはずはないと思うのだけど、彼はバレていないと高を括っている。
 彼は私と同じようにお菓子を手に取りながら、言った。
「さっきの聞いた? ドクターフィッシュは、明日の朝だって。しかも十五分くらいって」
「今日はいっぱいだって言ってたね。やっぱり人気あるんだ」
「だろうね。俺も、すごく楽しみ」
 無邪気に笑う彼を見ていると、これが最後だなんていうのが、信じられなくなってくる。
 とりあえず、大浴場に入ろうということになって、私たちは浴衣を手にとって部屋を出る。どうせ外に出ることはないのだ。だったら旅館の中を満喫したい。
 彼は男湯の方へ、私は女湯の方へと廊下の途中で別れる。
 一人でとぼとぼと脱衣場に入ると、子供たちが騒いでいて、お母さんらしき人に怒られていた。
 私は子供たちがいるところとは反対側の籠に浴衣を入れると、服を脱ぐ。ちらりと周りを見てみると意外なことに、女性一人という人が何人かいた。若い人ばかりだから、カップルで来ているのだろう。その中に私たちのように不倫カップルがいるかどうかは分からない。
 浴室に入ると、シャワーの前に座って髪と身体を洗う。食事が終わったら部屋の露天風呂を使うつもりだから、入念に洗えるのはここだろう、と身体の隅々までタオルで擦る。
 髪をゴムで縛ると、湯船に入った。少し熱めのお湯。気持ち良い。
 ぼうっと窓の外の日本庭園風の庭を眺めていたが、一人で熱めのお湯に入っているのだからあまり長居はできなくて、すぐにあがる。
 しかし部屋に帰ると、彼がすでに部屋に帰っていて、煙草を吸っていた。
「けっこう長湯だったね」
「そう? これでも早めにあがったんだけど」
「俺がカラスの行水だからなあ」
 言いながら、灰皿に煙草を押し付ける。それから私の方をまじまじと見つめた。
「なに?」
「いや、浴衣って色っぽいよな。髪も濡れてるし」
「バカ」
 私は苦笑して、部屋の隅にあったタオル掛けにバスタオルを掛ける。彼のは座椅子に無造作に掛けてあったので、それも一緒に掛けなおした。
「食事は七時って言ってたっけ」
「うん、そうよ」
「あとちょっとか。出かけられないな」
 言いながら、テレビをつける。旅館が用意したのであろう番組表を見ながら、リモコンでパチパチとチャンネルを替える。
 もし時間があったとしても、出かけるだなんて考えていないくせに。
 そう思ったが、私はそれを口には出さずにおいた。
 それからちょっとしてから、部屋の電話が鳴った。少し早いが食事を持っていきましょうか、という話だったので私は了承した。
 電話を切ってからすぐに、仲居さんが食事を持って入ってきて、どんどんと机の上に食器を並べていく。
「美味しそう」
 思わず声が出た。刺身の盛り合わせやら、鍋やらが並ぶ。とても二人分の量とは思えない料理の数々を見ると、旅館に来たという感じがして、わくわくしてきた。仲居さんが小鍋の下の固形燃料に火をつけると、ますます気分が盛り上がってくる。
 仲居さんは最後に私が座っている座椅子の横にお櫃を置くと、「ごゆっくり」と一礼して下がっていった。
「すごいな」
「うん、豪華だよね」
 言いながら、私はお櫃に入ったご飯をお茶碗によそいだ。左側の袂を右手で押さえて腕を伸ばし、彼にお茶碗を渡す。「ありがと」と一言言って、彼はそれを受け取った。
 この一連の動きがあまりにも無造作で、なんだか不思議に思えた。彼が私の部屋でご飯を食べることなどほとんどないし、一緒に食事をするとしたらどこかの店に入る。だから、私がご飯をよそうなんてこと今までなかったのだと、初めて気付いた。
 なんだか夫婦みたいだな、と思ったけれど、それを口にすると安っぽくなる気がして、胸の奥にひそませることにした。
 私たちは、ただただはしゃいだ。冷蔵庫のビールも全部飲んでしまって、追加でまた頼んだりもした。
「俺、貝はダメなんだよなあ」
「じゃ、食べてあげる。その代わり、この肉を少し食べてよ」
「豊後牛だぞ、もったいねぇ」
「ねぇ、茶碗蒸し、そろそろ食べたら? 温かい方が美味しいよ」
 などと喋りながら食べていると、なかなか料理が減らなくて、終わり間際になると中居さんから「食器をお下げしましょうか」なんて電話が入ったりした。そのたびに私たちは「早く食べなきゃ迷惑だよ」と言って笑った。
 それでも二人で全部平らげてしまうと、私たちは窓際にある椅子に向かい合って座った。
「あーもうお腹いっぱい。明日の朝食、入るかなあ」
「これが朝になると入るんだよな、旅館の料理って不思議」
 食べ終わったことを電話していたので、仲居さんが部屋にやってくる。食器をあらかた片付けてから、仲居さんは笑顔で言った。
「お布団は、いかがなさいますか。もう敷いた方がよろしいですか?」
「ああ、そうですね。お願いします」
 その言葉を聞くと小さく頷き、食器を完全に片付けてしまったあとで、手早く布団を敷いてくれた。二つの布団はくっついて敷かれた。
「朝食は何時からにされますか。ドクターフィシュ体験のご予定が八時半になっておりますから、早めの方がいいかと思いますが」
「ああ、そっか。じゃあ、七時半くらいで」
「かしこまりました。朝食は一階の食堂となります。準備ができましたら連絡させていただきますね。ではお休みなさいませ」
 仲居さんが出て行ったあと、彼が立ち上がって露天風呂の方に行く。ちょっとしてドアから顔をこちらに覗かせて言った。
「入らない? せっかく部屋に露天風呂がついているんだし」
「いいけど……でも、一緒に入るの?」
「当たり前じゃん。何言ってんの」
「うーん、今、たくさん食べたから……お腹が出てると思うんだよね」
 そう言うと、彼は小さく噴き出した。
「なんだ、そんなこと。気にしない気にしない。俺も気にしないし」
「そうだよね。せっかくだもんね」
 いつもだったら抵抗もあっただろうが、結構な量のビールを飲んだあとだったからだろう。笑っている彼の顔を見ると、お腹なんかどうでもいいか、という気分になった。
 干してあったバスタオルを取ると、彼が消えたドアに向かう。中に足を踏み入れると、彼が既に浴衣を脱いでかけ湯をしているところだった。足元を見れば、浴衣が脱ぎ散らかしてある。私も浴衣を脱いで、中に入ってかけ湯をする。
 小さな露天風呂。私たちはほろ酔い気分で、お湯に足をつける。大浴場と同じ、熱めのお湯。けれども夜風が涼しいから、それもそんなに気にならない。
「気持ちいいな。誰も入ってこないって分かってるから、ゆっくりできるし」
「うん」
 目の前のお湯を両手で作ったお椀ですくう。もちろんお湯は、指の間からこぼれおちた。私は何度もそれを繰り返す。
 空を見上げる。星が綺麗だ。なんて穏やかな時間だろう。
「本当に別れるつもり?」
 ふと、彼が言う。私は彼に視線を移した。けれども彼は、両腕をお風呂のふちに広げて、斜め下の方を向いている。
「そのつもりだけど。どうして?」
「別れないといけない?」
「まあ、一般的にはね。今まで続いていたことの方が、いけないことだよね」
「それは……そうだけど」
「別れたくないの?」
「……もしそう思っていたとしても、それは俺が言っちゃいけない気がする」
「ずるい言い方」
 苦笑する。彼は基本的には、ずるい男だ。それが証拠に、妻がいるというのにこうして愛人と共に旅行に来ている。きっと罪悪感など、ほんの少ししかないだろう。彼の中では、私が誘ったから、自分は本意ではなかった、という風に変換されているはずだ。でなければ、そんなに堂々としていられるはずがない。
 そんなことは最初から分かっていたことだから、今更それで嫌いになんかならない。
 私はお湯をかき分けて、彼の方に向かう。背中から彼に抱きしめられるように、身体を反転させた。
「子供みたい」
「子供だから」
 私はその体勢のまま、また空を見上げる。お湯も充分に温かいけれど、この暖かな感触は、彼の腕の中にいるからだろう。
「どうして急に旅行に行こうなんて言い出したんだ? 今まで一度だってそんなこと言ったことないのに」
 背中から彼の声が聞こえる。
「ほら、結婚前に旅行に行けって言うじゃない。相手の嫌なところとか見えるから」
「……ああ」
「それを狙っているんだけど」
「嫌いになった?」
「どうかな、分からない」
 嫌なところは、前から見えていた。今更それを見せつけられても、そうそう変わりはしない。
 失敗だったのかな、と思った。むしろ、新鮮に感じてしまっているような気がする。
 彼が、広げていたはずの腕を私の前で交差させた。指先が私の胸を弄ぶ。息が、熱くなる。彼の唇が、うなじに触れた。
 けれどもそのとき、隣室からであろう、家族連れの声が聞こえた。彼らも個室の露天風呂をこれから楽しもうとしているようだ。
「……ねぇ」
 彼が耳元で囁く。
「中、入らない?」
「……うん」
 私は彼の言いなりになって、手を引かれてお風呂から上がる。置いてあったバスタオルで、お互いの身体をもどかしく拭いた。
 裸のままで、抱き合う。口付ける。今までになくキスがとても激しくて、私は彼の背中を撫でるように手を這わせる。
 全部、私のものにしてみたい。
 早く早く、と喘ぐ。早く私の中に来て。そして私を満たしてよ。
 部屋の中に入って、並べられた布団の上に倒れこむ。悠美、悠美、と彼が名を呼ぶ。
 私の望み通り、彼はすぐに私の中に侵入してきた。
 汗の匂い。あなたの匂い。
 吸い付くように触れ合う肌。あなたの感触。
 たぶん、身体はお互いを求めているのに、精神はすれ違ったところにある。
 それは、愛情とは懸け離れたものなのだろうか。分からない。
「一緒に、いこう」
 そして私たちは、共に、果てる。

 翌朝、電話の呼び出し音で目が覚めた。
「ああ、はい。分かりました」
 一樹が電話に出て、応えている。私は目を擦りながら半身を起こして、訊いた。
「……なに?」
「あ、起きた?」
 彼は受話器を置くとこちらに向いた。
「モーニングコールだよ。七時半に食事って」
「……今、何時?」
「七時十五分」
 机の上に置かれた腕時計を手にとって、彼が言う。
「ああ……化粧してないのに」
「いいじゃん別に。そのままで」
「……そうだよね……」
 若干低血圧の私は、朝はあまり強くない。だからしばらくぼうっとそのままの体勢でいたが、対して一樹はさっさと起きだして、荷物の整理なんかをしている。
「着替える?」
「いや、浴衣でいいんじゃないかな」
 そう言われたのでお言葉に甘えて、昨日脱ぎ散らかした浴衣を拾って身につける。髪だけは梳かして、部屋を出た。
 少し廊下を歩くと仲居さんが立っていて、「おはようございます」とこちらに頭を下げる。
「こちらのお席になります」
 案内されて、促されるまま席につく。仲居さんはお茶やお味噌汁を準備してくれた。それから私の方を見て声を掛けてくる。
「よく眠れました?」
「ええ、とても」
 私がぼうっとしているから、心配になったのかもしれない。
「奥様は、もしかしたら朝がお弱い?」
「……ええ、そうなんです」
「そうですか。じゃあ、ご飯は私がおつぎしますね」
「……ありがとうございます」
 奥様、という言葉に一瞬反応してしまった気がしたが、朝が弱いということで、不自然には思われなかっただろう。
 私は差し出されたお茶碗を受け取り、もそもそと食べ始める。
 しかし彼のほうは元気一杯で、あっという間に一杯目のご飯を平らげ、二杯目を自分でお櫃からよそっていた。
「昨日、あんなに食べたのに」
「だから言っただろ、旅館の食事って不思議だって」
「……ああ、言ってたね」
「朝食の卵ご飯とか、もう絶対外せないよね」
 いまひとつ箸が進まない私を見て、「いらないなら食べちゃうよ」などと言いながら、前から箸を出してくる。
 そんな風にしていると、だんだんと頭が冴えてきた。
「しまったなあ。さっきのお漬物、あげるんじゃなかった」
「もう遅い」
「でもまあ、けっこうお腹はいっぱいになったわ」
 確かに昨日の夜と今日の分を合わせると、もの凄い量を食べた。帰ってから体重計に乗るのが怖いくらいだ。
 ぬるくなったお茶を口に含む。けれどもその温度がちょうど良くて、なんだかすっきりした気分だ。
 朝食を終えて、食堂を出る。一旦部屋に帰って、歯を磨き、帰りの支度を始める。
「八時半からだっけ」
「そうよ」
「じゃあこのまま浴衣の方がいいよな。足湯だろ?」
「まあね」
 出張のついでに寄ったここには、彼はスーツで移動してきた。それはもちろんスーツに比べれば、浴衣の方がいいだろう。
 時間の少し前になって、タオルを持って部屋を出る。廊下では、最後に温泉を満喫したのであろうカップルが、大浴場から帰ってきているところとすれ違った。
 大浴場の手前を曲がったところ、少し広くなった場所。ソファが何個も置いてあるところを見ると休憩室なのだろうが、ときどき販売のイベントなどもやるのかもしれない。
 そこに、ドクターフィッシュは待っていた。
 足湯、と聞いていたから、桧風呂のようなものを想像していたが、大きな水槽が置いてある、と表現した方がよさそうだ。いや、プールと言った方がしっくりくるかもしれない。一辺が一メートル半くらいの正方形で、水槽の上までは一段高くなっており、そこから足を下ろすようだ。水槽の縁には滑り止めのようなものが敷いてあり、座れるようになっている。
 私たちの前の組であろう家族連れが、声を上げながらはしゃいで足をつけている。
 まだ時間があったようなので、壁際に貼られているパネルを眺めてみた。
 それによると、ドクターフィッシュというのは通称で、本当は「ガラ・ルファ」というコイ科の魚だそうだ。
「へぇ、コイねぇ」
「お湯の中で生きてるって、不思議」
「三十七度くらいまでは生息できるそうですよ」
 近くで控えていた仲居さんが私たちの話を聞いていたのだろう、笑顔で歩み寄ってくると、そう口を挟んだ。
「本当は苔などを食べる魚なんですが、こういった温泉に生息する生き物が少なくて食料がないからか、人間が足を入れると寄ってくるんだそうです。それで古い角質を食べてくれるんですね」
「へえ」
 もう何度も説明しているからか、仲居さんはそう流暢に語った。
「新しい角質より、古いほうが柔らかいからら食べやすいんだそうです。だからか、傷口にも寄ってきますよ」
「なるほどねぇ」
 彼が納得したように、何度も頷く。そして私の方に振り返って、笑いながら言った。
「たくさん食べてもらって、若返りしとけよ」
「失礼ねぇ」
 私も笑いながら返す。
「美容に良いっていいますよ。クレオパトラも寵愛していたとか」
 仲居さんは、私たちにごく自然に接してくれている。まさか不倫旅行だとは思っていないのかもしれない。私たちは、夫婦に見えるだろうか。いや、仲居さんはプロだ。例え不倫だと勘付いても、それと分からないように振舞うのかもしれない。
 前の組の家族連れの時間が終わったようで、彼らは名残惜しそうに足を拭いている。
「では、こちらにどうぞ」
 案内され、水槽の脇にスリッパを脱ぐ。
「お足元、お気を付けくださいませ」
 言われた通り、そろりと足を進めて、一段上がる。小さな魚たちが、水槽の中を泳ぎまわっていた。
「うわあ、なんかドキドキするなあ」
 彼がそう、子供のような声を上げた。
 私たちは、水槽の脇に腰を下ろす。
「ではゆっくり足をつけてくださいね」
 仲居さんの指示通り、温泉に足をつける。小さな魚たちが私の足の周りに寄ってくる。なんだか現実ではないみたいだ。
 足元の小さな魚たちの群れと、お湯の中の足がついばまれる感触。これが楽しくない人なんているんだろうか。
「うわっ、くすぐったい」
「ひゃあ、なんかすごいっ」
 私たちははしゃいだ声をあげる。仲居さんは笑顔を浮かべて私たちを見ていた。
「でもなんか、慣れてきたら気持ちよくなってきたかも」
「そうだね。低周波っぽい」
 私は改めて、水槽の中に視線を落とした。小さな魚たちが、私の足に群がっている。それは生まれて初めて見る光景だ。
 悪いところを食べてくれる魚。
 私は、どこまで食べられてしまうのだろう。
 ……できることなら。
 私の中の彼の全て。
 匂いも感触も、その記憶も、みんなみんな食べてくれないだろうか。
 今は水槽だけれども、もしも私が全身を温泉にたゆたわせたなら、きっと私の深部に潜りこんでくるだろう。そこが私の、一番「悪いところ」なのだから。
 私の中に、ゆっくりと、深く。
「申し訳ありません、お時間なので」
 仲居さんの言葉に、はっとして顔を上げる。もう十五分も経ったのか。
「ゆっくりしていただきたいんですけど、次の予約が入っておりまして」
「ああ、はい」
 二人揃って、湯船から足を上げて立ち上がる。
 足を拭いていると、次の組の家族連れが近寄ってくる。子供たちの笑い声が、耳に痛い。
 私たちはその横をすり抜け、廊下に出た。
「面白かったよな」
 満足げに微笑んで、彼が言った。
「ちょっと前に怪我したところに寄ってきたよ。ちょっと感激したな、俺」
 廊下を並んで歩く。
 私の中に、ドクターフィッシュは入ってこなかった。
「ねぇ」
「ん?」
「早く、部屋に戻ろ」
 そう言って、彼の腕に自分の腕を絡ませた。
「……どうした?」
「ん、なんとなく」
 身体を押し付ける。一樹は「へんなの」と言いつつも、振り払うようなことはしない。
 部屋に到着して二人ともが室内に入ると、私はくるりと反転して彼の身体ごしに腕を伸ばし、鍵を閉めた。
「……おい」
「しよう」
 言って、彼の唇を私の唇で塞ぐ。反論は許さない。
 彼の舌が、その要求に応える。声が洩れる。廊下がすぐそこで、誰かに聞こえるかもしれない、という思いもあったが、構わなかった。けれども彼は私の口元を左手で押さえる。
 片手が不自由な中、彼の右手が私の身体を這う。少しして我慢しきれなくなったのか、彼は持っていたタオルを私の口の中に押し込んだ。それから乱暴に、床に押し倒す。
 そうよ、汚して。もっと私を汚して。
 私は綺麗になれないの。だって、ドクターフィッシュは私の中に入ってこない。
 その代わりに、彼が私の中に侵入してくる。逃さないよう、両足で彼の腰を締め付ける。
「ねえ、悠美」
 彼が耳元で囁いた。
「こんなに気持ち良いのに、どうして別れるの。こんなに濡れているのに」
 ダメなの。身体がいくら満足しても、心が満足しないのよ。
 あなたに子供が出来たと知ったときのあの虚無感は、身体だけでは埋めきれないのだと、私は知ったのよ。
 どうしてかしらね、奥さんがいるって知ったときは、まだ埋められると思ったのに。
 でも直感的に、もう無理だと悟ったの。
 だから最後にもう一度、汚して。そして私の中の隙間を、少しだけでも埋めて欲しい。
「泣かないでよ、悠美」
 ……泣いているの、私? 悲しいのかしら。……分からないわ、こうして抱かれているのが嬉しいのかもしれない。
 彼の動きが早くなり、絶頂を迎えようとしているのだと知った私は、足にさらに力を入れて彼を締め付ける。そして彼も、私の要求に応えた。

 荷物を全て片付けて、私は箪笥の中や洗面所をチェックする。
「忘れ物はない、と」
「悠美。あの……」
 てきぱきと動く私に反して、一樹は何やら言いにくそうにしながら、私の背後に立った。
「なに?」
「いや……」
 どうも、はっきりしない。けれども言いたいことは分かった。
「大丈夫よ、安全日だから。前の生理日を考えれば分かるでしょ」
 私がそう言うと、一樹はあからさまに安堵の息を洩らした。が、すぐに、それは配慮に欠けるとでも思ったのか、口元に拳をやって、小さく咳払いをした。
 まったく。本当にズルいんだから。
 実際、絶対に妊娠しないとは言い切れないだろうが、まず大丈夫だろう。
 部屋を出て、ロビーへ向かう。部屋でお金は受け取っていたので、私がチェックアウトを済ませる。
 くるりと振り返ると彼の姿がなくて少し驚いたが、視線を彷徨わせると、土産売り場にいるのがすぐに分かった。
 荷物を持って、彼の背後から声を掛ける。
「お土産?」
 急に声を掛けられたことに驚いたのか、一樹はぱっとこちらに振り向いた。
「あっ、ああ、終わった?」
「うん」
「えーと、ちょっと待ってて。会社の人にお土産買わないといけないし」
 会社の人?
「いいけど」
「悠美は」
「私はいい。誰にも言ってないし」
「そう?」
 彼はそう言って、いくつかのお土産を手にしたまま、違うコーナーに移動する。
 お土産? 出張の度に?
 いや、それは珍しい話ではないだろう。でも一樹がそんなことをするタイプとは思えない。しかも手にとっているのは、小さなお饅頭が何個も入っているような定番のお土産物ではなく、焼酎だの関鯖だのだった。
 家族と自分への、お土産だ。
 彼は私に喋るとき、動揺していた。いつもより早口になってしまっていたのだ。そう、奥さんとの電話のときのように。
 そのとき、私の中の情熱と呼べる感情が、すっと醒めてきたのを感じた。
 ……どうして? こんなことで。
 私は自分自身の感情の動きが分からなくて途方にくれた。そして心の奥底を懸命に探る。
 私の前で、妻へのお土産を選ぶ。それは無神経なことだろうか。嫌いになる? そう、嫌いになるには充分な理由かもしれない。
 でも違う。そんなことは理由じゃない。
 今、この期に及んで、私に嘘をついた。
 そのことだ。
 そんな問題じゃないのに。どうして分からないの。今までずっと私のことを見てきたんじゃないの。本当は、私の何も見ていなかったの? そんなどうでもいいような嘘で、私を繋ぎとめようとでも?
 私はあなたが嘘をつくのをすぐに見破れるほどにあなたを見てきたのに。あなたは私と一緒にいた時間、私の何も見ていなかった。
「お待たせ」
 彼が無邪気な笑顔を浮かべ、お土産の袋を持ってこちらにやってきた。
 私も小さく口の端を上げる。
 今ここで、言うことではないだろう。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
 私たちは見送ってくれる女将に会釈してから、旅館を出た。頼んであったタクシーがすでに待機していたので乗り込む。
 並んで座っているのに、二人の距離が、心持ち遠いような気がする。
 やっと気付くなんて、私って女は本当に情けないなあ。
 私は彼に気付かれないよう、小さくため息をついた。なんだかがっかりする。
 そして後ろを振り返る。一泊二日という短い最後の時間を過ごした、立派な構えの旅館が遠くなっていく。
 もしもまた来ることがあったなら、そのときは違う気持ちで、あの小さな魚たちに出会うことができるのだろうか、と思った。



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