今日はいつもの練習日。
・・・といっても、
今では1週間に1度も行けなくなってしまったけれど・・・。
数日前から、
「今度の土曜日(今日)、行けるかなぁ・・・」
と、不安に思っていた。
昨日の夜まで悩んでいた。
でも、ダメそう・・・。
今朝、起きて、やっぱり「行かない」と決めた。
「行けない」と思った。
「行かない方がいい」
「行くだけ無駄だ・・・」
そして頭を過ぎったのは、
「このままバッサリとやめてしまおうか」――。
私の両親は、私が物心ついたときにはすでにマイボール、マイシューズを持ち、ボウリングを楽しんでいました。
いわゆる、『第1次ボウリングブーム』の頃です。
小さな町でしたが、ブームに乗ってボウリング場もできました。
ボウリング場の名前の募集では、母が応募した名前にもなりました。
両親がボウリングをやっていた時期は、おそらく何年もなかったでしょう。
私たち家族はほかの街へ引っ越しをすることになり、両親もボウリングから遠ざかってしまいました。
私が小学生の頃、街にボウリング場ができました。
両親も再びボウリングをはじめましたが、当時のボウリング場はあまりの混雑に、1時間待ちは当たり前。
それでも数少ない娯楽に、子ども心に楽しかったのを憶えています。
その後、両親は数十年、ボウリングから遠ざかります。
それでも引っ越しをしてもボールは棄てずに、いつも押し入れの奥にしまってありました。
両親がボウリングを再開したのは、父の友人がきっかけでした。
友人がボウリングにはまり、マイボールを作ることになり、父も誘われたのです。
両親は数十年前に購入した、真っ黒いプラスチックのようなボールしか持っていませんでした。
友人の影響で、近代化したハイパフォーマンスボールを手にし、再びボウリングの魅力にはまっていったのです。
私がマイボールを作ったのも、まさにその時でした。
そんな両親ですが、ボウリングは完全に我流。
4歩助走が基本であることも、力で振らずにボールの重さを利用した振り子のスイングをすることも、ボールの回転もスピードも、3:1:2ストライクアジャスティング理論も、3‐6‐9スペアシステムの理論も、何も知らずに、ただ楽しんでいました。
そして母ががんになりました。私のがん告知より、ほんの2週間前のことでした。
母はボウリングができなくなり、その後まもなくして父が不注意から骨折をし、人工関節になり、父もまたボウリングができない身体になってしまったのです。
それでも両親は、
「いつかボウリングができるかもしれない」
と、センターの年会費とロッカー代を毎年払い続けていました。
きっと、ボウリングと縁を切ることができなかったのでしょう。
がんの手術からボウリングに復帰した私は、そんな両親を見ながら、センターに通うのが後ろめたい気持ちでいっぱいでした。
そんな母も一昨年、がんの転移により亡くなり、さすがに父もセンターの会員から退会しました。
借りていたロッカーも、もちろん返却。
「父と母のボールとシューズはどうしたのだろう・・・」
そう思いながら、未だに聞けずにいます。
そんな想いが詰まっている、私のボウリング。
「“やめる”とか“やめない”とか決めなくても、
ゆっくり、じっくり、できるときにやればいい」
という思いには至らない。
なぜなら、体力。
そして、
「ボウリングは、そんなに簡単にはできない」
と、思っているから。
中途半端にはできない。
「それだけボウリングへの思いは真剣なんだな・・・」
自分でもそんなふうに感じています。
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・・・といっても、
今では1週間に1度も行けなくなってしまったけれど・・・。
数日前から、
「今度の土曜日(今日)、行けるかなぁ・・・」
と、不安に思っていた。
昨日の夜まで悩んでいた。
でも、ダメそう・・・。
今朝、起きて、やっぱり「行かない」と決めた。
「行けない」と思った。
「行かない方がいい」
「行くだけ無駄だ・・・」
そして頭を過ぎったのは、
「このままバッサリとやめてしまおうか」――。
私の両親は、私が物心ついたときにはすでにマイボール、マイシューズを持ち、ボウリングを楽しんでいました。
いわゆる、『第1次ボウリングブーム』の頃です。
小さな町でしたが、ブームに乗ってボウリング場もできました。
ボウリング場の名前の募集では、母が応募した名前にもなりました。
両親がボウリングをやっていた時期は、おそらく何年もなかったでしょう。
私たち家族はほかの街へ引っ越しをすることになり、両親もボウリングから遠ざかってしまいました。
私が小学生の頃、街にボウリング場ができました。
両親も再びボウリングをはじめましたが、当時のボウリング場はあまりの混雑に、1時間待ちは当たり前。
それでも数少ない娯楽に、子ども心に楽しかったのを憶えています。
その後、両親は数十年、ボウリングから遠ざかります。
それでも引っ越しをしてもボールは棄てずに、いつも押し入れの奥にしまってありました。
両親がボウリングを再開したのは、父の友人がきっかけでした。
友人がボウリングにはまり、マイボールを作ることになり、父も誘われたのです。
両親は数十年前に購入した、真っ黒いプラスチックのようなボールしか持っていませんでした。
友人の影響で、近代化したハイパフォーマンスボールを手にし、再びボウリングの魅力にはまっていったのです。
私がマイボールを作ったのも、まさにその時でした。
そんな両親ですが、ボウリングは完全に我流。
4歩助走が基本であることも、力で振らずにボールの重さを利用した振り子のスイングをすることも、ボールの回転もスピードも、3:1:2ストライクアジャスティング理論も、3‐6‐9スペアシステムの理論も、何も知らずに、ただ楽しんでいました。
そして母ががんになりました。私のがん告知より、ほんの2週間前のことでした。
母はボウリングができなくなり、その後まもなくして父が不注意から骨折をし、人工関節になり、父もまたボウリングができない身体になってしまったのです。
それでも両親は、
「いつかボウリングができるかもしれない」
と、センターの年会費とロッカー代を毎年払い続けていました。
きっと、ボウリングと縁を切ることができなかったのでしょう。
がんの手術からボウリングに復帰した私は、そんな両親を見ながら、センターに通うのが後ろめたい気持ちでいっぱいでした。
そんな母も一昨年、がんの転移により亡くなり、さすがに父もセンターの会員から退会しました。
借りていたロッカーも、もちろん返却。
「父と母のボールとシューズはどうしたのだろう・・・」
そう思いながら、未だに聞けずにいます。
そんな想いが詰まっている、私のボウリング。
「“やめる”とか“やめない”とか決めなくても、
ゆっくり、じっくり、できるときにやればいい」
という思いには至らない。
なぜなら、体力。
そして、
「ボウリングは、そんなに簡単にはできない」
と、思っているから。
中途半端にはできない。
「それだけボウリングへの思いは真剣なんだな・・・」
自分でもそんなふうに感じています。
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