りかこの乳がん体験記

 30代でみつけた左乳房のしこり。 「“良性”だからそのままにしておいていいよ」。 視触診だけで簡単に下された診断。 そして私は医師の言う通り放置した。 4年8ヶ月後、大きくなったしこりを切除。 “良性”だと思っていたのに、病理検査の結果は悪性――乳がんだった・・・。

私のこと

母の日が近づくと――

母の日が近づいてくる

そこここのお店では、“母の日”を謳った、
ちょっと地味めな洋服や靴、バッグなどが
所狭しと陳列されている


以前はほとんど関係のなかった母の日

今では、いなくなってしまった母を
想う日になってしまった



母が亡くなって、
初めての母の日に送ったカーネーション


    2018/05/03 カーネーション


生きているときは、
こんなことなんてしたことがなかったのに、
亡くなって、“母の日”を大切に想った日

そして同時に、
“あの頃”を思い出す日になってしまった


“あの頃”――

そう、母の終末期

そして、死...


母との最後の会食も、

母の最後の大きな仕事を
見納められたことも、

何の飾り気もない、
無垢な緩和ケアの病室で、
眠るように亡くなった母の顔も...

母の日が近づくと、
忘れかけた脳裏から呼び起される記憶――



ひとは、誰でも死ぬのに...


死は、誰にも平等に訪れるのに...


なのに、なぜにこうも、
つらく哀しいものなのか――



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父の涙

母の死にあたって、
どうしても忘れられない出来事がある

それは、“父の涙”だ



乳がん治療中、副作用の真っ只中、
同居していた両親に、喧嘩の末、

「出て行け!!」と、
半ば勘当同然に、私は家を追い出された


二度と両親には会わないつもりで
家を出たのだが、

1年が過ぎた頃、母から手紙が届いた

内容は、私への文句

甲状腺がんが再発(肺転移)したこと

そして、
新薬の抗がん剤のが合わず、内服をやめ、
今は治療法がないことなどが
つらつらと書かれていた


「今さら、手紙か...」


しかも、相変わらずの私への文句と、
いつもの自分の愚痴...

そこに、私の身体を気遣う言葉はない

どんな思いでこの手紙を書き、
どんな思いで封筒に私への宛て名を書き、

どんな思いで切手を貼り、
どんな思いで投函したのか――



母が再発した

「あと2年...かな...」

覚悟してはいたが、

実際に“そのとき”が来たら、
私はどうするだろう...

会いに行くべきか...

いや、家を追い出された身だ

会いに行けるわけがないし、
行くつもりもない



そして、再発発覚から3年後、
とうとうそのときが来た

ある朝、家の電話が鳴ったのだ

電話機のナンバーディスプレイには、
見慣れた番号

実家からだ


「きっと、母に、何かあった...」


しつこく鳴る電話のベル

ここまでしつこく鳴らすのは、
父に間違いない


なんとしても出ない私...


とうとう諦めたらしく、ようやく切れる電話

が、十数分後、
再び、けたたましく鳴りはじめる


「しつこいなぁ...」


家を追い出しといて、
こんなときだけ頼ってくるのはどうなのだろう

以前から、

「俺は、子どもには頭を下げん!!」

そう言っていた父

いつも上に立っていなければ
気が済まなかった父

あの威厳はどこへいったのか...



私は、

「母に何があっても、
 もうあの家とは縁を切った」

そう決めていた

だから父からの電話にも出るつもりはなかった



それから1時間以上経った頃だっただろうか

今度は携帯の電話が鳴った

離れた街に住む妹からだった

父からの電話のあとに、
今度は、
連絡を取り合っていなかった妹からの電話...

母に何かあったのは間違いないようだった


それでも私は出なかった


が、2度目の妹からの電話に
私はとうとう出てしまう

「お母さん、倒れたって。
 お父さん、
 “姉ちゃんに電話しても出ない”って、
 泣きながら私のところに電話してきたよ」


私が電話に出ないことで、
父と妹が何度かやり取りをしていたらしい


「父が泣きながら、妹に電話をしていた...」

その父の姿を想像すると、
いたたまれなくなった


どうして母が倒れたのか...

倒れた母をどうすればいいのか...


「きっと何もわからずに、
 ただ、あたふたと、私を頼ってきた...」


そう思ったら、
なんだか泣けてきた


がんのことは、父にも知識がない

「頼れる人は、
 きっと、私しかいなかったんだろうな...」


そう想像したら、
父の心細さが切なくなった



追い出された私が会いに行くのは、
母はどう思うのだろう

私に会いたくなかったら...


葛藤だった

人生の中で、
これほどまでに心の中で格闘したのは、
おそらくこれが最初で最後だと思う



そして、私は母に会いにゆく


母は、私に会えてよかったのだろうか

母の最後は、しあわせだったのだろうか――




私は、あの時の、そんな父の姿が忘れられない

想像でしかないが、

泣きながら妹に電話したこと

そして、

倒れた母を前に、
動転していたであろう父――



「子どもには頭を下げん!!」


そう言い放っていた父の威厳は、
もうそこにはなかった


そんな父が、なんだか力なく見えた――



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不吉な誕生日

“4月13日”は、私がこの世に生を享けた日

昔から「“死”を意味する」と、
忌み嫌われていた“4”

そして、なにかと怖い噺が付きものの、
“13”という数字...


そんなこんなで、子どもの頃から、
クラスの中でからかわれたり、

  こんな単純なことが、
  簡単にいじめの対象になったりする


「あんたなんか産まなきゃよかった」
という言葉を、母親には投げつけられたり、

“4月13日”という日が来るたび、
私はこの日を恨んできた



「誕生日おめでとう」

そう言われるたび、

「ありがとう」

と、返してはいた


が、

「誕生日、何がめでたいのか...」

と、いつも疑問に感じていた


誕生日なんか、大っ嫌いだった



そんな私が乳がんになって、
周りはたくさん気を遣ってくれた

その中でも一番大切にしてくれたのは、
私の誕生日だった

毎年、友人たちが集まり、
食事会を開いてくれた


乳がんにならなかったら、
再び集うことのなかった仲間

「誕生日も悪くないのかも...」

そんなふうに思うようになった



そんな今日も、
2日遅れの誕生日の食事にお誘いをいただいた


  2018/04/15 外食


特別なことは何もない、
ほんの日常の中の外食だったけれど、

それでも私にとっては
周りの人たちの温かさが沁みる

乳がんになったことで、
周囲に気遣いをさせてしまうのは心が痛む

が、
その気遣いに甘えることが恩返しでもあると、
ようやく思えるようになったのだ


「迷惑ばかりかけてごめんね」

ではなく、

「ありがとう」

と、感謝の気持ちを伝えること――


それが、きっと、
大切なことなんだ...



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子どもを産んであげられなくてごめんなさい ~嘆きのVサイン~

先日のこと――


ちょっと片付けものをしていた

そこで、たまたま目に入った1冊のノート

「なんだろう...」

手に取って開いてみた

6年前の日記だった


子どもの頃から付けていた日記

事あるごとに中断はしていたものの、
気が向けばまた書きはじめる...

ということを何度か繰り返した

そのくらい、
小さな頃から書くことが大好きだった


が、さすがに社会人になってからは
日記など書く余裕はなくなった

改めて書きはじめたのは、
乳房にしこりをみつけた日

が、このときは、
「良性」との診断を受けたため、
1日だけの日記となった


厳密に付けだしたのは、
それから4年8ヶ月経過した乳がん告知後

入院、手術を経、
ホルモン治療をはじめた頃だ

その後、このブログを開設したため、
手書きの日記は、
いつしか書かなくなってしまっていた


見つけた日記は、約6年前のもの

実家を追い出されてから
ブログをはじめるまでの、
約1年間の日記帳

たまたま開いたあるページに、
私の手が留まった

それは、

『今日、母からメールが来た』

というものだった


実家を出てから、
全く連絡を取っていなかった両親

なのに母からの突然のメール――


    昨日、○○(妹の名前)に
    赤ちゃんが生まれた



という内容

そして文末には、『Vサイン』の絵文字...


私はその日、その日記帳を開くまで、
そのメールの存在を忘れていた

いや、自ら記憶から
排除しようとしていたのかもしれない


この日の日記帳には、
私の心の怒りが綴られていた

乳がん治療が原因で、
私が子どもを産めなくなったのは、
両親だって理解しているはず

しかも、その乳がん治療中に...

副作用でつらいさなかに、
私は半ば、勘当同然で家を追い出された

なのに、
この嬉しそうなメールはなんなのだろう

怒りを通り越した、
憤り、虚しさ、哀しさ、嘆き...

様々な感情が湧き起こった



妹の子どもに名前が決まったときも、
父は私に命名の色紙を
嬉しそうにくれようとしたこともあった

その無神経さに腹立たしさを覚えた



そりゃあ、私は子どもが産めない

「孫を抱かせてあげられないのは申し訳ない」

と、ずっと思ってきた

それは、どこか後ろめたい感情だ


妹に子どもが生まれたことは...
孫ができたことは、
この上なく嬉しいことであることは
私も理解できなくはない

しかも、

“要らない子として産まれた私に”ではなく、

手も上げられず、可愛がっていた妹にだ


...が、

連絡を断っている私に、
わざわざ「生まれた」と...

しかもVサイン付きで
メールを送ってくる心理って――



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“虐待”という名の...

“児童虐待”という言葉が、
まだなかったあの頃――

私は、父に、言葉と態度で...、

母には言葉と暴力を受けて
子ども時代を送っていた
 (暴力は、
  まだ記憶にない幼少期から中学3年まで)


子どもは親に殴られるのが当たり前

怒鳴られて当たり前

罵倒されて当たり前...


なぜなら、それが、“教育”だから


決して“褒める”なんてことはしない

なぜなら親は、
厳しく子どもに諭すものだから

子どもは、親に抵抗してはいけないもの――


...だと、ずっと思っていた



「私はあんたを甘やかしすぎている。
 これは、“スパルタ”だからね!!」

そう自分に言い聞かせるように言葉にしながら
母は私を殴り続けた

それはまるで、感情的な暴力を、
“スパルタ教育”という言葉で正当化するかのように



この数年、
子どもの虐待が大きく問題視されている

私自身が経験した悍ましい感情

そんな、同じ思いをしてほしくはない

子どもが声をあげることすらできなかったあの時代


子どもには、
助けを求める術さえ知らない

なぜなら、殴られることが...

暴言を浴びせられることが、
“当たり前”だと思っているから

それは、
親が子どもにする“当たり前の教育”だと
思っているから

捨てられたら生きていけないから、
子どもはついていくしかない

どんなことがあっても、親だから

だから、親を恨むこともしない




“母の呪縛”に悩む人が多いことも、
この数年、表面化してきた


『母親との関係が悪い人に、乳がんが多い』

そんな研究結果もあるとか


そんな“ストレス”が、
がんの一因にもなっているのだとしたら...




忘れられない言葉がある

それは確か、
私が小学校4年生くらいの頃

いつもの父と母の離婚話の口論を、
私が台所で小さくなって聴いてるときだった

ひとしきり言い合いを終えたそのとき、
突然母が私のいる台所に姿を現した

『また殴られるのかなぁ...』

と、小さな体を、さらに小さく身構えた

が、母の口から出た言葉は、
暴力よりも鋭いものだった


「あんたなんか産まなきゃよかった」――



そんな母は、私と同時期にがんになった

5年後、再発した

肺への転移だった

その後、小脳にも転移

余命は幾ばくもなかった


私はすでに家を出、
 
  乳がん治療中、父と母に
  「出て行け!!」と、
  半ば勘当同然に追い出された

両親に何があっても、

「二度と実家とは関わらない」

そう決めた


が、母の余命を知って、
最終的に会いに行ってしまった


よかったのか、悪かったのか、
今でも考える



そして、その時、母はどう思っていたのか...



母が亡くなったとき、
“母の呪縛”から逃れられると思っていた

が、こればかりは、
一生、つきまとうものなのかもしれない――



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りかこプロフィール

★2009年5月より院内開催の『がんサロン』にてエッセイ執筆
★2010年9月 市広報にて体験記掲載
★2011年8月31日 乳がん体験記『4分の3の乳房(ちぶさ)』出版
★2016年9月14日 フジテレビ『めざましテレビ』ブログ紹介・インタビュー
★サイト『ドクターズガイド』ブログ掲載
★講演、ラジオ出演など啓発活動

『4分の3の乳房(ちぶさ)』購入希望の方は・・・

お名前・メールアドレス、本文に住所と注文冊数をご記入の上送信してください。折り返し、メールで詳細をお送りします。  ※いただいた個人情報は、書籍発送以外に使用することはありません。

名前
メール
本文
乳がん履歴
★2002年3月3日(日)
左乳房にしこりをみつける    

★2002年3月4日(月)
視触診の結果“良性”と診断  

★2006年11月8日(水)
左乳房のしこり再受診        

★2006年11月15日(水)
左乳房のしこり切除      

★2006年11月28日(火)
乳がん告知            

★2007年1月11日(木)
左乳がん手術          

★2008年7月8日(火)
局所再発の疑いで、
細胞診・組織診(結果は良性)  

★2009年2月17日(火)
対側(右)乳がんの疑い
(昨年からしこりあり)経過観察     

★2010年2月16日(火)
右乳房細胞診(結果は良性)   
手術・治療の経緯
★がん細胞の種類(左乳房しこり3つ)
 ・明細胞がん(クリアセル)、
  非浸潤性乳管がん
 ・核グレード 2
 ・ER 90%
 ・PgR 10%
 ・HER2 (-)

★術 式
 ・腋窩リンパ節郭清
 ・扇状部分切除
  (4分の1強切除)

★治 療
 ・放射線23回照射
 ・LH-RHアゴニスト製剤投与
  4週間に1度、2年間(23回)
 ・抗エストロゲン剤
  (クエン酸タモキシフェン)
  5年服用
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≪2015年9月2日より、コメント欄を閉鎖させていただいております≫

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     © Rikako,2011

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