りかこの乳がん体験記

 30代でみつけた左乳房のしこり。 「“良性”だからそのままにしておいていいよ」。 視触診だけで簡単に下された診断。 そして私は医師の言う通り放置した。 4年8ヶ月後、大きくなったしこりを切除。 “良性”だと思っていたのに、病理検査の結果は悪性――乳がんだった・・・。

私のこと

母の死への葛藤 ~父の考え、私の想い~

母が甲状腺がんの転移によって亡くなってから、
もう2年と4ヶ月

心の中は、かなり整理ができてはきたが、
それでも時折思い出す、あの頃の想い――


がん患者として、
がん患者を看取った家族として、
そこには様々な想いがあった

死を迎えようとしている母と、
がんを知らない父との狭間で、
生まれる葛藤――


それは、こんなことからはじまった


母が倒れ、病院に運ばれ、
「余命2ヶ月」と告知を受けて、
緩和ケア病棟に入院をした

そのときには肺に転移した腫瘍も、
2ヶ月ほどで数倍になり、
かなりの水も溜まっていた

細胞が、倍、倍に増えることを考えれば、
終末期の腫瘍はすぐに大きくなる

そのことを知らない父は、
急激に数倍に膨れ上がった腫瘍に、
驚きを隠せなかった

それどころか、
これほどまでに急速に大きくなったことで、
医師に食って掛かっていた


「余命2ヶ月」も、父は甘く見ていた
 (しかも、急変も、十分にあり得る状況)

それでも緩和ケア病棟に入院した母は、
奇跡的に退院できるほど回復をした

が、それは、
小脳に転移したことが原因で腫れた脳を、
点滴で一時的に抑え込んだだけ

日に日にがんが増殖していることは明らかで、
その点滴も、使用の限界は1週間

確実に、生きる手立てはなくなっていたのだ


それでも、入院から10日後、
主治医から退院の許可が出た

父も母も喜んでいたが、
私は、
“母が家で最後の時間を過ごすための退院”
だとわかっていた


実家に母を連れて帰ると、
家の一部がリフォームされていた

しかも、父が考えそうな、趣味の悪い色...

玄関に入るなり、それを見た母は、

「わざわざリフォームするなんて...」

と、起こっていた

さらに、その色合いに文句をつけて


『母があと2ヶ月しか命がないのに...。
 家にいられる時間だって、
 あとどれくらいあるか...』

と、母のためにリフォームしたことに、
少し苛立った

が、そこにはきっと、
父なりの思いがあったのだろう


...と、そのときは思おうとした


でもそれは、やはり、私の思い違いだった


父の両親は、祖父も祖母も、
ほとんど老衰状態で亡くなった

「そろそろ覚悟してください」

そう医師に告げられてからも、
祖父は6~7年、祖母も3年ほど、
病院で寝たきりではあるが生きた

おそらく父の中には、

『余命を告げられても、
 5年、10年と生きられる』――

きっと、そんな思いがあったのだろう

実際、母は家に戻ってきても
寝たきりにはならず、
普通に生活をしていた

もちろん、行動に制限はあったが、
それでも少しの間は、
自分でできることはやっていた

食欲もあり、私より食べていたくらいだ


そんな母の姿を見ていたら、父も、

“母の死期が迫っている”

なんて思えなかったのだろう


細胞は、倍、倍に増える

初期の頃ならそれほどの増殖でもないが、
ある程度の大きさになると、
そのスピードはかなりのもの

“終末期”というものがどういう状況なのか、
父には理解できていなかった


余命を知らない母

今は元気だけれど、
そんな母の死を目の前に感じている私

その現実を父に伝えた方がいいのか迷う私

“まだ5年、10年生きられる”と思っている父の希望を、
そのまま見守った方がいいのか――

苦悩の日々だった



その後、急激に身体の自由が奪われてゆく母

食事も摂れなくなり、
2度目の緩和ケア病棟入院

「余命1週間」の告知――


さすがに父も、母の状態と「余命1週間」、
そして、
「会わせたい人がいたら、今のうちに...」

という医師の言葉を聞いて、現実を悟ったようだ


結局、母は、その日の夜中、亡くなった



がん患者として、
母の死を、どこか冷静に見ている自分がいて、

家族としての、
死期が迫る哀しみ...

がんが人の命を奪うことへのの憤り...

病に打ち勝てない医療の限界...



もう、あんな思いはしたくない――



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『甲状腺がんでは死なない』

今日は、母の誕生日

“生きていれば...”

という例えはナンセンスだが、
敢えて、

「“生きていれば”、
 何歳になっていただろうか...」

と、考えてみる


日本人女性の平均寿命には
届くことのなかった、母の年齢

それを阻んだのは、“甲状腺がん”だ


“死には至らない”といわれている
甲状腺がん

死亡率も、1.8%(女性)と、
ほかのがんと比べても格段に低い
 (男性は1.0%)

  ※国立がん研究センター2015年データ


テレビ番組の、
部位別のがん死亡率のフリップなどでも、
そこに甲状腺がんの項目すらないほどだ


ちなみに...

甲状腺がんの5年生存率は、

  ○男 性   89.5%
  ○女 性   94.9%


10年生存率は、

  ○男 性   87.1%
  ○女 性   94.8%


...と、
男性の甲状腺がんは女性よりも予後が悪いが、
女性に関しては、高い生存率を推移している


母が亡くなった年は、
まさに最新データの2015年

死亡率、たった1.8%の中に母が入り、

10年生存率94.8%という大きな確率の中に、
母は入らなかった


しかも母が亡くなったのは、
手術から8年半後

5年生存率から10年生存率の間の、
僅か、0.1%の中の1人が母なのだ


“生存率が90数パーセント”もあれば、
確率的にみて、
ほとんどの人は、

「そこに入る可能性が高い」

と、考えるだろう


私もそうだった

治療の経過をみても、
「母は大丈夫」だと思っていた

が、母のがんは、“転移性”

検査では、
身体の中から消えていたと思われたがん

が、身体の中のどこかに潜んでいた...


決してがんを甘く見ていた訳ではない


悲しいことではあるが、
これが、今の医療の限界なのだ――



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子ども

『子どもが産めなくても、
 後ろ指をさされない時代でよかった』

と、思う、今どきの生き方の選択


せめて妹に子どもが生まれたことが、
両親に孫を抱かせてあげられたという、
姉としての安堵だ

が、それは逆に、
私の立場を
さらに危うくするものでもあるのだが...


妹に子どもが生まれた当時、
私は両親との接触を途絶しているときだった

「これで完全に、
 私は不要になった訳だ...」


妹から、
生まれて間もない子どもの写真を数枚、
送られてきたことがあった、

私には、その写真を直視することができなかった

ほとんど封筒を開けることすらできず、
棚の奥へと追いやった


父からは、

「これ、持って行け」

と、嬉しそうに、
孫の命名の色紙を差し出されたこともあった

『こんなのもらって、どうするの...』

もちろん、受け取ることはしなかった


なんというか...

“無神経”とは、こういうことを言うのだろう


両親にしてみれば、初孫

それも、待ちに待った孫だ、
可愛いのは当然だろう

しかも、私の子ではなく、
可愛がっていた妹の子...


それにしても、どうしてひとは、
自分の子を他人に見せたがるのだろう
 (年賀状の子どもの写真は、
  否定的な意見が多いようだが)

まぁ、自分の子は可愛いんだろうな

  私は「憎たらしい」と、
  母によく言われていたけれど



自分が育てられた環境...

子どもが産めなくなった現実...


色々なことを照らし合わせて、
様々なことと向き合うと、

なんとも奇妙で複雑な感情が押し寄せるのである――


  ただ一つ...

  心理学的には、

  『虐待を受けて育った子は、
   自分の子どもにも手をあげる』

  と、されているらしい


  私が子どもを産めなくなったことで、
  両親に受けたそれと同じことを
  我が子にしなくて済んだのが、
  唯一の救いである――



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「余命1週間」は、家族への最後の思い遣り?

朝、カーテンを開け、
今回の台風で
隣家の横倒しになった花壇を目にし、
実家の庭のことを思った


実家の庭は、
昔、主流だった日本庭園風
 (もちろん、狭い庭だが)

が、私が家を出てから(追い出されてから)、
母が好きな花を植えたり
家庭菜園をするために、
いつしか改造されていた

母は亡くなる直前まで
庭で咲き誇っている花を愛で、
野菜の成長を楽しんでいた


そんな母の2度目の緩和ケア入院時、
医師から私たち家族へ告げられた言葉は、

「あと1週間だと思ってください」

だった

当然のことながら、
急変があれば、「あと2~3日」


はじめは、
「あと1週間」という医師の言葉に、

「もう少し生きられる」

そう思っていた

その理由に、食事も、
“食べさせてあげて”ではあるが、
なんとか摂っていたからだ

母自身も、
「食べなければ終わりだ」と、
自ら“食べる”という意思を持っていた


私の頭の中にも、

「食べられるうちは、まだ大丈夫」

そんな思いもあった

それは、“希望”であり、
“願い”だったのかもしれないが...



が、その希望に反して、
1時間1時間、目に見えて衰えてゆく母

実際に酸素マスクをほんの数秒はずしただけでも
チアノーゼが出た

酸素投与量を最高レベルに上げても、
血中の酸素濃度は全く上がらないほど、
肺はその機能をがんに奪われていた


母のその姿を目の当たりにして、
私の気持ちはほんの2~3時間で、

「1週間以上生きられる」

から、

「これで本当に1週間もつのだろうか」

に変わっていた


こんなとき、私たちは、
スタッフの表情や態度を注視する

看護師さんの言葉、
母へ向ける看護師さんや医師の視線、
母への介助のやり方...

その中でも、とりわけ、

「(血中の)酸素濃度が上がらない」

と頻繁に言っていた、
看護師さんの言葉が気になっていた


医師は、

「肺は、すでに水を吸い込んだ、
 スポンジ状になっている」

と言っていた

母自身も、朦朧とする意識の中、

「眠たい、眠たい」

を繰り返し、浅く眠り続けていた

「きっと疲れているんだよ。
 少し眠ったらいいよ」

私はそう母に声をかけていたが、
酸素が脳にいっていないのは明らかだった


今になって思えば、おそらくこの時点で、
医師も看護師さんも、

「あと1週間はもたない」

そう思っていただろう


が、それを私たち家族に伝えなかったのは、
医師の、私たちに対する、

“最後の思い遣り”――

だったのかもしれない



そしてその日、突然、母は亡くなった

あまりにも呆気なかった


「今日、明日が山場です」

と、危篤状態の母の傍らに佇み、
その瞬間(とき)を待つより、
きっと、これでよかったんだ...


隣家の乱れた庭を目にし、
ふと、そんなことを思った朝――



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立秋。そして、愁う。

立秋――

ここのところの肌寒さは、
まさに“秋”の様相

なんとなく愁うのは、
この10日間の曇り空の、
日光浴不足のせいか...



母のいない実家...

母の笑い声が聴こえない実家...


...なんだか切ない


ひとり、あの家に残された父


日々、衰えてゆく母の傍らで、
何を想っていたのか――


...と、

そんなことを考えると、
胸が締め付けられる


あのとき...

末期がんの母が「倒れた」と、
連絡があったあの日...

『(勘当同然に実家を追い出された私が)
 母に会いに行って、よかったのだろうか...』

と、時々思う


『母は私に会いたかったのだろうか...』

『母は、
 私が会いに行って嬉しかったのだろうか...』


『どんな選択をしたとしても、後悔はしない』

そう決めていたつもりでも、
やっぱり心は揺らぐ


きっと、そこに正解はないのだろうな


ただ、自らが起こした行動こそが、
答えなのだ


...と、思うしかない


これからも、
ずっとこんな気持ちに苛まれていくのだろうか



とりあえず、私より元気な父が頼もしい



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本文
乳がん履歴
★2002年3月3日(日)
左乳房にしこりをみつける    

★2002年3月4日(月)
視触診の結果“良性”と診断  

★2006年11月8日(水)
左乳房のしこり再受診        

★2006年11月15日(水)
左乳房のしこり切除      

★2006年11月28日(火)
乳がん告知            

★2007年1月11日(木)
左乳がん手術          

★2008年7月8日(火)
局所再発の疑いで、
細胞診・組織診(結果は良性)  

★2009年2月17日(火)
対側(右)乳がんの疑い
(昨年からしこりあり)経過観察     

★2010年2月16日(火)
右乳房細胞診(結果は良性)   
手術・治療の経緯
★がん細胞の種類(左乳房しこり3つ)
 ・明細胞がん(クリアセル)、
  非浸潤性乳管がん
 ・核グレード 2
 ・ER 90%
 ・PgR 10%
 ・HER2 (-)

★術 式
 ・腋窩リンパ節郭清
 ・扇状部分切除
  (4分の1強切除)

★治 療
 ・放射線23回照射
 ・LH-RHアゴニスト製剤投与
  4週間に1度、2年間(23回)
 ・抗エストロゲン剤
  (クエン酸タモキシフェン)
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      ~~~~~~~~~~~~~~

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      ~~~~~~~~~~~~~~

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