少し前のcogito,ergo sumブログに、人生は道連れ、という記事
   があった: →   人生は道連れ
私が好きな人物である塩田丸男氏が、ある時期からテレビに
顔を出さなくなって寂しく感じ、 恐らくそれはこうした事情
に依るのでないかと、勝手に想像をめぐらして
残念に思っていたのだが、このAlps氏のブログで、
ラジオで塩田氏の話を聞くことが出来ることを教えられた
のは、収穫であった。

ところで、この記事にはもうひとつ、私の気に掛かる話題、
     ”人生で道連れにしたくない男の例”、がある。
Alps氏は私などとは違って優雅な性格の俳人であり、
   他人の悪口めいたことは書かない人柄なので、この
J氏という人物の記載には、些かの驚きの気分を感じながら読んだ。
しかし、そのJ氏の職歴を見て、私は更に驚いたのだ。
これは、私も知っている人物J君に相違ないと思えた、からである。
職歴だけでなく、性格も含めて、そのように感じたのである。

少年時代は知っているが、その後全く遭ったこともないJ君と
     数年前に、ある共通の知人宅で会った。 
その時の会話に墓場の墓碑銘が話題になり、
     私が祖先の16世紀の旧い墓碑の話をしたところ、
J君は、「墓碑に刻まれている年月なんて、どのようにも
     書くことが出来るから、当てにならない」、
と居丈高に云うので、私は言葉を失った。

私の発言に対する失礼、私の先祖に対する失礼、を思えば、
   普通の常識的な感性を持つ人間ならば、たとえ自身が
   その様に考えたとしても、 あり得ない発言である。
現実にその墓石を見れば、誰だって明治、大正のモノで
ないことは勿論、同じ墓所に在る江戸期の墓石と較べても
凡その年代は見て取ることが可能である。 
それを大正、昭和の人間が作為的に造ることが、何の意味もない
ことを、その席上でJ君に説明しても何の意味もないので、
私は沈黙した。

その後、J君とは会うこともないし、思い出すこともなく過ごしてきた。
それが、思いもよらぬAlps氏のブログ記事で、しかも、
滅多に他人の悪口めいたことを書かないAlps氏が書いた
Jの発言で、 成人後ただ一度のJ君との出会い、の記憶
      を、呼び起されたのだった。
 若しも、私が此処に書いたJ君が、Alps氏が書いているJ氏
と同一人物であって、別の場所での発言が巡り巡って、
このブログで紹介されたとするならば、世間は狭い、ということ
の証左になるのだが、果たしてどうであろうか。