お茶道具でまず思い浮かぶのはお茶碗だがこれにも色々ある。中には茶人にしか判らないような趣もある。高麗井戸茶碗の「雨漏れ」などはその例だ。「雨漏れ」の名の由来は元々は作りが粗雑で気泡や貫入(釉薬のひび割れ)にお茶が染み込んでできる染みの様子が雨漏れの染みに喩えられた。
福岡市立美術館にある松永コレクションにも雨漏れが所蔵されているがその実物と初めて出会ったときの話。
春の名品展でお目当ての「雨漏れ」をガラス越しにしげしげと覗き込んで「これが雨漏れか・・・いい景色だなあ・・・」と感心していると、このおっさん何をそんなに熱心に観ているのかと興味を持ったらしいSoftBankの野球帽をかぶった小学生が僕の側に来て並んで覗き込んだ。

「坊主・・・どや?良かろう?これが名品の「雨漏れ」やで」と心の中でつぶやいていると、その坊主がひとことつぶやいた・・・

「汚ね!」

ガクッときた。
ガクッときたがそれと同時に「だよなあ・・・普通だったら漂白だよなあ・・・」
amamore

観るものが観ると400年の深みも只のカビた汚い茶碗になってしまう。しかし、それを見識のなさと馬鹿にできないと言う思いも同時にあった。世の中にはこういう事象はしょっちゅうあってどちらが正しいと言い切れないものも多いのだ。

確かに唐津焼や萩焼など土ものを一度でも使ったことのある者だったらその扱いの気難しさを知っているので300年400年と壊れず大事に使われてきたことの重み、使いながら時代を経ないと出てきてはくれぬ景色の変化の妙にこの上ない感動を覚えるのだがそう言うことを考えもしない人にとっては何の価値も見出せない筈だ。だが一度知ってしまうと抜けられない楽しみの一つでもある。