琵琶一人旅

琵琶奏者 塩高和之の徒然日記 日々の想いを綴ります。

道はどこまでも

   
         きつねくぼきつねくぼ2

先日、語りの古屋和子さんと小さなサロンコンサートをやってきました。場所は群馬県伊勢崎にあるサロン「きつねくぼ」。蔵を改装したスペースがあって、普段からジャズのライブなどもやっているそうです。ここは昨年も古屋さんと一緒に行ってやったのですが、今回は演目が「勧進帳」と「思い知らずや~六条御息所」ということで、両極端で濃厚な作品が二つ。特に「勧進帳」は私の方が語りが多いので、気合を入れてやってきました。

6豊田能楽堂にて古屋さんと
一昨年の豊田能楽堂演奏会より古屋さんと組むことが多くなってきているのですが、毎回本当に良い勉強をさせてもらっています。古屋さんは鶴田先生、観世榮夫先生に直接習っているだけあって、琵琶人には見えない息の使い方や、重心の変化などもしっかり見取っています。体や息の使い方は武道に通じるところが大いにありますね。歌詞の解釈はとにかくリアルでドラマティックだし、表現の幅やそれに伴うテクニックの豊富さには目から鱗というのがぴったりです。

毎回の稽古を通じて色んな話を伺うのですが、こと「勧進帳」に関しては、今まで如何に大声を張り上げ、勢いだけでやってきてしまったのか、ここに来て自分の浅はかさと至らなさを痛感しています。息、声、語尾の処理・・・まだまだ先も奥も在ると思いますが、何しろ一つの世界が見えただけでも、凄い勉強をさせてもらっています。


終演後2sアコスタジオにて
古屋さんは40代の頃、北方のインデアン(カナダ~アラスカ)の居留地に行って共に暮らし、多くのことを学んだとのことですが、日本の因習やしきたりに縛られることなく、今本当に自由な活動をしていらっしゃいます。
私も活動の最初からスウェーデンのグンナル・リンデルさんとginyu組んでやっていた事もあり、外国人の方と組むことも少なくないせいか、色々な縛り無く自由にやっていますが、芸術家は常に自由な精神を持っていないと、まともな活動は出来ませんね。私の周りには、古屋さんの他にも、能の津村禮次郎先生や、音楽学の石田一志先生など、何ものにも囚われない自由な感性を持っている先輩が沢山周りにいますが、皆さんいい仕事をしていますね。そしてこういう先輩に囲まれているという事は本当にありがたいことだと思っています。

日本人は常に自分の所属する集団や、組織の枠やルールの中に居ることを社会的な美徳とし、自分が何かしらの集団や組織の一員であるという認識がやたらと強いです。裏を返せば、自分で考え、自分で創り、自分で行動し、最後まで自分で責任を持つという思考と意識がとてもとても薄いということ。だから演奏家でも、自分の名前の前に重苦しい衣を付けたがる。こういう姿は海外から見るととても不思議に思われます。どうせ自慢するのなら看板上げる前に、自分の創った作品でも自慢したら、と思うのですが・・・・・?。
旧体制など物ともせず、新たな時代を創り、次世代スタンダードを世に示すことが出来る人は、世間のルールの中で自分の位置を自慢しているようなことはしません。いつもルールの外側にいて、自由な心で自分のやりたい事を確実に主張してゆく。永田錦心、鶴田錦史しかり!!。いつの世も俗物は俗物、芸術家はほんの一握り。変わりませんね・・・・。

150920-s_演奏冲4
岡田美術館にて
    
音楽は何よりも音楽が第一と成らなければいけない、と私は思っています。それは人間として、民族としての感性の根本を第一とするということでもあります。その時代においては外れたものであっても、洋の東西を問わず、次の時代には評価されるような事はいくらでもあるのです。少なくとも芸術はそういう目の前の形骸化された習俗や慣例などの呪縛を解き、本質を追及し、世に示すことこそが使命であると私は思っています。
軍国の時代に軍を賛美するような曲を歌った一派が薩摩琵琶の中にいましたが、本当に琵琶楽にとって悲しむべきものだと思います。そういう時代にこそ批判精神を音楽に乗せて歌い上げるのが芸術家の矜持でしょう。何故薩摩琵琶の人は「Imagine」を歌えなかったのか・・・?。想いが無かったのか・・・?残念でなりません。ましてその軍国の歌を今、若い生徒に教え、平気で演奏しているのは、許しがたい。

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郡司敦作品個展にて

時代の歪んだ部分を人々の前に明らかにし、人間としての根本精神を持ち続けることこそ芸術家の存在であり、その使命です。自由な精神を持っていれば、その時々の世の中や組織のルールの歪が見えるはずです。そこにとらわれないのが芸術家。魯山人のいうように「芸術家は位階勲等から無縁で在るべきだ」というのは至極当然の事ですね。

自由が一番!。良い仕事をして行きたいです。


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教えるという事Ⅱ


田原順子先日、田原順子先生の門下生の会に行ってきました。門下の会といってもそこは田原先生仕込みですから、いわゆるお稽古事の発表会ではありません。まだ技量は至らなくても、皆創作作品を演奏します。こういう琵琶の会は他には全くありませんね。
田原先生は琵琶の世界で唯一、本当に唯一まともな話が出来る先生なのです。私はもう20年程前からお世話になっていますが、今回は久しぶりにゆっくりと話が出来とても嬉しい時間でした。また先生の考え方が私と同じ方向を向いている事もあらためて感じました。

私はこのブログで度々「器楽としての琵琶」と書いていますが、これを生徒に率先して教えているのは田原先生唯一人だけでしょう。どの教室に行っても歌をいやおうなくやらされます。「琵琶を弾きたいのに何故歌をやらされるのだろう、何で独奏曲やアンサンブル曲が無いのだろう?」稽古を始めた若かりし頃、私はいつもそう思っていました。私と同じような思いの方もきっと多いかと思います。私ははじめから仕事にすることを目的として琵琶に接したので、弾き語りも琵琶楽の一つの形だと思ってやりましたが、あの音色に興味があって惹かれて来たという人、またはギターなど他の楽器をやっていた人にとっては、楽器が弾きたいのであって歌いたい訳ではないから、歌うことはハードルでしかない。

sarasoju2以前ギターの先生に拙作「沙羅双樹Ⅱ」のCDを差し上げた時、「歌は誰が歌っているの?」といわれました。琵琶伴奏の歌のCDです、といえばよかったのですが、琵琶のCDですといって差し上げたので、まさか歌がついてくるとは思わなかったのでしょう。つまり琵琶は弾きながら歌うものだという認識すらないのが現代という時代なのです。
現代人は演歌や時代劇、アニメ、ゲームなどの効果音でしか琵琶に触れる機会がない事を思えば、琵琶の歌には興味がないという人がいる方が当たり前でしょう。そういう生徒が来た時に、どう対処するのか・・・。
時代と共に入り口も、やり方も変わってゆくべきですね。そして琵琶楽も時代と共にどんどん変化していくのが、まっとうな在り方だと思います。しかし教える方がそれを出来ず、旧来の慣習常識から抜け出すことが出来ないのが、邦楽や琵琶の世界なのです。

23琵琶樂人倶楽部打ち上げにて、田原先生、私、愛子姐さん
そんな旧来の形ややり方に固執する先生が多い中、田原先生だけは違うのです。生徒に対し自由に琵琶に関わらせて、「自分がやりたいものは何か、出来るものは何か、何故やりたいのか」と常に生徒に問いかけて、自分の道を切り開いてゆくように生徒を導いている。だから生徒は夫々に考え、創造性を磨き高めて、自分のスタイルを創って行く。
これは学校教育でも他の分野でも当たり前のことなのですが、琵琶の世界では、先生の色に生徒を染め、志向や行動までも染まる人だけを集めようとする。創作もさせないし、流派の曲しかやらせようとしない。先生に内緒でライブやっているような人も見かけますが、月謝払って習いに行きながら・・・おかしな話です。田原先生のように自由な発想を生徒に促すような方がどんどん増えると良いですね。

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キッドアイラックホールにて 灰野敬二、田中黎山両氏と

大体人にものを教えるというのは、生半可な事では出来ないのです。型や技の中に在る「根理」を教えなければいつまで経っても表現活動からは程遠く、お稽古事、お浚い会を超えることは出来ません。平家物語一つ、源氏物語一つ語るにも、膨大な知識も教養も必要なのです。教える先生に、和歌をはじめとして古典文学、雅楽、能、茶道、などの伝統文化や歴史の素養がどれだけ備わっているのでしょう・・・?表面の技や型を教えたところで音楽にはなりません。それは唯の技芸でしかないのです。
琵琶楽が、地方の神社に残るお神楽のような地元の年中行事みたいなものでよければ、今のままでよいでしょう。しかし血沸き肉踊る日本の音楽として、日本の文化を代表する音楽として遺して行きたいのであれば、現状のあり方では難しい。

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日本橋富沢町樂琵会にて 能楽師 津村禮次郎氏と

企業でも、小さなお店でも、衰退の一番の原因は形骸化です。今まで通りやっていれば間違いないと思った時点でもう衰退の始まりです。常に創り出し、攻めて行かなければ、残念ながら社会の中では続きません。世はパンタレイ、万物流転が習いなのです。それを語って歩いたのが、誰あろう琵琶法師であり、今は薩摩琵琶ではないのでしょうか。諸行無常と語りながら、形や慣習に固執することは全くナンセンス以外の何ものでもないですね。



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基本というものⅣ

GWも終わり、外は新緑に溢れ、もう暑い位の日差しですね。身体もやっと季節に慣れ、色んなものが動きだしてゆくようです。

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photo MORI Osamu

GW前後は、毎年何故か演奏の仕事が少ないので、色々と雑用をこなし、譜面に向かって、夜は夜で、毎夜面白い連中と出歩いていることが多いのですが、今年はそんな中で、よくお世話になっている舞踊作家協会の公演「奇才?天才?北斎!」を観て来ました。
昨年の3月には同じ作家協会の定期公演で、「ただありて~白道の章」という創作の舞台を、私の樂琵琶と花柳面先生、萩谷京子先生とでやりました。記憶に残る作品でした。今年の作品は、色々な踊り手が夫々短い作品を持ち寄るオムニバス形式で構成されいて、面先生は鼓の福原百之助さんと一対一で作品を上演しました。

これが本当に凄かった!!。短い作品でしたが、これほどに充実した気迫を感じるレベルの高い舞踊作品は滅多にお目にかかれないと思いました。二人とも近世邦楽の古典が身に沁み渡っているだけに、創作なのに古典を十二分に感じる作品でした。ああいうものはちょっとやそっとじゃ成立しない。徹底して近世邦楽の古典を習得してこそ成り立つ創作であり即興でした。長唄や歌舞伎の歴史と底の深さを感じましたね。まさに日本芸術の最先端。終演後には、一緒に観ていた歌舞伎マニアのサウンドクリエーター 清水弾君と「あれは凄すぎた」とひとしきり盃を重ねてしまいました。
鼓の百之助さんの演奏も久しぶりに聞きましたが、「良いキャリアを重ねてきているんだな~」と実感しました。私が琵琶の活動を始めた頃に共演して以来の知人ですので、こうして邦楽の世界で夫々の道を歩んでいるというのは嬉しいですね。久しぶりに話も出来て楽しい夜でもありました。それにしても洗練された古典の力は凄いです。こういうところが薩摩琵琶との大きな違いです。

SHIO03厳島神社演奏会にて
基本というものは、流派のやり方というものとは違います。能の様に長く深い歴史のある芸能だったら、洗練を経た型の中に精神や感性が満ち、流派の基本、哲学を含め、日本文化の根本が溢れている事でしょう。しかしたとえ能といえども単なる流派のやり方をなぞっているだけでは日本文化の本質は見えてこない。その奥にあるものに目を向けない限り、見えては来ないのです。
薩摩琵琶のように歴史も浅く、先生によって歌い方から弾き方までまちまちで、芸術的な精神や感性、哲学、発声法さえも確立しておらず、更には琵琶を生業としている先生もほとんど居ないという状態では、ただ先生個人のやり方があるだけであって、それは琵琶の基本、日本音楽の基本とはおそよ遠いものでしかありません。流派というものが本当の意味で確立している能などとは、残念ながら程遠い。

基本とは何か。とても難しい問題ですね。現代の日本人はすぐに「感覚、直感」と云い、考える事を止めてしまいますが、その感覚や直感はどこから発せられているのでしょうか?。寄って立つところはどこなのでしょうか?。感じるということとは何かの土台や基準があってこそ感じるのであって、それぞれの哲学の上に立って出てきます。哲学は風土や歴史、伝統の上に成り立っています。そういうものがあるから人間なのであって、そういう根底に目をやらないとしたら、唯の動物でしかない。これだけものが溢れ、情報に振り回される時代だからこそ、我々の基本を再確認することが、今重要なのではないでしょうか。


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豊田能楽堂にて古屋和子さんと

上述の清水君とも話していたのですが、その人が何を基本としているか結局舞台にすべて現れるのです。自分が何を基本とし、どんな哲学を持って舞台に挑んでいるのか、そういうところを我々舞台人は問われているのです。
自分の基本となるものをしっかりと理解し、広く日本の文化や歴史に目を向けている人は、多くの分野から何かを得て行くだろうし、更に世界と繋がる現代という時代を捉えている人は、世界の音楽・芸術の中での日本の芸術という意識と大きな視野が生まれるから、面先生のように最先端でありながら深い日本の精神や哲学を表すことが出来る。そしてその眼差しや精神は、世界の人が見たら驚くようなレベルの作品を創り出して、千年以上に渡り古典から続く日本芸術の豊かさを世界へと発信して行くことでしょう。逆に視野が狭く、自分を取り巻く小さい世界しか観ることができない人は、いつまで経っても仲間内から抜け出せず、お稽古事のお浚い会以上の舞台は張れない。


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京都 清流亭にて


私は薩摩琵琶に関しては弾き語りという形を追うつもりはありません。弾き語りも一つのやり方だと思いますが、器楽としての洗練が無ければ、もう終わりだと思っています。そして筝曲が歌から器楽へと変わって行った様に、薩摩琵琶は今後色々な形で発展してゆくことでしょう。そう思う理由はまた別の機会に書きますが、それよりも今は薩摩琵琶が日本の音楽ジャンルとなりえるかどうかというところに来ているのではないでしょうか。何を基本にして日本音楽としての精神性を確立するのか。そこにかかっているでしょう。古代中世から続く日本の感性や精神を受け継ぐ音楽となることが出来るだろうか・・・?。少なくとも軍国や忠義の心などの父権的パワー主義は、もういい加減に無くなって欲しいものです。日本の文化として後世に語り継がれるような内容と魅力を持っていたいですね。


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