琵琶一人旅

琵琶奏者 塩高和之の徒然日記 日々の想いを綴ります。

サワリの話Ⅵ~オリジナルモデル

今週の日本橋富沢町樂琵会は、琵琶制作者の石田克佳さんをゲストに招いて、琵琶の楽器のお話を色々と聞かせてもらいます。彼は正派の薩摩琵琶も弾くので、勿論演奏もしてもらうのですが、流派によるサワリの違い、琵琶の構造・材質による音色の違いなどなど、滅多に聞けないお話が聞けますので、薩摩琵琶に興味のある方にはまたとない機会です。

ケース内部

私がメインで使っている琵琶は全て石田さんが作った琵琶で、最新作はこの分解型です。分解してあるだけでなく、糸口に貝素材を使ってあったり、その他塩高モデルにしかない仕様が満載!!。
国際的に象牙の使用が問題になっている今、海外に持って行くときにはもちろんの事、国内の使用でも、今後は邦楽器全体から象牙は使われなくなるでしょう。私はそうあるべきだと思いますし、2020年のオリンピックが一つの節目になると思っています。琵琶という楽器自体ももう新時代へと進むと時が来ているのではないでしょうか。

okumura photo6
塩高モデル中型1号機(これは改良前の写真。現在は糸口を除き貝素材を使っています)


さて本題のサワリですが、サワリの音色というものは演奏家によって実に様々です。勿論しっかり調整が出来ているということが前提ですが、私の先輩は、とても渋い音色に調整してあります。これは彼の独特の声質に関係していて、その声に合わせて行くと自然とそうなったようです。つまりサワリの音色は一人一人違うのです。またその人のうたい方によってサワリが変わります。名人と言われた吉村岳城のように、速いテンポでうたうスタイルだったら、長いサワリは邪魔でしょうし、鶴田錦史のようにゆっくり間を取ってうたう人は長いサワリが必要です。そして私のように琵琶を「うた」から切り離して器楽として演奏する人では、更にサワリの音色や長さに対する感覚が変わっています。
私がサワリの調整を教えてもらったT師匠と、今の私のサワリでは当然音色も伸びも違いますし、女性の演奏家のチューニング自体が高いサワリも随分と違います。サワリは=個性そのものなのです。もっと自在に自分の個性を発揮してもらいたいですね。それが琵琶の世界の活性化にも繋がると思います。

私はT師匠にメンテナンスの事は教わりましたが、それ以上に琵琶を手にした時から石田さんとかなり色々なやり取りをしてきたことが、今の活動を支える上で、とても大かったと思います。そのやり取りの中でとても多くの情報を得て、私の楽器はどんどん進化していったといってよいでしょう。

zenntai 3
琵琶部屋の様子

私はサワリを出来るだけ長く響くようにセッティングしてあります。糸口のサワリについては、かなり拘ります。きつすぎても、渋すぎても私の音楽には合わない。ギラつく一歩手前に留め、エッジを効かせ、且つうねりが出るように調整されています。うねりを出すには、先ずサワリの音色や伸びの調整をしてから、糸口の中より上の方にほんの一削りノミを入れます。すると低音にフェイザーがかかったようなサワリのうねりが出てくるのです。少し前のブログでジョー・サトリアーニの動画を載せましたが、正にあのギターの音のイメージが、私の琵琶の音色や音伸びのイメージです。

各駒の音伸びも重要です。各駒が均等にならないと琵琶で歌い上げる時に大変支障をきたすので、音色、伸びに統一感が出るようにしています。楽器に引きずられて演奏が思うように出来ないのでは、お話になりません。私は琵琶をジェフ・ベックのように自由自在に歌わせたい。「ブロウバイブロウ」を高校生の時に聴いて、エレギターでこんなにも自在に細やかに感情表現が出来るのかと、びっくりしましたが、演奏技術もさることながら、エレキギターのポテンシャルの高さに驚いたのです。ヴァイオリンやチェロのように何処までも自在に、声と同じように楽器を歌わせることに憧れを持っていた身としては、ギターでここまで表現できることが驚きだったのです。しかしジャズギターやクラシックギターではフレーズは豊かですが、伸びる音が無いので、感情表現一つとっても細やかに表すことが出来ない。でも琵琶ならかなりの事が出来る。ジャズギターをやっていた頃のフラストレーションが琵琶を手にしたことで一気に吹っ飛んだのです。

大小
標準サイズと塩高モデル
しかし従来の薩摩琵琶は伴奏のみに使われていて、音量も小さく低域も足りない。これだけの魅力的な音色がありながらとても残念に思いました。そこで楽器の改造改良に踏み切ったのです。
そんな時期に、すぐそばに石田さんという人物が居たということは、正に運命ですね。

自分の思うように楽器が答えてくれる状態にしないと、楽器に制約されてしまってとても自由な表現出来ません。次世代にも響いて行くような音楽を創り出す為にも、自分の琵琶は常に良い状態にしておきたいですね。
サワリは本当に微妙で、その調整が自分で出来るようになるには、IMGP0647何度も糸口や駒をつぶして、失敗を重ね、経験を積まないと出来るようにはなりません。私は、その都度石田さんにアドヴァイスをもらったり、修理してもらったりしながら、長い時間をかけて自分なりのサワリの調整が出来るようになりました。
昨年から新しく使っている貝プレートの糸口(右写真 大型1号機と上記の中型分解型)も、もう既に何枚も削りつぶして、やっと最近使えるような仕上がりになりました。
そして一度調整したからといっても、弾いているうちにどんどんと変わってきてしまうので、私はほぼ毎日琵琶を手にして、駒をノミで削ったり、駒をはずして、高さの調整をしたりしています。以前映像に収めようとしたのですが、上手くいきませんでした。やはりじかに目の前でやらないと伝わりませんが、良き師に教わって、是非自分で出来るように挑戦してみてください。


IMGP0412約20年前に1号機を作った時から、ボディーのサイズ、絃、チューニング、演奏法等々、自分が求める音を実現する為の様々な要素を石田さんに伝え、彼がそれを次々に具現化して行くということをずっとやってきました。毎回今迄に例の無いことをやるので、石田さんにとっても実験だったことと思います。彼は時々私の演奏会に現れては、私がどんな演奏をするのかをしっかりチェックしていてくれて、塩高モデルの角が付いたネックの形状(左写真)などは、彼の方からのアイデアで出来上がりました。とにもかくにも石田さんがいなければ今の私は無いということです。楽器職人と演奏家がタッグを組んでこそ、新たな音楽が生まれる。私はそう実感しています。


2018年チラシs

6月21日(木)第15回日本橋富沢町樂琵会「薩摩琵琶古典から現代へ」
場所:MPホール(日本橋富沢町11-7 KCIビル地下1階)
時間:19時開演
料金:1500円
出演:塩高和之(琵琶) ゲスト 石田克佳(琵琶 お話)
演目:祇園精舎 城山 風の宴  他
問い合わせ  03-3662-4701 (小堺化学工業)
orientaleyes40@ yahoo.co.jp オフィスオリエンタルアイズ


他では聞けない話を聞くことが出来ると思います。是非是非お見逃しなく!。
















うたうということ

森田童子さんが亡くなりましたね。私は熱狂的なファンというわけでもなかったのですが、あの歌声と独自の世界はしっかりと耳に焼き付いています。久しぶりに聴いてみたら、直球で若き日のあの頃に飛んでしまいました。

 

琵琶をやっている人にとっては、何だこれはと思うでしょう。普段から声を張り上げ、「太刀にあわれや磯千鳥 鳴くも悲しき須磨の浦」なんて名文句をコブシを回しにまわして、お見事!なんて声がかかるような琵琶唄とは間逆な「うた」です。まだ尾崎豊のほうが歌手としては随分上手いので判ってくれるかもしれませんが、森田童子の「うた」は、琵琶人には耐え難いようなものかもしれません。
しかし私にはこの歌声が、そのまま響いてくるのです。歌詞もしっかり入ってきて、その世界がそのまま感じ取れる。もっと言えば言葉が聞き取れなくても、もうその世界に連れ去られるように自分の心が持っていかれるので、言葉を超えた世界が、そのまま聴いている自分の心の中に満ちてくるのです。


演奏会9
琵琶唄と比べること自体がナンセンスという方も多いでしょう。でも私は森田童子も尾崎豊も、BB・キングもロバート・プラントもジョン・レノンもボブ・ディランも、多感な少年時代から今迄ずっと聴いて生きてきたのです。30歳の頃には波多野睦美さんの声に触れて声楽が好きになり、今はオペラのLive veiwingもよく観に行って、つたない観劇記も書いているのです。それぞれ違うジャンルというのは簡単ですが、声を使ってうたっている以上。自分の中で琵琶唄とこれらを区別するわけにはいかないのです。

何時もこうした「うた」に触れると凄い勢いで心が震えてきます。そして同時に「琵琶唄は何も伝わらない、伝えられない」という想いも出てきます。現在の琵琶唄の内容はあまりに男尊女卑的だったり軍国主義的だったりして、とてもじゃないけど受け付けない。今を生きる自分の感性がその内容を拒否してしまうのです。忠義の心といわれても、答えようがないでしょう。大体恋の歌が無いジャンルは、世界中探してもありえないと思えませんか?。それだけ明治から大正~昭和初期に成立した琵琶唄は軍国のイデオロギーに歪められ、日本人の心から生まれた「うた」になっていないのだと、私は思っています。

このブログではオペラの事をよく書きますが、オペラは観ていてとても楽しい。ただ森田童子の「うた」と違って、声という楽器の器楽演奏を聴いているといった方が近いですね。あの声に感激しているのであって、チェロやヴァイオリンの演奏を聴いているように聴いています。だから歌詞の内容にいちいち共感するというよりも、ざっくりと「うた」に描かれる人生の悲しみや喜びという普遍的な感性を、素晴らしい魅力的な声で身に迫ってうたってくれる、そんなところに感激するのです。

ホヴォロストフスキーナタリー・デセイ
もうオペラを引退したナタリー・デセイと、私が大好きだった故ディミトリー・ホヴォロストフスキー。
この二人の舞台は本当にわくわくして観たものです

その点、森田童子や尾崎豊は、声よりも歌詞がそのまま自分の体験とリンクして来ます。二人共に魅力のある声をしているのですが、いつしか声すらも忘れてその世界に浸ってしまう。オペラもこちらも魅力的なのですが、この違いはとても大きいですね。尾崎などたまに聞くと、そのまま自分の中学高校時代の景色や空気まで思い出します。自分があの頃抱えていた想いを、この人はそのまま歌ってくれていると感じるのです。
これは一つの、時代の共同幻想とも言えるかもしれませんが、ただそこに留まっていたら何てことない懐メロです。後の時代の人には全然伝わらない。軍国の琵琶唄と同じです。しかし語り継がれて行く「うた」は時代が変わっても共感を持って受け入れられるのです。そこが時代の流行歌とは明らかに違うところ。森田童子も尾崎もジョンレノンもボブディランも皆、詩人であり、時代を超えて現代の人に明確な世界を今でも届けている。ジョンレノンの「Love&Peace」は世界の人が感じる所でしょう。
これこそがジャンル関係なく「うた」というものの大きなポイントだと思っています。結局「うた」というものは、自分にとって共感できる内容のものかどうかということがとても重要な要素なのだと思います。お見事さでは無い。そのうたわれる中身に対する共感が時代も国も越えてゆくのです。共感があれば、歌の技術などあまり関係ない。
上手くても眼差しの先が「お上手」にある人と、自分が「うたうべき世界」に向いている人では天と地の差が出てしまう。音楽全般そうですが、特に「うた」は人の内面を隠せない。心の中がしっかりと出てきてしまう。肩書きを基準に物事を判断している人はそういう「うた」になるし、お上手な歌手が得意になって歌い上げる「イマジン」や「ヘイジュード」など、もうどうあっても聴いていられません。見ている世界が違いすぎるのです。


イルホムまろばし10
ウズベキスタンのイルホム劇場にて、「まろばし」演奏中。指揮アルチョム・キム
私はあくまで琵琶のあの音色に感激して演奏家になったので、はじめから琵琶楽に於いて唄にはほとんど興味がありませんでした。残念ながら琵琶唄にはどこにも共感が感じられなかったのです。今でも永田錦心や鶴田錦史の「うた」や演奏を聴いても、私は別に感激はしません。ただ二人の活動からは「新らしい時代へ向かって走れ」という力強いメッセージだけが私に響いてきます。もし私が二人の「うた」に共感したのなら、私はもっと琵琶でうたっていたでしょう。
私は普段から「祇園精舎」と「壇の浦」「開経偈」「沙門」のようなものばかりしかうたいません。それはそこには「諸行無常」や「はからい」という普遍の哲学を感じ、一つの共感があるから歌えるのです。「鉢の木」や「乃木将軍」などは、たとえお仕事であっても、とてもうたえないですね。心が拒否してしまいます。

この動画の「僕たちの失敗」をきいて、私はつくづくうたう人ではないなと思いました。人それぞれ役割があるのです。やはり私は琵琶の音色の魅力をもっともっと聴いてもらいたいから、琵琶の音色が一番生きるような曲を、これからもどんどん創ってゆきます。声も使おうと思いますが、限られた人生「うた」にまで時間を使えるかどうか・・?。私の奏でる曲や音色が「うた」のように次世代に語り継がれていったら嬉しいですね。でもきっとこれからは心の中から湧きあがる「うた」を創る琵琶人が出てくることでしょう。期待していますよ!!。

okumura photo6

むしろこれから薩摩筑前の琵琶唄は出来上がって行くのではないでしょうか。逆に今を生きる日本人、そして次世代の人々に共感される「うた」を琵琶楽が創って行くことが出来なければ、琵琶楽は「うた」のジャンルとしては滅ぶしかないだろうとも思っています。
新たに出来上がった琵琶唄が何十年も経って、今私が森田童子や尾崎豊に涙するように、後の時代の人がそのうたわれている世界の事を、熱く語って共感してくれたら素敵ですね。今を生きる人の心の中から出てきた歌詞を、世界を、琵琶を弾きながらうたう人が出てきて欲しいです。

くしくも尾崎豊が4月25日、森田童子が4月24日に旅立っていきました。
語りつがれる「うた」は素晴らしい。
















平野多美恵平野多美恵(旭鶴)さん
「森の中の琵琶の会~薫風」は和やかな雰囲気で演奏してきました。いつも琵琶樂人倶楽部などでお世話になっている平野多美恵さん初主催による会でしたが、彼女のフランクな人柄を慕う仲間達が集い、とても良い雰囲気でした。私も応援団長としての役割を果たすことが出来、嬉しく思っています。
終演後は会場にて打ち上げ。出演者、スタッフ、お客さんと隔てなく話していて、「芸」について話が盛り上がりました。

演奏家は皆、舞台に立って活動を始めると、けっして「上手」が通用しないということが判ってきます。流派の会に出ている程度だったら、上手や下手などと言い合ってお仲間と楽しんでいれば良いですが、世の中に向けて活動を始めると、上手なんてところに留まってはいられないのです。今回の出演者もそんなところに差し掛かっているようで、色んな話を聞くことが出来ました。
舞台人は、舞台をやればやるほど、その人独自の「世界」を表現出来ない限り、お客様は聴きに来てくれないということを肌身で感じるのです。これがプロとアマの大きな分岐点といえるでしょうね。

ジェシヴァンルーラーjim hall
小さなライブハウスでの演奏がジャズギター屈指の名盤となったCD
JESSE VAN RULLER「 Live at Murphy's Law」、JIM HALL「Live」

プロの演奏家はいろんな現場で演奏しなくてはいけません。なかなか自分の思うように出来ることは少ないものです。しかし自分にとっての負のことを色々と経験するからこそ、自分にとって最適なものも見えて、どんな環境にあっても自分の世界を表現出来るのです。つまり磨きがかかるということです。自分の好きなものだけ聴いて、それだけをやっている温室育ちでは、結局レベルが上がらないのです。

いつの時代も音楽は社会と共にあります。国が違えばもちろんの事、日本人でも世代が違えばセンスも違います。多くの価値観の中で、様々な音楽が存在しているということを判る人だけが、舞台で生きて行ける。私はそう思いますね。
私は自分のやる曲には必然がなくては演奏できません。やりようが無いのです。今自分がこの社会の中で発信するということを、とても大切にしたいのです。好きだ嫌いだという自分の小さな世界の中だけで完結して、世の中に対する眼差しがなかったら、それはただのオタクのわめきでしかない。あらゆるものが溢れかえり、音楽だけでもこれだけ溢れている、この現代の世の中に向けて自分の音楽を発信する、その意味を考えざるを得ませんね。


150919-s_午前_風神背景
箱根岡田美術館にて
自分が修練し、得た技の先にどんな世界が見え、それをどのように表現して行くか。ここに音楽家の魅力と価値が在ると私は思います。そしてその見えている世界の大きさがそのままその人の器といえます。自分の好きなものしか追いかけないような人は当然小さいでしょう。逆に自分の好みというところを越えて、様々な音楽に目を向けることの出来る人は、どんどん新しいものに触れ、磨かれ、深まり、当然多くの人にアピールできる器が育って行くでしょう。

音楽家は技を売っている訳ではなく、独自の世界やセンスを聴いてもらって報酬を得ているわけですから、そのセンスに魅力が無い限り、聴いてはもらえません。バッハだろうがなんだろうが、自分はこう解釈していますという意思表示がない限りは、ただの技の切り売りでしかありません。そんな程度でよいのであれば、それはそのうちAIがやるようになるでしょう。

クリエイターやアーティスト達は、皆表現したいものがあるから活動をしているのです。邦楽人はどうでしょうか?。何故自分はこの曲をやっているのか、そこにどんな意味があって、何を表現したいのか・・・・?。お稽古して得意だからやっている・・・本当に自分のやりたい音楽をやっている・・・?。
どのレベルを目指したいかは人それぞれだと思いますが、琵琶の演奏家を目指すのだったら、及ばずとも永田錦心や鶴田錦史のように、古典の世界を土台に持ちながら時代の最先端を走るような、その志だけは持っていて欲しいですね。上手な技を聴いてもらうのではなく、自分だけの独自の音楽を聴いてもらえるようになって欲しいものです。一人一人顔も身体も声も性格も違うように、音楽もその人なりになるのが当たり前のこと。そしてその人なりの音楽に魅力が宿っている。それが日本でいう所の「芸」というものではないでしょうか。

6
戯曲公演「良寛」にて。津村禮次郎先生と

きっとやればやるほどに尽きない世界があるのでしょう。「芸」「芸術」・・考えればきりが無いですが、音楽が深まれば深まるほどに自分らしく生きられる。そういう音楽家で在りたいですね。
















プロフィール

hakuga