琵琶一人旅

琵琶奏者 塩高和之の徒然日記 日々の想いを綴ります。

2011年04月

根本雅也 playsicシリーズ5周年記念ライブ

先週、形態模写芸人 根本正也君の記念ライブに行ってきました。

赤阪チラシ根本君については今までこのブログでも紹介してきたのですが、今回はシリーズ5周年の記念ライブということもあり、いつもの下北沢ロフトから、赤阪グラフィティーに場所を変え、一段と充実した内容になっていました。


根本雅也HP  http://playsic.blog91.fc2.com/


彼はいつも現代社会を彼なりのやり方で風刺しています。笑いあり、ペーソスありのその舞台は一人芝居という言葉がよく似合う。舞台中に流す音楽も、今ライブシーンの最先端で活躍しているミュージシャンの音源を使っているところが、とても良い感じなのです。
彼の芸は、権威やアカデミックの気配がする名人芸の正に対極にあって、何ものにも全く寄りかからない、とってもピュアな芸です。そして常にエンタテイメントであり、現代社会に根ざしているところが人を惹きつけるのでしょう。

いつも彼の舞台を見ていると、その明確な視点を感じます。哲学を表現するような芸術作品ではないけれど、舞台の先に彼が表現したいと思っている姿がちゃんと見えてくる。上手いも下手も無い、全てがオリジナルなのです。
何かのカテゴリーや流派などの固定化した価値基準の枠の中で「上手」を見せるものでは無い。伝統の型はそこには微塵も無く、でも日本人としての感性はちゃんと受け継いでいる。現代に生きる日本人としての感性を忘れ去ってしまった伝統邦楽の事を考えれば、根本君の方が日本の芸能として認知されても良い位です。私は、彼の独自性一本で勝負している所に、同じ舞台人として共感してしまうんですね。

受賞歴や肩書きを常にぶら下げておかなければいられない先生方に一度見せてやりたい!これこそが舞台の原初のあり方ってもんです。



          根本赤阪ライブ2 根本赤阪ライブ1



これは終演後のスナップ。今回はエムジャムを主催しているアレンジャー・ジャズボーカリストの伊達佑介さんが仕掛け人なので、伊達さん率いるジンフィーズもゲスト出演して盛り上がりました。皆良い笑顔をしてます。


舞台を作る、舞台全体を務める、という意識が邦楽の音楽家にはほとんど無い。皆さん自分の演奏する曲に一生懸命なだけで、舞台を張るという意識が無い。つまりはお稽古事の延長ということですが、これからはそんな名人芸を並べた所で、お客さんは聴いてはくれません。演目だって十八番をやっても、今を生きている現代人にはさっぱり判らない。現代そして次世代に向けてやるべき曲は、作っていかなくてはいけないのです。
芸能でも芸術でも、常に時代とともに在ってこそ、その存在理由がある。永田錦心、宮城道雄、沢井忠夫、水藤錦穣、鶴田錦史、八橋検校、こうした過去の先人達の足跡を見れば明らかじゃないですか。


根本君はこれからもどんどん走り続けるでしょう。私は彼の舞台をずっと見て行きたいと思ってます。おいらもがんばるぞ!弁天様もしっかりご覧になっている。

弁天28




芸と音楽~その深くて遠い溝

未だ大地は落ち着かず、花見も大分地味に終わってしまいましたが、被災地では未だ春の到来に程遠い事でしょう。

御苑2011-1

そんな中、私は音楽をやっているのですが、今切に思う事は、価値観を変えてゆくべき時に遭遇したということです。従来の価値観では、もはや社会が成り立たない。ヤンリーピンの舞台でもそうでしたが、強く・大きく・重く・圧倒的なパワー主義はもうそこには無い。次なるヴィジョンや哲学が無ければ、社会は崩壊しかねないと思います。以前からすでに言われていますが、現実として消費・経済・生活等あらゆる面で、今までの価値観が通用しなくなってきていると感じています。

先日、邦楽人と話をする機会がありましたが、あまりに前時代的な価値観にちょっと驚いてしまいました。そこで、長年不思議に思えてならない事がやっと理解出来たのです。いわゆる「芸」なんていうものを身につけると、価値観を変える事は出来ないのでしょうか・・・・・。

okumura photo9これは常に国内の演奏会で持ち歩いている我が愛器。この琵琶は私のスペシャルモデルであり、私の考えている音楽をやるためには必要不可欠の傑作です。

私は、自分が演奏するにあたり、何故その曲を演奏するのか「どんな意味があるのか」etc.常にそういう問いかけを持って、自分がやるべき音楽や曲をやっています。
邦楽や琵琶の人達のやる曲目を見ると、なぜそういう曲をやるのか、理解出来ないことが多かった。まあプロでも無いし、単におさらい会の延長でやっているんだろう位に思っていたのですが、その謎がやっと判りました。


鶴田&武満

例えば語りものを聞かせたい人は、その語りの熟練さ、つまり「芸=技」を聞いて欲しいのであって、作品や世界観では無いのです。だから自分のやる曲に、自分の思想や哲学やヴィジョンというものをあまり持ち込まない。「芸」や「技」を聞いていただくのが仕事だと言う。私は自分が考えている世界観、そして作品を聞いてもらうのが仕事。だから上手下手はあまり関係なく、伝えるべきものが伝われば良いのです。
基本が随分と違います。話をしながら、目指すものの根本的相違がよく理解できました。

上の写真は、武満徹と鶴田錦史。正に芸術家と芸人の対峙であります。「芸」を練り、独自の境地を開き、「芸」を聞かせる事をずっとやってきた鶴田に対し、自分の哲学表現として音楽を作曲してきた武満。二人はどんな会話をしたのだろう?何処まで理解しあえたのだろう?


            nadayoga

芸術はギリシャ哲学の表現形態として、音楽や文学などが始まったとされます。だから西洋ではその哲学性がもっとも重視され、音大などでは音楽学が大変研究されています。日本はエンタテイメントとしての音楽か、あるいは神様に捧げるものとして始まったといわれます。そこには哲学表現は無い。雅楽も能も芸能です。唯一、尺八の古典本曲だけは、禅の境地を表すものとして西洋の芸術に近いものがあります。

確かに練れた芸を楽しみにしている人もいるでしょう。でもいくらお稽古ばっちりでも「戦艦大和」だの「常陸丸」だのやっているのは現代に於いて違和感がありすぎると思うのは私だけでしょうか。「何故その曲をやるのか」私には全く判らない。ただ稽古を積んだだけの「芸」では現代人に、その魅力は伝わらないと思いませんか?。
明治・大正の頃に、当時の感性で盛んに曲を作ったように、現代の感性で曲を作り、演奏しないのは何故なんだろう。本来「芸」であるのなら、今に生きる人の感性で成り立っているべきではないでしょうか。今はもう、「芸」ですらないのでしょうか???

現代の観点からすると、邦楽人、琵琶人が「芸」と言っているものは、表現というものとはちょっと違うと思います。いくら良い声をしていようが、コブシが上手かろうが、それはせいぜい大正時代位の感性や価値観でしかない。現代の聴衆にそんな100年も前の価値観を判れと言っても通じないのは当たり前。現代に於いて、ヴィジョンや哲学がなければ、ただの上手な「技」でしかありません。勿論その「技」も現代という社会の中で、そのやり方も変わって行って、はじめて「技や「芸」というものではないでしょうか。少なくとも私は上手な練れた「芸」より、魅力的な感性や作品を聞きたいですね。

「芸」や「技」しか頭に無いような人には、スガシカオの魅力は全く判らないんだろうな~~。「腹から声が出ていない」なんて事しか思わないのだろうね。きっと。

この間には深くて遠い溝があるのです。









泉の如く

これは、我が故郷 静岡の柿田川湧水の湧き水です。富士山からの恵みなのです。東洋一きれいな水と言われていますが、何時行ってもこんこんと湧き出ています。

            柿田川4

忍野八海1
こちらは同じく、富士の麓にある忍野八海の湧き水。八海の名の通り、八箇所から豊かに湧き出てます。

恵み多き故郷はありがたいものです。


今、秋に出す楽琵琶と笛のデュオCDの為に、笛のソロ曲がどうしても欲しくて作曲しています。 今回のテーマは「風」。それもこのデュオの根幹であるシルクロードから、私達が文化を育んだ日本へと渡ってきた「風」。そんな風に想いを巡らしています。
残念ながら、私には泉のように湧き出るような才能はないので、なかなか音に表すのが難しい。でもそれよりも、聞いてくれる人が、私の曲を聞いて、泉の如く豊かな情景や想いが溢れてくれるかな?そうだと嬉しいのです。  

          ryuuteki 1
人間は「生かされている」と仏教ではよくいわれます。 湧き水一つ見てもそんな想いが湧いてきますが、私が今こうして作曲し、琵琶を弾いていることがすでに、奇跡の連続によってもたらされた事だと思います。生命がこの地球にがはじまって何億年か知りませんが、そのどこかで一度でも命の連鎖が途絶えていたら、私はここに居ないのです。
そして単に生命の連鎖だけでなく、私という個人を取り巻く多くのものによって、私は私として成り立っているのです。 

             柿田川1
家族は静かに、ゆっくりと泉の如く愛情を注いでくれているでしょう。中には今、恋人からの溢れんばかりの想いに包まれている人も居るでしょう。命が繫がり継承されてゆくには、そうした泉の如く溢れるほどの愛情に包まれ、包みあう事が必要なのだと思います。
私の友人のブログにとてもよい言葉が載っていました。

「自分に関わる大切な人の後ろには、ずっとずっと人が繋がっていて大勢の人を助ける事は無理でも、自分にとって大切な人を愛し、抱きしめる事が、そのまた向こうへの道に繋がっている」

この国難ともいう時期に、私は無力です。琵琶など何も役には立たないのです。でも、自分の大切な人を愛し、抱きしめる事は出来る。質素かもしれないが、一緒に豊かな時間を過ごす事も出来る。泉のようには上手く溢れ出なくても、自分なりのやり方で少しでも潤いを与え、一緒に分かち合う事は出来そうです。

そんな想いを、曲を作りながら感じました。
私の曲は誰かを包み、優しく、そして強く支えてあげる事は出来るだろうか。薄っぺらいその場限りの癒しじゃなくて、ヤンリーピンのように、奥底から湧き上がる力強さを持って、しなやかに手を差し伸べ、繋いでゆく、そんな深い泉でありたい。

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しなやかさと、優しさと、そして強さ・・

             

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ヤン・リーピンの衝撃は未だ続いています。時が経つにつれ、舞台そのものよりも彼女の舞台にかける姿勢への感銘が、私に多くの事を考えさせる様になってきました。

東京は一見平静を取り戻しつつあるように見えますが、そうではない。これからが本番です。今変わらなければ、日本は本当に沈んでしまう。何をどう変えるべきなのか、大いに問われているのだと思います。

変わるには「しなやかさ」が必要です。「優しさ」が必要です。そういった、今我々に求められている基本姿勢がヤンリーピンの舞台から感じられました。

           ヤンリーピン20

何故、農民をスカウトして世界一流の舞台をやろうと思ったのか。それは、都会に住む洋舞・洋楽を勉強しているいわば半西洋人は、すでに本来の生活も身体も失い、民族の踊りが踊れなくなっているからだと思います。我々現代の邦楽人もそうですが、確実に感覚が矯正を受けている。古来からの生活様式はもはや現代には無く、良い声や、良い音の基準すら判らなくなって、綿々と伝えられてきた文化はここ何十年かで急激に失われつつあるのです。

ヤンリーピン14そんな状況も含め、舞台を作り上げるには、様々な事をクリアしなくてはいけません。スポンサーやお金、広告etc.ヤン・リーピンは大きなヴィジョンを持ち、それら全てをクリアし、志を貫き、具現化させている。それをやり遂げるには、しなやかさを持って、状況に、人間に対応し、変化する力強さが必要です。

私のような末端の音楽家でも、舞台をやるには色々とあります。でもいつも思うのが、「しなやかさは優しさであり、力強さである」という事です。ちっぽけな自分の世界観だけでものを見たり、意見をしていては、人は何も納得してくれない。深い優しさを持って接すれば、自分と違う意見を持つ相手も受け入れることが出来、しなやかに変化して行く事を恐れなければ、強い絆も生まれ、ゆるぎない強さをもたらします。

深い優しさが無ければ、しなやかさも生まれない。そして変化する力強さも生み出せない。そこには反発しか生まれない。何だか邦楽界が見えてくるようです。

            御苑2011-2

桜は何逆らうことなく、奢りなく、振り回されず、季節や環境に合わせて自分に与えられた仕事を全うしている。人間もそうでありたいのですが、どうしても我欲から離れられない。もっと咲いていて欲しい。桜吹雪が綺麗。そんな事すら人間の願望であり、欲でしかない。
欲はある種の原動力でもありますが、その欲は大いなるヴィジョンへ、次代への希望へと繋がっていかなければ、単なる自らを縛る鎖でしかない。


ヤン・リーピンの舞台からは充分すぎるくらいに力強さを感じました。でもそれは圧倒的に威圧する様なものではなかった。とてもしなやかで、優しい感じがした。そしてヴィジョンを実現した彼女の姿には、強い意志と共に、見ているだけで包まれてしまうような、ふわりとした柔らかさも感じたのです。







SSKトリオ at なってるハウス

ヤンリーピンの興奮、未だ冷めやらぬ状態ですが、色々な湧き上がる想いも、ゆっくりと整理して少しづつまた書きたいと思います。
そんな興奮の最中、昨日は久しぶりに谷中のなってるハウスにて、ライブをやってきました。

                 2011-4-10-1

     2011-4-10-2

今回のドラマーは、いつもの大沼アニキではなく、御大 小山彰太さんでした。小山さんは私が高校生の頃コンサートで何度も聞いていた方です。静岡で山下洋輔トリオのメンバーとして来ていたのですが、山下トリオ2代目のドラマーとして、若手新人のホープだった小山さんと、Saxの坂田明さんが目いっぱい跳ねる様にやってましたね。懐かしい。あれから早30年余り・・・・。

私がファーストアルバムを出した頃は、チェロの翠川敬基さんと小山さんと私でよくライブやってました。詩人の白石かずこさんが即興詩を読んで、我々がバックで演奏するなんていう、いわゆるコラボをやったりしました。それももう7・8年前です。

今回は久しぶりの共演でした。小山さんはとにかくアンサンブルするドラマーです。音量も控えめだし、以前はチェロ・琵琶・ドラムの編成で、マイクを一切使わずに充分アンサンブルが出来ていました。派手さは無いものの、とても音楽的にたたきます。いつもの大沼アニキとやる時は一発必中の「戦い」に挑むような感じでやるのですが、小山さんはその人柄そのまま、以前のように今回も穏やかな演奏となりました。どちらも面白いです。
             
途中から2011-4-10-3大沼アニキも駆けつけてくれて、終演後は4時間近く、小山・大沼・塩高の三者飲み会に突入。3人ともテンション上がってしまって、カウンターの方が、「もうやめといた方が良いですよ」と声をかけるほどに・・・。

ジャズの先輩達とは本当に話が尽きません。やっぱり私は邦楽家ではないね。





2011-4-10-4こちらは昨日のお客様。今こういう時期に、来て頂いて、嬉しい限りです。皆さん音楽が好きで、左のお二人は尺八をやっているそうです。
他にも大勢来て頂きまして、本当にありがとうございました。



今年は花見も控えめで、春の華やぎもかなり控えめですが、桜は人間にはお構いなく、その春を謳歌しています。

御苑2011-4善福寺2011-4







目の前の現実を見つめ、対処してゆく事は何よりも大切ですが、どんな状況下でも、音楽や芸術・文化を失う事は出来ないのです。文化の無い人間はもはや人間では無い。音楽を持たない民族はありえないのです。





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