琵琶一人旅

琵琶奏者 塩高和之の徒然日記 日々の想いを綴ります。

2012年04月

春の目眩

近頃は何故かよく目眩がします。春休みが長すぎて、まだ桜の園の幻想世界にいるんでしょうか。その桜ももう見納め。今年は色々なところで桜を堪能しました。花や自然に囲まれ、その姿を目にするというのは、創作する人にとっては良い刺激です。その時々を楽しむということは何かを生み出すには大事な事で、さらに一緒に楽しむ相手がいるというのも大切な事。音楽は創造性無き所には存在しないので、創造性を刺激するお花見もしっかり音楽活動なのです!!

        長瀞桜4

この春休みには結局3曲作曲しました。まあ譜面上のことなので、これから練り上げて、レパートリーとなってゆくのはもっと先なのですが、ぶらぶらしている割には仕事をしているじゃん、と我ながら悦に入っているのであります。まだ2曲ほど作ると思うので、稼ぎは二の次としてまあまあ働いているかな??

作曲したのは薩摩琵琶の独奏曲(器楽)、楽琵琶と笛のデュオ、尺八と薩摩琵琶のデュオ(こちらも器楽)の3曲です。このほかに楽琵琶の独奏曲、楽琵琶と笛のデュオを作るつもりです。そしてまたCDを作って、どんどんと世に出して行きますよ。今まで出した6枚のCDの曲は、石井紘美先生の1曲を除いてすべて自分の作品ですので、もう琵琶の曲だけでかなりの数を作っています。それらを引っ提げてどんどんアウウェイに飛び出して行きたいです。

         長瀞桜2

来月からは本格的に演奏活動が始まりそうなのですが、今さらながら自分は自分のやり方をやるしかないな、というのがこのところのあらためての実感です。「おまえは昔からそうだよ」といつも周りに言われていますが、年を重ねるほどに余計なものが取れて、ますます自分のスタイルがはっきりしてきます。
琵琶には語りがなくては始まらないと言う方もいるし、私のような器楽派もいる。人其々の考えがあり、其々のスタイルが花開くことが望ましいのです。何事も一つに断定してしまった時に衰退がはじまる。桜も色々な種が咲き誇るからこそ美しいのです。   
   
         長瀞桜1

よくブログでも書いていますが、最近はもっぱらクラシックを聴いています。今はジャズよりもクラシックが来てますね。やはり作品といい、演奏といい、世界が認めるものは素晴らしいレベルを持っています。邦楽でも、かつては永田錦心、宮城道雄、沢井忠夫が闊歩して、邦楽が芸術音楽として世界に向けて発信して行った時代があったのですが、今はそんな沸騰するほどに創造性のある人を見かけなくなりました。どんなスタイルでも良いと思いますが、自分の作品を世に問い、宮城、沢井のように芸術分野で世界と真っ向勝負する人が出て欲しいですね。

         15
    春の目眩は何かを生み出す前兆かも???

大きな視野、大きな世界観、私には何をおいてもこれからはこれらが必要です。技術も今までのそれではない、違ったものが必要になってくるでしょう。作曲やプロデュースなどももっと多くのことを求められると思います。プロとして生きてゆくにはお金のことも大事です。お金の話が出来ない人はプロにはなれません。
邦楽界、琵琶界、己の世界、そんな中でのんびりはしていられないのです。

          日の出4


日の出は近い



和楽器 ブログランキングへ









美しき季節

長かった春休みも終わり、動き出しているこの頃ですが、都内の桜はまだ見頃。今はもう満開ではないですが、そのかわり花びらの絨毯の上を歩きながら、散る花を愛でる極上の時間が残っています。
                
IMGP9339ひさかたの光のどけき春の日に    
静心なく 花の散るらむ

新宿御苑


こんな歌が自然と出てきますね。

桜を見ていると、色々な風情があり、様々な想いが去来しますが、それは日本人独特の感性でしょう。ヨーロッパの人々のバラに対する想いを我々が今一つ理解できないように、桜には日本人でしか感じられないものがあると思います。
そうした感性はそれぞれに社会を作って、共通概念として受け継がれて行くと思いますが、そこから独自の文化や社会が生まれ、もっと細かな枠組み、例えば会社、学校、業界など独自の感性(常識)なども生まれて行きます。そしていつしか末端には、因習というものも出来上がります。

         IMGP9330新宿御苑

ルソーは「すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物」と言いました。確かに真実ですね。人間はとかく枠を作りたがる。不自由をどこかで求めているのかも知れません。それに対して芸術家は常に挑戦的です。
「芸術は人間の本質を問い、暴くもの」、いつかそんな言葉を聞いたことがありますが、その言葉を実践する為には、小さな枠内の因習に対し創造的破壊をしてゆかないと、本質に辿り着けない。だから芸術家は因習にまみれた社会の中ではその常識を越えた異形となってゆくのです。

以前の私は、そんな異形の芸術家達が好きでした。しかし現代では異形という形を気取る輩が増えてきました。そんな事をつらつらと考えていたこの春休みに、色々なCDを聴いて少し想いが深まりました。

シュタルケル以前から好きだった、ヤーノシュ・シュタルケルのバッハ無伴奏チェロ組曲を、先日もブログに載せたハイフェッツのバッハ無伴奏Viソナタ&パルティータと共にずっと聴いていると、二人の演奏がとても素直なのが判ります。無機質という事ではないのです。変な色が付いていないのです。
個性というものは皆が違う顔をしているように、誰にでもあります。しかしそれを外に出そうとすると、そこに余計な色が付いてしまう。徹底的に自分、そして音楽に対し素直になりきる事が出来れば、それは自ずから個性的になり、芸術の求めた本質が立ち現れるのではないか、そんな風に思いました。形式も何も、曲すらも飛び越えて立ち現れる音の姿の美しいこと!!けっして異形ではありません。


         IMGP9335新宿御苑

時代によって良し悪しの価値も変わります。だから社会などというものは、一つの共同幻想に過ぎないのかも知れません。その共同幻想の中に生きる多くの人々が、色々な時代を経ても変わらずに良いと思うもの、ずっと続く通奏低音のようなものは、人間にとって(少なくともある民族にとって)の本質と言えるかも知れません。           
平安時代の人が読んだ歌を今我々も共感を持って感じることが出来る、これが現代の我々にも流れる通奏低音ではないでしょうか。そして時代を超えて求められたものだけが「美しさ」を感じさせるのだと思います。


         IMGP9375 新宿御苑

また美しさには長い長い時間が必要だとも思います。確かに本質にあるものだったら、時間なんか関係ない。一瞬にして人の心を捉えるでしょう。しかし人は惑いやすいもの。時間を経なければ判らないものがある。時を重ね、受け継がれて行く事で、感性が発露される。桜は美しい。しかし散る桜に深い想いを馳せ、歌を詠むには、感性の熟成という事が必要です。その成熟した感性がなければ、舞い散る桜を愛でる心が沸き上がりません。美しいものは、長い時間をかけて、ものを「美しい」と感じる人の心を育て、そうやって私達の文化は出来上がっていったのです。

色々な時代、色々な政治、色々な人々、色々な感性を経ても尚、その美しさが変わらないもの、「古典」といわれるものは因習もしきたりも何も超え美しいのです。そしてそれを愛でてきた人間もまた美しくなって行くのです。ですから時を経ていないものを軽々しく「古典」と言ってはいけないのです。         


            IMGP9359新宿御苑


美しさを受け継ぐこと。桜を美しいと想う感性を受け継ぐことが大事なのではないでしょうか。しかし「多くの人々が感じる」という事はそのままゆがんだ因習へと進む危険な境界線もまた持っています。更にマイノリティーの中に埋もれた美しさというものもあります。だからその美しさにいつしかまとわりついた、しきたりや流行、形式、飾り、因習等、余計なものが何であるかをしっかりと見極めて、それらを超えて、時にそれらを壊し、境界線を見定め、本質を知る事が大切です。何の色も足さず、何も引かない、あるがままの美しさを表す事。それが芸術の役目なのかも知れません。芸術家により、時代により様々な表し方が有ると思います。そうやって文化は豊穣になって行くのだと思います。

どこの国でも同じく、日本もまた、自然の風景、そこに生まれた感性、そして造形、文化・・・皆美しい姿をしているのです。



和楽器 ブログランキングへ










移りゆく季節

昨日の東京は桜が満開。昼間は絶好の花見日よりでした。

染井稲荷2善福寺2012-4-2

左はソメイヨシノ発祥の染井稲荷神社の桜。右は地元の善福寺川緑地。桜を眺めていると、気分も晴れやかになって、これからの音楽活動にも弾みを頂いた気分になりました。
相変わらず多くの人と会い、話をし、とてもとても元気をもらっていますが、長かった春休みもそろそろ終わり、琵琶を手にする機会も増えてきました。活動開始です。


桜は人間を喜ばせるが如く毎年咲きます。在原業平や西行の気持ちもよく判りますね。桜を見ていると、満開の姿にその生命力の全てをかけているかのように思えてきますが、今が盛りと咲き誇る大木も、一年の内に輝くときはほんの一瞬。大木たりとも、やがては朽ち、その命を全うして果てるのです。命あるものならば、毎年同じということはあり得ないのが世の中というもの。

楽曲もいつまで経っても同じというものはありません。形に囚われていては、形骸化してその魅力も輝きも失せてきます。古典でも流派の曲でも常に創造性を持って取り組まなくては、ただの焼き直しに終わって、その命を保てない。ちょっとアイデアを加えた位では、とても輝きません。すぐに見すかされてしまいます。これは自分の作った曲にも言えることで、自分がいつ演奏しても新鮮な気持ちでその曲に向かっていけなくなったら、もう演奏は出来ないのです。

           善福寺2012-4-1善福寺川緑地

昨年から「二つの月」という尺八二管のデュオ曲を、尺八琵琶のデュオに直そうと思って、ぐずぐずしていたら、来月ライブを一緒にやる尺八の方に「是非やってみたいのでがんばってくれ」との嬉しい言葉を頂き、ただいま再挑戦している所です。
この曲は元々はチェロと琵琶のデュオ。それを尺八二管に編曲し、今度また琵琶と尺八に姿を変えている。色々な魅力があるから変わる事が出来るのか、それとも姿を変えないと生きて行けないからなのか・・・・。
私の作品がこれから、他の誰かによって演奏されることがあるかどうか判りませんが、流派を作って伝承させても、形骸化に陥る例があまりにも多いので、私と面識のない一演奏家が意欲的に取り組んでくれると良いですな。激しい創造力を持って、私の作品に新たな命の煌めきを与えて欲しいものです。

          ハイフェッツ

バッハの無伴奏Viソナタ&パルティータをこの所よく聞いています。この曲は演奏者によって全然違う。いつの時代も色々な演奏者に色々な想いを持って演奏され、その生命力はどんどん豊かに増してくるようです。それはどの時代にあっても創造性を掻き立てられる魅力的な作品だからこそ、ますます輝いて行くのでしょう。譜面上は同じでもその内面は、演奏者の凄まじいまでの創造力によって様々な変化をしてきているのです。


ヘラクレイトスヘラクレイトスの「パンタレイ」(万物流転)」と言う言葉をご存じでしょうか。命あるものはもちろんのこと、一見変わらないような物体でも、芸術作品でも、時代により、人により価値や意味が変わり、存在自体が変化している。これが人間の作り出す社会に於いての、万物の姿なのだと思います。人間が作り出すものには全て命があると思えば、自然界のものでなくとも確かに納得です。

変わらないものは無いのかも知れません。古典と言われるものは正に内面変化の代表みたいです。変わらないもの、それは「万物は変わるという事」位でしょうか。

私自身も、日々の出逢いや経験によって常に多くの変化をしています。しかしそれらが次のステージに私を導いてくれるのです。

さあ、舞台に向かいますか。












甦る季節

もうすっかり春の陽気となり、梅は満開、週末は桜の花見も・・なんて気もそぞろな季節となりました。

 IMGP9327吉野梅郷  吉野梅郷2011年入賞作品絵はがき


このオフシーズンはずいぶんとぶらぶらしていましたが、先ずは独奏曲が出来上がりました。笛と楽琵琶の曲ももうすぐ仕上がります。いままで薩摩琵琶は何か新作を作ると言えば、無調の現代曲にするか、歌詞を新しくしたりすることに終始していたのがこれまでの現状でしたが、今後器楽曲の分野をどんどん切り開くためにも、耳に残るようなモチーフを織り込みました。無調な感じではなく、都節でもない、伝統的な邦楽からは離れた雰囲気になりました。もう少し練り上げて舞台に上げます。

昨年辺りから、しきりに自分の中で「原点回帰」という言葉が響いてます。
profile10-s1stアルバムを出したあの時の本来の自分のイメージを今こそ取り戻し、実行すべき時が来ている感じです。ただ弾き語りという形の良さもそれなりに判るようになったので、その分野の方も徐々に手を付けていこうと思っています。         

何事も先ずは発想ありき。しかしながらその発想を具現化する力が無ければ、ただのアイデアで終わってしまいます。そして出来上がったものを世に出すプロデュースの能力も必要。今までこの「発想 具現化 プロデュース」という3本柱でやってきましたが、これからはさらなる展開が必要だと思っています。

この所、自分が原点回帰を考えるようになったのと同じくして、中学の同級生に会う機会が増えました。東京に居ると、色々な人に出会うことが出来るけれど、同じような職種、興味、活動の方とどうしても繋がって行く。音楽、芸術の関係者と違い、全く知らない人の方が素直な感想や意見を言ってくれる事も多いです。そんな仲間達のお陰で多くの発想の転換が出来ています。

けっして昔と同じではありませんが、余計な衣を取り払い、自分自身になりきって、その時に自分に脈々と流れ、湧き出る、嫌がおうにでも身についたもの、背負ったものが素直に音楽となって表出されれば良いと思うようになりました。イデオロギーや意地で邦楽的なものをやっても意味が無い。私のように青春時代をジャズで過ごした人間が、無理に邦楽にする必要は無いし、やはり不自然です。
自分がやらかした失敗、身に起こったこと、出逢い、別れ、等々それらが皆、自分の原点を見つめる事を私に促しているようです。

        沙羅双樹1沙羅双樹

芽吹きの季節と共に、本来の自分が甦ってきました。



和楽器 ブログランキングへ









プロフィール

hakuga

月別アーカイブ