琵琶一人旅

琵琶奏者 塩高和之の徒然日記 日々の想いを綴ります。

2018年07月

真夏の月

連日の猛暑ですね。皆様お変わりないでしょうか。

sarasouju_jacket_small
13年前に発表した「沙羅双樹」のCD。「沙門」収録
先日は東洋大学での「道元研究国際シンポジウム」、ストライプハウスでの「ストライプセッション2018」共に良い形で務めることが出来ました。道元シンポジウムでは拙作「沙門」を演奏したのですが、何かしっかりとした手ごたえを感じました。「沙門」の詞は「修証義」「正法眼蔵」から抜粋したもので、個人の感情などを表したお涙頂戴的な名調子が全く無いのです。自分が「うたう」ことの一つの形として、こういうものは良いなと思いました。ストーリーテリングをやるから感情が入り込んで、目の前を表現しようとするので、時間軸が前に進まない「詩」ポエムをやれば、問題なく素直に語れるのです。琵琶唄の歌詞に強い違和感を持っていた身としては、納得できる内容のものをやれば迷いも無いということをあらためて確認しました。どんなものであれ、自分がやりたいと思うものをやって行きたいですね。

人生フルーツ

話題が変わりますが、先日は映画を一人で観に行きました。私の地元には映画館(と言えないほどの小さな小さな劇場)がいくつかあり、たまににふらりと立ち寄り観ることがありますが、先日はちょうど珈琲豆がなくなり、仕方なくこの暑さの中、のろのろと買い物に出たついでに、かねてから勧められていた「人生フルーツ」というドキュメンタリー映画を観てきました。
じわりと来る良い映画でしたね。この映画は結構話題ですので、内容はご存知の方も多いかもしれませんが、観終わって、悲しいものでもないのにす~と涙がこぼれ、ゆったりとした暖かいものが自分の中に満ちてきました。席を立つのが惜しいくらいでしたね。
観ながら「自分の人生を自分なりに生きる」ということを特に感じました。これはなかなか出来るようで出来ないもの。それも無理せずにこつこつと・・・。ここに登場する御夫婦は私とは随分違う人生を生きてきた人物ではありますが、形は夫々違えど自分の人生を全うできるかどうか・・・、家に帰り着いて、自分のこれまでをゆっくりと珈琲を飲みながら反芻しました。


IMG_0105
日本橋富沢町樂琵会にて photo MAYU

”風が吹けば枯れ葉が落ちる 枯れ葉が落ちれば土が肥える 土が肥えれば果実が実る こつこつ、ゆっくり”


この言葉が映画の中で何度も繰り返されますが、私もそろそろ、この言葉のようにじっくりと生きる時期に来ているんじゃないかと思いました。今まで自分なりにやってきたつもりですし、僅かながら作品も創ってきました。他の価値観を軸とせず、なんでも俺流でやってきました。しかしちょっとこれからはガツガツと突進するだけでなく、良い意味で速度を落としてみるのも良いんじゃないか・・・・・。そこから見えてくる音楽があるんじゃないか・・・。とそんな風に思いました。

こうして我が身を振り返っていたら、ふと以前TVで見たとあるベテラン民謡歌手を思い出しました。その筋では有名な方のようでしたが、ロック(とはいえないような)バンドをバックに、若作りしてパワフルに歌い踊る姿には、還暦をとうに過ぎた男の脂ぎった自己顕示欲と、パワーを押し付けるだけの、深みを全く感じられない音がありました。私はそれを見た時、強烈な違和感を感じ、その姿を未だに良く覚えています。


2016川瀬写真1 (2)
photo 川瀬美香

もしかすると私はあの民謡歌手のような勘違いと傲慢さが、この身にのどこかにあるんじゃないかな・・・?。と自分の姿を思いました。私は自分なりに生きることに拘ってきましたが、少なくとも世の中と共に、自分のペースで、何かに抗うこともなく自然に生きることは、まだまだ私には出来ていない。つまりペースがまだ出来上がっていないんだな、と感じました。

 人生フルーツ2 映画の御夫婦のライフスタイルも素敵だったけれど、それよりもそうした「形」ではなく、無理なく自分の人生を自分なりに「こつこつ、ゆっくり」全うする気持ち。そこがとても素敵でした。是非私自身もそうありたいものです。



月1
北鎌倉の月

最近は夜、月を見上げることが多くなりました。地球の自転と共に日々姿を変えながらも、月はいつもそこに存在します。雲があれば朧月になり、晴れれば煌々たる満月となります。この間は剣のように細く鋭利な三日月も見ることが出来ました。
私もその時々で対応しながら、この世の中と共に「こつこつ、ゆっくり」自分の生き方がまっとう出来たらいいですね。













休息の時間2018

今月頭の演奏会で、演奏会が大体一段落着いたので、ここ2週間ほどはのんびりしていました。ちょっと暑さにバテ気味でもあったので、家の中で前回ブログで書いた大工哲弘さんのCDを聴いたり、昼間からビール片手に映画を観たりして、プチ夏休みを満喫してました。

道元研究国際シンポジウム s2018-7-22ストライプ1s

しかしながらあまりのんびりとしてもいられません。今週の土日はまた演奏会があるので、週明け辺りから少し身体と心を整えています。やっぱり年齢的にも、あまりのんびりしていると退化してしまうので、のんびりしながらもアンテナはしっかり張っていないといけませんな。弾くのは全然大丈夫ですが、やはり身体は普段から整えておかないと姿が崩れます。
土曜日は東洋大学にて「道元研究国際シンポジウム」があり、私は初日の懇親会の時に拙作「沙門」を演奏する事になりました。道元研究者の世界のトップレベルの先生方が集るので、おのずと気合が入ります。
日曜日は六本木のストライプハウスにて、美術や身体表現、音楽などの前衛アーティストが揃ってパフォーマンスを繰り広げる「ストライプセッション2018」があり、私はパフォーマーの坂本美蘭さんとトリを務めます。

kirameki-h2

これまで色んなことをやってきたのですが、それらをやってこれたのは、休息の時間があったからです。ツアーであちこち廻って毎日のように演奏したり、色んな仕事であらゆる種類の演奏をやったりしていると、ありがたいとは思うものの、いつしか技の切り売りとなって、活動しているという充実感だけで満足してしまいがちです。何かを創りだしてゆくには、のんびりと昼寝をする位の時間も必要なのです。本と読み、様々な芸術に触れ、自分の内面を見つめ、自分の音楽について深く想いを巡らして、哲学や芸術性の部分を洗練させていかないと、良い作品は生まれ出ません。
曲を一つ創るにしても書いては消し、試しに弾いてみてはやり直しと、そんなことを延々と繰り返さなければ出来上がりません。まあ言い訳半分で、昼間からのんびりしているのも大切なのです。何かを創り出そうとしている心を自らに持っていれば、休息はきっと何かをもたらすと思います。

セミナー3-sアゼルヴァイジャン バクー音楽院での日本音楽特別講座にて
邦楽では、「己の芸を磨く」という発想の方がやたら多いのですが、私はそういう邦楽の芸は、ほとんど眼中には無いのです。勿論高い技術や深みのある芸は良いのですが、得てして個人の技芸を聞かせるという所で終わってしまう。芸術家として何を表現したいのか、という所がすっぽりと抜けて、こなれた技や芸を見せたがる。これでは芸人としてはともかく、表現者や芸術家とは私は思えません。これは今のジャズにもいえる様な気がします。

私が少年時代から感激したアーティストは皆、独特の世界がありました。今でもよく聴くラルフタウナーの1980年の作品「SOLO CONCERT」などは、一瞬でその世界に取り込まれ、最終的には演者の技も姿も消えて、世界だけが立ち上がるような、そんなところまで持っていかれます。
今、邦楽もジャズもかなり衰退の極みにありますが、その原因はやはり舞台に立つ人の意識ではないでしょうか。己の世界を極めるのは結構だと思いますが、己の世界が本当に次世代に、そして世界に向いていますか・・・?。自分という小さな牢獄に留まっていませんか・・?。そこに夢はありますか・・?。
何時もこのブログでは永田錦心や鶴田錦史の事を書いていますが、私はお二人の技や芸に感激した訳でもなんでもないのです。お二人のスタイルをやろうとも思わないし、特に好きでもありません。しかしお二人が見せてくれた琵琶楽の新たな境地、つまり「夢」を、その演奏と活動の中に感じたのです。だから彼らが独自のやり方でやったように、私なりのやり方で、その夢を受け継ぎたいと思ったのです。

今迄でいろんなジャンルのアーティストを聴いて来ましたが、皆そこには心を震わせるような、独自のほかでは味わえない世界があり、夢がありました。技芸が上手いかどうかなんて、感じたことも考えたこともなかった・・・・。独自の世界、魅惑的な世界に誘ってくれるような音楽家が少なくなりましたね・・・。

イルホムまろばし5s
ウズベキスタン イルホム劇場にて拙作「まろばし」演奏中 指揮編曲はアルチョム・キム

時々こういう夏休みがあると、リセットが効いて思考も深まります。たまにはこうして我が身と、我が身を取り巻く世界を振り返り、見つめ、軌道修正するところはして、自分の歩むべき所を確認するのは良いことです。舞台に立つ事が目的になってしまっては、何も生み出せません。創り出すことが芸術家・音楽家の使命であり、私の使命でもあります。
20代の頃は作曲家の石井紘美先生から色んな話を聞きました。「アートとエンタテイメントの違いは何?」と問いかけられ、ろくに答えられす、ただ「格好いい」位にしか返せませんでした。感覚で観ることと、論理で観ることの両方がないと芸術は作り出せない。そんなことも教わりました。ジャズギターの潮先郁男先生からは「自分自身の持ち味を大切にしなさい」といわれましたね。今になってようやく判ることが本当に沢山あります。

ryokan24
Photo Mayu

結局今の私は、私を導いてくれた先生方の言葉を自分の中で昇華することで成り立っているように思えて仕方ないのです。自分でガツガツとやってきたようで、実は導かれていたというのが、今の私の心境です。多くの教えをもう一度想い出し、今の自分の姿に問い聞かせ、また明日の力にしてゆく、そんな時間が私をより私らしくさせて、次のステップに持ち上げてくれるのです。
そして願わくば、こんな私の音楽や活動が、風となって次世代に少しでも吹き渡るといいですね。

昼間のビールもなかなか良いものですね。











うたうということⅢ

八重山民謡の唄者 大工哲弘さんからCDが送られてきました。

大工CDジャケット

大工さんは言わずと知れた八重山民謡の第一人者。私からすれば大先輩なのですが、16年ほど前、私が1stアルバム「Orientaleyes」を出した時、大工さんのお弟子さんが、私のCDを大工さんの元に持って行ってくれて、それを聴いた大工さんからメッセージが来たことからお付き合いが始まりました。今迄何度となくお互いにCDを出す度に贈りあって、感想などを頂いたり、送ったりしてきたのですが、実はまだお会いした事が無いのです。

photo T.Fujita
大工哲弘1
大工さんとは世代も違うし、音楽も全く違うのに、こうして交流が続いていることにとても感謝しています。琵琶関係者や琵琶ファンという立場ではなく、一音楽家として私のCDをずっと1stから聴き続けてくれているというのは、実にありがたいのです。ある意味とても冷静に私のこの15,6年の変遷を見ていてくれているのが大工さんなのです。

世間にいち早く沖縄の音楽を紹介し、決してショウビジネスに寄りかからず、自分の活動を貫いてきたそのスタイルには敬服しかないですね。こういう唄を聴くと、本当に色々なことを想い、感じます。

私は「うた」が好きなのです。このブログでもオペラから西洋の古楽、ジョン・レノンやボブ・ディラン、森田童子、尾崎豊まで書いていますが、子供の頃最初に歌手を意識したのは、ロバート・プラントでしょうか。その後ジミヘンやBB・キングのように、ギターも凄いし「うた」も良いという人達のものを随分と聴きました。クリムゾンなどは「うた」というよりも曲そのものに心酔していましたね。30歳の頃はなんといっても波多野睦美さんにもうやられていて、朝から晩まで聴いてましたね。また今頃になってカレン・カーペンターの声の深さに感激したりして、「うた」は常に私の傍にありました。今では「上手い」歌手が溢れかえっていますが、いくら上手くても、その先の魅力がないと、ぐっと来ませんね。

そのせいか奄美や八重山の民謡の素朴な「うた」には深く心揺さぶられます。八重山民謡は大工さんから、そして奄美の民謡は奄美の唄者 前山真吾君と一緒にツアーをして、その魅力をしっかりと受け取りました。これらの「うた」は本当に心から出てくる「うた」であり、余計な衣が全く無いストレートな純粋な「うた」なのです。ジャンルではないですね。

s20
日本橋富沢町樂琵会にて

正直な所、琵琶唄にはこの心からの「うた」が感じられないのです。だから私は琵琶唄からどんどんと離れてしまうのです。まあ歌詞の内容が最大の理由ですが、大声出してコブシまわしているスタイルも力を誇示しているようで、父権的パワー主義満載のその感性は、どうしても自分のうたう「うた」とは感じられないのです。
私は器楽の面では最初から何のストレスもなく自分の思うようにやってきたのですが、「うた」に関しては、流派で習ったものから抜けられませんでした。早い段階で琵琶唄から脱却していたら、もしかすると今でもうたっていたかもしれません。しかし私にはそれが出来なかった。

これ迄琵琶奏者としては本当に多くの演奏の機会に恵まれ、仕事も数多くやらせてもらっています。それも自分で作曲した曲でお仕事をずっとさせてもらって来ました。こんな琵琶奏者は他には居ないと思います。これからもこの方向で、琵琶奏者として充実した活動をやって行きたいと思いますが、大工さんの「うた」をあらためて聴いていると、私が時々うたう琵琶唄は「うた」ではないですね。声は使っていますが「うた」ではないです。根本的に大工さんのうたう「うた」とは全く違いますね。やはり私は器楽の人です。

大工CDジャケット2Photo T. Fujita

このCDは4人の唄者が集って作られたもので、サブタイトルには「琉球弧の島々を往還して運ばれた謡と唄との奇跡的邂逅。八重山諸島~沖縄本島に伝わる異名同曲を集めて繋ぐ。現役最高唄者4人、夢の共演による画期的南島歌歌謡集」と書かれていますが、正にその通りで、沖縄音楽が好きな方にはたまらない2枚組み全41曲のCDです。

ライナーには、制作を担当した藤田正さんがこんなことを書いています。「稲の一粒までも神からの果報と涙した離島の民が口ずさんだ旋律が、年を経て、光り輝く首里王府の古典音楽へと変貌する・・・・歌はさらに繰り返し繰り返し、幾度となく交じり合い離れ、南洋の空と海によって清められ、わたしたちの島唄となって今に至っている」

okumura photo6

素晴らしい言葉ですね。今の邦楽・琵琶楽が忘れてしまった心が、このCDには溢れています。残念ながら琵琶唄はこの足元にも及びません。私はこうしたCDを聴き、演奏に接することで、自分自身を見つめ、徹底的に自分自身になって行くことが出来ます。こうした体験が、より豊かな音楽を創り出し、演奏活動へと繋がって行くのです。自分に向かないことをやっていても何も成就しないし、心からの湧きあがる音楽も出て来ないのです。「私はもっともっと自分らしい姿になって行きたい」。CDを聴きながらあらためてそんな想いが湧きあがってきました。

それにしても何故琵琶楽は皆、目先の声のテクニックやパワーを誇示し、肩書きを追いかけ、それをお見事とばかりに目指してしまったのでしょう。残念でなりません。私には琵琶の「うた」はなかなか創れないと思いますが、リスナーの心を揺さぶるような「うた」を琵琶楽で聴いてもみたいものです。











古典と語る

先日、東京国立博物館でやっている「縄文」展に行ってきました。

346b4eac6ea96336c999fcba3fb3dca2_content

私はこのブログでもシルクロードの事をよく書いていますが、とにかく古の時代のものに凄く惹かれるのです。以前から弥生時代より縄文時代の方が断然興味があったのですが、縄文土器はあらためて観ると、正に驚きの連続であり、またそこから現代という時代が見えてくるようでした。

現代人は、今が人間の築いた文明の頂点だと思って、一番発展していると思いこんで生きていますが、技術でも発想でも、決して人間は過去と現代の優劣は無いと感じますね。表面的には大きな違いがあるし、形は随分違うかもしれません。確かに利便性ということを見れば現代は発展しているのでしょう。しかし何かを得れば、何かを失っているというのが現実であって、今回改めて縄文土器を目の前にしてみると、我々は失っているものに気がつかないだけではないか、と思えてくるような充実した展示でした。

モスク
ウズベキスタン旧市街
私は、古代に残された物、美術、文学、絵画、音楽などに触れると、その時代に生きた人と何かの会話をしているような気分になるのです。想念が飛んで行くといえば良いでしょうか。残念ながら特殊能力は無いのですが、古典の魅力とはそういうところだろうと思っています。
例えば平家物語をやる時には、登場人物の姿が自分に重なってきます。私が時々やっている「経正」は謡曲経正がベースになっていますが、霊となって表れた経正が、都に帰ってもう一度琵琶を弾きたいと願うその姿は、そのまま自分の人生と重なります。まるで過去世に於いて何かの縁でもあるのかな、と思うくらい・・・。つまり古典と対峙する時には、そこに何かしらの会話のようなものがあるのです。逆に会話の成り立たないものは、私はなかなか演奏出来ません。

現代の邦楽は流派のものなら何でも古典と言って権威付けたいようですが、時を経ていないものはやはり古典とはなりえないのです。何故これらが古典と認識されないか?。それはイデオロギーや社会情勢が今の感性で測れてしまうからだと思います。そこには妙にリアルな現実が見え、当時の人間感情の渦巻きまでもが見えるからです。つまり懐メロの域を出ていないのです。また「古典をやってます」と看板を挙げるように言う人が居ますが、そこに、自分は特別なものをやっている、選ばれた人であるという選民意識が見えることも多いですね。古典=偉いという風潮はとても受け入れられません。

huji2

人間の小賢しい思惑などがなく、そんなものはとうに消えうせて、もっと奥深い所で会話が出来るからこそ古典なのです。古典とまともに接すると、知らないうちに普通だと思っていた事が、決してそうでは無いということがよく見えてきます。形や感じ方などは時代によって変わります。身分制度のある時代と今では「当然」というものが違うように、同じストーリーでも時代が違えば感性自体が違うので、感じ方が異なるのは当たり前です。だから何が核にあって、何が上っ張りの衣なのか・・・。そこを見極めないと古典を目の前にしても、上っ面をなぞっているだけになってしまいます。

私は古典に真摯に接っすれば接するほどに、流派や現代という時代が作り上げた余計な衣が見えてきて、正直な所、現代の邦楽の古典に対するあり方に違和感が出てきます。肩書きや賞などのお飾りは論外ですが、正座や着物、しきたりなども、実は現代人が権威を高める為に作り上げたものなんだと思えてきます。重苦しいほどの衣で、古典の中にある核の部分は隠されているように思えて仕方が無いのです。

縄文2

縄文土器を前にすると、便利な世の中に生きている現代の危うさが見えてくるし、現代人の弱さも見えてくるようです。
このところ時間が出来たので、連日のようにライブやコンサート、展示会、個展などに出かけています。多くの刺激を頂くせいか、自分のスタイルをもっともっと明確に形にしようという想いがどんどん強くなっています。器楽としての琵琶の作品をどんどん創って、声に寄りかかった弾き語りで無い琵琶本来の音色で表現して行く琵琶楽というもの創り上げ、琵琶の楽器としての魅力を発信して行きたいですね。そのためにも明確な私の音楽性、世界というものを打ち出さなければ伝わりません。

この夏は色んな曲が出来上がりそうです。縄文人に私の音楽を聞かせてみたいですね。















光の中で

4月5月6月の春~梅雨時期の演奏会ラッシュも、先日の季楽堂演奏会で一段落着きました。毎年梅雨時期に合わせたかのように忙しいのすが、今年も梅雨明けと共に波が過ぎて行きましたが、本当に色んな仕事をさせてもらいました。

2018-5-1音霊杓子62
左から、百万遍知恩寺演奏会の折参加した京都の琵琶サークル「音玉杓子」の稽古場にて、東洋大学井上円了ホールにて「方丈記」終演後 津村禮次郎先生・原田香織教授・久保順さんと、国立劇場で新作終演後チームの面々と

この他にも本当に多くの舞台に立たせてもらいました。約3ヶ月弱で20本ですから、そんなにハードというほどではないですが、内容が夫々皆違うので色んな譜面が部屋中にあって、頭の中がウニ状態でした。やっと部屋も片付きましたよ。毎年この時期は「大丈夫かな~途中でパンクしないかな~~」と心配なほどなのですが、いつもなんだかんだと乗り越えていくんです。そして後から様々なシーンが甦り、とても大きな糧として自分の中に残ってゆきます。私は少し追い込まれるくらいでちょうど良いのかもしれません。こうして本当に色々な舞台を経験出来ることは、本当に嬉しいですね。

4
2017年福島安洞院にて津村禮次郎先生と
舞台を踏めば踏むほどクオリティーが求められるのは当たり前なのですが、けっして技術レベルの問題ではありませんね。一般のリスナーは演者の放つエネルギーを聴いているのです。ジミヘンでも森田童子でも同じことで、表面的な迫力ということではなく、リスナーは舞台で出現する特別な世界をこそ聴いているのです。この「世界」が創れないようでは、舞台人として成り立ちません。つまり上手が見えるうちはまだまだお稽古事ということです。

そんな意味で先日の櫛部妙有さんとの公演では、夜の部がなかなかに1凄いものがありました。「先帝入水」をやったのですが、決して迫力で盛り上げたりしないで、淡々と、しかも小さな声で静かに語る妙有さんには、なんともいえないものが満ちていて、私もそれに答えるようにして弾いたのですが、これが見事にはまりましたね。会場には精緻という言葉が似合いそうな空気感が隅々まで漂い、ある種の異次元が現れました。
この「先帝入水」の場面は合戦の場面であり、また「あはれ」を誘う場面でもあるので、そういう表面を描いて終わってしまいがちなのですが、今回は文章の表面をなぞらず、その先の世界に想いを馳せ、物語の奥底を描き出す手法がみごとに決まりました。

エネルギーイコール迫力と思いがちですが、実はそんな表面的な次元のものではないのです。目の前の表面に現れる形ではないのです。静かな中に満ちる揺るぎないエネルギーというものがあるのです。大声出しても、早弾きしても、コブシ回してもエネルギーは出て来ない。演者の中にエネルギーがなければ、いくら技を尽しても空回りするだけです。かえって空っぽな中身が見えてしまう。

29
戯曲公演「良寛」2015年座高円寺にて

以前能の津村禮次郎先生と戯曲公演「良寛」の8分間に渡るラストシーンで、私の弾く静かな樂琵琶の独奏曲「春陽」と先生の舞いが、会場全体を早朝の湖のような雰囲気になったことがありました。鏡のような静まり返った湖面に純粋で無垢な気が漂い、そこにはただ穏やかに降り注ぐ光だけがあり、観客も私もその光に包まれていたのです。光には静かな微笑みが感じられ、音にも舞いにも、そこにある全てのものの生命が煌いているような、喜びに満たされているような・・・・・・、もしかするとこれは悟りの境地や宗教的な体験というものなのではないのか、と思えるような形容しがたい8分間でした。

今回の櫛部さんとの舞台もこの時と同じく、実に淡々としているのです。そこには何かの「はからい」が降り注いでいるが如く、揺るぎ無い静かなエネルギーが漂って、何かの光に包まれているようでした。そして最期は静かに静かに潮が引くように去って行ったのです。

2
異次元空間が現出したライブ 2016年キッドアイラックアートホールにて 灰野敬二・田中黎山各氏と

こうした舞台は今までに何度かしか体験したことがありません。これは多分に演者の音楽に対する(人生に対する)姿勢と関係ありますね。
肩書きやら役職など音楽に関係無いお飾りを背負っている人は、音楽家として、人間としてのエネルギーがとても弱い。どんなジャンルでも一流は決して、肩書きは舞台の上に持ち込まない。音楽に対してはただただ純粋な姿勢で接している。どんなに偉くなってもこの純粋さを保てる人だけが舞台に立てるのです。
音楽をやる人はどんなジャンルでも、何かしら「大いなるもの」に身をゆだねざるを得ないような体験をし、「はからい」のような、自分でコントロール事が出来ないものを感じ取る感性が生まれるものです。この無垢で純粋な心が「世界」を生むのです。上手な技やキャリアが生むのではありません。自分という小さな小さな器がいつしか牢獄となり、「自分はここまでやってきた」「自分はこれだけの実績がある」「自分の力で作ってやる」という驕りが、音楽に対する尊敬と感謝、愛情という基本姿勢を鈍らせて、自ら音楽に対し目を閉ざしてしまいます。それでは音楽は鳴ってくれません。純粋さを失った音楽は確実に滅んでゆきます。邦楽はどうでしょうか・・・・。

1a
井上円了ホールリハーサルにて

無垢な光に包まれるような音楽を演奏して行きたいのです。












プロフィール

hakuga

月別アーカイブ