世の中相変わらず騒然としていますね。これから日本はどうなって行くのでしょう。
先日「祇園精舎」を都内某所で演奏してきました。一般的には琵琶と言えば祇園精舎という位、ドンピシャな曲だと思われがちですが、実は祇園精舎は平家琵琶のみでやっていたもので、薩摩や筑前の琵琶ではほとんど演奏しません。
薩摩・筑前の琵琶では、演目として平家物語自体をそんなにはやっていないのです。ちょっと以外かと思いますが、薩摩・筑前は大正時代から大衆芸能として、浪曲や講談なんかと共に大人気だったジャンルで、基本的に平家琵琶の流れではないのです。「祇園精舎」も「敦盛」のイントロのように頭に付け足してやるのみで、歌い方もたっぷりコブシ回して、「夢の如し」を「夢幻の如くなり」なんて語呂よく言い換えて声を張り上げて歌います。幸若舞の「敦盛」の歌詞を持ってきたのだと思いますが、大衆芸能に於いては、「祇園精舎」は私が思うほどの意味や価値は無かったのでしょうね。「祇園精舎」に手を加えてしまうその感性が、私には何とも・・・。今でも祇園精舎を単体で演奏する薩摩・筑前の琵琶人は少ないですね。
「良寛」公演にて 能楽師の津村禮次郎先生と
私は琵琶を手にした時から大衆芸能としての琵琶樂には全く興味が無く、違う捉え方をしていますので、「祇園精舎」には、他の方と違って結構こだわりを持っています。「祇園精舎」は仏教の根本の考え方であり、ギリシャ哲学のパンタ・レイとも通じる人類普遍の哲学です。そういうものに余計なケレンは付けたくありませんし、エンタテイメントの一演目にもしたくありません。ちょうど能に於ける翁のような曲として演奏しています。
私は平家琵琶の演奏家ではありませんが、薩摩琵琶でも「祇園精舎」との縁はしっかりと結んでおきたいと考えていましたので、いつも演奏会では私のスタイルで、且つ単体で演奏します。
「祇園精舎」のような曲をやっていると、色々なものが頭の中を巡ります。私は自分では素直に、自分のやり方でやっているつもりなのですが、その自信の裏側に、ふと上手にやろうとしている自分が見えてきたり、「どうだ」みたいな奢りを自分の中に感じたりすることもあります。「祇園精舎」は私にとって精神も技も整え、深める曲であり、これから先もずっと演奏して行きたいと思っています。
いわゆるプロの芸人さんと話していると、そのプロ意識には大変敬服しますが、芸人さんのようにお客様を楽しませて、木戸銭を頂いて生きて行く生き方は、私には到底出来るものではないといつも感じます。私も琵琶を弾いて糧を得て生きている身ではありますが、「売る」という事を常に念頭に置く芸人さんたちの意識と私のそれは随分とかけ離れています。舞台でお金をもらっている以上ショウビジネスだ、という方も多いかと思いますが、私は、画家が自分の思い描く世界を具現化して、発表して生きているように、私も自分の想い描く世界を曲という形に具現化して、それを演奏し、発表して生きています。いくら舞台活動をしていても、なかなか芸人さんのように「売る」事を優先して生きて行くのは、私には難しい。年を重ねれば重ねる程にそう感じますし、また自分は自分のやり方で進んで行こうという想いが強くなって来ます。
世はオリンピックですが、まるでエンタテイメントのイベントのようですね。プロスポーツはもう野球でもサッカーでもエンタテイメントショウみたいになっているのは知っていましたが、今回の聖火リレーを見ただけでも、オリンピックも同じですね。現代ではスポーツはプロアマ関係無くああいうものなのでしょうか。私は武道を少しかじっているものの、スポーツには子供の頃から興味が無く、オリンピックも、これまでほとんど見たことがありませんでしたが、そんな私でも今回の一連の騒動を見ていて、さすがにあきれてしまいました。80年代のバブルの頃から、狂ったようにショウビジネスやエンタテイメントに突っ走って行った先がこれか、という想いです。
そして今、日本が沈みゆく国なんだな、としみじみ思ってしまいました。国家の衰退は人心の衰退とイコールです。「物で栄えて心で滅ぶ」。正にそのままを日本人は実践して来ました。現代は音楽も文学も政治も何も、全てに於いて短時間で興味を持たせ、消費をさせるファストフードみたいなものばかりになってしまいました。時間をかけて味わうという事を全く忘れている。目の前ですぐ笑わせてくれて、直ぐ楽しくなれて、直ぐおなかいっぱいに成れる・・・。挙句の果てにじっくりと考えたり、思いを熟成させたりすることをしなくなる。そんな目先の快楽と刺激を貪り、そればかりを追いかけ、振り回され、豊かな心を失って行く日本人の姿は、ここに来て顕わになってしまいました。私は正直な所、ちょっと耐え難いものを感じています。
今日は朝から芝祐靖先生の「庭火」を聴いていたのですが、あまりの素晴らしさに、しばし佇みました。こういうものをゆったりと味わう心が、日本からどんどんと失われて行くかと思うと悲しいですね。世がどんなに変化しても、笛や琵琶の音楽をじっくりと聴く、心のゆとりや感性だけは失ってほしくないものです。
次世代に豊かな日本の文化を残して行きたいですね。それ以外に私の出来ることは何もないです。
先日「祇園精舎」を都内某所で演奏してきました。一般的には琵琶と言えば祇園精舎という位、ドンピシャな曲だと思われがちですが、実は祇園精舎は平家琵琶のみでやっていたもので、薩摩や筑前の琵琶ではほとんど演奏しません。
琵琶樂人倶楽部にて。珍しく平家琵琶を持っている Photo 新藤義久
薩摩・筑前の琵琶では、演目として平家物語自体をそんなにはやっていないのです。ちょっと以外かと思いますが、薩摩・筑前は大正時代から大衆芸能として、浪曲や講談なんかと共に大人気だったジャンルで、基本的に平家琵琶の流れではないのです。「祇園精舎」も「敦盛」のイントロのように頭に付け足してやるのみで、歌い方もたっぷりコブシ回して、「夢の如し」を「夢幻の如くなり」なんて語呂よく言い換えて声を張り上げて歌います。幸若舞の「敦盛」の歌詞を持ってきたのだと思いますが、大衆芸能に於いては、「祇園精舎」は私が思うほどの意味や価値は無かったのでしょうね。「祇園精舎」に手を加えてしまうその感性が、私には何とも・・・。今でも祇園精舎を単体で演奏する薩摩・筑前の琵琶人は少ないですね。
「良寛」公演にて 能楽師の津村禮次郎先生と
私は琵琶を手にした時から大衆芸能としての琵琶樂には全く興味が無く、違う捉え方をしていますので、「祇園精舎」には、他の方と違って結構こだわりを持っています。「祇園精舎」は仏教の根本の考え方であり、ギリシャ哲学のパンタ・レイとも通じる人類普遍の哲学です。そういうものに余計なケレンは付けたくありませんし、エンタテイメントの一演目にもしたくありません。ちょうど能に於ける翁のような曲として演奏しています。
私は平家琵琶の演奏家ではありませんが、薩摩琵琶でも「祇園精舎」との縁はしっかりと結んでおきたいと考えていましたので、いつも演奏会では私のスタイルで、且つ単体で演奏します。
「祇園精舎」のような曲をやっていると、色々なものが頭の中を巡ります。私は自分では素直に、自分のやり方でやっているつもりなのですが、その自信の裏側に、ふと上手にやろうとしている自分が見えてきたり、「どうだ」みたいな奢りを自分の中に感じたりすることもあります。「祇園精舎」は私にとって精神も技も整え、深める曲であり、これから先もずっと演奏して行きたいと思っています。
琵琶樂人倶楽部にて Photo 新藤義久
いわゆるプロの芸人さんと話していると、そのプロ意識には大変敬服しますが、芸人さんのようにお客様を楽しませて、木戸銭を頂いて生きて行く生き方は、私には到底出来るものではないといつも感じます。私も琵琶を弾いて糧を得て生きている身ではありますが、「売る」という事を常に念頭に置く芸人さんたちの意識と私のそれは随分とかけ離れています。舞台でお金をもらっている以上ショウビジネスだ、という方も多いかと思いますが、私は、画家が自分の思い描く世界を具現化して、発表して生きているように、私も自分の想い描く世界を曲という形に具現化して、それを演奏し、発表して生きています。いくら舞台活動をしていても、なかなか芸人さんのように「売る」事を優先して生きて行くのは、私には難しい。年を重ねれば重ねる程にそう感じますし、また自分は自分のやり方で進んで行こうという想いが強くなって来ます。
江の島から見た富士山
世はオリンピックですが、まるでエンタテイメントのイベントのようですね。プロスポーツはもう野球でもサッカーでもエンタテイメントショウみたいになっているのは知っていましたが、今回の聖火リレーを見ただけでも、オリンピックも同じですね。現代ではスポーツはプロアマ関係無くああいうものなのでしょうか。私は武道を少しかじっているものの、スポーツには子供の頃から興味が無く、オリンピックも、これまでほとんど見たことがありませんでしたが、そんな私でも今回の一連の騒動を見ていて、さすがにあきれてしまいました。80年代のバブルの頃から、狂ったようにショウビジネスやエンタテイメントに突っ走って行った先がこれか、という想いです。
そして今、日本が沈みゆく国なんだな、としみじみ思ってしまいました。国家の衰退は人心の衰退とイコールです。「物で栄えて心で滅ぶ」。正にそのままを日本人は実践して来ました。現代は音楽も文学も政治も何も、全てに於いて短時間で興味を持たせ、消費をさせるファストフードみたいなものばかりになってしまいました。時間をかけて味わうという事を全く忘れている。目の前ですぐ笑わせてくれて、直ぐ楽しくなれて、直ぐおなかいっぱいに成れる・・・。挙句の果てにじっくりと考えたり、思いを熟成させたりすることをしなくなる。そんな目先の快楽と刺激を貪り、そればかりを追いかけ、振り回され、豊かな心を失って行く日本人の姿は、ここに来て顕わになってしまいました。私は正直な所、ちょっと耐え難いものを感じています。
京都清流亭にて 笛の大浦典子さんと
今日は朝から芝祐靖先生の「庭火」を聴いていたのですが、あまりの素晴らしさに、しばし佇みました。こういうものをゆったりと味わう心が、日本からどんどんと失われて行くかと思うと悲しいですね。世がどんなに変化しても、笛や琵琶の音楽をじっくりと聴く、心のゆとりや感性だけは失ってほしくないものです。
次世代に豊かな日本の文化を残して行きたいですね。それ以外に私の出来ることは何もないです。