琵琶一人旅

琵琶奏者 塩高和之の徒然日記 日々の想いを綴ります。

世阿弥

梅花の季節2019

もう日差しの中にはっきりと春を感じるようになりましたね。梅の花も咲き出して、気持ちはどうにも春に向ってしまいます。

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善福寺緑地

こういう時期を毎年迎えられるというのは幸せなものです。まだ寒さが残るこの時期に、ふと見る人を包むように静かな眼差しで淡々と咲く梅花。そんな梅花を見ていると、何か包まれているような感じがします。同時に、何時まで経ってもガツガツと生きている我が身の事を思わずにいられませんね。私は何でも俺流でやってきましたが、よくまあこれ迄こうして生きてきたな、と梅花に癒されながら、我が身を振り返るがこの時期の常です。
毎年こんなことを思い感じながらも、何かを創り出すには、のんびりとはしていられないというのが現実。まだまだ私は梅花に癒されるばかりで、私自身は梅花のような静寂と微笑みには至りません。程遠いですね。当分の間ガツガツバタバタと奮闘するのが、今のところの私の役目のようです。


啄木ソロ
京都山科 東部文化会館にて
世阿弥は「住するところなきを、まづ花と知るべし」言い遺しています。何だか自分に向かって放たれているような言葉だと何時も思うのですが、ようは留まることなく変化流転し続けよという事です。その中にあってこそ、花も現じるもの。現状や伝統に安住してしまっては、花は開かないのです。一所に住することなく、他軸を持ってものを見ず、どこまでも自分の目と心で見て感じて、美を問い続ける事・・・。
なかなか厳しいですね。他のものに振り回されてどたばたとして、色んなことをやっているのは、世阿弥の言う「住するところなき」ではないのです。自分自身であり続け、自分自身が追い求めてこその変化でなければ意味がありません。この自らの内なる精神=姿勢を忘れてしまった時、音楽はただの賑やかし、お稽古事に陥り、いつしか消えて行ってしまいます。

もっと境地が高くなれば、変化し続けようとする心が、がつがつとした表面的活動から離れ、もっと内面へと入り込んで行くのでしょうが、私はまだ、自らあちこち動き回る事が必要なようです。だから色んな事を試し、企画し、飛び回っているのです。この活動が心に集約される時、一つの完成に至るのかもしれません。そしてまたそこから新たな世界へと扉も開くのでしょうね。


2019チラシm

さて今週は,今年初めての日本橋富沢町樂琵会が木曜日にあります。前回もお知らせしましたが、ヴァイオリン、フルート、笙という今までに無い琵琶との組み合わせが、新たな世界の扉を開いてくれることと思います。琵琶の可能性を是非とも感じていただきたいと思います。19時開演です。

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善福寺緑地


私は何時も梅花のような人や物を求めてしまう。でも求めているだけでは駄目ですね。自分自身が梅花のような存在になる位でなければ・・・。何も構えず、微笑みに満ち、且つ揺るぎ無い心で自然のまま居られるように、ありたいものです。
まだ梅の花は楽しめそうです。しばらく都内をうろつきながら、この豊かさを味わってこようと思います。










美しさと支配

2019-1-19 東江寺m先日、佐渡の文弥人形「猿八座」との共演でで「ちぎりあらば~残された者たち」を上演してきました。素敵な公演になったと共に、人形の魅力をあらためて感じました。
昨年愛知県豊田市にある「てぃだかんかん」にて、1s初共演したのですが(右写真)、この時の公演がとても印象深く、物言わぬ人形がこれほどに語るのか、と感激してしまいました。それで是非東京でもやってみたいということで、今回の公演の運びとなりました。会場には津村禮次郎先生もお越しになってくれまして、打ち上げ共々楽しい時間となりました。
佐渡と東京ですので、稽古があまり積めず、細かな所が少しあいまいになってしまったのが残念でしたが、これもまた次回への課題ということで、更にこの先をやって行きたいですね。

今回は平家物語「重衡斬られ」の部分をやったのですが、こうした古典を題材としたものをやる度に思うことがあります。それは今日本人が美しいと感じる、その感性の土台はどこにあるのか・・・?ということなんです。「あはれ」「わび」「さび」など独特の美的感覚を持った我々のこの感性は、長い歴史の中で育まれれてきた世界でも稀なものだと思いますが、それらを形創り、根付かせたのは、いわゆる美の巨人達であり、現在の我々は、彼らの感性の中に生きていると言ってよいのではないでしょうか。

千利休世阿弥西行2
利休・世阿弥・西行

それは西行であり、世阿弥、利休、芭蕉・・・。もちろん利休から古田織部、小掘遠州とどんどん新たな感性と形式が生まれて行きましたが、それも利休という存在があったからこそ。もっと辿れば、西行の和歌の世界があったからこそ、ではないでしょうか。


我々は美の巨人達に支配されている。


支配というと抑圧されているように思いますが、さにあらず。魅惑的なまでの美の支配者の世界の中で、我々は嬉々として生きているのです。この美の中に居ると心地良く、この美を持っているからこそ、日本人としてのアイデンティティーを持ち、大いなる幸福を感じ、世界に日本の美を発信しようと思うのです。

魯山人また日本人の感性が崩れ、形骸化し、危うくなってくる時には、美の僕~例えば魯山人のような人~が現れ、もう一度日本の感性を日本人に再確認させてくれます。そうしてこの類稀な美の世界は延々と受け継がれてきたのです。この継承は是非今後も途絶えさせないようにして行きたいと思っていますが、私もしっかり美の支配者に取り込まれているということでしょうね・・・。

私は全ての仕事で、ほぼ私の創った曲を演奏します。人の作った曲はほとんど演奏しないし、他の人が創った曲は自分なりに編曲を施して演奏しています。しかしそれだけオリジナルでやっていても、そのオリジナルを生み出す感性の源は、美の巨人達によってこの日本に現され、形創られたもの。どうしたって天才達=美の支配者達が創り上げたこの日本的感性という世界からは逃れられないですね。それは日本の共同幻想とも言えるかも知れません。


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私は僕にすらなれないと思いますが、世界が繋がり、日本の美が形を変えて行くこの時代に、これ迄育まれてきた日本の感性を持って創作に挑みたいです。

2019かんげい館s


今度の日曜日は荻窪のかんげい館にて、笛の長谷川美鈴さんと小さな会をやります。「春の風~その様々な姿」と題しまして、春の風にまつわる色々な曲を演奏します。気軽な会ですので、是非お越しください。14時15分開演です。
日本の感性を感じていただけたら嬉しいです。









心はあなたのもとに

雪景色1

毎年この時期は創作期間なので時間もたっぷりあることもあって、なるべく色々なものを観たり聞いたりしてます。まあ半分楽しんでいるのですが・・・。先日のロイヤルバレエも素晴らしかったし、モネ展も良かった。もう30年ほど前にモネ展を観に行ったことがあるのですが、こうして年齢を重ねてから観ると、また以前とは違うものを感じることが出来ますね。
先週は雑賀バレエのスタジオパーフォーマンスにも行って楽しい時間を過ごしましたが、今週はコンサートを2本(クラシック・邦楽)聴きに行って、美術系の催しなどにも伺って…毎日どこかを彷徨い歩いています。

村上龍若き日の村上龍
毎日読書は欠かさないのですが、この所読む量がぐんと増えました。先日は友人に勧められて村上龍の「心はあなたのもとに」を読んでみました。村上龍はデビュー作の「限りなく透明に近いブルー」が出た時リアルタイムで読んでいて、近作では「55歳からのハローライフ」など、色々と作品は読んでます。村上は社会と人間との関わりという事が一貫したテーマのようで、己の世界に入って超然と道を極めて行くような芸術家タイプではないですね。
この作品もそうした社会の中に生きる人間像が描かれているのですが、特殊な病気が一つのテーマになっている作品だけに、医療の専門家などからは意見も多いものだと思います。また主人公が投資などの経済分野のエリートという設定なので、経済の事もかなりの分量が書かれていて、私にはよく判らない話も多く、ちょっと読みにくいところもあったのですが、読み終わって涙が止まらなかった。
まあ恋愛小説の部類に入るものだとは思いますが、文章を読んで涙が出るというのは、田端明さんの講演の内容を読んだとき以来でした。http://blog.livedoor.jp/rishu_alone/archives/51185086.html

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「小説というのは、読み手の人生のどこかにリンクする部分を必ず持っているもの」とはある先輩の言葉ですが、この小説の主人公は私と同世代ではあるものの、私とは真逆の人物。ちょっと鼻持ちならないような俗物でもあり、あまり好きにはなれないような人物です。しかしそんな全く縁のなさそうな主人公が語る物語のどこかにリンクする部分を感じてしまうと、不覚にも引き込まれてしまいます。小説というものの罠なんでしょうね。

私はこの小説が優れているかどうかという事はあまり関心が無いのです。なので書評は書けません。それよりもこの小説を読んで、自分の心が動いたという事の方が大きな事実として、今私の中に残っています。
ラストシーンで主人公が「I'll always be with you, always」という言葉を解説しています。人は現実にはいつも一緒に居る事は出来ない。だからこの意味は「心はあなたのもとに」ということになる、と。この「心はあなたのもとに」という言葉は、彼の恋人がいつもメールの最後に付けていた言葉であり、彼女からすれば、あなたと一緒にいることが出来ない、という一種のせつない訴えでもあります。物語上での色々な意味合いもあるのですが、それ以上にこの言葉は独り歩きをして、私に色々な事を想起させます。


2012-2-1

何時も思う事でもありますが、やっぱり言葉は諸刃の剣であり、時に言葉はまったく意味を伝えないのではないか?。そういう私の中に燻っている想いが読後に蘇り、それが強烈に迫ってきました。誤解の無いように書いておきますが、村上龍の文章が下手だとか、小説の内容が悪いとかいう事ではありません。彼の書いたストーリーが、私に言葉というものの本質を感じさせたのです。
例えば、おはようと言ってもその裏側に、他人には判らない悲しみがあるかもしれないし、また憎しみがあるかもしれない。想いと言葉は別で、もう言葉に意味など無いのではないか、とさえ思えてきます。人間は言葉を介し、解り合えているようなつもりになっているだけで、結局は自分の想いは伝わらず、相手の想いも解らないのかもしれません。解ったようなつもりになることで、日常というものが滞りなく過ぎて行く。社会とはそんなものなのだと思えてくるのです。だから音楽に於いても、言葉を伴う歌には敏感になってしまいます。

本の最後に作家の小池真理子氏が、「恋の相手とは、常に不在なのではないだろうか ロラン・バルト」 この言葉を載せていました。書評としての内容は別として、この言葉からも思う事が色々あります。
相手が居ないからこそ心が掻き立てられる、想いが湧く。それは根本的にコミュニケーションではなく、自分の中でのいわば妄想。その妄想が大きくなればなるほど、相手を求めたくなる。求め合う二人の間に本当の意味の意思疎通があるのだろうか。言葉は無理でも、言葉を超えて肉体が感じ合えているのだろうか。もしかしたら解り合えないという「あきらめ」の上に、人と人との「関係」は成り立っているのかもしれない。

世阿弥世阿弥

想いを言葉で具体的に表すことは、本質的に不可能なのではないか。具体的な言葉を使って表現をすればするほど本質からの距離が大きくなるのではないか、と思えてしょうがないのです。伝えるのなら抽象的表現が一番その距離を縮められる。それは受け手の想像力に訴えるから。つまり理解ではなく、受け手が感じる事によって喜怒哀楽などの想いを身の内に湧き上がらせることが出来るからです。受け手に押し付けるのではなく、受け手が自分で感じて、受け手の心が自由に動くことが理解や感動に繋がるのではないでしょうか。

こんなことをつらつら考えていると、ここぞという所で抽象表現を持ち込んだ世阿弥は、やはり天才以外の何物でもないですね。改めてそう感じます。

とりとめも無く書きました。

「心はあなたのもとに」・・・。私の心はあなたのもとに届いているでしょうか??



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受け継がれる音色

今年は驚くべき速さで時間が進んでいるような気がしています。かつてない天災を体験し、ニューアルバムの発表し、様々な事が自分の中にわき起こって来ているからでしょう。そのおかげで、これから自分のやるべき音楽がより明確になって行く感じがしていて、何となくわくわくしてます。日の出を見つめている時のような感じ!!

           日の出2

私はいくら安泰だからといって、既成の固定された価値観でしかものを見ない、小さな世界に留まっている事はおよそ出来ない。新たな価値観を作り、示して行くのが私という人間に与えられた個性なのです。

ジャケット画像JPGおかげさまで、今回の「風の軌跡」はとても好評を頂いています。自分でも自信作と言えるものが出来上がったので、これからは、この音楽を今までやってきたものと合わせ、どう展開して行くか、これが私の今後の活動となると思います。

古典とは過去の焼き直しではないのです。志村ふくみさんが言うように常に「前衛」なのです。常に時代の新鮮な感性によってその新たな魅力が見いだされて、時代の最先端として見つめられ続け、魅力を放っているものなのです。汲めども尽きない魅力が溢れているものだけが「古典」となるのです。一生を芸術に携わる決意があるのなら、常に最前線で居なければならないのだと私は確信しています。

世阿弥だから古曲でも新曲でも、常に生き生きした、魅力ある曲として聴衆に聞こえていかなければならない。やっている人が自分の内で感じていても意味は無い。聴衆が感じなければ、消えて行くだけなのです。
世阿弥は常に古典を生あるものとして再生させた。「古典を典拠にせよ」とは、古典の持っている力強い生命力を、新たな時代に、新たな魅力として蘇らせ、示す事、と私は解釈しているのです。

今年は高野山公演が無いのですが、来月は奈良を中心としたツアーがあり、ぞろ目の11月11日には仲間達による「響宴~現代に蘇る中世世界」を企画しています。

             genndai

中世は、様々な日本独自の仏教、哲学、芸能が花開いた正に日本のルネッサンスとも言うべき時。この中世を現代の我々がどう受け継ぎ、新たな命として、魅力あるものとして次世代に示してゆけるか。そんな主旨のコンサートをやります。エンタテイメント音楽ではありませんが、充実した内容を企画しています。ぜひお越し行ください。

柔軟な感性だけが、次の時代を生き抜いて行く。権威や古い価値観、それに乗っかった技術では、聴衆が離れて行くのは当たり前。音楽家も音楽も、時代と共に生きることを忘れてはいけないのです。



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梅雨空の想い

武満さんの曲に「Rain tree」というピアノ曲があります。私は雨の日になるとこの曲を良くかけて過ごすのが定番です。何だか気持ちが落ち着いて、毎朝入れている珈琲もつい2杯目を飲みたくなってしまいます。

 
雫しとしとと降る雨の情景に色々な世界が立ち現れ、華厳経ではないですが、この一滴にも無限の世界が広がっているようです。正に雨は詩情を引き出しますね。

この秋にCDを出します。今月末に録音をするのですが、今回は楽琵琶と笛の作品集です。雅楽ということではなく、シルクロードを風と共に渡ってきた音楽、雅楽も含め汎アジアの音楽、というくくりで作品を色々と書いてみました。アラブ風やちょっとフラメンコ風もありますが、それらは琵琶という楽器を手にした時に、自然に出てきた、楽器から発する偶然、必然の響きをそのまま音楽にしました。雅楽という様式や伝統を一度離れて、琵琶が辿ってきただろう土地に想いを馳せ、この琵琶が鳴りたいように鳴らしてあげよう、と想いながら作った曲ばかりなのです。

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実は、もう発売記念のコンサートまで決まっています。毎年定番の北鎌倉古陶美術館(名称を古民家ミュージアムと今年に入って変更したようです)で10月1日にやりますので、是非お越し下さい。

私は琵琶の音色が好きなので、CDはすべてインストの琵琶の曲になります。私が弾き語る「経正」をどうしても聞きたい、なんていうありがたいことをおっしゃってくれる方もいるのですが、私の中では琵琶弾き語りは、私の考える琵琶楽のほんの一部でしかないのです。私は私。自分の音楽を発表し、聞いていただき、それを生業としてゆくのは、ジャズでもクラシックでも同じ事だと思います。

これからは楽琵琶でのソロ・デュオも今後もっと旺盛にやっていこうと思っています。今回のCDはその宣言みたいなものです。

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私は薩摩琵琶を弾いても、楽琵琶を弾いても私でしかないのです。残念ながら納得するまで追及してゆくと、何を手にしても、何をやっても、最終的には流派などという小さな組織は飛び越えてしまう。琵琶楽の歴史や、日本の文化については常に考察を怠らないですが、○○流の塩高には成れないのです。かつてジュリアンブリュームが、アンドレスセゴビアに「俺の所に来い」と誘われた時、「私は第二のセゴビアに成るつもりは無い。私は第一のブリュームである」と言い返した言葉が有名ですが、私はその言葉を聞いた時いたく感動しました。まあ生まれつきの天邪鬼ともいいますが・・・。

自分が考え、作り出した物を聞いていただき、糧を得て、生業としてゆく。音楽家は古の昔より、それしか道は無いのです。その為に古典を読み、他の芸能に通じ、その見聞を広げ、作り出す世界をより深く大きくしてゆくのです。世阿弥は「古典を典拠にせよ」と言っていますが、単なる独りよがりの小さな世界観では、深みのある作品は作れません。オタクのように自分の世界以外の物に、興味も価値も見出さないようになったら、すでに音楽家として終わりです。音楽家は常にあらゆる世界と通じ、時代の最先端を行かなくてはいけないのです。まして肩書きに寄りかかるようになったら、その時点で終わりです!!


                gakubiwa1

私は琵琶のあの音色をもっと響かせたい。弾き語りでも独奏でも、世阿弥や利休、芭蕉が作り上げた日本の感性と哲学を受け継ぐような、現代そして次代の琵琶楽を作り上げたい。大衆芸能にどっぷりの琵琶は、私の考えるものでは無いです。それはそれでやる人がいるでしょう。私は洗練され、研ぎ澄まされた音楽こそ、自分のやるべきものと思っています。

聞き手もどんどん変わってゆく、その感性も変わってゆく、時は刻一刻と過ぎてゆくのです。あなただったら何処に向かいますか?

外の雨を眺めながら、ふつふつと想いが湧いてきました。







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