2007年08月16日

東福寺の重森三玲(2)霊雲院

東福寺駅から歩いて東福寺へと向かう途中、臥雲橋の手前の路地を入っていくと、突き当たりにあるのがこちらの霊雲院。おそらくは、東福寺の塔頭寺院の中でも、(個人的な印象では)もっとも閑散とした静かな場所だ。

このお寺でも、昭和の作庭家・重森三玲の仕事を見ることができる。
まずは九山八海の庭。
荒れ果てていた庭を重森三玲が昭和45年(1970年)頃(?)に復元した。
九山八海とは、須弥山を中心とした九つの山と八つ海を表す。仏教の世界観を表しているのだが、「どのような世界観なのか」とか「須弥山とは何ぞや」と検索で調べていくと、どんどん深いところに行ってしまいます。

なぜこの庭を九山八海の庭と呼ぶのかというと、庭の中央に置かれた遺愛石と呼ばれる石が須弥山を表しているからなのだそうだ。重森三玲は、この「須弥山」を中心に、庭園を再構築した。



遺愛石は、肥後藩主・細川光尚が、自らが帰依していた霊雲院の和尚・湘雪に贈ったもの。
九山八海の庭を別の角度から。



遺愛石。



また、書院の西側には、やはり重森三玲が手掛けた臥雲の庭がある(昭46年・1971年頃か)。
白砂と赤砂のコントラストが鮮やか(左)。白砂は渓谷を流れる水か。赤砂は雲か霧か。赤く染まっているのは、朝焼けか夕焼けの時間帯を表しているのかもしれない。そんな想像をめぐらす。
また、庭の最奥に組まれた、寄り添うような三つの立石が目を惹く。



書院の奥からの九山八海の庭の眺め。



二階建の茶室「観月亭」。

また、東福寺は、日露戦争時にロシア人捕虜を収容した歴史を持っており、霊雲院では彼らが手作りした楽器などを見ることができる。
京都にはこんな歴史のサイドストーリーも埋もれている。

(※写真をクリックするとちょっと大きな画像を表示します)

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