元々は平安京遷都にともなって、大内裏の南に造営された禁苑(天皇ら一部の特権階級のための庭園)だった。もちろん、当時は敷地の規模も大きかった。

現在の地理感覚からすると、烏丸通が昔から京都の中心であったように思ってしまいがちだけれども、地図を広げて、羅生門跡、東寺と西寺(西寺跡)の位置、禁苑であった神泉苑、そして平安京造営の基準点となったと伝わる船岡山の位置関係を見れば、平安京造営当時の中心は現在よりも西、千本通のあたりであったことが分かる。

けれども、大内裏はたび重なる火災や自然災害でしだいに荒廃し、天皇が里内裏(別邸)に移り住むようになると、大内裏を含む都の西側は廃れていく。13世紀になると、大内裏はほとんどの建物を失い、その跡地はいつしか荒地になったという。
現在の京都御所は、里内裏の一部にあたる。