2008年07月12日

秀吉の夢の跡(下)方広寺

豊国神社に隣接する方広寺。
方広寺といえば、秀吉が奈良東大寺を模して、約19メートルの大仏を建立(1586年)した寺として知られる。けれども、10年後の1596年には地震で大破してしまった。
現在、堂内には10分の1サイズの盧舎那仏坐像が安置してある。写真もOK、触ってもOK……という具合に、実に大らかな感じで座っている。どこのお寺も、まず写真はNGだし、ましてや触るなんてもってのほかだ。それだけに、ここの盧舎那仏にはいっきに親近感がわいてしまう。



そしてまた、日本史上で最も有名な鐘といえば、この梵鐘。
言わずもがなの「国家安康 君臣豊楽」の鐘だ。
日本の歴史の転換点で、時代を徳川の世へといっきに引き寄せ、そしてまた、豊臣家滅亡のきっかけにもなった。



徳川家康は、秀吉の没後、その子秀頼と淀君に寺の再興を勧め、やがて、大仏殿と大仏と、そしてこの梵鐘が完成した。
すると、この鐘に因縁を付けたのが、家康のブレーンであった僧侶・金地院崇伝。
「国家安康」「君臣豊楽」に対して、「家康の二文字を引き離し、豊臣の二文字をくっつけているのは、徳川に対する謀反心だ」という、こじつけもいいところのとんでもない言いがかりだった。
この事件をきっかけにして、大坂冬の陣・夏の陣に突入し、豊臣家は大坂城もろとも滅亡する。
家康にとっては、豊臣を滅ぼすきっかけなど、何でも良かったのだろう。
言葉巧みに寺の再建を勧めて豊臣の蓄財を減らし、その上で、豊臣を追い詰め、戦火を切らせてしまえば、あとは家康の思うがままだった。


大仏殿は1662年の地震で再び倒壊し、その後、何度か木像の大仏が造られたが、昭和48年に木像半身の大仏が焼失して以降は、本堂・大黒天堂・梵鐘だけが残っている。



※写真をクリックするとちょっと大きな画像を表示します。

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