狐の町にさまよいこんでしまったのだった。
狐の姿をした石像が向き合うようにして立ち、赤い鳥居があちらこちらに置かれている、奇妙な町の風景だった。

僕をここに誘い込んだのは、狐の面をかぶった人間であった。面のせいで、その人物が男であったのか女であったのかも分からない。もしかしたら、彼(あるいは彼女)は人間でさえなくて、人間の格好に化けた狐であったのかもしれない。
その夜はとても暑くて、夜風で体の熱を冷まそうと散歩に出た最中のことだった。
どこをどうやって歩いてきたのか、どうやら神社の境内に迷い込んでしまったようで、やがて赤い鳥居がどこまでも立ち並んでいる姿が目に入ってきた。鳥居には赤い提灯が掲げられていて、闇の中に煌々と怪しげな明かりを灯していた。

提灯の赤い灯は僕の好奇心を疼かせ、鳥居の中へと僕を誘い込んだ。
前を見ても、うしろを見ても、赤い提灯と赤い鳥居が延々とつづいているのだった。

すると、一本の鳥居の陰から、狐の面をかぶった人間(あるいは人間の格好に化けた狐)が姿を現したのだった。
彼(面倒くさいので「彼」とする)は僕に向かって小さな鳥居を差し出してきたので、僕は「なんだいこれは?こんなものを渡されても困る、散歩をしているだけなんだから」と、それを受け取らずに無愛想につき返そうとした。
すると彼は、男の声とも女の声とも、また、人間の声とも動物のうめき声とも判別がつかぬ声で、
「お願いがあります。この鳥居を、この先にある狐町に置いてきてほしいのです」と言う(今にして思えば、なぜ彼の言葉を理解できたのか不思議だ)。
「キツネマチ?」と、僕は耳慣れぬ言葉の意味を問うた。
「狐たちの住む町です。私の仲間たちが住んでいます。この鳥居をずっとずっと歩いていくと、狐町に辿り着きます。そこに、この鳥居を置いてきてほしいのです」
「それだったら、自分で行けばいいじゃないか。僕はただ散歩をしていただけなんだから」
「自分で行くことができればいいのですが、私には無理なんです」
「無理ってことはないだろう」
「足を怪我しているので、自分では行けないのです。私の代わりにお願いします」
いったい足のどこを怪我しているのだ……と思ったその時、彼はふところから刃物を取り出して、自分の足を傷つけてしまったのだった。
彼の足から流れ出た血は、みるみるうちに地面を赤く染めていった。いや、赤く見えたのは、赤い提灯に照らされていたせいかもしれない。
「きみはいったい、何をバカなことをやっているんだ。ほら、血が、こんなに出てるじゃないか」
「大丈夫です、大丈夫です」
「大丈夫なものか」
「ご覧の通り、足を怪我しているので、私は歩けないのです。ですので、私の代わりに、狐町にこの鳥居を置いてきて下さい。お願いします」
それはあまりに必死な嘆願の有様だったので、ここで彼を捨て置くのはいかがなものかと良心が痛み、僕は渋々、彼の願いを聞き入れた。

狐の面の彼から鳥居を託された僕は、鳥居の列が続くのに任せて、どんどんと歩いていった。
やがて赤い提灯は姿を消し、ひとたび夜の闇が濃い場所に入り込むと、僕の行く道を黒く呑み込んだ。ほんのわずかな街灯だけが頼りだった。
そうしているうちにも、何としてでもこの鳥居を狐町に届けなければいけない、という使命感にも似た気持ちが湧き上がってきたのだった。もはや僕には、ただ散歩をしていただけ、という気分は消えてなくなっていた。

やがて鳥居をくぐり抜けると階段に突き当たり、そこを上りきったところに路地がのびていた。
ぽつぽつと灯る白色の街灯を頼りに、僕はその路地を奥へ奥へと足を踏み入れていった。

路地を突き当たったところには、狐の姿をした石像や赤い鳥居が、所狭しとごちゃごちゃと置かれていた。
彼から託された小さな鳥居と同じようなものが、あちらこちらに立てかけてある。
ここが狐町なのだと分かった。
僕はすっかり汗ばんでいた。鳥居を握り締めた手にも、じっとりと汗がにじんでいるのが分かった。
そして、そこにあるたくさんの鳥居と同じように、僕の手にした鳥居を立てかけようとしたら………

「…………ださい…………かぁ?」
僕の肩を揺さぶりながら、問いかける声がした。
「起きてくださーい。ちょっと、あんた、大丈夫かぁ?」
深く眠っていた意識が覚めてきて、ようやく僕を呼ぶ声を聞き分けることができた。薄く目を開けると、僕の目の前には警備服を着たおじさんがいた。知らない人だった。
「あ、あれっ?狐町?」
僕は素っ頓狂な声を上げて、体を起こした。どうやら横になっていたらしい。それも、ずいぶん長いこと横になっていたらしい。体のあちこちが痛んだ。
「狐町は?どこです、狐町は?」と僕。
「キツネマチ?」と警備服のおじさん。
「鳥居は?」と僕。
「鳥居?」とおじさん。
僕が目を覚ました場所は、神社の境内の片隅にあるベンチの上だった。
「何か夢でも見てたのと違うか?ずいぶんいい気分で酔っ払って寝ていたみたいだけど、そろそろここも片付けだから、早く帰ってな」
警備服のおじさんはそう言って立ち去った。
自分が散歩のついでに神社に立ち寄ったこと、そこで狐の面をかぶった人物に出会ったこと、小さな鳥居を狐町に置いてきてくれと頼まれたこと、そして狐町に辿り着いたこと……と、この夜、自分の身に起こったことを初めから思い返していったが、最後に狐町に辿り着いてから先が、どうしても思い出せないのだった。
僕はベンチの上で座りなおした。すると、何か固いものが靴のかかとに触れた。
足元を見てみると、そこには小さな鳥居が落ちていた。
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