2008年12月29日

松島・円通院

瑞巌寺から歩いてすぐのところにある円通院は、わずか19歳で早逝した伊達光宗の菩提を弔うために建てられたお寺。



光宗は2代藩主忠宗を父に、そして初代藩主政宗を祖父に持ち、文武に秀でた才能を愛され、世子として将来を期待されていた。



「大悲亭」と呼ばれる本堂は、茅葺屋根のたたずまいが、どこか田舎の民家を思わせるような温もりのある造り。
光宗が江戸住まいの時に納涼のために使っていた亭を、愛息の死を悼んだ忠宗がこの地に解体移築したという。



光宗の死にはいろいろと不穏な噂もあり、初めての江戸で体調を崩してそのまま帰らぬ人となったことで、外様大名から優れた君主が出現することを恐れた江戸幕府が光宗を毒殺したのではないか、とも囁かれている。
境内のいちばん奥には、光宗の霊廟である「三慧殿(さんけいでん)」が建つ。



堂内にはとても美しい厨子があり、馬上の光宗像と、彼に殉じて死を選んだ7人の家来の像が祀られている。
厨子の細部には、バラの花や、ダイヤ、クローバー、ハート、スペードなど、当時としては珍しいデザインが施されている。
これは、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した仙台藩士・支倉常長が西洋から持ち帰ったもの。



この支倉常長も不運の人物だった。
藩主・伊達政宗の命を受けてスペインやローマへと渡った常長だったが、目的だった通商貿易の交渉は実現せずに失意のうちに帰国。



さらに、帰国した常長を待っていたのは、キリスト教弾圧の嵐だった。洗礼を受けていた常長は、当然、日本にも居場所を失い、もはや世の中の表に出ることもかなわず、息を潜めるようにして悲運の最期を遂げる。さらには、常長の息子も召使がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、支倉家は断絶してしまう(その後再興)。



伊達光宗と支倉常長。円通院に足を運ぶと、二人の男の悲運な人生について、しみじみと考えさせられる。

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