高山寺といえば「鳥獣人物戯画」が有名ですが、もうひとつ有名な絵が、石水院の床に掛かるこの掛け軸。
「樹上座禅像」(鎌倉時代・国宝)とも呼ばれるこの絵の中にいるのは、高山寺を再興した明恵上人(※絵は複製)。
こうした祖師像を描く肖像画の通例とはまったく異なり、木の上で座禅を組み、瞑想に没入する僧のたたずまいに、ただただ畏敬を感じないではいられません。
修行に生き、自らを厳しく律する僧だったのであろう。そう想像することは難くありません。「樹上座禅像」は、明恵上人という人物をよく伝えているのだと思います。
わずか8歳にして父母を失った明恵は、9歳にして出家、高尾神護寺や奈良東大寺などで修行を重ねます。
しかし、当時の仏教の荒廃や党派争いなどに嫌気がさして、23歳にして紀州の山の中にこもることとなる。
彼が信奉し、師としていたのは釈迦のみでした。たくさんの人の手にまみれる以前の仏教に近付き、信仰の原質をただひたすらに追求したかったのかもしれません。
修行に対してそれほどまでに真摯な姿勢は、時に、彼を過激な行動へと駆り立てました。
自分の修行生活に怠惰を覚えた彼は、一刻も早く「体をやつして人間を辞し」と思い立ち、目をえぐることや手を切り落とすことなどを考えたあげく、目をえぐったら経文が読めなくなるだろうし、手を切ったら印が結べなくなると考え、結果、耳ならば不便はないだろうということで、自分の耳を仏壇に縛り付けて剃刀で耳を切り落としてしまいます。
自分の五体満足な体を失い(体をやつして)、異形の風体となる(人間を辞す)ことで、修行と信仰に没入しようと考えたのかもしれません。
また、明恵は19歳の頃から40年に渡って、自分の見た夢についての記述をする(「夢の記」)のですが、眠っているあいだの“夢”もまた、彼にとっては修行の場だったのでした。
明恵と同時代の名僧たち、栄西(臨済宗)・道元(曹洞宗)・法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)らは鎌倉仏教の新宗派を興していきましたが、しかし明恵は、そうした宗派の護持などにはまったく興味がなく、釈迦の理想に近付くために修行に邁進していきました。
しかし、彼がただ孤高の僧だったのかといえばそうではなく、たとえば、新興宗派の中で衰退にあった東大寺の学頭に招かれて華厳宗再興を託されたり、また、交流のあった栄西が臨済宗を明恵に託そうとするなど、これらのエピソードからも、明恵が当代切っての名僧であったことは間違いありません。
そして、高山寺に入って修行を続けた明恵のまわりには、彼が求めたわけでもないのに、いつしか、多くの弟子たちの姿があったともいいます。
やがて明恵の思想は「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」の七文字に結実します。
“人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持つべきなり。
僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。
乃至、帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。
このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。”
「あるべきようわ」は、何かと誤って解釈されるようなのですが、「自分らしくあるがままに」でもなく、「あるべき自分をわきまえて」という意味でもなく、これは明恵なりの現世を大切にする精神の結実でもありました。
たとえば、寺で修行する以上は、寺をきれいに保ちつづける心を持つことが、僧たちの「あるべきよう」と説くのです。当たり前のことといえば当たり前のことなのかもしれませんが、この当たり前の実践の大切さを、修行の第一歩ととらえたのかもしれません。
だから、明恵はこうも述べました。
“我は後世たすからんと云ふ者にあらず。ただ現世に先づあるべきやうにてあらんと云ふ者なり。”
私は来世にて救われようなどと思ってはいない、ただこの今現在においてまず「あるべきよう」にあろうとしているのである、と。
【参考】白洲正子「明恵上人」(講談社文芸文庫)