2009年05月08日

【展】阿修羅展・講演会メモ(前編)

備忘録。
東京国立博物館で開催中の「国宝 阿修羅展」の記念講演会「国宝 阿修羅像について」(4/25)のメモを2回に分けて掲載。

(1)興福寺西金堂について

阿修羅像をはじめとする八部衆や十大弟子像は、もともとは興福寺西金堂(1717年・享保2年焼失)に安置されていたもので、聖武天皇の皇后である光明皇后(701-760)が、母・橘三千代の一周忌の供養のために建立。

光明皇后は、自身が最も帰依した経典「金光明最勝王経」を立体化するために、西金堂を建立したのではないかと考えられる。
「金光明最勝王経」とは、懺悔を重要視した経典であり、懺悔の末に幸福がもたらされるとする現世利益を説いている。また、光明皇后の夫・聖武天皇の諸国国分寺建立の勅命にも大きな影響を与えた。

西金堂の須弥壇には、八部衆や十大弟子像とともに、金鼓(こんく)である「華原磬(かげんけい)」と、その金鼓を打ち鳴らす役目を与えられた「波羅門(バラモン)立像」が安置された。「金光明最勝王経」によると、波羅門の打ち鳴らす金の鼓の音が響き渡り、それは人々に懺悔を説くように聞こえたという。
興福寺に伝わる「興福寺曼荼羅図」(鎌倉)には、阿修羅をはじめ、十大弟子らとともに波羅門と金鼓が描かれており、西金堂の須弥壇を平面的に表現する。
※『国宝 阿修羅展』の展示は、「興福寺曼荼羅図」のパネル〜「華原磬」〜「波羅門立像」を紹介することで、興福寺西金堂=「金光明最勝王経」の立体曼荼羅…という提起をし、阿修羅像への導入部とする工夫がなされている。

(2)「金光明最勝王経」と光明皇后と留学僧・道慈

「金光明最勝王経」を漢訳したのは、唐の僧・義浄(703年)。
その漢訳を、日本からの留学僧・道慈(702年入唐〜718年帰国)が持ち帰り、日本に紹介する。
道慈は、当時の唐皇帝からも賞賛された優秀な学僧。日本に帰国後、興福寺に住み、光明皇后の知遇を得た。
そうしたことから、道慈は、仏像製作や須弥壇を含めて、興福寺西金堂の造営に深く関わっていたのではないかと考えられている。

光明皇后(光明子)という名前は、「金光明最勝王経」の経典に由来するのではないかという指摘もされている。
また、奈良の王朝では「金光明最勝王経」が重んじられていく(聖武天皇の国分寺建立の勅命など)。

(3)「金光明最勝王経」と“懺悔”のプロセス

1. 前提 … 懺悔の前提として、仏に帰依すること。
2. 発露 … 仏の前ですべての罪を告白すること。
3. 懺悔 … かつての罪業と現在の煩悩を悔い改め、心を浄化する。
4. 随喜 … 現世の行いに喜びを持つ。
5. 勧請 … 仏の来臨を願う。たとえば仏像製作。
6. 回向 … 自分の修めた功徳により、仏の世界へと向かう。


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