2009年08月26日

山形遠征編(4)悲運の姫君

山形城下の専称寺というお寺に、初代山形藩主・最上義光の娘の駒姫のお墓があります。



時は、関ヶ原の合戦の数年前。日本は豊臣の天下にありました。
駒姫は東国一の美女と名高く、その噂は上方の豊臣家にも届いていました。時の関白は、秀吉の甥の豊臣秀次。
秀次は駒姫の噂を聞くと、最上義光に駒姫を側室に出すように迫りました。義光は断わり続けましたが、秀次の再三にわたる要求に折れ、姫が15歳になったら嫁がせると約束します。



そして迎えた運命の1595年の夏。
駒姫は京に到着し、まだ旅の疲れも癒えぬその最中、高野山に追放されていた豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられてしまいます。それが7月15日のこと。
そして、秀次の一族を粛清するべく、秀吉の命によって、側室や子供たちも京都の三条河原で処刑されることとなりました。その中に、まだ京に到着して間もない駒姫の名前もありました。
父の義光は、必死で愛する娘の助命嘆願に奔走しましたが、その甲斐もなく、8月2日、駒姫は秀次の他の側室らとともに三条河原に引き立てられ、首を刎ねられました。



辞世の句は「罪をきる弥陀の剣にかかる身のなにか五つの障りあるべき」。
駒姫は、大名の娘らしく、その死を受け入れたと伝わっています。
姫の京への到着と、秀次の切腹。運命が大きく変わったのは、わずか数日の違いでした。



専称寺は、父・最上義光が娘の菩提を弔うために建てたお寺です。
その境内には、近代の歌人・木俣修が詠んだ歌碑があります。

 慶長の悲話を縁起とする寺にまゐのぼりきて彌陀にぬかづく

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