2009年11月24日

東京の秋・雑司ヶ谷霊園

始めて先生の宅を訪ねた時、先生は留守であった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
私はその人から鄭寧に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある或る仏へ花を手向けに行く習慣なのだそうである。私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵を回らした。



先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の眉間に認めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。



私は先生に向かってこういった。
「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主にはならないでしょう」
先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。
「今度お墓参りにいらっしゃる時にお伴をしても宜ござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃありませんか」
先生は何とも答えなかった。



実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであった。私はたちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さえまだ伴れて行った事がないのです」

「君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。



「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」

「その人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」


……夏目漱石の「こころ」の舞台にもなった雑司ヶ谷霊園。
“先生”の表情に射し込む暗い影が解きほぐされていく過程で、しばしばこの場所が登場していましたね。

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この記事へのコメント
石庭さんの東京シリーズもいいですね〜!毎日、しっとりと
拝見していますよ。
雑司が谷とはちょっとゆかりがありまして、この霊園のすぐ
近くにも住んでいたことがあります。鬼子母神もなつかしい。
昭和にタイムスリップしてしまいそうだけど、サンシャイン
が見えて現代か、と思い直す。でもそこに都電が来て旧車両
だったりするとまたわけがわからなくなる。
そんな「眩暈」「彷徨い」感覚が大好きです。
Posted by hayate at 2009年11月25日 12:40
>hayateさん
そうなんですか〜、雑司ヶ谷にお住まいだったのですか!
このあたりは、とても静かでいい場所ですよね。
そうそう、池袋の繁華街と背中合わせに、こういう場所があるのが面白いところですよね。
ぶらぶら歩いていると、なんというか、あっち側に足を踏み込んでしまいそうな。
Posted by 石庭 at 2009年11月26日 00:37
>ぶらぶら歩いていると、なんというか、あっち側に足を踏み込んでしまいそうな。

まったくです。同じ霊園でも、谷中のほうが観光地化して開かれて
いる感じがしますね。青山霊園もまた違う雰囲気だし。
あっち側、みたいのがぽつんと現れるのが東京の面白さですね。
Posted by hayate at 2009年11月26日 00:51
>hayateさん
谷中墓地の方は、そうですね、あのあたりはすっかり有名なスポットなので、散策している人も多いし、雰囲気が違いますね。
雑司ヶ谷界隈は、なんというか、もっと素朴な雰囲気というか、散策目的の人もそれほど目に付かない感じでしょうか。
あと、雑司ヶ谷は、あちこちに猫が多いなぁ…という印象でした!
Posted by 石庭 at 2009年11月27日 01:04