2010年01月21日

冬の庭−智積院

朝。息をひそめて、ほとけさまに手を合わせる。



それから、息をひそめて廊下を歩く。



いつもの順路とは反対に歩いてみると、



ぱっと視界がひらけて、目の前に現れた冬の庭に息を呑む。



なんだ、やっぱり誰もいないじゃないか。



冬の庭に気を許した僕は、思い切り息を吸い込み、吐き出す。白い息は頼りなげに消えていった。


冬の庭というものも良い。



そこに見るのは、はかなさか、あるいは、春までのあいだ、寒さをじっと耐えて待つ生命か。



収蔵庫で長谷川等伯・久蔵の父子の「楓図」と「桜図」を見た後は、境内を歩く。



楓も桜も、季節の一瞬にのみ生命力の発露を見せるけれども、



やがて葉は落ち、花は散るわけで、



そういうはかなさを知っているからこそ、昔の人は、絵の中に生命力を閉じ込め、永遠であることを求めたのかもしれない。

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