2010年01月26日

京都の街の一歩奥〜崇導神社

785年、藤原種継暗殺。



当時の天皇であった桓武天皇は、この事件に端を発して、もともと不仲であったとされる弟・早良親王を共謀者として捕らえ、淡路島へと配流する。



しかし、無実を訴える早良親王は食を断ち、配流の途中で絶食死してしまったのだった。



その後、桓武天皇のまわりでは、第1皇子である安殿親王が病に倒れたり、皇后が病死するなどの不幸が相次ぐこととなる。



これを早良親王の祟りと恐れた桓武天皇は、祟りを鎮めるために鎮魂の儀を行うなどするものの、当時の都である長岡京では疫病や天災が相次いだ。
結局、長岡京がわずか10年で廃され、平安京へ遷都することとなったのは、桓武天皇の早良親王への恐れが大きな要因だったともされている。遷都後、なお祟りを恐れる桓武天皇は、早良親王に対して崇導天皇という名を追号した。



都の鬼門の方角に位置する上高野には、早良親王を祭神とする崇導神社が建つ。
京都市内には、他に上御霊神社と下御霊神社が早良親王を祀っているが、早良親王のみを奉祀しているのは、京都ではここだけだ。
鬱蒼とした木々が生い茂り、昼なお薄暗いこの場所は、早良親王の無念を鎮めるための場所だと思うと、なお鬱々とした雰囲気に包まれてくるようだ。
雅やかな観光地と背中合わせに、こうした場所がぽっかり口をあけているというのが、京都の面白いところだったりする。

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