展覧会の趣旨としては、美術館の所蔵している作品のうち、彫刻やら油彩やら写真やらといった従来の区分では分類しきれない、“その他”として分類された作品群とその周辺の作品を紹介する、というものだった。京都国立近代美術館が“その他”の分類を設けたのは1978年というから、やはり現代美術はなかなか従来の分類法では括りきれないということなのだろう。
会場に入れば、まず、マルセル・デュシャンのレディメイド(既製品)の作品がお出迎え。男子用小便器にデュシャンがサインを入れただけの、あまりにも有名な「泉」も置いてあるし、雪かき用シャベルにやはりサインを入れた「折れた腕の前に」や、ただのガラス球である「パリの空気50cc」などもある。
同じブースには、森村泰昌がマン・レイの写真を引用したセルフポートレート「たぶらかし(マルセル)」が壁面に飾られ、横尾忠則の油彩画「トイレ」はデュシャンの「泉」への返答のようでもある。
他のブースに目を向ければ、ピカソやマティスのデッサン的な版画作品から横尾忠則や池田満寿夫の版画へと飛び、さらに東松照明の「京まんだら」や都築響一の「着だおれ方丈記」といった作品へとつづいていくし、ヌード写真と野島康三の写真が並べられると、その中央には川端龍子の日本画が掲げられている。
会場を通して並べられた作品群は、ジャンルも技法もばらばらで、一見、混然としているようでもあるが、難しいことは考えずに、頭の中でそれらのイメージをつなげながら、自分なりに意味を見つけてみるという作業も楽しい。
そういえば、森村泰昌のセルフポートレート写真が、いくつかのブースでポイント的に置かれているのが印象的だった。
野島康三の1930年の「仏手柑」から森村泰昌の「フィンガー・シュトロン(ノジマ)」、トーマス・シュトゥルートやオリヴィエ・リションの作品から森村泰昌の「ポートレート(九つの顔)」、ヴォルフガング・ティルマンスとジュヌヴィエーヴ・カデューの写真作品に挟まれて森村泰昌の「私の妹のために/シンディ・シャーマンに捧ぐ」…といった具合。