2010年10月18日

北陸妄想(8)瀧谷寺

永平寺をあとにして、えちぜん鉄道の永平寺線で福井口まで乗り、そこで三国芦原線に乗り換え、三国方面へと向かった。
日本海が近づいてきていた。行方不明になった知人の足跡を辿る僕の旅も、終わりが近づいてきていた。



三国駅で降車し、向かった先は瀧谷寺だ。たきたにでら、と読むのかと思っていたのだが、これは「たきだんじ」と読むのだった。
本堂や観音堂は江戸期の建築で、境内にはそれなりに歴史の風格のある建物が並んでいる。
お堂に上がると、お寺の女性の方が簡単に寺の歴史などを説明してくれた。真言宗の智山派の寺院で、総本山は京都の智積院であるとか、そういったことだ。
ひととおりの説明を聞いた後で、僕は知人の写真をその女性に見せた。「この男性がしばらく前にここに来たはずなのですが」と訊ねてみると、彼女の表情には、一瞬、ギョっとした色が浮かんだようにも見えた。あるいは気のせいかもしれない。その女性は、曖昧な笑みを口元に浮かべて、覚えていないと恐縮しながら言い、僕から目を逸らした。僕は、彼女に余計な気を遣わせてしまったかな、と思った。
駅からしばらく歩き、踏み切りを渡ると、やがて瀧谷寺の門が見えてきた。



門をくぐり、本堂までの参道は木々におおわれて、日差しが強い日中は、濃い陰影を作り出している。



参道の先には、鐘楼のある山門。
織田信長の重臣であり、かつてこの越前の統治を任されていた柴田勝家が、天正年間に寄進したものと伝わる山門だ。



それから庭園。池泉式の庭園は、江戸時代前期から中期頃の作とされる。



観音堂の前には石庭。



そういえば、この瀧谷寺の宝物殿には、織田信長名義で天下布武の印のある書状が遺されていた。
天下布武。武によって天下を治める。



書状には、伐採をするな、乱暴狼藉をするな…といった、寺院に対する禁止事項が記されていた。
永平寺でも同様の書状を見ることができたが、こうした書状ひとつひとつが、この越前まで信長の力が及んでいたことを物語っていると考えると、歴史の面白さを感じるのだった。



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