昨日の日曜日の京都は三つの祭りが行われていた。
町衆の熱い心意気を肌で感じることができるのが、上御霊神社の還幸祭である。
上御霊神社を知らない方もあるかもしれないが、「応仁の乱勃発地」といえば思い当られるかも知れない。
地下鉄烏丸線鞍馬口駅を出ると、南西のところ2、3分にある。参道境内は祭りの露店が所狭しと立ち並び、烏丸通にも熱気が漂ってくる。




御霊(ごりょう)さんの名で親しみのあるこの神社の正式名は「御霊神社」である。
上御霊さんとも呼ぶが、それは寺町丸太町下るの「下御霊神社」と呼び分けるときに使う。
画像はClickしてご覧ください



今出川口(河原町今出川交差点)での巡行模様だ。牛車に鉾と神輿が一同に巡行する。
今年の巡行は下廻りである。










上御霊神社は御霊信仰の中心となり、皇室の産土神として、また京都の守護神として崇敬を集めてきた京都で最も古い神社の一つである。これらの鉾は各氏子町に飾られ、今年は「さし鉾」が見られた。
鉾先がうねる鈴の音が響きわたり、御霊会の空気が今出川口に漂った。
御霊神社神官に続いて巡行は続く。









行列巡行の間待機していた神輿列の登場となった。
この後、河原町今出川の交差点は四方の車が止められ、御霊の移っている神輿が交差点を占拠し、乱舞することになる。



この続きは明日に。

月刊誌として通巻300号間近
発売中/ 京都パンカルチャー 特集 男だって食べたいパン
メルマガ「京都電脳新聞」 コラム"京に癒されて" も合わせてお読みください。
→→→→→→→→→→→→無料定期購読受付中←←←←←←←←←←←←
神社メモ
町衆の熱い心意気を肌で感じることができるのが、上御霊神社の還幸祭である。
上御霊神社を知らない方もあるかもしれないが、「応仁の乱勃発地」といえば思い当られるかも知れない。
地下鉄烏丸線鞍馬口駅を出ると、南西のところ2、3分にある。参道境内は祭りの露店が所狭しと立ち並び、烏丸通にも熱気が漂ってくる。




御霊(ごりょう)さんの名で親しみのあるこの神社の正式名は「御霊神社」である。
上御霊さんとも呼ぶが、それは寺町丸太町下るの「下御霊神社」と呼び分けるときに使う。
画像はClickしてご覧ください


今出川口(河原町今出川交差点)での巡行模様だ。牛車に鉾と神輿が一同に巡行する。
今年の巡行は下廻りである。










上御霊神社は御霊信仰の中心となり、皇室の産土神として、また京都の守護神として崇敬を集めてきた京都で最も古い神社の一つである。これらの鉾は各氏子町に飾られ、今年は「さし鉾」が見られた。
鉾先がうねる鈴の音が響きわたり、御霊会の空気が今出川口に漂った。
御霊神社神官に続いて巡行は続く。









行列巡行の間待機していた神輿列の登場となった。
この後、河原町今出川の交差点は四方の車が止められ、御霊の移っている神輿が交差点を占拠し、乱舞することになる。



この続きは明日に。

月刊誌として通巻300号間近
発売中/ 京都パンカルチャー 特集 男だって食べたいパン
メルマガ「京都電脳新聞」 コラム"京に癒されて" も合わせてお読みください。
→→→→→→→→→→→→無料定期購読受付中←←←←←←←←←←←←
神社メモ
御霊神社 神紋/有職桐
旧府社。
祭神は崇道天皇(早良親王、光仁の御子)・他戸親王(光仁の子)・井上皇后(光仁の后)・火雷神(菅原道真、北野)・藤原大夫神(藤原広嗣)・文屋宮田麿・橘逸勢・吉備大臣(吉備聖霊とも)のいわゆる八所御霊(八所御霊には諸説がある。)を祀り、相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典侍局・小倉季伴、そして若宮に和光明神(菅原利子)を配祀する。
これらの諸神は、たとえば、『樵談治要』に「八所御霊と申は、むかし謀反をおこして、その心ざしをとげず、あるひは又何事にても、うらみをふくめる霊をまつられたる社なり」とあるように、いずれも怨霊の神々で、当社はその怨霊を慰撫するために、桓武天皇の御宇に勧請したという(社伝)。
すなわち、この頃、疫病が流行し、そのため死亡者が多く出たが、それはこれら御霊の祟であるとされ、貞観五年(863)五月二十日、京都の神泉苑で御霊会が行われた。
その時の御霊は崇道天皇、伊豫親王(崇道の御子)、藤原夫人(伊豫の母、吉子)、観察使(藤原仲成か)、橘逸勢、文屋宮田麿等で、この御霊会が当社ならびに下御霊神社の創祀であるという。
−『神社辞典』−
下御霊神社
社伝によれば、大同二年(八〇九)不運のうちに亡くなった伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊をなだめるために、承和六年(八三九)に創建されたといわれている。祭神は、後に、崇道天皇(早良親王)、吉備真備、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿、火雷天神を加えて八所御霊としている。
当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の都市整備により当地に移転してきた。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(一七一六〜三六)霊元天皇は当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。
本殿は、寛政三年(一七九一)仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。
境内の垂加社には、江戸時代の国学者、山崎闇斎を祀る。
−境内案内より−
旧府社。
祭神は崇道天皇(早良親王、光仁の御子)・他戸親王(光仁の子)・井上皇后(光仁の后)・火雷神(菅原道真、北野)・藤原大夫神(藤原広嗣)・文屋宮田麿・橘逸勢・吉備大臣(吉備聖霊とも)のいわゆる八所御霊(八所御霊には諸説がある。)を祀り、相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典侍局・小倉季伴、そして若宮に和光明神(菅原利子)を配祀する。
これらの諸神は、たとえば、『樵談治要』に「八所御霊と申は、むかし謀反をおこして、その心ざしをとげず、あるひは又何事にても、うらみをふくめる霊をまつられたる社なり」とあるように、いずれも怨霊の神々で、当社はその怨霊を慰撫するために、桓武天皇の御宇に勧請したという(社伝)。
すなわち、この頃、疫病が流行し、そのため死亡者が多く出たが、それはこれら御霊の祟であるとされ、貞観五年(863)五月二十日、京都の神泉苑で御霊会が行われた。
その時の御霊は崇道天皇、伊豫親王(崇道の御子)、藤原夫人(伊豫の母、吉子)、観察使(藤原仲成か)、橘逸勢、文屋宮田麿等で、この御霊会が当社ならびに下御霊神社の創祀であるという。
−『神社辞典』−
下御霊神社
社伝によれば、大同二年(八〇九)不運のうちに亡くなった伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊をなだめるために、承和六年(八三九)に創建されたといわれている。祭神は、後に、崇道天皇(早良親王)、吉備真備、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿、火雷天神を加えて八所御霊としている。
当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の都市整備により当地に移転してきた。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(一七一六〜三六)霊元天皇は当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。
本殿は、寛政三年(一七九一)仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。
境内の垂加社には、江戸時代の国学者、山崎闇斎を祀る。
−境内案内より−
これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。


