内外の隔ては無いはず

   補足になりますが、昨年11月27日の「第240回定時集会 」において、中田善亮表統領は、
 
 〈M集会員〉
   今、お道が世界に向けて「発信すべきこと」は何か、伺いたい。

〈中田表統領〉
   発信というのは対象や内容をハッキリさせた上で行わないといけない
   お道から教外世の中に向かってのと、本部から教内に向かっての事はまったく違う
   また、本部から直接伝えるべき事と教会や教区・地域を通して伝えてもらいたい事を整理しいろいろな手立てを用いて発信していきたいと相談しているところだ。
〔みちのとも 立教180年2月号  53頁〕

と発言。「月日親神・教祖」は、

〈おふでさき〉
四 108  これを見よ 世界も内も隔てない 胸の内より掃除するぞや
十二 2   この掃除 内も世界も隔てない 銘々の心みな表すで 
十五 47 この道は 内も世界も隔てない 世界中の胸の掃除や

 
 めん/\(銘々)の親が言うとは思うなよ。世界中のをや(月日親神)が言うのや。何処(どこ)に隔ては無い程に。
 おさしづ 明治21.8.30

 神は隔て無いで/\。しっかり聞き分け。さあ/\聞き分け。内も外も同じ理や。
 おさしづ 明治22.2.4 (巻一350頁)

 内外隔て無き一つ理という。‥さあ内外の隔ては無いで。どれから人衆寄せるやらこれ知れん。心の理によって、どんな役割するや知れん。
 おさしづ 明治22.11.25

 これまで皆々どんな事も諭してある。さあ/\内外の理は内外の理は無い
 おさしづ 明治22.12.27

 内も外も隔て無い。どんな事でも隔ては一つも無い
  おさしづ 明治23.6.21

 世界へ対し面目(めんぼく)やで。これは間違うのや。内外隔て無く、理を諭し、古き事情に諭し〈て〉ある。内々〈の者は〉聞き分けてくれ。‥内々外もめん/\(銘々)事情聞き分け
 
おさしづ 明治25.5.20 

など、

神は内と世界とを一切隔てない。内も外も世界中、一切隔たりのない同じ一つの理なのである

面目で、世界(外)に対しては よい顔して話し、内へは内へで、また違うことを言っていると、これは間違うぞ。
   内外の隔てなく、教えの理を諭してくれるように以前から諭してあるはずだ。こうした事情を皆々よく聞き分けてくれ

などと仰るのに、表統領は、 

   お道から教外世の中に向かっての事と本部から教内に向かっての事はまったく違う

と「月日親神・教祖の教えの理」を真っ向から否定、正反対のことを言っていますので もう目も当てられない、とても始末に負えない状況です。
   これもやはり「信仰的・教理的異端」であります。もうこの際「中田善亮教とその教理」とか、単行本でもお出しに なられたら宜しいのではないでしょうか
   誠に残念ながら教団運営の長が、教理から乖離した誤った情報発信をなさっていらっしゃる。
   至極、残念無念であります。


どうしたら命が切れるのか

   さて続いては「切る(切り払う、片付ける)、切れる(散る、果てる、暮れる)、切られる」についてです。

 命でも危うき処(ところ)でも心という。これだけの事が分からねば〈、〉どうもならん。
 おさしづ 明治23.6.20 午後4時

人命に関わるような危険な状況においても心一つである。この心次第に心通りの守護という、これだけのことすら解らなければ、どうもならんぞ
と仰います。

   命の繋ぎは、お金ではなく「」だと仰っています。

 いんねん(因縁)というは、切るにも切れん、離そ(離そう)にも離されん、 どうむ(どうも)ならんなと言う。身上障りには心を洗い替えて、思うように行かん(いかん)いんねん
 いんねんの理を分かり兼ねるから、いんねんという
(言う)。 
 おさしづ 明治23.6.27   

切るにも切れず、離そうにも離せず、どうにもならず、なかなか思うようにいかないのが〈悪〉因縁であり、この因縁の理が分からない、理解できないこと、そのものが〈悪〉因縁なのだ」と仰います。

 一つには切るに切られん残念の中、残念々々々々の理があった。
 残念の理
(ほど)怖わい(怖い)ものは無いで。残念の理〈、〉一代で行かにゃ(いかにゃ)二代、二代で行かにゃ三代、切るに切られんいんねん付けてある。これは退くに退かれん理によって。
 なれど神に切る神は無い。なれど切られる心はどうもならん。仇言(あだこと)にも捨言葉〈、〉
神は大嫌い。いんねん付き、身の処なってこそ。
 澄んで/\/\澄み切った理が世上の理、当然の理。仇言はすっきり嫌い。すっきり立て替え。 
  おさしづ 明治24.1.28 夜9時 刻限 

残念の理(神の残念の返やし)ほど怖いものはない。残念の理は、一代で果たせなければ二代、それでも果たせなければ三代と、どうにも切るに切ることのできない〈悪〉因縁を、心次第、心通りに付けているのである。この残念の理からは、逃れようにも、なかなか逃れることはできない。
   理由もなしに人間を切るような神ではないが、結果的に神に切られてしまうような、お前たちの心の持ち方・心遣いが、どうにもならないのである」と仰います。

  これまで始め掛けたる道具、精だい(盛大?)使えば破損。新しい道具、今一時切り払い、新しい道具直したい。破損一つの理もある。何かの事も聞き分け。
 新しい道具
〈、〉日々よう切れる。 美しい道具〈、〉古い道具、がた/\(ガタガタ)道具もある。古い道具放って置き、新しい道具はよう切れる。使うてめん/\(銘々)一つ、めん/\(銘々)という心、一時事情急ぐ。 
 おさしづ 明治24.11.1(陰暦9.30) 

 人を、道具にたとえてのお諭し。なかなか厳しく感じます。

 どうでも運び掛けたら運ばにゃならん。切れんように運ばにゃならん。切れやせんで。あらかた(粗方)(しも)たら切れるか、と思う。切れやせん。一つ手を繋ぐ模様。一つ/\治めにゃならん。 一つ手(を)繋がにゃならん。
 切れた事なら
切れた(所)から火が入る、風が入る、水が入る。怖わい恐ろしい〈ことになる〉〈しかし〉誠続く理があれば、どんな中でも怖わい事は無い。
 おさしづ 明治24.12.19 夜 

切れないように、しっかりと手を繋いで治めていかなくてはならん。もし切ったり、切れたりしたら、そこから火水風(神の「手入れ」か)が入って、怖い、恐ろしいことになるぞ」と仰います。

 広くの足場、国々まで掛けてくれ。先ず/\の事情、どれだけの足場を掛けても、縄切れば(縄を切れば/縄が切れれば)落ちる。安心なるは一時、風の向き何時(なんどき)難風に誘われな(いつだって難風に誘われるなよ)。どんな理にも遭わんよう〈に気をつけろ〉。一時速やか洗い切る。こう
〈、〉という事情が間違う。風雨という、どういう理が発しる(発する)とも分からん。前々さしづ、一時洗い切って十分〈に注意して〉足場〈を〉(くく)り掛け。
 おさしづ 明治26.5.11 夜 

  数多くある「足場」にたとえてのお諭しの一つです。

 これから向う(向こう)は人間の理で通る。人間の心で通る、とても/\行かせん(行けはしない)で。一筋の糸が切れたら
〈、〉暗がり同様の道である。
 
おさしづ 明治27.1.22 午後12:30 刻限御話

「糸」といえば「中島みゆき 」さん。確か、洲本大教会/統北分教会の信者さんだったかと思います。
   しかし、インターネットなどの噂で「脱会した」とか多く見るのですが、実際のところはどうなんでしょうか。系統の方、教えてください。

 第四、梶本、まさゑの事情願
 さあ/\さしづ/\、前々の掛かり一つ縁談 (みな)諭したる誰々との縁は無い。
   あちら伝え こちら伝え、やれ嬉しいと〈心と心の〉理が合えば、十分の縁と知らしてある/\。それが生涯の縁と言う
   一時尋ねる処、将来の理に治まらねば治まろうまい。このやしき(屋敷)十分と思うた中に、どういうものと思うやろ。無理という理は治まらんと言う。一つの話の理になるやろ。神様のさしづならばと言うても、後々〈に〉事情〈を〉拵え〈れ〉〈、〉止めるに止められん。こういう事にな〈るのであ〉れば、〈夫婦の間を〉ほどいて了(しも)うてやれ。あゝいう風(ああいうふう)になりても後々〈に、神様〉は親切やい、成程という〈日が来る〉
   夫婦の中切れたという。夫婦の縁は無くとも〈、〉互い/\〈一れつ〉 きょうだいという縁は結んでくれ。‥これまで夫婦の中〈、〉罪の絶えも無き日を送りた。なれど、十分なら運ぶがよかろう、と諭したる (諭してある)。なれど、よかろうと思うた理が悪くなる。
   不承々々(ふしょうぶしょう)の理は治まらん。すっきりするがよい/\。
 おさしづ 明治28.5.22 朝
 
 当時、婚姻には「足入れ(試用期間か)」と「輿入れ(正式入嫁)」とがあり、また婚姻外の「妾(めかけ)」などがありましたが、この御指図は現在の「縁談の破談」
ないし「婚姻の解消」にあたる件についてのお諭しと思われます。

切るな!
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「おつくし考 ③」につづく

最終見直し 2017.3.21  15:45

おつくし=献金?
   去る、立教179年(2016年)10月27日、中田善亮表統領が、本部直属教会長・教区長への方針発表をしたその中で、

   また「おつくしについても、しっかり説かねばならない。おつくしができなくなるとたすかる道が途切れてしまうからである。「おつくしによって、たすけてもらった経験があれば、その理が分かる
 説く上には「おたすけ」をしっかりすることが前提となる。「お金のことは言いにくいと避けていてはよふぼくおつくしの意味がますます分からなくなる
 「おつくし命のつなぎであり親神様にお受け取りいただく真実である。
〔みちのとも 立教179年12月号 28~29頁〕

と発言。 また、天理教道友社のインタビュー「新方針について聞く」では、

 「おつくしについても、しっかり説かねばなりません。おつくしができないのはその意味が分かっていないからだと思います。 「おつくしは負担ではありません親神様にお受け取りいただく真実です。教会長はこれを丁寧にそして自信を持って説いていただきたいと思います。 
 そのためには、やはり「おたすけ」をすることです。真剣にたすかりを求めるなら、「おつくしは必ず出てくることです。
   考えてみれば「おつくし」も「ひのきしん」も、すべて日々が基本です。こういった日々の行ないを自然に身に付けるには子供の頃からの丹精が大切です。親の態度が一番の丹精だと思います。 
   おさしづに、
「人を救ける道なら、救かるは天の理である。日々の理である。この道理聞き分けてくれ。」
(明治34.11.4)
とあります。日々の理の重さをお示しくださるお言葉です。
〔みちのとも 立教180年1月号 13頁〕

   と言っています。
   また、天理教事典の「つくしはこび(尽くし・運び)」の項には、

   つくし・はこび
   信仰的実践の徳目としてあげられる。普通には「心を尽くし、身を運んでつとめることの意味」である。
   しかし、実際の場面で熟語的に用いられる場合には、親神に対する報恩の念からする、教会への献金、教会への参拝、教会での奉仕を指すことが多い。
   欲の心を離れて、欲の心の対象となる金銭をお供えし(このことは、しばしば「おつくし」と言われている)、自らのために働く日常生活を離れて教会へ行き、親神に対する報恩の行ないにつくことが、何よりも信仰的歩みの第一であると考えられ、信仰的成人への具体的な過程として、そういう努力をするように教えられている。
〔天理教事典  526頁「つくし・はこび」〕

とあります。また「つくす」の項には、

   つくす
「つくす」は教語とは言えないが、心を尽くすことの大切さが、信仰生活の中で広く勧められている。
   特に「親神に対し誠の心直実の心を尽くすべきである」というように言われる。「つくす・はこぶ」という言葉が一緒に用いられることが多い。「心を尽くし身を運ぶ」ということが、信仰生活の要諦であることを示している。
   そして実際には、心を尽くすことがお供えという形であらわされ身を運ぶということが教会への参拝と奉仕の姿にあらわされている
〔天理教事典  526頁「つくす」〕

   また「御供金(おそなえきん)」の項には、

   御供金
   にお供えする金銭。
   特に部内教会および布教所や信者から、記名された御供金で、奉賽金に該当しない喜納金をいう。
〔天理教事典 131頁「御供金」〕

とあります。
 記名の喜納金を「御供金」と言うのですね。
   では、奉賽箱(賽銭箱)に入れる奉賽金は「お供え」には該当しないという見解なのでしょうか。
   何か法律上のカラクリでもあるのでしょうか?
 
   本部の見解としては「つくし・はこび」とは、教会への献金、教会での参拝、奉仕を指すようです。


   さて、
おつくしができなきなると、たすかる道が途切れてしまう
という、表統領の発言は本当なのでしょうか。
お金のことは言いにくい避けていては
と発言しているので、表統領は間違いなく
おつくし=献金
と言っています。

   それでは「 月日親神様・おやさま」に伺ってみましょう。

   金銭一つの道じゃない神一条は金銭ではいかん。‥
   金銭で出来る理であろうまい神一条は金銭で出来まい
   おさしづ 明治22.8.12 (陰暦7.16)

   一日の日でも心たんのう(足納)の理は受け取る。金銭の心は受け取りは無い。
   心だけ金銭何程(なにほど)の金を持って来て今日からと言うても受け取るものやない。これだけよう聞き分け。
   おさしづ 明治23.6.17 午前三時半

   思うよう〈に〉成るもいんねん(因縁)」成らんもいんねん。皆んな(みんな)だん/\いんねん知らず/\越せば、どんないんねんが持って出るや分からん。どねしても(どのようにしても)成らんがいんねん
   金銀力(きんぎんちから)で行けば、世上に一つの理もあるまい。金銀力で行かんがいんねんという。
   おさしづ 明治23.8.26 補遺

   これもと(これも、と、)金銭づく(尽く)でする事はどうでもなる。なれど、心を養う理は、金銭ではいかん。これしっかり聞き分け。勝手はならん。金銭で出ける事は小さい。
   おさしづ 明治34.5.25

  〈神の〉自由(じゅうよう)〈の守護〉というは何程(どれだけ)の金銭積み立てたと言うて(いうて)成るものやない。
   おさしづ 明治35.10.7

    道という尋ねる一つ理、所々一つ〈教会〉名称、この理〈、〉金銭や智者学者で出来たものやない。   
   おさしづ 明治37.7.15

   元というものは、金銭ずくめ(尽くめ)で買えるものやない。真実の一つ心を出し、一つどうこう理を尋ねば、心は勇んで来る。
   おさしづ 明治37.12.17

   この道というはもう言うまでのものである。金銭ずく(尽く)で求められやせん。国々所々あちらこちら遠き所より運び来る。
   又(また)日々稼ぎという(みな)働いてる人の事を思え金銭稼ぎ(朝から晩) まで働いたとて何ぼうの(どれだけの)あたゑ(与え/給与)あるかよう思やん(思案)せい。
   おさしづ 明治40.4.10 (陰暦2.28)午後五時半

 これらの「おさしづ」は「金」で検索したものです。要約すると、 

・この信仰の道や、神一条は、お金ではない。お金ではできない。お金でできることではない。
・神は、たんのう
(足納)の心は受け取るが、お金ばかりでご守護いただきたい、という心は受け取らない。
・金銀や力ばかりでは どうにもならないのが
〈悪〉因縁である。 
・お金ばかりでは、心は養えない。お金で出来ることは小さい。
・大金を積み立てたからといって、それで神に自由自在に守護いただける、というものではない。
・この道の信仰は、お金ばかりで求められるものではない。
 朝から晩まで働いて、どれだけの給与、収入を得られるのか、働いている人のことを、みんなよく考えなさい。

ほどになります。
また逸話篇には、 

  
おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速ご恩返しの方法をお伺いした。教祖は、
金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行くことが一番のご恩返しやから、しっかり おたすけ するように」と仰せられた。
〔教祖伝逸話篇127頁「72 救かる身やもの」文中〕

   ご恩返し(ご恩報じ)の方法は、
金や物でなく、たすけて欲しいと願う人をたすけに行くことが一番
と明言されています。

 教祖は「心一条になったので救かったのや」と仰せられ、大層喜んでくださった。定吉は「このような嬉しいことはございません。このご恩はどうして返させていただけましょうか」と伺うと、教祖は、
人を救けるのやで」と仰せられた。それで「どうしたら人さんが救かりますか」とお尋ねすると、教祖は、
あんたの救かったことを、人さんに真剣に話させていただくのやで」と仰せられ‥。
 〔教祖伝逸話篇 171頁「100 人を救けるのやで」文中〕 

 と、やはり、
ご恩報じは、人をたすけること (たすけ一条)」
自分がたすかったことを人さまに真剣に話すること (話一条がたすけの台)」
だと仰います。そして、 

命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや
 〔教祖伝逸話篇 292頁「178 身上がもとや」文中〕 

 と、人間の生命や身上(身心の健康ほか)に関わることが最優先事項だから、教祖は先ず、
人を救けなさい
神様のお話を取り次ぎなさい
と仰い、
お金なんて、その次、二の次なんだよ
と仰っておられます。
 
 中田善亮表統領の言う、
・「おつくしは命のつなぎであり、親神様にお受け取りいただく真実である。
・「おつくしができなくなるとたすかる道が途切れてしまう。
という、
献金をしなければ、親神様が真実を受け取れずに命が切れる
を意味するお言葉は「おふでさき、みかぐらうた、おさしづ」の原典、「教典、教祖伝、逸話篇」の教義書にはございませんし、そもそも神様はそんなことは仰っていません。 

 ここまでだけでも、教祖の御教えを曲解し歪曲した、宗教法人天理教の代表役員「表統領」ともあろう人物の、本来の御教えから乖離した「本末転倒な公式発言」であると言わざるを得ません。誠に残念の極みであります。

 1月26日、春季大祭の神殿講話で、真柱様は、

教えどおりに通ることができる今日こそ、神一条の信念を確立し、行きわたらせ、末代かけて伝えるように努力し続けなければならないと思う
神一条とは、どんな時も、あくまでも親神様の思召に沿って思案し、判断し、行動することであります。したがって、まずは親神様の思召をたずね、教えの理を求め、究めようとする求道の精神がなければならない
〔みちのとも 立教180年3月号 15頁〕

と仰せになるのに、表統領が、真柱様の言うことを全く聞かない、ということなのでしょうか。

 とにかく真柱様には、僭越ながらもご善処をお願い申し上げます。


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はて「尽くす」とは?


「おつくし考 ②」につづく
   最終見直し 2017.3.8 09:45

   (はは)のむかしがたり   中山伊千代 (本明実支部長)

   その頃(明治十六、七年頃)、二つ上の御母堂様(中山たまへ様)と二人で、
「おばあちゃん、およつ(午前十時のおやつ)おくれ」
と、せがみに行くと教祖は、お手を眉(まゆ)の上あたりに翳(かざ)して、こちらをご覧になり、
ああ、たまさんおもとか。ちょっと待ちや
と仰って、お座りになっている後ろの袋戸棚(ふくろとだな)から出して、二人の掌(てのひら)にのせて下さるのが、決まって金平糖(こんぺいとう)でした。

   御母堂様は、お孫さんにあたられ、教祖はいつも『たまさん』とお呼びになり、私は曽孫(ひまご)にあたりますが『おもと』とお呼びになりました。
   御母堂様のことを、私は「お姉さま、お姉さま」とお呼びしては、二人して教祖の所へ、日に何度も遠慮なしに伺うのでお食事中のこともありました。そんなとき教祖は、
ちょっと待ちや
と仰せられながら、召し上がっていらっしゃるお茶碗の「ごはん」を掌にのせ、それをお箸で寄せ固めて(これを大和で「てのくぼ」と言う)、二人の掌にあけて下さったことも、たびたびでした。

   ある日のこと、例によって、二人して遊びに参りますと、教祖は、
たまさんおもとと二人おいで。さあ負うたろ
と仰って、二人一緒に教祖の背に「おんぶ」されながら子供心に、
「おばあちゃん、力あるなあ」
と感心していたものでした。
   今にして思えば、真(まこと)にもったいない話でございます。

   それから覚えておりますることと言えば「最後の御苦労」と言われております、明治十九年二月、十五日の拘留を終えてお帰りになる時、私は確か、数え年八才ぐらいであったと思うてますが、人力車に乗せて連れて行ってもらいました。
   もちろんそれまで、小さい子供など邪魔になりますし、一度も子供らがお迎えに連れて行ってもらったことはありませなんだ。
   その時は、とても教祖のお顔どころか、お姿も、よう見せてもらいませなんだ。前を見ても後ろを見ても人力車が続いて、まるでお祭りにでも連れてきてもろたように、あたりが賑やかであったことを覚えています。
   後年、
「『曽孫の末にいたるまで、連れてきてやっておくれ』とお言葉があって、私ども曽孫まで連れて行ってもらった」
と聞かして頂きましたが、
「『これが最後』ということを、もちろんご存知の上での教祖のお言葉であった」
ことを思いますたびに、胸がいっぱいになってまいります。

   また、こよし祖母は、祖父重吉(じゅうきち)の「お人好(ひとよ)し」を頼りなく思い、実家へ帰る決心をした途端、眼が見えなくなり、本席夫人おさと様を通じて、
こよしはなあ、先が見えんのや。そこをよう諭してやっておくれ
と教祖のお言葉をいただき、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びをされた途端、ご守護をいただいたそうです。

   こんな話を姑(はは)から聞かせて頂くたびに、どんな身上をいただいても、どんなに思い詰めるような事情に出遭っても、すぐにお屋敷へ飛んで行って直々にお言葉をいただけた、その頃の方たちを、成人の足らぬ私は、今でもどんなにか羨(うらや)ましく思うことでございます。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」31-32頁〕


中山たまへ御母堂様
昭和10年9月24日撮影
〔みちのだい第14号「巻頭口絵」より謹写〕

「みちのだい第14号」52頁より謹写


中山正善「ひとことはな志」221頁より謹写


「袋戸棚」
最上の引戸部を「天袋」という
襖(ふすま)状の場合も多い

京の「金平糖」

【①の参考】「逸話篇」

  一三四   思い出

   明治十六、七年頃のこと。孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモトの二人で、
「お祖母ちゃん、およつおくれ」
と言うて、せがみに行くと教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、
ああ、たまさんとオモトか、ちょっと待ちや
と仰って、お座りになっている背後(うしろ)の袋戸棚から出して、二人の掌にのせて下さるのが、いつも金平糖であった。

   またある日のこと、例によって二人で遊びに行くと教祖は、
たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ
と仰せになって、二人一緒に、教祖の背中に「おんぶ」して下さった。二人は子供心に、
「お祖母ちゃん、力あるなあ」
と感心したという。

註一   この頃、たまへは、七、八才。モトは、五、六才であった。
註二   およつは、午前十時頃。午後二時頃の「おやつ」とともに、子供がお菓子などをもらう時刻。それから「お菓子そのもの」をも言う。 

〔「天理教教祖伝逸話篇」224-225頁〕


【③の参考】「逸話篇」

   一二五   先が見えんのや

   中山コヨシが、夫重吉の「お人好し」を頼りなく思い、生家へ帰ろうと決心した途端、眼が見えなくなった。
   それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、
コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ
とお言葉を下された。
   これを承って、コヨシは申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、眼が、また元通りハッキリ見えるようになった。

註   中山コヨシは、明治十六年八月二十七日結婚。これは、その後まもなくの事と言われている。

〔「天理教教祖伝逸話篇」211-212頁〕


「先人の面影」
   
   年老いての手習い  中山こよし様

  祖母が、中山重吉祖父(教祖の孫)に嫁いで間もない、ある秋晴れの日、せっせと「張り物」をしていた祖母は、急に辺りが薄暗くなってきたのに気がつきました。
「おかしいな、まだ日没には間があるのに」
と思っているうちに、視界がぼやけて、何も見えなくなりました。
【註】張り物 - 洗濯した衣類や布を糊付(のりづ)けし、板などに張り付け、乾燥させる作業。
   ビックリして、折から来合わせた飯降さと様にこの由を伝え、教祖の所へ走って、お伺いしていただきますと教祖は、
なあ、こよしは先が見えんのやで。そこをよう、諭してやってくれ
とお言葉をいただいたそうで、さと様を通じてこのお言葉を聞かれた祖母は、その場に泣き伏しておサンゲされると、眼はすぐ元のようにご守護いただかれたのです。あまりの鮮やかな神様のお手入れに、ただただ恐縮するばかり。

   それもそのはず。
   ついさっきも張り物をしながら、夫のあまりの「お人好し」を、繰り返し胸のうちで不足していたのです。
   それに朝のうち〈に〉他家からいただいた一升入りの赤飯を、祖父は一人でペロリと平らげてしまったのです。
   日頃のモヤモヤとした不足が一気に爆発して、
「もうこれまで。帰らせてもらおう。とても望みはない」
と、離婚して帰ることを思い詰めて、張り物をしていたところなのでした。
   教祖のお言葉が、骨身にこたえないはずはありません。

   若い頃は、こんなひと幕もあったと聞かせていただくと、大変微笑(ほほえ)ましく、懐かしく思われますが、祖母はこの節に固く心に誓うところあって、その後は夫を助け、身を粉にして活動されたと聞かせて頂いております。

〔みちのだい第19号「先人の面影  年老いての手習い 中山こよし様  中山伊千代」〕より


「張り物」の様子

「永尾広海本部員 月次祭講話」 

   コヨシ様の事について

中山慶一先生が、祖母にあたられる中山コヨシ様のことについて、次のようなことを書き綴っておられます。

   昔の方々が、神様からいただかれたお仕込みには、かなり手厳しいものがあったようである。
「教祖はこの屋敷は鏡屋敷やで』と仰せられたが、まったく、どんな些細(ささい)な心遣いも、ただちに教祖の御心に映るものだから、恐ろしくて、埃(ほこり)の心など遣(つか)いたくとも遣えなかった」。
   よく、こんな前置きをして、祖母(中山コヨシ)から聞かされた話の中に、次のようなものがある。

   なんでも祖母が、私の家へ嫁して来てから間もない頃のことである。
   祖父というのは本当の「お人好し」という質(たち)の人で、物事をテキパキと頭や肚(はら)で処理するというような、いわゆる働きある人ではなかった。
   これに反して祖母は、どちらかと言えば利かぬ気の気性を持ち、所帯向きのことについても非常にかっちりした人であった。

   ある日のこと、近所にお祝いがあって、大きな重箱にいっぱい、約一升ばかりの赤飯をいただいた。おりから、空きっ腹を抱えて帰宅した祖父は大好物のこととて、まるで子供の如く喜んで、舌鼓を打ちながら、一人でそれをペロリと平らげて、平気な顔をしていた。
   これを知った祖母は、急に浅ましく情けない気持ちがして、
「こんなに大飯食らいで、大した働きのない人と連れ添っていたのでは、行く先案じられる。いっそ今のうちに別れて帰ってしまおうか」
と、心に少なからず不足をした。と、その間、急に辺りが真っ暗になって何も見えなくなってしまった。
   折りよく家に立ち寄って下さった、おさと様(ご本席様夫人)の声を聞きつけて、
「おさとさん、えらい俄(にわ)かに真っ暗になりましたが、お日様が、どうかなさったでしょうか」
と言うてお尋ねした。
   変な挨拶に驚いて、
「何を言うているのや、この人は。こんなにカンカン照ってござるのに」
と言いつつ、おさと様が駆け寄って見て下さった時には、もう祖母の両眼は、完全に潰れていたのであった。
「これ、コヨシさん、一体どうしたのや。目の玉の色が、まるっきり変わってしまっているがな」
驚きの言葉を残して、おさと様は一散に教祖の元へ駆けつけ、事の次第を申し上げて、お諭しを仰いで下さった。
   教祖は静かにお聞き下されて、
コヨシはなあ、先が見えんのやで。よう、そこを諭してやってくれ
と仰せ下された。
   ふたたび駆け戻られた、おさと様は、
「これ、コヨシさん。教祖は『先が見えんのや』と仰っているが、おまえ何か、ひどい「先案じ」をしたり、不足をつけたのやないか」
あー、それなれば、たった今、したばかりなのである。この教祖の御一言こそ、実に祖母にとっては肚(はら)の底まで見通されてのお言葉であった。
   かえす言葉もなく、心からお詫び申し上げた。と、急に、前におられる、おさと様のお顔が、ボンヤリ眼に映りだしてきた。かくて一瞬にして、元通りにご守護をいただくことができたのであった。

   昔の人々は、どんな些細な心遣いも、ただちに教祖の心眼(しんがん)に照破(しょうは)されることを恐れて、常に反省のうちに、絶えず理に添いきるべく努力を続けられた。

   こうして人々の心は鏡の如くに澄みきっていた。澄みきった心の鏡には、ひとすじの埃(ほこり)も大きな曇りとして、ただちに、教祖のお仕込みによって拭(ぬぐ)っていただくことがでいたのである。…

〔「みちのとも」昭和48年6月号  永尾広海本部員 五月月次祭神殿講話「徹底したひながたの実践を」〕より

「絵解きで学ぶ十全の守護と八つのほこり」
227頁より謹写
画  金巻とよじ氏

最終見直し 2016.8.8  12:00

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