稿本天理教教祖伝  108頁、第六章 ぢば定め 明治五年」に

    明治五年六月十八日には、梶本惣治郎妻おはるが、四十二歳で出直した。

と記述があります。この件に関して、各書に詳しく書かれていますので、ご紹介致します。

    
    望み通りにしてやったのやで (現代用字変換)

    さて御家(おうち/中山家)はご正妻(まつゑ様)も定まりて、ご夫婦お仲睦まじくお暮らしあそばされましたが、それから一年経ちますと、檪本(いちのもと)、梶本様へお嫁入りになりました「おはる様」がご死去致されましてござります。お年はまだ四十二の分別盛り、ご夫婦の仲も、いたって睦まじゅうお暮らしになって、お子供もすべて六名おあげ(お生み)なされたのに、最後の男のお子をお生みあそばされて、その産後が縺(もつ)れまして、ついにそのままご長眠なされましたものですから、夫 惣治郎様の嘆きは一通り(並大抵)やございません。

    教祖も、ご実子の事でありますからお越しあそばされましたが、更にお悔やみもあらせられず(「お悔やみもなく」の謙譲語)して、惣治郎様の嘆きなされるを見そなわして(ごらんになって)仰るには
『神さんがな「望み通りにしてやったのやで、嘆くことはあるまいがな」と仰るで』
と、お言葉を繰り返してお聞かせになりましたそうでござります。実に恐れ入ったことではござりませんか。

    これはどういうわけかと申しますれば、この前年八月十三日に、檪本の祭礼(村祭り)がござりまして、親族を招いて酒盛りを致されました時に、いささかの事で客に不体裁になりましたところから、ご夫婦でちょっと、どうやこうやと「もの言い(口論)」を致されましたが、なにぶん一杯機嫌の時ですから、惣治郎様が言い過ぎたのであります。
「鍛冶屋ごときが、おぢばの娘さんとは性が合わん。もったいない。去(い)んでくれ(帰ってくれ)」
と仰った。
    それからそのとき辻忠作先生も、ご親族とのことで招かれて行っていましたから、中(間)へ入って「まあまあ」と言うて双方を宥(なだ)めて、後へ理の残らぬように、治めなされましたそうでござりますが、これがすなわち「切り口上(きりこうじょう)、捨て言葉」というものでござります。

    神様のお話に
『愛想尽かしや、捨て言葉、切り口上は、噯(おくび/げっぷ)にも出すやないで』
とお戒め下されますは、ここの事でござります。
「去んでくれ」と仰ったお言葉が、はしなくも神様のお受け取りなさるところとなって、神様の方へ引き取られてしもうて
『後悔しても間に合わん。望み通りにしてやったのやで』
と、恐れ入ったお言葉を、いただかにゃならんようになりましたのでござります。

「春子様ご死去、生むなり死ぬなりやった」と。(辻先生に承る) 
(中略)
    そこでこの、おはる様のご死去の時のお話は、これ「雛型(ひながた)」でござります。よって
『愛想尽かしや、捨て言葉、切り口上は、噯にも出すやないで』
と仰せられるお言葉と
「もし切り口上、捨て言葉を使えば、使う通り、望み通りに神様に扱われねばならん」
という事を心に治めて忘れぬようにしましたならば、ムカムカと腹立つ時でも、まずまずと心を取り直して、捨て言葉、切り口上を出さず、親切な話ができるようになるでござりましょう。

諸井政一集 前篇
道すがら 外篇 一
松惠様御魂之理 より


「いささかの事で客に不体裁」になった理由

    秀司先生の前の徳利(とっくり)には、酒でなくて味醂(みりん)が入っていたという。それで秀司先生が
「なんで私にだけ味醂 飲まさんならんね」
と怒られたのだが、秀司先生は酒が弱かったので、惣治郎様としては
「それでは味醂なりと飲んで喜んでもらおう」
と味醂を出したものという。
    しかし秀司先生としては、何も言わないで黙って味醂を出された事が面白くなかったのかもしれない。また、そんな事で怒られた惣治郎様も面白くなく、酒がまわってくると奥様のおはる様に向かって…(中略)         
    もっとも味醂云々の事は、故植田英蔵先生から聞いた話である。

あらきとうりよう 58号
100頁
高野友治
おさしづにみる教祖御事跡 より


    大きいお櫃 空になる (現代用字変換)

    梶本おはる様ご死去の前に、神様お話あるには
『大きいお櫃(ひつ)に飯一ぱいある。小さいお櫃に飯一ぱいある。大きいお櫃から、小さいお櫃に飯移したら、大きいお櫃 空になる
とお聞かせ置き下さりしと。その通り、小児ご出産あそばさると そのまま、おはる様お引き取りに相成(あいな)りたり。
    またご死去の後には折々、教祖にお出ましになり
『わしは春という者でございます。神さんの側へ置いてもらえば、わしはさぶし(寂しい)事ないけれど、おばん愛し子が可愛い。おばん愛し子が可愛い
と仰りたりと。
    この「おばん」というは姑(しゅうとめ)様のことにて、おきみ様と申せし方なり。このお方、おはる様ご死去より年経ちてお出直しとなれり。出里は辻忠作先生のお家にて、先生の伯母(おば)にあたるお人なり。

諸井政一
正文遺韻
参考記録
小寒様御逝去 より


    おはる様と惣治郎先生の馴れ初め(なれそめ)は、逸話篇に以下のようにあります。

    心の美しいのを見て、やる

    嘉永五年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。
    教祖の三女おきみの、人に優れた人柄を見込んで、檪本の梶本惣治郎の母が辻家の出であったので、梶本の家へ話したところ話が進み、辻忠作を仲人(なこうど)として縁談を申し込んだ。
    教祖は
『惣治郎ならば、見合いも何もなくとも、心の美しいのを見て、やる』
と仰せられ、この縁談は めでたく調(ととの)うた。おきみは結婚しておはると改名した。
    惣治郎は、幼少の頃から気立てがよく素直なため、村でも「仏(ほとけ)惣治郎」と言われていたという。

天理教教会本部
稿本天理教教祖伝逸話篇
六  心を見て

    おはる様は「人に優れた人柄」で、惣治郎様は、神様が「心が美しい」と仰り、村では「仏惣治郎」と称された、共に人格優れたご夫婦で、しかもおさしづにて

さあさあ苦労の中で隠れた者を連れて出るで。細かに書き取れ。中にも話を聞いた者少ないから、ちょっと皆聞いてくれ。明治24.1.28 夜9時

と神様が仰い

さあさあ、残念で残念で残念でならなんだ。神様が出さしゃった。同上

と「誰か」を呼び出し連れ出して、おさしづとして話をさせます。
    矢持辰三氏は著書で「秀司様では」という見解ですが、秀司様のお出直しは神様からすれば「苦労の中で隠れた」という状況ではないように思いますし、他のおさしづ

影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前に隠れた者やで。なれど日々働いている。案じる事要らんで。勇んでかかれば十分働く。明治40.5.17

のように、教祖が直々お出ましになっているおさしづもありますので、私は「教祖」という可能性が高いと思います。

    もとい、その中で神様が仰る、他の「残念な親戚たち」と違い、梶本家に対しては

今しんばしら、鍛冶屋鍛冶屋。七、八年というは、いつもいつも厄介になった。その嬉しさは、どうでもこうでも忘れられん忘れられん。 明治24.1.28 夜9時

と、貧のどん底時代のうちの七、八年、中山家を支え続けた功績を称えられています。

    これほど人柄に優れ、心が美しく、仏のようで、教祖の「世界たすけ」を支援し、「よろづたすけの道あけ」である「をびや許し」を初めて戴き、神の守護を世界に示し、初代真柱の実の両親となられるほどの理のあるご夫婦が、なぜそのような事になってしまったのか。

    これまで管理人は「夫婦のあり方をお示し下されたもの」と、無理矢理にでも思い込むように努力(?)しましたが、やはり治まらぬ疑念に日々、悶々(もんもん)としていました。
    が、この疑念を払拭(ふっしょく)してくれるかもしれない、論説に出会うことができました。


    深谷忠一先生の推論

    以下は筆者の推測・悟りで申すのですが…おはる様は、この最後のお産の時に
『「をびや許し」を受けておられなかったのではないか』
と思うのであります。

    前年の8月に、親族が村の祭りに寄った時の酒の席で惣治郎様が、お酒の強くない秀司様のためを思って味醂を出されたのに対して
『みなさんに返盃(返杯)ができないではないか』
と秀司様がクレームをつけられた(高野友治「教祖余話」18頁)。 それでこの時の揉(も)め事が原因で、 おはる様が
『おぢばへ帰りにくくなっていたのではないか』
と思うのです。
    そしてまたそれまでに、すでに6人も子供を生んでおられますから
『無理をして教祖に「をびや許し」を願いに帰らなくても大丈夫だろう』
と思われたのではないかと推測するのです。

    つまり教祖が「をびや許し」を出す最初の台になされたお方が、後になってそれを「軽んじる」ことになった 。それでお産の後の拗(こじ)れで生命を縮める大節を見せてまで「をびや許し」の「理の重さ」を示されたのではないか。そう考えた方が、この一連のできごとに納得できるのではないか』
と筆者は思うのであります。

天理大学おやさと研究所
グローカル天理
2015年11月号
深谷忠一
教祖伝探求(17)
おはる様お出直し より

    教祖は「をびや許し」について

神の言うこと疑うて、嘘と思えば嘘になる。真実に、親に許してもろうたと思うて、神の言う通りにするなら、常の善し悪しを言うやない、常の悪しきは別にあらわれる。産については、疑(うたぐ)りの心さえなくして、神の教え通りにすれば速やかに安産さす。常の心に違いなくとも、疑って案じたことなら、案じの理がまわるで。
諸井政一集 前篇  道すがら 外篇 一  帯屋許之理 より

と仰せ下さいます。

『「をびや許し」をいただいても、神様の仰ることを疑って、嘘だと思えば、ご守護も嘘になる。真実に心底から「安産のお許しをいただいた」と思って、親神の仰る通りにするなら、日頃の善悪(天理に適った心遣い、生き方、通り方か、否か)は「をびや許し」には関係しない。日頃の天理に適わない心遣い、生き方、通り方は、これとは別にあらわれる。お産については、親神を疑う心をなくして教え通りにすれば、速やかに安産の守護をする。日頃の心遣い、生き方、通り方が、天理に適っているとしても、親神を疑って不安、不信に思ったり、心配したりすると、その通りの守護になってしまうで』

と仰せになっているのです。

    おはる様の場合は、一年前の酒宴の件が原因で、をびや許しを「いただかなかった」か、「いただいても疑って案じの理がまわった」かの、二つの理由が考えられます。
    そしてこの件が、後の「こかん様のお出直し」にまで発展していきます(後日詳しく特集します)。


最終見直し 2015.12.10  21:55