信仰の地固め   中田みちゑ (本部婦人)

   深みゆく大和(やまと)の秋景色のなかでも、特に一葉々々と散りゆく柿の木になる色鮮やかな実が、いっそう大和の秋の趣きを深めております。
   わけても古い農家には、御所柿(ごしょがき)が、門の内ら(内側)の屋根に覆いかぶさるように立っているのが大和らしい姿です。

   教祖ご誕生にゆかりある、三昧田の前川家の内庭にも、古い柿の木が植わっています。

   私の家でも、信仰の初代、儀三郎(ぎさぶろう)祖父(別名:左右衛門/さえもん)の時代からあったという、古い御所柿の木が前庭にあり、ある年には「虫」のため、二つ三つ、申しわけ程度の時もあり、また、枝が折れんばかりに、たわわに実る年もあります。

【註】御所柿…現奈良県御所(ごせ)市周辺原産の完全甘柿品種。

   この古い柿の木と調和するように、奥まった所に、これまた百年はゆうに過ぎた古家があります。
   初代当時からのもので、真っ黒に煤(すす)けきった天井や柱に、文久の初めから教祖にお救け頂き、手塩にかけてお導き頂いた、初代の信仰の息づかいが秘められているようです。

   その昔、年代ははっきりしませんが、教祖が、庄屋敷村から歩いても五、六分とかからない豊田村の、この屋敷へ来られて、
しっかり踏み込め/\、末代までも、しっかり踏み込め/\/\
とお言葉を下されたそうです。
   祖父は、この尊い親心のにじみ込んだ屋敷を、末代永く子孫に伝えんがため、二代、三代に、くどくど言い伝えておりました。
   そして信仰とは、その場限りの、一代限りの短いものではなく、生涯末代に続くものであることを、敷地の地固めをすることによって、お教え下さった教祖の御心を、今日も新たに私たちは味あわせて頂いています。

   教祖は晩年、十八回にも及ぶ獄舎へのご苦労のお道すがらがございますが、
   明治十九年の櫟本分署での最後のご苦労中、朝方になってもランプの灯が点いていたので、教祖は、つと立って、ランプの灯を吹き消されたお話がありますが、

   やはり、監獄ご苦労中のこと、教祖ご自身、使い古した罫紙(けいし)を差し入れさせられて、それで紙縒り(こより)を作られ、一升瓶(いっしょうびん)ぐらいの入る網を作られたのを、祖父に下されました。
   この網袋(あみぶくろ)を見させて頂くにつれ、
「お齢を召された教祖が、よくもまあ、こんな細かい細工物を作られたなあ……」
と、改めて感嘆させられるのでありますが、
どんな小さいものでも、大切に生かして使う
という、温かい心遣いが偲ばれるのであります。

   いづれも中田家に、いんねん結んで下されたればこそ。
   今日も教祖の御心が実感として味あわせて頂けることに、喜びをいっぱいに感じさせて頂いております。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」29-30頁〕


【参考】「逸話篇」

      四一   末代にかけて   

   あるとき教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、
しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め
と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、
この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで
と仰せになった。

   後日、儀三郎の孫、吉藏(きちぞう)の代に、村からの話で、土地の一部を交換せねばならぬこととなり、話も進んできた時、急に吉藏の顔に面疔(めんちょう/おでき)ができて、顔が腫れあがってしまった。それで、家中の者が驚いて、いろいろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄りたちの口から、
「教祖が地固めをして下された土地」
であることが語られ、
   早速、親神様にお詫び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは鮮やかに、すっきりとお救け頂いた。

「年寄りたち」とは、中田しほと、その末妹、上島かつの二人である。しほは、儀三郎の長男の嫁。

〔「天理教教祖伝逸話篇」69-71頁〕


   一三八   物は大切に

   教祖は、十数度も御苦労下されたが、仲田儀三郎も数度、お伴させて頂いた。

   そのうちのある時、教祖は、反故(ほご)になった罫紙を差し入れてもらって、コヨリ(紙縒り)を作り、それで、一升瓶を入れる網袋をお作りになった。
   それは、実に丈夫(じょうぶ)な、上手に作られた袋であった。
   教祖はそれを、監獄署を出て、お帰りの際、仲田にお与えになった。そして、
物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが神様からのお与えものやで。
   さあ、家の宝にしときなされ
とお言葉を下された。

〔「天理教教祖伝逸話篇」230頁〕


【参考】「道のさきがけ 教祖伝にみる人物評伝」

   仲田儀三郎
   天保二年(1831年)五月二十五日、豊田村(現天理市豊田町)に生まれる。
   左右衛門(さえもん)といい、「さよみさん」の名で親しまれた(明治になって改名)。
   文久三年(1863年)二月、妻かじの産後の肥立ちが悪く、教祖を訪ねたのが信仰の始まり。のちに、初期の信仰者の総代的存在となる。教史の重要な場面には、必ずと言っていいほど彼の名が出てくる。

   義太夫(ぎだゆう)の心得があって、警察に連行される時でも、身ぶり手ぶりで語って周囲を笑わせた。教祖とともに拘留された事もしばしば。
   明治十九年の、いわゆる「最後の御苦労」にも一緒に拘留され、三十年振りの厳寒の中、櫟本警察分署に十日間留置、檻に入れられた。この年の六月二十二日、五十六歳で出直した。
   教祖のお話を書き記したものは、
「棺(ひつぎ)に納めて埋めてしまった」
と言われている。

〔「道のさきがけ」25-27頁〕参照



教祖お手製「紙縒り(こより)の網袋」
写真は明治10年に、増井りん先生が
頂戴したものだが、仲田儀三郎先生が
頂戴したものも同様のものと思われる
おやさま 天理教教祖と初代信仰者たち」
89頁より謹写


御所柿(ごしょがき)
上下に平たい甘柿の典型であり代表格

最終見直し 2016.8.5  7:40