【参考】「教祖伝」

   面影

   高齢の教祖にお目にかかった人々は皆、譬(たと)えようもない神々(こうごう)しさと、言葉に尽せぬ優しさとが不思議にも一つとなって、何となく胸打たれ、しかも、心の温まる親しさを覚えた。

   教祖は中肉中背(ちゅうにくちゅうぜい)で、やや上背(うわぜい)がおありになり、いつも端正な姿勢で、スラリとしたお姿に拝せられた。

   お顔はいくぶん面長(おもなが)で、色は白く血色(けっしょく)も良く、鼻筋は通ってお口は小さく、誠に気高(けだか)く優しく、常に、にこやかな中にも神々しく、気品のある面差(おもざ)しであられた。

   お髪(ぐし)は、年を召されるとともに次第に白髪を混じえ、のちにはまったく雪にように真っ白であられたが、いつもきちんと梳(くしけず)って茶筅(ちゃせん)に結うておられ、乱れ毛や、後(おく)れ毛など少しも見受けられず、常に赤衣(あかき)に赤い帯、赤い足袋(たび)を召され、赤いものづくめの服装であられた。

   眼差(まなざ)しは、清々(すがすが)しく爽(さわ)やかに冴(さ)えて、お目にかかった人々は、
「何人(なんびと)の心の底をも見抜いておられるというのは、このような眼か」
と思った。

   足腰は大そう丈夫で、年を召されても腰は曲がらず、歩かれる様子は、いかにも軽やかで速かった。

〔「天理教教祖伝」165-166頁「第八章  親心」〕より


【参考】「教祖に親(ちかし)い方々」の証言です。

   お目はすすどかった

   教祖様のお目はすすどかった(鋭かった)。そらすすどい(鋭い)。
   眉毛(まゆげ)は白いように思わなんだ。

   目の力が、ようの者(他の者)と違う力があった。そこが人間やない。

〔「復元創刊号」50頁   梶本楢治郎「教祖様の思ひ出」〕より


   口元や顎はそのままや

   教祖様(おやさま)のお声は、優しいお声やった。スラリとしたお姿やった。
   顔は面長で、お政さん(教祖のご長女)は、ちょっと円顔(まるがお)やが、口元や顎(あご)はそのままや。
   お政さんは、頑丈の方、教祖様は、やさしい方やった。
   腰は曲がってなかった。

   私の八つの時やもの。

   それに東京で芝居した時に、杖ついて来はるようにしたから、エライの怒ってやった。

   頭の髪は白かったと思う。(問、真っ白ですか。答、そういうように思う。)
   
〔「復元第18号」4頁   梶本宗太郎「教祖様の思ひ出その他」〕より

   
   中山まさ様に似ている

   教祖様のお顔は、会議所にご昇天の時の写真がある、あの中に、中山まさ様(教祖ご長女)の写真がある。(あの写真のなかに、中山まさ様が写っている)
   あれに似ている。

〔「復元創刊号」42頁   梶本楢治郎「教祖様の思ひ出」〕より


この写真左方の、柱のすぐ左の人が「おまさ様」です。
この写真のお顔が「教祖そっくり」なのだそうです。


教祖ご長女「中山おまさ様」
松谷武一「ひながたとかぐらづとめ」371頁より謹写


   教祖のお写真について

「皆、平野楢蔵をして郡山に帰らしめ、同地〈の〉写真師を雇い来たりて、二十七日午前、御休息所に於いて、教祖のご臥褥(がじょく)のまま撮影せしめ、保存することにした」。(天理教来歴記事)

   皆の議によって、
「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」
に決し、平野さんが受け持って、写真屋を連れに〈大和〉郡山へ行きました。
   母様(中山たまへ御母堂様)の話では、
「平野さんが引き受けて、山瀬文治郎さんが付き添って来られた」
そうであります。

   いずれにせよ、郡山から「本田(ほんだ)」という写真屋が来て、御休息所で、教祖様のお臥(やす)み姿を撮ったのであります。この由は「増野日記」にも、その日の項に記載されてあります(明治二十年二月十九日項)。

「二月十九日(旧正月二十七日)、医師の診察をもって村役場へ死亡の届けなし、
   お墓地、埋め所、種々紛議もあり、一時止むを得ず、中山ご先祖のお墓地、勾田村頭光寺(まがたむら/ずこうじ)の墓地と決定、
   郡山より写真〈屋〉呼びて、教祖〈の〉お写真を撮る」(下略)…

   この時のお写真は、「教祖様のお顔の方からと、御後頭(おんうしろあたま)の方からとの二枚」あります。

   が先日(昭和十一年二月五日)、高井〈猶吉〉さんの話では、
『たしか、新建(しんだち)のお政やん(教祖ご長女)が、後ろから抱え起こしてお撮りしたものがあるはずや。お政やんが、こうして、しゃがんでいたのを覚えている。「まだ見える/\」と言うと、小さくなって、しゃがんでいたのを覚えている』 
とのことでしたが、
「そんな写真、遺(のこ)っていない」
と申しますと、
「たしか、お政やんがお抱きしていた。……しかし、写真がないとすると、具合が悪かったので、結局やめたんかいなあ……」
とのことでした。参考までに付け加えておきます。…

「写真屋の帰る時には、一枚も持ち帰らんように裸にして調べた」
と高井さんが話したので、
「現像など、どうしたのか」
と尋ねましたところ、
「そんなこと皆、お屋敷でやらしました。帰りには、何一つ持ち帰らせませんでした」
とのことでありました。

   原板などを買い取ったのは事実だろうと思いますが、その頃の本部で、現像などが出来たのか否か、ちょっと調べる余地があると思います。

〔中山正善「ひとことはな志 その二」66-68頁〕より


   次は、実際に「教祖のお写真を見せてもらった」という人の証言です。

   中西牛郎氏の証言

   明治三十五年四月十五日は如何なる日ぞや。予れ(われ)編者はこの日、大和に於いて、我が教祖の御真影(ごしんえい)を拝し奉(たてまつ)ることを得たり。

   この御影(みかげ)の奉置(ほうち)せらるる場所と、拝影の栄を与え給いたるその人の資格と、この御真影の写し撮られたる事情とによりて、然(さ)なきだに(ただでさえ)尊くも、また懐かしく拝し奉る予れ編者に、さらに一層の感動を与えたりき。

   ああ、語るも恐れ多きことながら、この御真影は明治二十年陰暦正月、すなわち、今年を去ること十五年前、教祖ご臨終ののち、即刻写し奉りたるものなり。

   前代の偉人が死後、画工(画家)により多少想像を混じえて写されたるものとは事替わりて、写真術の最も進歩したる今代に写されたるものなれば、生きたる教祖そっくりそのままなり。

   ただし、九十歳のご高齢にしあれば、お髪は白きこと雪の如く、お皺(しわ)は細かにして波に類すれども、八、九分の温和に、一、二分の威厳を添えさせ給い、静かに閉じたるお瞼(まぶた)には、五十年間、慈愛の眼をもって、我々人類を眺め給いたる面影を留め給い、穏(おだ)やかに緊(しば)りたるお唇には、天の福音(ふくいん)を授け給いたる名残りを遺(のこ)し給いぬ。

   しかも、このご臨終の数時間前までは、お弟子たちを枕辺(まくらべ)に招いて、千万年の後までも我々教徒、否、我々人類が記憶すべき、有り難きご遺訓を授け給いたるを憶(おも)い奉れば、ひたすら感泣のほかは無かりける。

   ああ、かかる尊き、ゆかしき御真影を拝し奉りたる予れ編者は、何をもってかこれが記念とすべきや。これぞ予れ編者が、この「教祖御伝記」を編し奉らんと感慨を起こしたる所以(ゆえん)にぞある。

〔「復元第9号」2頁  中西牛郎「教祖御傳記」(明治三十五年稿)〕より


   廣池千九郎氏の証言

   同(大正二年十一月)十六日、管長(初代真柱)閣下のお居間にて、御教祖(おやさま)直筆の、御筆先(おふでさき)十七号を拝見す。

   第一号は明治二年一月にて、十七号は明治七年の表題あり。
   一号の始めには、御神楽歌(みかぐらうた)と同一なれども、各歌とも歌末の句は少々異なり居れり。
   半枚に八行づつ記しあり。用紙は極めて粗末なり。

   次にまた、内々(ないない)御教祖(おやさま)のお写真拝見を許されたり。
   これは極めて秘密にて、ご本部員といえども、これを拝せらるるもの稀なるに、拝見を許可さるは誠に有り難きことなり。

   恐れ多きことながら、これは御教祖様(おやさま)のご帰幽翌日のお写真にて、管長閣下(眞之亮)および令夫人(たまへ)および政子(おまさ)、久子(梶本ひさ)の四人、お枕元に付き添いあり。

   御教祖(おやさま)のご容貌(ようぼう)は、右を下にして横に休まれ、顔は面長(おもなが)にて、頬(ほほ)は肉落ちていれど、お眼と眉は、天地抱き合わせの貌(かたち)をなして、宛然画(えんぜんか)けるものの如し。
   鼻筋通り口元締まり、耳太く額(ひたい)広く、まったく偉人の相を備えさせ給う。
【註】宛然画けるものの如し…そっくりそのまま描けるもののようだ。

   管長閣下の、かの如く信用せらるるは、みな予が無我の状態に、お道のために日夜働くによる。その誠のあらわれしものと思わる。

   欄外
   閣下は予に対して「まったく神様の引き寄せ」と仰せられ、「教理完成の道具」と仰せられ、それがために予に、
「今日は本部員中でも、二、三のほか見せぬものを示す。こちらにおいでなさい」
とてお居間に案内、下(上)の記事の如きものを拝見せしめたり。

〔「天理フリーフォーラム」資料コーナー⑵ 「廣池千九郎信仰日記 大正2年11月16日」〕より引用



   教祖は、生き姿はのこさない』(ひながたとかぐらづとめ 369頁)と仰せになっていたので、ご存命中に、ご自身のお写真はお撮らせにならなかったようです。

   ご昇天後、会議によって
「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」
に決まり、その写真が「二枚」現存するようです。

   お隠れから「130年」経った現在においても、いまだに公表されていないので、今後もその可能性は低いと思われます。

   しかしながら、ご長女「おまさ様」のお写真と、
「たったひとり、おやさまの内孫であった、中山たまへの晩年の写真も、おやさまのお姿を偲ぶよすがであると伝えられている」(ひながたとかぐらづとめ 369頁)
とあるように、「容貌はお二方のお写真から」、
   またその他は、「教祖に直々にお会いなされた、先達教弟方の遺される各聞書などから」、その面影をお偲びすることができます。


最終見直し 2016.8.11  9:00