2015年11月

    恩に恩をきたら堕ちるで (現代用字変換)

    神様は、
人間身上は病む日に病むと思うな。災難ある日に〈災難〉あると思うな。日々月々年々に、知らず知らずに積んだ埃(ほこり)が、天然自然の理に治まって現れ出るのや
と仰る。
息子も娘も一生、息子や娘やない。十五歳からこちらへの心は誰が遣うたか、他人が遣うたのやあるまい。みな自分が遣うたのやろう。その心が現れ出るのや
と仰る。
今日、米蒔いても今穫れぬ。後で穫れるのや。倒れてから突っ張りは要らぬ。それは悪うなったら信仰する、かなわん時の神頼みやなどと言うが、倒れてから突っ張りは要らぬ。日頃、誠を尽すから大難は小難、小難ならば無難で通らせて頂けるのや。神様は、
日頃の誠を受け取り、さあ、という時に踏ん張ると仰る
如何(いか)な危ないところでも救けてもらえる〈の〉ですね。

    借物(かりもの/身体)返す時には、息の根を切って(ひきとって)下さる。
家ならば、古くなったら再式(改装)。再式するより古くなる方が早いとなれば出直し(新築)さす。決して死なんで、出直しをさす
と仰る。
人は外出(そとで)へ行く時に、古い着物を脱いで、新しい着物と着替えて行くように、それと同じ事やで。年取った古い着物を返して、今度は生まれ子となって、新しい借物を借りて、またこの世へ出てくるのやで。なれど、恩に恩を着たら、堕ちるで
と仰る。
堕ちたら、容易に人間界へ出られん(戻れん)。これを死んだと言うのや。恩に恩をきて、人間の道を切るから、道が切れて死ぬのや、堕ちるのや。神様は、 それがいぢらしいから理を聞き分けて、堕ちぬようにせよと仰る
    してみれば人間、生きている間だけが神の守護やない。死んでも生きても、神の守護に与(あずか)っているのや。
〈みちのとも大正7年4月号「高井先生お話の一節」高井猶吉〉

    人間以外に堕ち生まれるのを「死んだ」と仰います。
    また一度、人間以外に堕ちて、その後に再び人間に生まれ出ても(戻れても)、すべて「一(いち)から」やり直しで、難儀苦労余儀なき人生を「地獄」と仰います。(いんねん/生まれ変わり⑤参照)

    神様が仰る以上、この道の教えにも、実は「」も「地獄」もあるのです。


    (イタチ)などに生まれ変わるで
    教祖はある日、参拝された方に、
『「思うようにいかん、ならんと言うて、それより死んだ方がましやと言うて水に入り、井戸へ入り、川へ入って死ぬというのは、天に捨言葉(すてことば)になる理に当たる。これを(かたき)の因縁と言うて、人間に生まれ変わり出来ずして、鼬(イタチ)などに生まれ変わるで
とお聞かせ下されている。
   このお言葉から類推(るいすい)し、自ら生命を絶つことは神様への捨言葉となり、来生は不幸な通り方をせねばならん事になると戒められている。
 
〈堀越義男「幸せを求めて」78頁「捨て言葉に就て」〉より
    
『捨言葉(すてことば)とは
これから先という、もうどうしょう、こうしょうと言うは、これは捨言葉と言う。‥めんめん(銘々)は、どうなっても、こうなってもと言うは、捨言葉と言う。‥何しても、何しても構わんと言うは、捨言葉という。
おさしづ 明治34.6.25
ご神言のように
『夢や希望を失ったり、先を悲嘆、悲観したりして「この先どうしよう…」「もうどうなってもいいわ」「先は無いし、何してもいいわ」などと、やけくそ、自暴自棄となった心理から発する、なげやりな言葉』
ことです。


   信ずべからざること
   大正時代に天理教本部の修養科に学んだ人々には、
まつえが来生(らいせい)牛馬に生まれ変わる」
と修養科で聞かされた者がかなりあるようだ。
   作者(芹沢光治良)が、この作品を発表するようになってから東京都内の見知らない信者が数人、わざわざ訪ねて来てどの人も、
『「まつえが来生、牛馬に生まれ変わる」と、本当に教祖みきが言ったかどうか聞かせて欲しい』
と、真剣に作者に尋ねた。そのある人は、
まつえこそ、信仰について女性らしい疑惑や苦悩を持った、人間らしい気の毒な夫人であった」
ことを熱心に語って、
「本当のまつえを描いてくれ」
と作者に頼んだ。
   これらの老いた信者たちの話から、まつえの死が、いかに側近者の心をも動揺させたか察することが出来たが、また天理教の初期には、信ずべからざることが、みきの言葉として側近者の間に渦巻いていたのではなかったか。
   それ故に、みきがおふでさきを書き残した意味も大きい。

〔芹沢光治良「教祖様」365頁  第八章「うちからの掃除」〕より


    屋敷の中に置く 
    松枝さんが亡くなってから一年も経たないうちに、教祖がお湯を使って(入浴して)おいでになり、姉(飯降/永尾芳枝)が教祖の背中を流しておりますと、葛屋葺(くずやぶ)きの屋根の廂(ひさし)の上に、鼬(イタチ)がいた。教祖はそれを見て
ああ、松枝が帰っているぜ
と言われた、という事を聞いております。
彼女は再び人間界に出さんが、ここよりどこへもやらん。屋敷の中に置く
と仰せられたということですが、なるほど、屋敷の中におります。

    私ら子供の時は、松枝さんを「姉さん、姉さん」と言っていましたが、その鼬(イタチ)に遭うと
「ああ、姉さん、姉さん。姉さんいるで」
と言うと、今の夫人(たまへ)様、その頃は「嬢、嬢(いと/お嬢ちゃんの意)」と言っていましたが
「甚さん、またあんなことを言って私をいじめる」
と言って、泣かれたことを覚えております。

〔新宗教 大正5年1月号「おばさん」飯降政甚〕より


   鼬というものは
   また、鼬云々(いたちうんぬん)の事も、これは私の姉(飯降/永尾芳枝)が目撃して知っている事で、決して事実無根ではない。無根でないという証拠には、私の姉が風呂場で教祖の肩を流していると、教祖は廂(ひさし)を見て、
おう、松枝もう帰っているで
と言われた。見上げると「廂の所に小さな鼬が日向ぼこり(日向ぼっこ?)をしていた」ということである。
   松枝という人は、何か神様に〈お供えが〉上がると、教祖に隠してドンドン平等寺村の実家に運んで、教祖に対しては随分辛く当たった人であるが、それに対して教祖の仰せられるには、
鼬というものは、よく物を運ぶものである。それであるから犬や猫には何かやるけれども、鼬には何もやる者がない。松枝は大食天命(たいしよく天のみこと)で、世界では無くてはならぬ道具の一つであるけれども、生前の行(おこな)いが善くなかったから再び人間界には出さぬ。生涯、鼬として屋敷の内に置く
と言われたそうであるが、これは私の姉が何よりの証人であります。

〔新宗教 大正5年3月号「新宗教一月号の余の談話に就いて」飯降政甚〕より


    神様直々のお言葉ではありませんが、増野道興(雅号鼓雪)先生は

   人間は、いっぺんに牛馬に堕ちるのではなく、恩を重ねると次は精神薄弱児のように、生まれつき人間としての正常な営みのできない身体を借りて生まれてくる。それでも心が入れ替わらず、救からなければ、次は白犬となる。白犬は家族に近いものとして座敷においてもらえるが、次は家の外におらねばならなくなる。これが牛馬である。最後はイタチになる。「イタチの道切り」と言って、こうなると、二度と人間に生まれ替わることは出来なくなる。

と仰いますが、「いっきにイタチなどに堕ちると、人間に出変われなくなる」または「人間に出変われなくなると、いっきにイタチなどに堕ちる」は一致していますが、教祖が仰るもの(いんねん/生まれ変わり⑤参照) とは少し構図が違います。教祖はこのような過程も仰せになったのでしょうか。

また

親となり子となるは、いんねん事情から成りたもの。親を孝行せず、親という理忘れ、親に不幸すれば、今度の世は、何になるとも分かり難(がた)ない/\。この話理(はなし/り)伝えておこう。
おさしづ 明治40.4.9
と、
『親不孝をはたらくと、来世来生は、何に生まれ変わるか分からないぞ』
と仰り

めんめん(銘々)の親の心に背けば、幽冥(ゆうめい)の神を背き背きて、まる背きとなってあるのやで。
おさしづ 明治21.9.18
【註】教祖に至近であった人へのおさしづのため「幽冥の神(お隠れになった教祖)」と、引き合いに出されたのであろう。

『それぞれの親へ不幸をはたらくという事は、人間の「をや(親)」である神様に対しても「まるまる親不孝」しているという事やで』
と仰るのです。

    以上「牛馬論考」という事ですすめてまいりましたが、如何でしたでしょうか。ここでまとめたいところですが、あとは皆様の悟り におまかせする事としたいと思います。

最終見直し 2015.11.30  21:45



    おふでさき         下方に追記あり!

このせかい一れつみゑる月日なら  とこの事でも知らぬ事なし               
八 51
この世界 一れつ見える月日なら     どこの事でも知らぬ事なし

月日よりみなそれ/\とみさだめて  善とあくとをみハけするぞや        八 52
月日より皆それぞれと見定めて         善と悪とを見分けするぞや

月日よりなんでこのよにくどいなら  あしきみへるがきのどくなから     八 53
月日より何でこの様にくどいなら      悪しき見えるが気の毒なから(だから)

たん/\とをんかかさなりそのゆへハ  きゆばとみへるみちがあるから 八 54
だんだんと恩が重なりその上は             牛馬と見える道があるから

とのよふなものでも月日しんぢつを  うけとりたならみなたすけるで     八 55
どのような者でも月日真実を              受け取りたなら みな救けるで

【訳】
・この世界中のすべてが見える(見ぬき見透しの)月日親神であるから、世界中のどこの事でも知らない事はない。八 51

・そして月日親神の方から、人間銘々それぞれを見極めて、神意に適った善の者と、適わない悪の者を見分けするのである。八 52

・月日親神がなぜ、このようにくどいほど言うかというと、神意に適わない者の行く末(ゆくすえ)には、悪い顚末(てんまつ)が見えているからである。
    そのまま神恩を知らずに、報恩と感謝の道に気付かずに、だんだんと恩に恩が重なったその先には、牛馬のような道が待っているので、そうなってしまうのが気の毒でならない(そうなってほしくない)からである。八 5354

・どんなに神意に適わずにきた者でも、さんげ(懺悔)して、真底から心入れ替えて、誠真実の心を定めるなら、月日親神はその誠真実の心を受け取って、どんな者でもみな救けるのである。八 55

【註】おふでさき註釈(本部)、おふでさき講義(上田嘉成氏)、おふでさき通訳(芹沢茂氏)、おふでさき拝読入門(矢持辰三氏)の、四資料の各所を熟読の上、管理人がまとめたものです。


    教祖伝    女衆かのの毒害
    その頃(文化十三年頃)、「かの」という女衆(おなごし)があって、善兵衛の寵(ちょう)をよいことに、日増しに増長して勝手の振る舞いが多く、ついには教祖を亡(な)いものにして、我が身が取って代わろうと企(くわだ)て、ある日のこと、食事の汁のものに毒を盛った。何も知らずこれを召し上がられたところ、やがて激しく苦しまれた。家族の者は驚いて、懸命に看護の手を尽す一方、その原因を詮索すると女衆の仕業であると分かった。あまりの事に驚き怒ったが、教祖は苦しい息の下から
これは神や仏が私の腹(おなか)の中をお掃除下されたのです
と宥(なだ)め許された。この寛(ひろ)いお心に触れた女衆は、初めて迷いの夢から醒(さ)め、深く己(おの)が非(ひ)を詫びて真底から悔い改め、やがて自ら暇をとって身を退いた。

稿本天理教教祖伝 16ー17頁   第二章  生い立ち より


   天理教々祖履歴      現代用字変換      2016.12.6 追記 !

   また教祖様(おやさま)は、夫の愛女加乃(かの)に対しても、心の取りようですが、私、教祖様存命中にて、直接聞きまして感じ入りましたが、前に述べました野心毒婦にでも、
我が一生と添い連れる夫に、彼(かの)が嫌意あらば妾(めかけ)にもならず、人の透く(好く?)ような夫と、一世夫婦暮らすも仕合わせ(幸せ)と日々嬉び(喜び)、彼(かの)、我が夫に敵(かたき)とならは妾にもならずと、心で悦(よろこ)居た」と、教祖に直接聞きまして感心しました。‥

   教祖の夫善兵衛主は、天性正直な人なりしかども、血気の過(あやまち?)にて、密かに家婢加乃に通ぜらる。 教祖これを知り給いしかと、毫(いささか)も嫉妬の色なきのみならず、却(かえ)りて加乃を己(おの)が妹の如くに愛遇し給いぬ。
   然(しか)るに不義非道の加乃は、教祖を殺害して、己れ中山の正妻たらん野心を起こし、一日、味噌汁の中に毒を入れて教祖に勧めしに、教祖その事とは夢にも知らずして吸い給いしかは、腹内激痛を感じ、下痢甚(はなは)だしく、遂に昏絶(こんぜつ/気絶・失神)せられたり、然れども、幸いにして蘇生し給いぬ。
   明らかにこれ、加乃が所為(しわざ)なるを知り給いしが、却りて彼(かの)が愚昧(ぐまい)を憐れみ、愛遇少しも以前に変ぜざりしかば、三年の後に到りて極悪なる加乃も、教祖の大慈悲心に感化せられ、遂に泣血(きゅうけつ)して自己の罪を懺悔して、暇(いとま)を乞うて我が家に帰れり。

松永好松遺稿 明治36年「天理教々祖履歴・甘露台の理解・世界並ニ人間原因」より


   山中彦七証言      現代用字変換       2016.12.6 追記 ! 

   ある年、夫善兵衛様は、我が家の下女「おかの」という者を妾となされましたが、御教祖様(おやさま)は少しも嫉(そね)む心なく、その「かの」を自分の妹の如くに大事にかけて、衣服または金銭、米、麦などをお与えになり、また自ら「かの」の髪を結うてやり、ご自分の良き櫛笄(しつけい)および衣装を着せて、夫善兵衛様と共に、物参り諸方見物などを致させて、 夫君のご機嫌を背けぬよう丁寧に取りなしておくれ、と頼み、また「おかの」に向かい、
お前さんがあればこそ、夫のご機嫌をとりて下さるで、日々、夫のご機嫌の良き、美しき趣きを見せてもらわれるのである
と礼を言うてござりました。
   しかるに「おかの」は悪性者にて、遂に教祖を殺して己れが本妻にならむと思い、ある日、毒を味噌汁の中へ入れて教祖様へ勧めました。教祖様はそれを知らずして召し上がりましたが、暫時(ざんじ/しばらく)すると腹痛いたし、数回下痢をなされて、大いに苦悶(くもん)して、遂に気が付かぬようにならせましたが、暫時にして気が付きました。
   教祖様は、これは「おかの」所為(せい)なることをご存知あれども、その愚を憐れみて辞色(じしょく/言葉つきや顔色)に表わさず、ますます「おかの」を可愛がりなされましたが、如何に悪性なる「おかの」も教祖の御徳に感じまして、己が罪を懺悔して、後、暇を請うて家に帰り、終いに病死致しましたということであります。 ※ 「櫛笄」とは、簪(かんざし)、櫛(くし)、笄(こうがい)などの装身具。

復元 第三号 39頁   山中彦七筆「天理教々祖、実伝之御噺し」

 以上、二つの証言を「おかのさん」のお話の根幹をなす、鮮明な証拠証言としているようです。


   山中彦七証言      現代用字変換      2016.12.6 追記 !

   教祖伝の中に一つ申し上げておきたいことは、善兵衛様が「おかの」という下女に手をかけたという様であります。
   あれは大阪朝日新聞の記者、渡辺霞亭さんが、どこでお聞きになったか知りませんが、教祖三十一歳の時、足達の息子、照之氶(てるのじょう)を救けにゃならんという一心から神仏を信心し、その徳によって救かりなさった。
   その病気全快祝いに、善兵衛様と教祖様(おやさま)と二人共お招ばれになったが、善兵衛様は一人退けてお帰りになった。その後で教祖がお帰りになってみると、善兵衛様と「おかの」との怪しい姿が障子に映ったというように書いてありますが、あれは時代が違う。年も、十年も前のことであります。
   ご承知の如く親様(おやさま)は、十三歳の時お嫁入りなされまして、しばらく子がなかった。二十四になられた時、初めて長男の善右衛門様がお生まれなされた。今の話はそれまでの十一年目の間の出来事であります。
   それをどうして調べられたか、親様(おやさま)が子供の三人もありましたのに、善右衛門様が「おかの」を大事にした、ということになっては、善兵衛様に恥をかかせなければならない様になる。それでは親様(おやさま)もお喜びになるまいと思います。
   それはどうして聞いたかと言えば、慶応二年か三年頃、私の母と一手(一緒)にお参りをした時、大工の伊蔵さんの「おかみさん」のお里さんと、西田お琴さんという人が参拝しておりました。しかして親様の側でお話を聞いていられます。私もその側に付いておりました。
 そこへ丹波市の人で、容貌の美い(うっつい)夫人が、小娘を連れて参拝せられました。その時、お里さんが、
「あの容貌の美い人は、どこどこの人の囲われ者になっている。そこで、そこの「おかみさん」が嫉妬の念を起こし、火のようになってる。あんな容貌をさげて、人の妾になっているのは埃(ほこり)じゃなあ」と言っていました。
   そのとき親様(おやさま)が仰せられるには、
男というものは、若い時はどうもならん。私も長い間、子がなかったが、内にかのという者を置いて、云々(うんぬん)の事があった
と仰せになった。
   これによってみると、十年も年限が違うから、そういう間違いが生じております。

新宗教 大正5年2月号   山中彦七「痔のお助け」より

   これも教祖ご自身が『「おかのの件は既成事実』とお認めになっている重要な証言ですね。


    次に、女衆かのさんの「生まれ変わり」に関するお話をご紹介します。

    「かのは、かのの生まれ変わり      現代用字変換
    さてここに〈秀司様の〉足の跛(ちんば)が治らぬのも『悪事が退(の) かん故(ゆえ)の事なり』とありて『悪事』と仰せられるは「お手掛(てかけ)」の事と思われる。この手掛というは、川原城村(現天理市川原城町)の「ちゑ」という女にて、秀司様十七才の時より四十九才、すなわち明治二年まで三十三年間つきまとい、本妻というわけにもいかず、手掛としてお置きなされしなり。

    そしてその間に、二人の子をあげられたり。長は女にして「かの」という。この者、前世(前生)には教祖の夫、善兵衛様のお手掛にて、やはり「おかの」といいたりしと。

    その頃は、心善からぬ者にて、善兵衛様のご寵愛(ちょうあい)あることをよき事にして、教祖を邪魔に思い、毒害をなしたる事ありしと。されども、神様のふんばり下されたるため教祖は救かりし由(よし)、神様お降りの後〈教祖より〉詳しくお聞かせ下されたり。 此(こ)は教祖十八、九才の頃にて、俄(にわ)かに撹乱(かくらん)が起きたるようにて、便所にて上げ下しした非常のお苦しみなりしが、何が害になりたとも気づかず、追々と治まりければ、一時の撹乱と思うて過ぎたりと〈教祖より〉お話あるたることなり。かかる毒婦の「かの」も、ついには教祖の誠と情けとに感じて、 多少、 心を改めしものと見え、それとなく、本妻たる方を蔑(ないがし)ろにしたる事を悔いたりとなん。

    今その者が出変わりて、またまたこの家へ生まれ、かつ、手掛の胎(はら)へ宿るとは不思議の事なるかな。この子(かの)は娘ざかりの頃、茶摘み女に混じりて茶摘みに出かけ、そのまま帰り来たらず、京(きょう/みやこ)にて男を持ち、暮らせしとなん。

諸井政一正文遺韻」 243ー244頁

    つまり教祖の夫、善兵衛様の手掛であった「おかのさん」は、長男秀司様の手掛の「おちゑさん」の娘の「おかの」として生まれ変わっているのです。

    しかも文中 「その者が〈生まれ変わり出変わりて、 またまたこの家へ生まれ、かつ、手掛の胎へ宿るとは不思議の事とあるところから、「前の おかの さん」と「おちゑさん」は、母娘ないし、きわめて近親者同士なのでしょう。すると「おちゑさん」は、秀司様と腹ちがい の「兄妹」か姉弟 」という可能性も無きにしも非(あら)ず。

「後のおかの」さんは「 京で男をつくって暮らしたのであろう」とありますが、その後のハッキリとした消息は分かりません。


    あれが、おかのの‥ (現代用字変換)
   「おかの事件」については、次のように語られている。
    ある晩、中山家へ泥棒に入り、米俵を盗んだ徳蔵なる者を作男たちは捕らえ「代官所へ訴える」と騒いでいた。物音に目を覚まされた教祖は、泥棒の傍らへ行き、かぶりものを取らせると、近くの徳蔵であった。教祖は徳蔵に泥棒に入った訳をお聞きになられると、貧に迫ってのことと分かり、痛く同情されると共に、自らの責任のようにお考えになられ、夫様に願うて米一俵恵まれると共に、その罪を許され、その上、口減らしのためにおかのを女中に雇われ、少しでも経済の手助けに、という上から給金を与えられた。もし訴えられたら徳蔵一家は塗炭(とたん)の苦しみに陥るのは必定なのに、訴えもせず、あたたかい施しを戴いた。まさに教祖こそ、徳蔵一家にとっては生命(いのち)の恩人であられた。

    おかのはよく働き、教祖からも可愛がられた。夫善兵衛様もおかのを、ことのほか可愛がられた。おかのはそれをよい事に思い、しまいに大それた考えを持つようになった。
「教祖さえいなくなれば、私が中山家のご新造様になれる」と思い、教祖を殺そうと味噌汁の中へ毒を入れた。教祖は大変お苦しみになられたが、幸い生命に別条はなくお元気になられた。この事件がおかのの所業と分かると、一同の者は「役所に訴える」と言われた。訴えれば、主(あるじ)殺しは自らも死罪になる。それを教祖は訴えるのを止め、おかのを許された。さすがのおかのも、この時ばかりは痛く教祖のご恩を感じ、身を退いて中山家を出た。その後おかのは、所々方々を乞食姿になって歩き、亡くなったという。

    教祖、晩年のこと
『今日は因縁ある者が来るさかい、ご飯をたんと炊いておいておくれ』
と仰せられた。ところがそれらしい人は誰も来なかった。

    夕方になって布留街道を西から東へ、一台の牛車(ぎっしゃ)が瓦(かわら)を満載してやって来た。その牛車は、中南の門屋の入り口の所まで来ると、御者(ぎょしゃ)が引いても叩いても頑として動かず、お屋敷の中を見つめていた。お屋敷にいた人々は「変な牛やなあ」と言うて見ておられると教祖がおいでになり、牛に向かって
『よう帰ってきたなあ。かわいそうに』
と仰せられ、朝炊いたご飯を持って来させ、牛に与えられた。牛は涙を流しながらそのご飯を戴くと、「モウ」と一声鳴くと、御者に連れられて東の方へ立ち去った。

    教祖は側の人に
あれが、おかのの成れの果ての姿やで。色情をつかって金をとった者の姿や
とお聞かせ下されたという。傍らで聞いていた乾やすさんは教祖に
「そうでしたら世の中の女郎(じょろう)は、みな牛馬に堕ちるんですか」
と問うと、教祖は、
『女郎というても色々あるで。自らすすんで女郎になる者もいるが「親のため、家のため」と言うて、余儀なく女郎になる人もいる。「親のため、家のため」女郎になった者は、牛馬には堕ちんで』
と仰せられたという。

堀越義男幸せを求めて」41ー43頁


 米泥棒のお話」と、この「おかの毒害のお話」は、こんなに関係が深かったのです。

    明治元年末時点での「後のおかのさん」の年齢は、弟である「音次郎さん」が11才で、秀司様と「おちゑ」さんとの関係が33年ですから、「12〜13才から31〜32才」と推測できます。
    上記の牛の話が明治19年として、この年に「後のおかのさん」が人間として存命であれば「31〜32才から49〜50才」となります。明治13年(1880年)の平均寿命が男36才、女38才でしたから、なかなかの年令です。

    あと「おかのさん」は、いつ、どのように『色情をつかって金をとった』のでしょうか。夫善兵衛様からお金をとったのでしょうか。生まれ変わって、京にてそのような事をしていたのでしょうか。
    謎は深まるばかりですが
「前おかの」→「後おかの」→「瓦満載の牛車の曳き牛」の構図は、それほど無理はないようです。

   しかしながら、どの文書にも、教祖が仰ったとされる、
これは神や仏が私の腹(おなか)の中をお掃除下されたのです
というお言葉を見出すことができません。
   教会本部には、どこに記載されているのか、出典元をを明示していただきたいものです。
   
   
 「おかのの生まれ変わりや (現代用字変換)
「後日、ご神憑(しんぴょう)あらせられて、ある日のこと、白牛がお屋敷の前を通った。教祖は
あれはおかのの生まれ変わりや
と仰せられ、その牛に近寄って、
お前もこれで因縁果しをしたのや
と人に諭すが如くに優しくお聞かせになった。間もなくその白牛は死んだという」
(復元 第29号100頁)

山本利雄続 人間創造」202頁


最終見直し  2016.12.07  5:35

    人間は、人間に生まれ変わるばかりではなく「人間以外の生き物にも生まれ変わる」と教えて下さいます。

   牛馬に堕ちている者もある (現代用字変換)

   あるとき梅谷様より、仲田様、山本様などに
「人間は、九億九万九千九百九十九人の人数と聞かせられるが、なかに牛馬に堕ちている者もあるとの事なれば、人間の数は現在増えておりますか、また減っておりますか」
と尋ねし(尋ねた)ところ、
「そんな事は知らぬから、これから神様に伺わん(伺おう)」
と申して、教祖の御前に伺い、仲田様より右(上)の次第、お尋ね申し上げしに(上げると)、暫(しば)しお伺いの体(しばらく親神様にお伺いのご様子)にて
「それは増えてある」と仰る』
と仰せられて、それよりその次第をお聞かせ下さるには
『元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、なかに牛馬に堕(お)ちている者もあるなれど、この世はじめの時より後に、生き物が出世して、人間へと昇りている者がたくさんある。
   それは鳥でも獣(けもの)でも、人間を見て「ああ、うらやましいものや。人間になりたい」と思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだん効能を積むで、そこで天にその本心をあらわしてやる。すると今度は人間に生まれてくるのやで。
   そういうわけで、人間に引き上げてもろうた者がたくさんにあるで』
と仰せられ、一同感服して御前を退がりし(退がった)という。

昭和22年6月25日発行
諸井政一集 前篇
153頁
人間の数に就て

   つまり「牛馬(または他の生き物)に降格している人(魂)」もあるが、その数より「人間以外の生き物から出世昇格している人(魂)」の数の方が多いから、人間は「増えている」ということです。
    また神様は以下のようにも仰せです。

『人間の、我が子の可愛いことを思案してくれ。ない世界、ない人間拵(こしら)えた、この元々ばかりやないほどに。
    月日、今にても子供は皆々宿し込んでいる。子供の可愛いは同じこと』(現代用字変換)

教祖様御言葉
明治18.8.31(旧7.22)
神様ノ御話シ
根のある花・山田伊八郎 所収

『人間の親が、当然ながら「我が子は可愛い」という事を思案してくれ。紋型ない(全く何もない)ところから世界と人間を創造した時の、九億九万九千九百九十九の元の子数ばかりでなく、月日親神は今においても子供を皆々宿し込んでいる。「我が子(人間)が可愛い」のは、親神も同様である』
と仰います。
    このお言葉だけでは「宿し込んだ人(魂)が、直接人間に生まれ出るのか、また、他の生き物に生まれ、生まれ変わり出変わりを繰り返し、出世昇格して人間となるのか」は判然としませんが、元初まり以降の「魂の追加」を明示されていますので、世界人口や、生き物たちの数が増え続けている現実(減っている種もありますが)と合致します。

    では牛馬に堕ちている者は、人間に生まれ変わらずに、なぜ「牛馬に堕ちた」のでしょうか。


   恩に恩を重ねる末は (現代用字変換)

    村田幸右衛門と申する方、夫婦うち揃うて信心、いともいとも堅固なりけり。その心、神様の受け取りありて、ありがたきお話、いといと多かり。
    この幸右衛門殿、牛を追うことを稼業となしたる事ありければ、神様の仰せ給うには
『牛を酷(ひど)うに使い働かしめ、己(おの)れ容易に賃金を得ることなれば、恩をきたるの理(ことわり)のあるゆえ、その恩を報(むく)ゆるため三年の間、風呂焚きをなすべし』
とのことにて、お屋敷の傍(かたわ)らにて薬湯を始め、のちにはカラ風呂を焚きて、三年あまり厭(いと)わず、託(かこ)たず、勤(いそ)しみたりければ
『これにて恩報じ、おわんぬ(終了)
と御聞かせ下さる。なお
『牛馬を使うをよきことに思い、恩に恩を重ねる末は、己れもまた牛馬となって、使役(しえき)されることになるものぞ』
と仰せ給いしとなん(仰せになったという)。今の世の中、牛の肉を食(は)むだに常の事として厭う者稀(まれ)なり(牛肉を食べることさえも当然の事として、牛肉食を避ける人は僅かである)。このお話を聞かば、いかがの感じが起こるらん(このお話を聞いて、どのように感じるのであろうか)。

諸井政一
改訂 正文遺韻
118頁
幸右衛門様のこと より

    上記お言葉を拝しますと、動物や、その他の生き物に対する「私利私益がための乱獲」や、「無意味な残酷な虐待、殺生」なども該当するような…。また「牛馬の如く使役する」という言葉もあるように自分の立場が「上」いう 事をよきことに威張って人を扱(こ)き使う」のも、このお諭しに重なるのではないでしょうか。まさに

このかやしなんの事やとをもうなよ  せんあくともにみなかやすてな 五 53
この返し 何のことやと思うなよ         善悪共に みな返すでな

善い事すれば、善い理が回る、悪しきは、悪しきの理が回る。おさしづ 明治25.1.13

という事でありましょう。


    おふでさき 第五号 1〜4首 釈義 (現代用字変換)

いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど  あとさきしれた事ハあるまい 五 1
今迄は牛馬と言うは ままあれど            後先知れた事はあるまい

このたびハさきなる事を此よから  しらしてをくでみにさハりみよ     五 2
この度は先なる事を この世から     知らして置くで身に障り見よ

このよふハいかほどハがみをもふても  神のりいふくこれハかなハん 五 3
この世は如何ほど我が身思うても        神の立腹これは敵わん

めへ/\にハがみしやんハいらんもの  神がそれ/\みわけするぞや 五 4
銘々に我が身思案は要らんもの             神がそれぞれ見分けするぞや

【参考①】
   以上、四首のおうたは「おぢばの近隣に住んでいた某女を実例としてお説き下さったもの」と言い伝えられている。
    某女は邪険な性質で、教祖に数々のご恩を受けながら、お屋敷の前を通っても、立ち寄ることさえしなかった。それほどであるから、人々に対しても惨(むご)い心遣いが多かった。
    教祖は常に側の人々に
『報恩の道を知らぬ者は牛馬に堕ちる』とも『牛みたようになる』とも仰せられた。
    はたして某女は明治七年から歩行適わぬ病体となり、二十余年間そのままの状態で家人の厄介になってこの世を終わった。

天理教教会本部
おふでさき註釈
第五号 1ー4 総註

【参考②】上記、参考①の某女と「同一人物」のお話かと思われます。 

    庄屋敷村に貧乏な百姓がいた。そこの娘は何につけ、かんにつけお屋敷に参り、教祖から篤(あつ)い施し、また恵みを受けていた。

    年頃になり、近村のちょっとした百姓さんの所へ縁付いた。一生懸命働き、かなりの生活ができるようになった。その頃、中山家は貧のどん底であった。娘の頃、あんなに足繁くお屋敷に参っておったのに、実家に帰っても見向きもしなかった。

    ところが某女は身上になり、床に臥(ふ)す身となった。家族の者は厄介者扱いをし、牛馬と同じように、寝る所も食事も大小便も、同じ所でせねばならんようになったという。ご恩報じのできない人の姿をよくみせて頂ける逸話である。

堀越義男
幸せを求めて
41頁
御恩報じについて より


『牛馬といえば、等しくこれ獣(けもの)のように思うているけれども、これは他の獣とは違い、人間より堕(お)ちたるもの』と仰せらる。
    人間たる間に悪気(あっき)に悪気を積み、恩に恩を重ねて、ついに人間に生まれ〈変わり〉ては恩の返しようが無きゆえ、牛に堕として恩を報じさすとなん(報じさせるという事である)。

『初めは真っ黒の「牛」に生まれる。黒いというは、心の暗い々々理があらわれているのや。邪険(じゃけん)の心の理があらわれて、 二本の角(つの)が生えている。モウモウと鳴くは「モウかなわん」と言うも同じこと。「モウモウどうもならん」「モウしようがない」「モウ往生したか」という時のモウや。また「牛追い」と言うて、人に追われて日々食う物は、藁(わら)や糠(ぬか)のようなカスを食うて、人の三人前も重荷を背負わせられて通る。これ、人を追い倒してきたから、この世は人に追われるのや。
    そこで七、八度も出変わりして、それから「馬」となる。馬となれば色も変わる。角も取れる。鳴くにも「ヒヒン」という、人の笑い声に似てくる。これだけ人間に近寄って(近づいて)きたのや。
    それからまた七、八度も出変わりして、恩を報じたその上で、今度は「犬」となる。犬で何度も出変わりして、真っ白い、鼻の赤い犬となったら、その次は人間に〈再び生まれ〉出してもらえる。
    けれども、東も西も分からぬ丸の大馬鹿や。それからだんだん出変わるたびに賢くはなっていくけれども、牛馬に堕ちた間の苦しみで、先に人間で在りしうちの知恵はスッキリ失うてしもうて、一かけから(一から)いかにゃならん。なかなか容易な(簡単な)ことじゃない。これが「地獄」と言うのやで。また天の本心も、牛と堕ちれば取れてしまうのやで』と聞かせらる。

    さて今までは、こういう事も知らなんだやろう。

このたびハさきなる事を此よから  しらしてをくでみにさハりみよ     五 2
この度は先なる事を この世から     知らしておくで身に障り見よ

このよふハいかほどハがみをもふても  神のりいふくこれハかなハん 五 3
この世は如何ほど我が身思うても        神の立腹これは敵わん

めへ/\にハがみしやんハいらんもの  神がそれ/\みわけするぞや 五 4
銘々に我が身思案は要らんもの             神がそれぞれ見分けするぞや

と、お付けあそばされたるは、
『牛同様に、寝ていて食べさしてもらい、ししばば(尿糞)の世話もしてもらい、人間だけの自由(じゅうよう)適わずして、長年、人の恩をきて果てたなら、今度は牛やでと聞かせらる。

『世上の諺(ことわざ)にも「寝ていて食べると牛になるぞ」と言うて子供らを戒めるは、知らず知らず神の教えや。そこでこの世では、我がまま気ままに我が身の栄耀(えいよう/栄華/繁栄)を思うても、この世はそうして通れても神の立腹。この次の世は、モウかなわん、かなわん。牛と堕ちたらどうも仕様があるまい。すれば銘々に我が身の思案は要らんで、ただ誠真実、立て合い、たすけ合いの心を持って通れよ。我が身の事は思わずとも、神が見分けて心だけよいようにしてやるで
との仰せなり。

諸井政一
改訂正文遺韻
250〜251頁
御筆先釈義
第五號 より


最終見直し 2015.11.25  23:00


    こかん様の再々生について

    三十一歳の頃、近所の家で子供を五人も亡くした上、六人目の男の子も、乳不足で育てかねているのを見るに忍びず、親切にも引き取って世話しておられたところ、はからずも、この預かり子が疱瘡(ほうそう)に罹(かか)り、一心込めての看病にも拘(かかわ)らず、十一日目には黒疱瘡となった。医者は「とても救からん」と匙(さじ)を投げたが教祖は、
『わが世話中に死なせては、せっかくお世話した甲斐がない』と思われ、氏神(うじがみ)に百日の裸足詣りをし、天に向かって八百万(やおよろづ)の神々に
『無理な願いではございますが、預かり子の疱瘡が難しいところお救け下さいませ。その代わりに男子一人を残し、娘二人の命を身代わりに差し出し申します。それでも不足でございますれば、願満ちたその上は、私の命をも差し上げ申します』と、一心込めて祈願された。預かり子は日一日と快方に向かい、やがて全快した。

    その後天保元年、次女おやすは四歳で迎え取りとなり、翌二年九月二十一日夜、三女おはる、同四年十一月七日、四女おつねと相次いで生まれたが、同六年おつねは三歳で迎え取りとなった。同八年十二月十五日には五女こかんが生まれた。後日のお話によると
『願い通り、二人の生命(いのち)を同時に受け取っては気の毒ゆえ、一人迎え取って、さらにその魂を生まれ出させ、また迎え取って、二人分に受け取った』とのことであった。

天理教教会本部
昭和31年10月26日発行
稿本天理教教祖(おやさま)
第二章 生い立ち より


    上記の、こかん様の再々生について詳細に解説されている、梶本宗太郎先生のお話をご紹介致します。

    二人捧げた理に済ます(現代用字変換)

    こかん女様の御魂のご因縁から色々申し上げたいと思います。それはご承知の通り、こかん女様は人を救けるために、二回までも(前生、前々生に)お命を差し上げてお生まれになったのです。

    教祖が三十一歳の御時、隣の家に子供ができまして、そこの家は五人までもみな若死した、六人目の子が男の子であった。ところが乳不自由のために、だんだんと痩せ衰えていくさまをご覧になりまして、お気の毒であるというので、教祖は乳がたっぷりありまするし、その子をお預かりになった。

    ところが、その子が疱瘡(ほうそう)に罹(かか)りました。おまけに黒疱瘡になった。疱瘡は初めは赤いらしい。この赤いのは日様(をもたりのみこと)のご意見。黒くなったら月様(くにとこたちのみこと)のご意見で、こうなったら、初めはお母さんに叱られているのだけれど、黒くなったらお父さんにも叱られる。すなわち父母に叱られたので重いわけです。

    黒疱瘡というたら、とても救からん。当時は流行したのでしょう。同じような年格好の子どもが黒疱瘡にかかり、大抵みな亡くなったそうですから、その預かり子も「どうしても救からん」と医者も言うし、誰の目から見ても当然のことである。その場合に、教祖の御心になって我々は考えさせて頂いたら

「絶対いかん(とても救からん)」と言われたその子供を先方に帰す場合に、「亡くなってから返したのでは絶対いかん」という事が分かってあるのに、「なぜ息のあるうちに帰してくれなんだ」と言われても仕方がない。実際「いかん」と言われたら、もう自分の手元で亡くして、亡骸(なきがら)にして帰すという事は気の毒に思う。やっぱり息のある間に親元へ帰そうと思う。しかし帰してみても、先方の親の手元で亡くなれば、やはりお気の毒に違いない。ですから「何でもかでも救けてもらわねばならん、自分の手元で救けて帰さねばならん」というのが教祖のご覚悟であった。この上は神様にすがって救けてもらうより他に道はない。それには「ただ救けてくれ」というのではいかん。手ぶらで物は買えん。何でもかでも救けて頂かねばいかん。無い命を救けてもらうのなら、ある命を差し上げねばならん。一人の子を救けて頂くのに、一人の子の命を差し上げれば、秤(はかり)にかけて重い、軽いは無いわけである。けれども足らなかったら駄目である。だから二人の命を差し上げられた。その時は秀司様は八歳、おまさ様は四歳、やす女様は二歳。「三人の子供衆のなか、秀司様は長男であるから後継者として家に置き、あと二人の女の子を差し上げ、足らなければ私の命も差し上げよう」と仰った。

    ところが天の神様から見た場合は、一れつの人間はみな神の子である。その神の子供の命、二人を迎え取り、足らない時には親(教祖)の命も迎え取って、一人の子供の命を救けようという事は、天の親様(親神様)はご承知になるやろうか。しかし神様は、一人救けるために、三人の命をお取り上げにはならない。天の親様にも忍びないものですから神憑(かみがか)り後、こう仰っている。
    おことばに
『一どきに、二人の子の命を迎い取るは気の毒や。そこで、一人の子の魂を二度に迎い取り、二人捧げた理に済ます』
と仰せ下された。

    神様は、どこまでもお慈悲深いと思わせて頂きます。『二人捧げた理に済ます』と仰った。長男秀司様、長女おまさ様、次女おやす様の三人のうち、秀司様だけ残しておいて、女の子二人をお差し上げになったのですが、この二人をいっぺんに迎え取るのは天の親神としては忍びん。人間としては、一人の子を亡くしても悲嘆(ひたん)に暮れるのに、二人も亡くしては誠に気の毒であるから、当時末子のやす女様を二度に迎え取り『二人捧げた理に済ます』と仰せになり、教祖三十三歳の時、やす女様を四歳にして迎え取りになり、その魂、三十六歳の時に、つね女様としてお生まれになり、三十八歳の時、つね女様三歳にして出直され、教祖四十歳の時、その魂はこかん女様と生まれ給うたのであります。それまでに三十四歳の時に、はる女様がお生まれになっている。すなわち、やす女様、つね女様、こかん様の三人の魂は一つの魂である。やす女様、つね女様の二人を迎え取り、こかん様がお生まれになった上から見れば、その理だけで済まされたのであります。三十四歳で、はる女様が生まれてござる。私はこれを考えさせてもらうに、やす女様を迎え取りて、つね女様が続いて亡くなられると非常に深刻で気の毒であるが、その中間に、はる女様が生まれておられるという事は、神様はどこまでも慈悲深いと思わせて頂く。

    この、こかん女様はご存知の通り、人を救けるために、二度までも命を捧げていらっしゃる。そういう大きな理をお積みになった、というところから考えさせて頂いても、この方は「若き神様」とも「若宮」ともおっしゃられた。それで神憑りの時は教祖四十歳の時(天保八年十月二十六日)で、長男秀司様が十七歳で足を患われた。それを杖柱(つえばしら)として神憑られた。
【註】
    現在教内一般に、親神の「天降り」は天保九年十月二十三日からで、夫善兵衛様が承諾をされた三日後、二十六日の午前八時が「立教」という見解になっていますが、古い文書の多くは、一年前の天保八年十月二十六日の「秀司様の足痛」からが神憑り」と説明してい ます。

【代表例】
「天保八年〈十月二十六日〉朝五つ(八時)に下女下男相手に麦まきに行った時、神様が天降り我が内に四人の子供あれ共足痛の長男あり
『前生の因縁やでな若き者の足を痛め、それを合図に天降りたのやで』
と仰せられました。なれども神の天降りとは分かりませんから医薬の限りを尽したのであります。 けれども更に痛みは止まりません。悟りがないからであります。色々やったけれ共いかん。そうするうち一年経って天保九年となり、春過ぎ夏、秋となり、十月二十四、五、六日となり、教祖は御幣を持つと、初めて神様からのお話があったのであります。

道友社
大正9年4月25日発行
本部員講話集 中
一、月日の心
梅谷四郎兵衛 より

    こかん女様がお生まれになった(天保八年十二月十五日)のも、教祖四十歳の時です。秀司様の足の患いを杖柱としての神憑りと、こかん女様がその年にご誕生になったという事と、何かその間に実に深い理が宿されているのではなかろうかと思わせて頂くのであります。

天理教婦人会
昭和28年6月26日発行
みちのだい教話第二集
すなほのよろこび
39〜45頁
こかん様大阪布教百年を記念して
梶本宗太郎


最終見直し  2015.11.20  23:05

    眞之亮誕生 

    同年、おはるが懐妊(みごも)った。教祖は
『今度、おはるには、前川の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの眞之亮やで』
と、懐妊中から仰せられていた。月満ちて慶応二年五月七日、案の定、玉のような丈夫な男の子が生まれた。教祖は男児安産の由を聞かれ、大そう喜ばれた。そして
『先に、長男亀蔵として生まれさせたが、長男のため親の思いがかかって、もらい受ける事ができなかったので、一旦迎え取り、今度は三男として同じ魂を生まれさせた』
とお話し下された。

天理教教会本部
昭和31年10月26日発行
稿本天理教教祖伝
第四章 つとめ場所
眞之亮誕生


    眞之亮と名付けるのやで

    おきみ様のおはる様(旧 中山おきみ様である、梶本おはる様)は、ご夫婦いたって睦まじく、楽しくお暮らしあそばされまして、三年の後、安政二年に、お子様がお出来なされまして、そのとき初めて、神様のをびや許しということをお聞かせ下されたのでござります。神様、
『何もかも、内から試しして見せるで』
とお話でござりまして、おはる様にお授けになりました。そこで おはる様は、神様の教え下さる通りにしてご安産なされまして、お生まれになりましたのが亀松様(上記「亀蔵」と同一人物)と申すお方でござります。
    この亀松様は、六歳にしてお迎え取りになりました。そのとき教祖、お越しになりまして、少しもお嘆きあそばされず、さらにお悔やみもあらせられず、亀松様の死体をお抱きあそばして
『これは庄屋敷の真柱、眞之亮やで』
と仰せられたそうでござります。
    それから七年経ちまして、このお方お生まれになりました。その時に教祖の仰せになりましたことを、おはる様もお忘れあそばされて、〇〇という名前をおつけになりますと、教祖お聞きになりまして
『これはせんの(先の/前の)亀松(亀蔵)やで。眞之亮と名付けるのやで』
とお聞かせ下されますから、早速「眞之亮」とご改称になりまして、のち間もなく「亮」を廃せという御達しがありましたので、そこで「新治郎」とお改めになりました。すなわち、ただ今のご本部長(初代真柱様)でござります。
註    亀松(亀蔵)様、前生は教祖の生父なりとのお話 (辻先生に承る)。
(現代用字変換)

昭和22年6月25日発行
諸井政一集 前篇
(のちの正文遺韻抄)
道すがら 外篇 一
帯屋許之始


    お秀様死去

    明治三年には、秀司様の娘子お秀様と申す方が、十八才にしてお出直しに相成りてござります。母親の名前は、おやそ様と申したお方でござります。お迎え取りになりましたのは三月十五日の事でござりまして、それより以前に教祖が、お秀様に仰せられますには
『これは、つとめのどうしんやで、何も心配すること要らんで』
と、たびたびお聞かせ下されたそうでございます。それからお迎え取りになりましてから、また仰せられるには
『身代わり同様やで/\。周婆の命(しゅうばあのみこと)と付けておく』
とお聞かせ下されましたので、寺の方の戒名は「光誉明照禅定尼」とありますが、おうちでは「周婆の命」と諡(おく)りまして、お祀りになってござります。
【参考】 
    辞書にないので独自に調べました。
    管理人調べではつとめの胴芯』です。
胴芯」は、雛人形などの和人形、動物の剥製(はくせい)などの、胴全体を支える芯となる木製、竹製の棒や、針金など を指す。
    また、神輿(みこし)の装飾にある、木製の芯に、きれいに朱色や紫色の紐を巻きつけ飾った「胴芯紐(どうしんひも)」というものもあります。
    すなわち「おつとめの芯となる中心的存在」という意味ではないでしょうか。

    さて、この「周婆の命」というのは
『周(しゅう)は秀司様の秀(しゅう)で、婆(ばあ)は教祖、老婆の婆である』
と聞かせられてござりますところからみますと『身代わり同様』と仰られしは、「教祖および、秀司様の身代わり」と悟らにゃなりません。しかるに教祖にも、秀司様にも、さほどのご意見をこうむるほどの理はあろうとも思われませんが、しかし神様の仰せでござりますから、何か理があることでござりましょう。
    もっともこの秀司様、足の悩みについて、これは
『悪事が退かんゆえの事なり』 (おふでさき 第一号 31〜38首参照)
と仰せられて、お筆(おふでさき)にもお付けあそばされて、お口説きになりました事でござりますから、ここらの理がかかってきたわけかも知れませんと、恐れながら考えさせて頂きます。
    また『つとめのどうしん』と聞かせられましたは、いかなる理か測(はか)られませんが、このお秀様の魂を、七年後に又候(またぞろ/またもや)、今度は本妻(小東まつゑ様)をお迎えになって、そのお腹へ宿し込みになりましてお生まれになりましたのが、ただ今のご本部の奥様(ご母堂様)でござります。
    お名前はたまゑ様と申し上げまして、このお方お生まれになりましたために、神様が大層つとめをお急き込みになって、お筆(おふでさき)にお付けあそばされた事を思いますると、『つとめのどうしん』とは、先の事を仰せ置き下されたものかとも思われます。
    実に神様は
『見えてから説いてかかるは世界並み、見えん先から説いておくぞや』(おふでさき 第一号 18首 読み下し)
と、お筆(おふでさき)にあります通り、先へ先へと仰っておいて下されます事で、息の切れた(途絶えた)小児、亀松様を抱き上げて
『これは庄屋敷の真柱、眞之亮やで』と仰せられた事と、この
『つとめのどうしん』と仰られし事とは、好一対のお話でござりまして、お二方ともすなわち、一度のお出変わりをなして、後には神様の仰る通り、『お屋敷の真』『つとめの芯』となってお治め下されまするというは、実に神様の思召の深遠なるところは恐れ入るの他はござりません。

昭和22年6月25日発行
諸井政一集 前篇
(のちの正文遺韻抄)
道すがら 外篇 一
御秀様死去


最終見直し 2015.11.15  23:15

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