2016年02月

   前項を投稿してから思案しまして、
憎い相手が、ますます調子が良いことに ますます腹が立つ、「にくい」のほこり
怨/恨み、妬み、嫉む相手に歯が立たず、私怨/私恨を晴らせぬことに更に腹が立つ、「うらみ」のほこり
というように、二次的ではありますが、複合して作用、誘発する上で、非常に密接な関係にある「はらだちのほこり」をここより加えます。遅くなりまして申し訳ありません。

さあ/\放って置け/\。誰彼(たれかれ)を仇(かたき)と言うのやない。大風々々、大風は何處(どこ)にあるとも知れんもの。大風というものは、どのようの(どのような)大きな物でも、倒(こ)ける潰(つぶ)れる。大風やで。
風は神や。風がかりもの(の)うては、箱に物を入れて蓋(ふた)を閉め切りた如(ごと)く、腐ろうより仕様の無いもの。風がそよ/\(そよそよ)あるので、半日や一日は送れるで。
人の言う事を腹を立てる處(ところ)では腹の立てるのは 心の澄み切りたとは言わん心澄み切りたらば人が何事言うても腹が立たぬそれが心の澄んだんや今までに教えたるは 腹の立たぬよう何も心に掛けぬよう心澄み切る教(教え)やで
今までの修理肥(しゅうりこえ)で作り上げた米が、百石(ひゃっこく/も)ろたら、百石だけある間は喰べて居らるゝ(食べていられる)。今度 無い世界を始めたる親に凭(もた)れて居れば、生涯末代のさづけやで。これは米に〈たとえて〉(さと)して一寸(ちょっと)話して置く。
おさしづ 明治20.3.22 刻限御話

さあ/\所々で一つ/\踏ん張る。誠の精神である。誠の道を通るには、心に一つの曇りありて、暇が要りて、どんならん。積み重ねる處(ところ)、天然自然の道や。世間の事を聞き。
強い者は弱い、弱い者は強いで。強い者 弱いと言うのは、可怪(おか)しいようなものや。それ 心の誠(が)強いのやで。心定め。先も長くの道と思えば、とんと心を定めて、腹を立てゝ(立てて)は どんならん。往還(おうかん)の道と言うても、内の處(うちのところ)身の内障りある。ほんにこれは成程という事を思やん(思案)して。
おさしづ 明治20.12.4

さあ/\どんな者も皆寄り来る。めん/\(銘々)我がものと思うて、花の色匂いを取る心が 世界では分からんで。匂い取り兼ねる/\。人間心の色は どうもならん。さあ/\腹立てさすやない。めん/\に これをこうしてくれ と言うやない。さあ/\花の色、皆々めん/\に、あの花の色は と言うて、さあ/\/\皆々談示(だんじ)に寄り来るで。腹立てさゝぬ(ささぬ)よう。さあ/\無理 どんな事言うても、どんな無理言うても、何にもならせんで。さあ/\ 言えば言う程 言う者は 言う通りに成る。腹立てんよう。さあ/\日々皆々その花の心に成るで。
(右(上)の如く 世界広い道になれば、皆々 花の匂で寄り来るなれど、匂取る事分からん故に 腹を立てるのであります)
おさしづ 明治21.7.17

さあ/\/\一寸々々(ちょっと/\)長らえて/\、何の事とも分かろまい/\/\。ようこれを聞いてくれ/\/\。
細い/\、長い/\/\、さあ/\だん/\一つ/\の説いたる話、たった一つ理、深き處(ところ)の一つの理、浅い處の一つの理、さあ/\高い所に たった一つの理が分からん。どんな事も たった一つの理、低い所にも一つの理。難し(難しい)事は言わん。たった一つ理、難し事は言わん。どんな事も一つの理、どんな者でも一つの理。 さあ/\あちらが司(つかさ)や、こちらが司や と言うた處が、たった一つの理。
さあ/\伝えてくれ。深き中の深い中、どれだけの中でも 伝え一つの理、さあ/\ 世界は腹の立つのも怒るのもたった一つの理。さあ/\聞くなり直ぐに見える、たった一つの理。さあ/\皆々あちらへも こちらへも 一つの理知らし、これが皆 深い中や/\。一寸(ちょっと)知らし置く。
おさしづ 明治21.12.25 刻限御話
【註】司  主管・司令する人。指図方、棟梁、大将ほか
【ひとりごと】
「心の理」について「心」を一言一句使用せずに諭されている。得体の知れぬ凄みを感じるのは私だけですか…。

どんな事情あるとも 聞くとも、腹立てゝ(立てて)はならんで。何ぼ(なんぼ)どんな事情言うとも、めん/\の身を責めに歩いて居(い)よるのや。どんな所へも、皆 我が身を責めに出て居(お)るのやで。その中尽す、実々の道を通る者は、案じる事は要らんで。皆 善き道へ連れて通る、と諭し置こ。
おさしづ 明治24.1.13 補遺

知らん者は 後先分からん。何を言うやら と心に持ちて、腹が立つやない(腹を立てるやない)。順々の道がある。どうなりこうなりの治まり。治まりの事情 先に立あて(立って)、その中に理がある。心に掛けんと しいかり(しっかり)と。それに強(た)あて(強って)どうと言うや、じいと(ジッと)して置くがよい。 
おさしづ 明治24.7.1

ウ丶丶丶丶、ワ丶丶丶丶、腹が立った/\。気を悠(ゆ)っくりと、ほんに腹が立ったかよう。共に残念なわよう。今日まではのう、身の内入り込んだ 何の甲斐も無いわよう。
ウ丶丶丶丶、ワ丶丶丶丶、長い間のう、よう/\(漸々)の處(ところ)、いつ日が照るぞ、何の日が照るぞ。気を鎮(しず)め。そうであろ/\。思うようにする。気を鎮め/\/\。
おさしづ 明治25.6.27 刻限

何程(何ほど)身の障り 幾重々々(いくえ/\)何ぼう(なんぼう)さしづしたとて さしづはその場限り。どうしたらよい こうしたらよいと言えど 皆そのまゝ(まま)。さしづ無くても勝手だけは よう出来る。さしづ通り出来ん。さしづ通り出来たる事もある。出けても不承々々(ふしょうぶしょう/嫌々/渋々)だらけ。
あちら腹立て こちら腹立て 一つの理に治まらん。互い/\の心さえ皆(み)んな話し合うなら一時の理に治まる。
この道は 俺が/\と言うたて 皆んな神の道、神が働けばこそ 日々の道である。それで難しい事 始め掛ける。
おさしづ 明治28.10.7 刻限御話

一時定め處(どころ)、皆(みな)腹の立つ處(ところ)さんげ(懺悔)腹の立つ處 立てんよう さんげ善い事思わんから腹が立つ。皆さんげという。
おさしづ 明治32.10.2

親の言う事は、道の上の心と思わにゃ理やない。道の理やで。これさえ聞き分けたらば、腹立ちゃせん。たゞ(ただ)ぬっと大きなって、子の間はというものは、どういう事も知りゃせん。さあ/\欲というものに切り(限り)は無い/\。いんねん(因縁)が悪かったらどうするか。門に立って一度のものも乞うや。不自由の理 聞き分け。不自由の理 聞き分けたら、何も腹立ちゃせん
おさしづ 明治35.3.14 刻限御話


   子供の盗癖おさとし
   泉州堺に、昆布を担(にな)い売りする某なる者あり。十年前に妻に死別し、三才になる少女ありければ、後妻をすすめる人もありしが、少女を愛(いと)しく思うより、ついに独身にて暮らす事に決し、職人なれども職を捨てて昆布売りとなり、幸い近所に住居する姉ありければ、昼のうちは姉に小児を託し置き、昆布を担いて一里(約3.93㎞)内外の所を売り歩き、わずかの銭に満足し、かなり早く帰り来たりて、小児を愛し育てける。
   斯(か)くして二年経ち、三年経ち、小児も十才を超えければ、二里、三里と遠く出売りして、時には一夜ぐらい帰らざる事もあり。かかる時には、食べ物も小遣い銭も 小児に与えておき、不自由はさせざりけり。
   しかるに(ところが)この児(こ)、五、六才の頃より、人の物に手をかける癖あり。時々近隣より、あれこれの苦情を聞きければ、太く憂(うれ)いいたりし(大変心配していた)が、成長するほど甚(はなは)だしくなりて、止まん気色(止む様子)もなく、他人の家に遊べば、必ず何なり持ち帰りて、これを食べ物に換(か)えて食う。
   父なる人は、厳しき意見を加うる事もたびたび重なり、
今は可愛の子なれども、我が手にかける外(ほか)なし。汝(なんじ)を殺して、我も自害せん
と、二階の柱に括(くく)り上げ、泣きつ、恨みつ、脅しけるに、少女も太く感じける(痛感した)ようにて、涙と共に言いけるは、
私とて、敢(あ)えて人の物を盗み取らん心はなく、意見せられるそのたびには「決して人の物に手をかけじ」と決心すれども、どういうわけか人の物を見れば、たちまちその心湧きて、思わず持ち帰るなり。今日よりは十分注意すべければ、許してよ
とて泣けるにぞ、手を下す事もえ遂げ(未遂)で止みたりける。
   しかるに、なおも変わることなく、折々、不行跡(ふぎょうせき/不良な素行)あるものから、いかともする道なく、嘆き憂いて暮らす中、この道の「おたすけ」あるを聞き出したれば、ある日、例の荷(昆布)を担うておぢばに来たり、
「神様のおたすけ 何も叶わんことなし」と聞きければ来たりたり。この少女の身持ちを、救けさせ給うことは叶うまじきか
と、事細かに物語りて願いければ、仲田佐右衛門様 取り次ぎて、この由(よし)、教祖様(おやさま)に申し上げぬ(申し上げた)。
   教祖様(おやさま)仰せられるには、
どういう事も叶えてやろうが、神の言う事を守るか、守れんか、聞いてみよ
とありければ、その由、昆布売りに申し伝えけるに、
もうもう、いかなる事も守ります。三才の時より ここに十年あまり、男の手で育て上げるは、並みや愚かじゃござりません。それが人並みの者にならず、親に難儀をかけるかと思えば、どのような事も守りますほどに。どうぞお救け下され
と、涙を垂(た)れて答えける。
   仲田様その由、また教祖様(おやさま)に申し上げれば、お話下さるには、
これ(娘)は前生にて、おまえの妻であったのや。相当な暮らしをして何不足ないのに、おまえが旦那の身でありながら、今の子供(娘)の通りの事をしていたのや。そこでその妻は、何べん泣いて〈前生のおまえを〉(いさ)めたか分からん。それに、
ちょっとも聞かぬゆえ、世間を恥じて(辱めて)情けない人や。こんな事してくれねば立派に通れるのに惨(むご)ことをしてくれると、嘆いたり、恨んだりして、それが積もり積もりて死んでしもうた。そこで この世は親子となって、その理が現れてきたのやで
と仰せられしかば、仲田様も恐れ入りて、この由、ご教話と共に申し伝えけるに、いとど感じたるようにて、涙を流して詫び入り、喜びて去りたりしに。
   その後、ひと月ばかり経て再び来たり、申しけるには、
その後すっきり止まりて、今は安心になりました
と、深く御礼述べたりしと。実に不思議の事にぞありける。

〔諸井政一集 前篇 159〜161頁 逸話集〕より


   助かるものは苦しめるな
   金剛山の麓(ふもと)に穴虫(あなむし)という所あり。ここの信者に徳蔵といえる人ありて、信心怠(しんじん おこた)りなかりしが、あるとき河内国(かわちのくに)の人、九名ばかり相謀(あいはか)りて、徳蔵の持山(もちやま)に入りて木を盗み、見つけられければ、大いに謝し(深く謝罪し)「金をもって穏やかに事を済ましてくれよ」と頼みける。しかるに(ところが)徳蔵氏は、村人のすすめにまかせ、神様の教えの理をよそにして遂に訴訟を起こし、九人とも九十日の懲役に処分せられけり。
   後、徳蔵氏の父、発狂せしかば、徳蔵大いに憂(うれ)い(大変心配し)て、教祖様(おやさま)に伺い奉(たてまつ)りしに、
たすかる者を救けずに、苦しましたる理である
と仰せられ給いぬ。
「一れつきょうだい」という理、また「互い立て合い たすけあい」という御話を聞きながら、間違いしたるぞ哀(あわ)れなる(心得違いをされた事が気の毒でならない)。人の罪をば、このむべからざる事になん(人の罪を責め立てたり咎(とが)めたりして更に苦しめてはならないという事である)。
   徳蔵氏も大いに恐れ入りて、誠もって懺悔(さんげ)をなし、やがて父の病も治まりしと。

〔諸井政一集 前篇 162頁 逸話集〕より


   いんねんの持ち越し
   因縁という、持ち越すところの理。一日結構に暮らしても、晩方になりて、きょうだい(兄弟姉妹)や夫婦で罪作る(口論、喧嘩ほか)という事がある。したならば明日の朝、互いに心持ちが悪くて、ものも言わんという事になる。中には一日も二日も、ものを言わん。顔を見ても睨(にら)み合いで通る事もある。この理はどこから出たか。何がさせているかと言えば、みな我が心がしているのや。心の理が残りてあるからの事や。 
   人の一生終わりて、生まれ変わる場合にも、前生の理を持ち越すというは、この道理であるで。
   ゆえに、この世の事は、この世で果たすよう。残す理は、善き理を残していくよう。

〔諸井政一集 後篇 御講話傍聴録 一〕より


  ほこりの提灯持ち
   教祖様(おやさま)に告げ口する人がござりまして、お家のこと〈や〉、
「誰それは どう言うている、こう言うている」と、さまざまの事を申し上げた。
   そこで教祖様(おやさま)仰るには、
神さんな、そんなこと聞くな、聞くなと仰るによってな、そんなこと言うておくれるなら、もう来ておくれなえ
と仰せられて、それからあとで、側の者に仰るには、
あら、ほこりの提灯持(ちょうちんも)ちやで。他所(よそ)のこと持ち込む者は、また持って出るで。中言(なかごと)、悪告げは、ほこりの提灯持ちと、神さん仰るで
と、お聞かせ下されました。

〔諸井政一集 後篇 御講話傍聴録 六〕より


   ほこりや ほこりや 
   以前ある人が、教祖様(おやさま)のところへ行って、
「あなたのことを陰で、こう言うている人がある」と言われたところが、
聞くやない 聞くやない。ほこりや ほこり』と仰る。
   ある人が陰で、そんなことを言うているのかいなあ、と「思うだけでも」ほこりがかかる。
そんなこと聞くのやない。人の中言、言うのやない
と、こう言われて、他人の中言を一向にお取り上げにならなかった事がある。

〔みちのとも 昭和2年8月20号 布教要旨 十五  春野喜一〕より


   神様ニ(より)御噺し(お話)御聞せ被下(お聞かせ下さる)
人を腹立ちささず。人を腹立てさし候(そうら)えば、人また我れを腹立てさし。
人を怒らせるな。人を怒らせると、人もまた自分を怒らせるような事になるぞ。

人を恨みな。人を恨みたら、人また我れを恨みたり。
人を恨むな。人を恨んだら、人もまた自分を恨むぞ(恨まれるぞ)。

人より物を買う時は、代価を値切りな。
人から物を買う時は、値切るな。

また人に物を売る時には、掛け値言いな。
また人に物を売る時には、ふっ掛けるな(ぼったくるな)。

人に損をかけたら、人また我れに損をかけるべし。
人に損害を与えると、人もまた自分に損害を与えるような事になるぞ。

人のことを言わんようにせよ。
人を悪く言わないようにせよ。

〔教祖様御言葉  明治17.4.9  根のある花・山田伊八郎 所収〕


   教祖のお耳
   教祖のお耳は、人の喜ぶ、ええこと話したら よく聞こえる。埃(ほこり)のこと言うたら、
聞こえぬ』 と仰った。そこで、お傍(かたわ)らに石板(せきばん)と石筆(せきひつ)を置いて、〈書いて〉それをお見せする。時によると、
見えん』 と仰った。〈何か〉言うても、
聞こえん』 と仰ると〈石板に〉書くのであるが、書いても、
見えん』 と仰ることがある。埃(ほこり)のないこと よく聞こえるお耳であるのに、埃(ほこり)のことが雑(まざ)ったると、
聞こえん』 と仰る。
神が入り込んでいる』と仰るのが、ここや。

〔復元 創刊号  教祖の思ひ出  梶本楢治郎〕より


教祖が元を説かれた理由 ⑥ に続く


最終見直し 2016.3.2  0:51


【参考】うらみ、妬(ねた)み、嫉(そね)み 
 (憎み続けるのが怨/恨みですから、にくい(憎い)も含みます)

天然自然めん/\(銘々)に誠さい定め、実(じつ)さい定め。身の處(ところ)心無くしてならんなれども、めん/\きょうだい(兄弟姉妹)。これはこうじゃ、神のさしづ、神を恨(うら)む事は少しも無い。
おさしづ 明治20年3月

罪口説(つみくぜつ)言うは ほこり。
おさしづ 明治20年4月 補遺
【註】悪口・陰口、言いがかり、イヤミを言うなどの、悪意ある もの言い全般。

さあ/\どんな者もこんな者もいる。妬(ねた)む/\。どんな事を言うて来ても、じっと静まりておれば独(ひと)り静まる。何程(何ほど)の邪険(じゃけん)出しても悪を出しても、悪は続かんと心を治め。 
おさしづ 明治21.1.15
【上記の参考】諸井政一集 より 
   教祖お言葉
ほこり(埃)は避(よ)けて通れよ。ほこりに逆(さか)ろうたら、自分もまた、ほこりを被(かぶ)らにゃならんほどに。決してほこりに逆らうやないで。 
真実もって この道つとめるなら、いかなるところも怖き危なきは無い。神が連れて通るほどに。決して怖(お)めも、恐れもするのやないで。
〔63頁 前篇 道すがら外篇 暴行者多来〕より

さあ/\罪々聞かすやない。心いずむ。神が乗らん。‥
神が踏ん張る處(ところ)、罪という罪すっきり聞かさんよう。一つの心という、神じゃない 、心 人間心に映してある。罪聞かして どうなるとも計り難(がた)ない。思やん(思案)してみよ。僅(わず)かいんねん(因縁)、僅か治まり、雑言 (ぞうごん)悪を馳(は)すと言う。一度は許そ。後一つ心許さん。
おさしづ 明治22.9.19
【註】雑言「罪口説」とほぼ同意。ここで 文脈から「悪口・陰口を聞かせること」 悪を馳すは「ほこりを駆け巡らせ、まき散らすこと」と思案します。

多くの中に世界の道理、今一時 人を毀(こぼ)つでほこりが立つのやで。世上の道が狭く成る。人さえ毀(こぼ)たねば 人の事を悪く言う事はない。人を毀(こぼ)つで、あちらから こちらから眺める。あの者この者が 何でも実々(じつじつ)の道を通るに、悪く言うたら 善き道とも、たすけ道とも言うまい。日々の道を通ろうと思うては、人を毀(こぼ)ったり 悪く言うてはどうもならん。人を毀(こぼ)って、何ぼ(なんぼ)道を神が付けても、毀(こぼ)つから 道を無いようにするのやで。急く事情は要らん。偉い者に成ろうと思うたら どうもならん。皆たけ/\(丈々)の人間。偉い者に成ろうとて一時に成らん。人間一生と言うても、人間の一生の事は急いては いかせん。末代の道やもの。急いては いかせん。天然自然の道に基(もとづ)いて、心治めてくれるよう。
おさしづ 明治23.2.6
【註】 ー 壊す。削る。この場合は、人権や個人の体面、名誉、精神面などを著しく毀損(きそん)すること。悪口・陰口、讒訴・讒言ほかの言動。 

あちらから妬む。こちらから妬む。身が悩む、治まらん。‥あちらから妬む、こちらから妬むという理、治まり成らん。
おさしづ 明治23.3.17 

心一つの理を以て、互い/\の心を持って、あちらでぼそ/\(ぼそぼそ)、そちらであらこら言えば 直ぐの道を通られやせん。
心を皆 純粋に治めてくれ。陰で言うより前で言え。いかん事はいかんと 陰で見て 陰で言わんと直ぐに言え。陰で言うたら 重罪の罪と言わうがな(言おうがな)
おさしづ 明治 23.11.22

少しぐらい こんな事ぐらいという理は むさくろしい(むさ苦しい)。妬み合いという理が見て居られん。これで掃除は仕舞(しまい)。これだけ見分けんならん。見分けるには遠慮は要らん。遠慮するのは分からんからや。
陰で言うは 十代罪と言う。陰で言うなら その者 直ぐに言うてやれ。身のためや。来る者に去ね(いね/帰れ)とは言わん、来ん者に来いとは言うやない。心で尽す者と、現場で尽す者と よう見分け。陰隔(かげへだ)の理の無きよう。
おさしづ 明治24.1.29

(うら)み悔(くや)みを持たず、心だけ改め。いかなるもいんねん(因縁)。早く事情定めてくれ。
おさしづ 明治25.5.2

(い)らざらん事、何も心を付けるやない。めん/\でする事、どうも知ろうまい。是非はあろうまい。めんめんの怨み、これだけの事を皆(み)んな よう思うてみよ。天然自然という處(ところ)成程(なるほど)と言う。めん/\承知して居(お)れば、どんな慎(つつし)みも出来る。これよう聞き分けて置かにゃならん。
おさしづ 明治26.5.11

万事(ばんじ)互い/\よう聞いて/\居るやろ。聞いたら道を違わんよう、違わさんよう。違わしては何にもならん。心に違う理が すっきり嫌い。‥
罪はならんで。取り扱いの處(ところ)治まりてないから罪出来る。心罪無いよう諭してくれ。
毎夜々々のように諭してある。なれど、めん/\理を拵(こしら)、裏と表との事情がどうもならん。善き事も悪き事も裏表、取りよう聞きようによりて理が戦う。
こそ/\話はすっきり要らんで。直ぐと/\大きい声で話し、陰々の話は要らん。‥
きょうだいの中/\と言うても、中にきょうだいの理がある。ぼそ/\話はすっきり要らん。世上の理 世界の理は 心に治めて話もせにゃならん。内々 気に済まにゃ済まぬよう 明らか話もせにゃならん。
中に跨(またが)り要らん。心変わる理あろうまい。なれど、日々理を拵える。皆んな揃うた中で話して置くから ぼそ/\話は要らん。ぼそ/\話は ろく(碌)な事や無いと思え。誰彼言うやない。そのまゝ(まま)直ぐに諭してくれ。こそ/\話は 罪を拵える台とも諭し置こう。
おさしづ 明治26.12.6

小さい心はやめてくれ。疑ぐり/\の心はやめてくれ。ほしい(欲しい)、をしい(惜しい)、うらみ(怨み、恨み)、そねみ(嫉み)の心はやめてくれ。
おさしづ 明治28.10.7

笑うて暮らせば、何にも妬み恨(うら)みは 一つもあらせんで。よう聞き分け。
おさしづ 明治31.5.9

第一妬む妬まれる、嫉(そね)む嫉まれる。この理ほど恐ろしい理はない/\。‥妬み合い/\、嫉み合い/\、これが見苦して、見苦してならん。 
おさしづ 明治31.5.12

これまで人が出世すれば 妬む者は そら無い。なれど心に理を思わねば、妬むも同じ事。人の出世、楽しんでくれにゃならん。ほんに これでこそ道の理かと、楽しんでくれてこそ道であろ。人の出世、怨み嫉みは道でない。 
おさしづ 明治32.2.2 

さあ/\尋ねる事情/\、身上という、心得んと言うやろ。身上心得ん。一年改(あらた)、二年改め、身上から改め。一年改める、二年改める、三年改める。一つ/\心の理 改め。道これまで運ぶ處(ところ)、十分受け取ってある/\。長らえて道中、掛かりならん處 運んだ理は、十分受け取る。それから心という理/\、とんと計り難(がた)ない。順序改め掛けた/\。又(また)事情、一年改め二年改め三年改めて、事情働き損やない/\。年々めん/\心の理で伸びたもの/\。誰怨みやない/\。一時鮮やかなら、一年二年三年理が、表という一つ理に集めてやろ。理に取り立てる。これ楽しませ/\。
おさしづ 明治32.3.22

難儀さそう不自由さそう親無き理。そこに身上掛かるはどう、又(また)重なる事情に掛かるは、どうと言うは日々であろ。なれど、心取り替え/\。身上一時どうとは言わん。一寸(ちょっと)大層。成っても成らいでもと、心尽(つく)した理は末代。理 末代の理。これ将来に聞き分けば、怨みる處(ところ)無い。よう聞き分け。一代と思うによって、心どうもならん。難儀不自由めん/\思うから、めん/\理に掛かる。これよう聞き分け。
おさしづ 明治32.12.21

あちらから妬み、こちらから妬み、ほこりの元。元は障りという。
おさしづ 明治33.5.17

悪い風に誘われ、取り損(ぞこな)いは どうもならん。これまでさしづ及んだる。風に誘われたのは、銘々の恨みと諭し置こう。
おさしづ 明治33.5.31

何か天然の道理 持たにゃならん。天然は いつになっても、天然で通るだけは、どうでも連れて通る。これ聞き分けたら、怨むやない程に/\。銘々 心恨みと諭し置こう。
おさしづ 明治33.5.31

何ぼ(なんぼ)言うて聞かしたてならん。我(わ)が身仕舞(じま)いではならん。それでは灯火(ともしび)消えて、今一時点(つ)けようと言うたて行きやせん。暗闇と言う。聞き分け。
今日のさしづ(おさしづ)は容易ならんさしづである程に。心に含んで言わんと居るは、真実は ほんの上面(うわっつら)だけ。今日の一つさしづ(く)だすは、憎うて下(く)だすやない程に。可愛一条( かわいいちじょう)で下(く)だすのやで。
おさしづ 明治33.10.14

めん/\子を持って一つの道理を見よ。皆親子供(みな/おや/こども)憎い可愛(かわい)、隔てあるか。成るという成らんという、この一つの理 聞き分け。
おさしづ 明治33.11.2

人の出世を怨むようでは違うぞ。
おさしづ 明治34.5.26

皆の中/\という。一つまあ余程(よほど)結構と思うて、一日楽しんだ理もある。なれど、どうも人という、心見て、めん/\身からなれば是非も無い。これを恨みるやない。恨んではならん。身上という身から思うような理で、さあ是非も無い。順序一つ諭し置こう。
人間我が身から出したる。我が身からする事どうもなろうまい。たゞ(ただ)一時 道一つ理 心に一つ理、人々我が身恨みという。これを一つ理台という。
さあ/\相手一つ どうしたらよかろう、こうしたらよかろうと結ぶやろう。なれども、元々一つ、これ聞き分けにゃならん。人々の心次第々々々、‥
おさしづ 明治34.11.8

(みな)憎い者は無い/\。皆可愛(みな かわい)から言うのや。これ万事(ばんじ)聞き分けにゃならん。
おさしづ 明治34.12.21

心 妬み合いするは、煩(わずろ)うているも同じ事。【註】煩う  患う。
おさしづ 明治35.3.14

一手一つ、これだけ諭し置こう。どれだけ不思議と思う。これだけこうと残らず/\寄り合(お)うてすれば、粗相(そそう)あっても案じる事 怨む事要らん。たゞ隠し合い包み合いする中に錆(さび)ありては、照らす事仕難(しに)くい。どうでもこうでも、一条(ひとすじ)の明るき心持ってくれ。そこで、どんな事 変わりた事あっても、皆(み)んな残らず/\知ってしたら、善うても悪うても、何處(どこ)へ怨む事は無いが、明らかな道という。これだけ諭したら、どんな者でも分かるやろう。
おさしづ 明治35.7.23

今に(いまだに)乳呑児(ちのみご)同様の心で居(い)から、どうもならん。皆(みな)憎い者は無い。心間違うから、親の心 皆変わる。皆違う心から 心が変わるから、見難(みに)うなる。生涯の處(ところ)よく聞き分けにゃならん。聞き分けば、身の苦しみ止まる。皆勝手々々の思わく(思惑)どうもならん。これ一つ定めにゃならん。
おさしづ 明治39.5.28

身に一つ 口に言うた處(ところ)が、心に使わん理どうもならん。皆々を騙(だま)し 親を騙す。その心も同じ事や。もうこれだけ言うたら、これだけ言うて心に感じ無けねば、めん/\の思う通りせい。すれば、誰にも怨むるものは一つもありゃせん。
おさしづ 明治40.4.10


  教祖が元を説かれた理由 ⑤ に続く


   最終見直し 2016.2.28  19:00

  前項の【参考】です。

【参考】「みちのとも」より
  (前略)
   教祖はまた、この理を一層分かりよく、
届かぬ者や、足らぬ者を、届かぬ者じゃ、足らぬ者じゃと言うておくのではない。届かぬ者には、届いた者から届かすようにしてやってくれ。また、足らぬ者には、足った者から足らすようにしてやってくれ』と。
〔大正6年9月号  天理教と時世  宇田川文海〕より

【参考】「正文遺韻」より 
嘘に追従(ついしょう)これ嫌い。欲に高慢大嫌い』と仰せられまして、嘘、追従を言わぬ者はない。また、欲と高慢も無い人はございません。皆誰でも、多いか少ないか心にありますから、行(おこな)いに現れますによって、嘘を言わんよう、お追従せぬよう、欲をかかんよう、高慢を出さぬように、日々注意することが肝要でございます。
   人間の凡夫心(ぼんぷしん)では、
「人に悪く言われると気持ち(気分)が悪い」
「良く言われると気持ち(気分)が良い。また、少しでも人の上に立つとか、人に立てられるとかすれば嬉しい」
「人の下に随(つ)いて通らにゃならん。また、人に貶(けな)されると忌々(いまいま)しい」
これは、どうでも離れることの出来ぬ人情でござりますによって、自分もそうなら人もそうだ。よって、
「人のこと貶せば、人もわれのこと貶す」
「人の頭を押さえれば、人は反抗して、己(おのれ)の頭を押さえんとする」
そこで、互いに踏みつけ合いになります。それ、内々も睦(むつ)まじゅうは通れぬようになる。
   よって神様が、
互い立て合い』と仰せられる。慢心出しては 立て合えましょうか。人がヘタなことや、つまらぬこと言うたり、したりしたならば、貶さずに、教えるように親切をかけ、悪いことを悪いと言わず、違うことを違うと言わず、「こうしたらどうでしょう」というように優しくして人を立て、人の足らぬところを補ってやるようにするのが誠真実(まこと)であります。
   そこで神様が、
『「あの人は足らぬ人や、あほうな人やと言うならば、足りるよう、賢(かしこ)いようにしてやってくれ』と仰せられます。
 「人間は、神様の貸しもの」ということを聞き分けたなら、その足らぬ人や、あほうな人のことを笑ったり、謗(そし)ったり出来ますまい。何となれば、その足りぬとか、あほうやとか分かるのは、自分が神様のご守護を(あつ)く戴いているからこそ分かるのであって決して自分の力ではない自分の力のように思うから人の足らぬのやあほうなのが可笑(おか)しくなるのであります。
   そこで、
足らぬ者なら、足してやれ』と仰る。力を添えてやらねばなりませぬ。
あほうな者は、賢くしてやれ』と仰る。同じく心を添えてやるより、他に道はござりませぬ。人間の力で、あほうを賢い者に出来ましょうか。決して出来ることやござりますまい。
   この理を聞き分けたら、人を踏みつけにも、蔑(ないがし)ろにも出来やしませぬでしょう。この高慢心は、つのり募りて、親をも踏みつけにする。また、主人・妻をも踏みつけにする。ついには理を踏みつけ、神様を無いもの同様にするようにもなります。
   そこで「ほこり」という、八つの中の第一終(しま)いのとめに置いて、お戒め下されたのであって、「高慢」は、一番出やすくて、一番ほこりが大きいのでありますから、よくよく日々に注意せんければなりません。
〔171〜173頁 御はなし草稿 八埃の理〕より


   初めて拝見した時、衝撃的であった以下のお言葉も、少しばかり掘りさげてみたく思います。

   教祖ご在世中のお話といえば、大抵この泥海中のお話が多かったが、これをお聞かせになる前には、

今、世界の人間が元を知らんから、互いに他人と言って嫉(ねた)み合い、恨(うら)み合い、我さえよくばで、皆勝手々々の心遣い。甚(はなは)だしき者は、敵同士になって嫉(ねた)み合っている者も、元を聞かしたことがないから仕方がない。なれどこのままにては、親が子を殺し、子が親を殺し、いじらしくて見ていられぬ。それでどうしても、元を聞かせなければならん。

ということをお話しになり、それから泥海中のお話をお説きになり、終いに、

こういう訳ゆえ、どんな者でも仲良くせんければならんで。

と言ってお聞かせになった。


【参考】他人  きょうだい

世界中 一れつは皆きょうだい(兄弟姉妹)や  他人というは更にないぞや   おふでさき 十三 43

他人が他人やない。身が身やない。これ一つ聞き分けたら、何かの事情も皆分かる。
おさしづ 明治27.1.22

神が表へ出て珍しいたすけをする。皆(みな)他人と言う。他人を寄せてきょうだい一つの理。神が日々使うて居る。神が支配をして居るやこそ治まってある。
おさしづ 明治27.3.5

同じきょうだいの中に、合うの合わんのと言うようでは、道を捨てゝ(捨てて)ほかして了(しも)うたも同じ事やで。
おさしづ 明治32.5.14

同じ五本指の如(ごと)く、きょうだいの中なら、どの指噛んでも身に応えるやろ。あちら起こして こちらを倒そうという理あろまい。
おさしづ 明治32.12.27


教祖が元を説かれた理由 ④ に続く


最終見直し 2016.2.27. 15:45 




天理教教祖伝 第六章 ぢば定め」には、

   教祖は、〈大和(おやまと)神社の神職達に〉
親しく会う
と仰せられ、衣服を改めた上、直々お会いなされ、親神の守護について詳しく説き諭された。神職達は、
「それが真(まこと)なれば、学問は嘘か」
と尋ねると、教祖は、
学問に無い、古い 九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい
と仰せられた。
   神職達は、あきれて「また来る」と立ち去った。

とあります。 
この世の元初まりのお話』は、当時の人知や学問、常識を、はるかに超えたお話であったのです。

   後に詳しくご紹介しますが、たとえば教祖は、
岐様(うを/いざなぎのみこと/岐魚)の鰭(ひれ)に五つの筋(すじ)がありた。これが五本の指と成りた
と仰せられますが、ここ最近の研究において、
『人間の祖先にあたるシーラカンスのような魚の胸びれ尻びれが、だんだんと「手足に進化変化」し、サンショウウオかトカゲのような姿で陸に上がった』
という事が発表されています。
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   前項の教祖のお話ですが、嬉しくなるほど具体的ですので、より理解を深めるために、少しばかり掘りさげてみたいと思います。

   変わらぬのが天の理やで。米を植えたら米、麦を蒔(ま)いたら麦が生える。芥子(ケシ)の種には芥子の実がのる。この理をよう聞き分けておくれ。
   人間は、人間が産んで、独り大きいなって、偉くなれば、我が力で偉くなったように思うが、それは大きな間違いやで。
   人はどうでも、我さえ良くば、という心ではいかん。
   皆々、神様の可愛い子供や。我が身が可愛いように、人さんを可愛がってやっておくれ。
   我(が)があってはならんで。欲があってはいかんで。
   世の中に、火難に遭(お)うて裸で泣く者もある。盗難に遭(お) うて、難儀する者もある。何で、このような目に遭(あ)うか。この理を聞き分けておくれ。
   神は、可愛い子供に苦労さしたくない。皆の心意気が、ころっと違うからやで。

   米を植えたら米ができ、麦を蒔いたら麦が生えるように、皆が当たり前だと思っていることを、寸分の狂いもなく、変わらずに与え続けて下さる神の守護天然自然の道理に気付いて、よく聞き分けておくれ。
   人間はただ、自分の親から生まれて、独りでに成長して、立身出世して、皆、自分の力で偉くなったように思っているが、それは大きな間違いである。
   人間は どうあっても自分さえよければ良い という心ではならない。
   世界中の人間は、皆、神様の可愛い子供であるから、自分自身が可愛いように、人様も、それと同様に可愛がってあげて欲しいのや。
   我(が/人間思案/高慢ほか)があってはならないで。 欲の心があってはいかんで。
   世の中には、火事などに遭遇して、裸で泣く人もある。盗難被害に遭って、苦悩する人もある。 どうして、そのような災難に遭わなければならないのか。この天然自然の道理を、聞き分けておくれ。
   神は、可愛い子供(人間)  に苦労させたくないのであるが、お前たち子供(人間)の心意気 (心根・性根・心持ち・気概・ものの考え方ほか) が、神意・教えの理である天の理に、まったく適わず、違っているから、災難などに遭うことになるのやで。

【参考】「男で御座(ござ)んす  深谷源次郎」より (現代用字変換)
『すべて、米蒔けば米、麦蒔けば麦が生えるのが「天の理」である。米蒔いて、麦が出たら、嘘や』

【参考】当ブログ 「理の親と順序の理 ①」をご参照下さい。

参考「教祖様御言葉」より (現代用字変換)  
   そこで、真実心定め、また心澄ますよう、この心澄ますのは、嘘と追従(ついしょう)言わんよう、また、欲に高慢ないように。これさいか、弁(わきま)えたなら 心澄んである。
   何事も 我が子に取りて、思案せよ。子は どうでもと思う親は無し。また、神様が、罰当(ばちあ)ては更になし。‥
   また、前に申す通り 神が罰当て更になし。そのはづや、この人間を拵えたのは、この人間の、陽気遊山を見たさに拵えた人間やもの。また、世界中、どこに隔ては更になし。
明治18.4.18〕より

参考「諸井政一集」より 
   は火や、水は水や。何でも ないと思うていては違う。火と水とは一の神。なくてはならんものの一つ。間違うたら、どうにもこうにも人間の力で防げん。ここをよう思案せよ。
   さあ、そうなってきたら、いかな強欲(ごうよく)でも、悪気者(あっきもの)でも、そんな事どころではない。何もかも忘れて、まず第一に手を合わすやろ。さあ、手を合わしたら何と言う。なむという言葉が先へ出るやろがな。南無は親々(月日/くにとこたち・をもたりのみこと)やで。いかな大水も、大火事も、大風も、皆これ親の意見やから、知らず知らず、親を呼び出して頼むというは、仏法というものを、人間の心 和(やわ)らげるために、教えておいたのやで と仰いました。
〔後篇 84頁 御講話傍聴録 二〕より

【参考】「天理教の考え方・暮らし方」より
   命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。今、火事やと言うたら、出せるだけは出しもしようが、身上の焼けるのも構わず出す人は、ありゃせん。大水やと言うても、その通り。盗人(ぬすと)が入っても、命が大事やから、惜しいと思う金でも、皆出してやりますやろ。
   悩むところも、同じ事や。早く、二の切りを惜しまずに施しして、身上を救からにゃならん。それに、惜しい心が強いというは、ちょうど、焼け死ぬのも厭(いと)わず、金を出しているようなものや。惜しいと思う金銭・宝 残りて、身を捨てる。これ、心通りやろ。そこで、二の切りをもって身の難 救かったら、これが、大難小難という理やで。よう聞き分けよ。〔逸話篇 178 身上がもとや〕
「二の切り」というのは、「二番目に大切なもの」という意味です。「命」あるいは「身上(からだ)」が一番で、金銭は二番である。その道理は誰でも弁(わきま)えているが、火事や大水など、非常危急(ききゅう)の場面に遭遇すると、つい狼狽(うろた)えて「二の切り」に拘(こだわ)り、その結果、命を失う破目(はめ)になるから「心するように」ということです。大病の時も「冷静な判断が必要だ」と言われます。
   人間、火事に遭うことは滅多にありません。しかし、現れた事柄は小さいようであっても、危急存亡に関わる事柄は日常よくあります。小火(ぼや)みたいなものです。
   それをうっかり見過ごさないで、「命は一の切り」「金銭は二の切り」と見極めをつけて、その都度対処していくならば、いざという時、判断を間違えることは無いと思います。知識が飛躍的に向上した現代でも、この基本構造に変わりはありません。
〔82〜83頁  金銭は二の切り〕より

【参考】おふでさき (現代用字変換)
      三 32  真実に人を救ける心なら  神の口説(くど)きは何も無いぞや
      六 95  どのような事も恨みに思うなよ  みな銘々の身恨(うら)みである
十三 103  この先は どの様(よ)な道があるとても  人を恨みな 我が身恨みや

【参考】みかぐらうた (現代用字変換)
十下り目 七ッ 難儀(なんぎ)するのも心から  我が身恨みであるほどに

教祖が元を説かれた理由 ③ に続く

最終見直し 2016.2.23  22:30

   ある日ふと、「何故ゆえに教祖は、この世の元初まりを聞かせて下さったのやろうか」と思いました。

天理教教典  第三章 元の理」冒頭には、

   親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろ(社)として、この世の表(おもて)に現れた、奇(く)しきいんねん(因縁)と、よふきづとめ(陽気づとめ)の理を、人々によく了解させようとて、元初(はじま)りの真実を明かされた。

とあります。また、

おふでさき註釈  29〜51総註」には、

かぐらづとめの理を明らかにし、親神様の、この世人間創造のご苦心をお教え下さるために、元初まりのお話を詳しくお説き下されている。

とあります。また、

天理教教祖伝  第八章 親心  元の理」冒頭には、

   かくて教祖は、つとめの完成を急き込み、その根本の理を諭す上から、元初まりの理を、人々の心の成人に応じて、理解し易(やす)いように、順序よく述べられた。

とあります。また、

ひとことはな志 その三  此世始まりのお話」冒頭で、二代真柱様は、

   おつとめは、よろづたすけ(万救け)のために勤められるものであり、よろづたすけとは、ひとり人間の身上ばかりではなく、農作や日本、世界の上にも及ぼされているのを申しました。言わば、人間身上なり、生活なりの上につき、あらゆるご守護を下さることをお述べ下されているのでありますが、何ゆえに、このおつとめに、このようなご守護の理をお教え下されているのでありましょう。それにはまず、この世初まりのお話を聞かせて頂くのが順序であります。

   と言うのは、教祖様(おやさま)は、
おつとめによって、この世に再び人間をつくるのだ。更生さすのだ』
ということを仰せになっています。

『元初まりの親神様が、教祖様(おやさま)の口を通じて、人間創造の思召(おぼしめし)をお聞かせ下され、人間の心の掃除をして、人間創造当時と同じように、その後「ほこり」にまみれ、いろいろな勝手な「いんねん」を積んできた人間を、人間創造当時の如(ごと)無垢(むく)なものにつくり直す
ことを仰せになっているのであります。
(中略)

おつとめによって、その昔、無い人間を創造された時と同じように、この世で人間をつくり直す
と仰せられているのであります。

『心を澄まして、創造当時と同じように、「ほこり」にまみれない、楽しい人間と更生さすこと
を仰せられたのであります。

   されば、おつとめの理を思案させて頂くためには、まず、この世初めのお話を聞かして頂くのが順序なのであります。

と、おふでさきを参照に、解りやすくご説明下されています。


   さて、教祖ご自身は、何と仰っておられるのでしょうか。
   深谷源次郎先生(河原町初代)のお話では、
   神様(教祖)は、いつも私たちが行くと、人間を創(はじ)めた時の話をしなさる。そしてそのたびに、泣いて聞かして下さった。
変わらぬのが天の理やで。米を植えたら米、麦を蒔(ま)いたら麦が生える。芥子(ケシ)の種には芥子の実がのる。この理をよう聞き分けておくれ。
   人間は、人間が産んで、独り大きいなって、偉くなれば、我が力で偉くなったように思うが、それは大きな間違いやで。人はどうでも、我さえ良くば、という心ではいかん。皆々、神様の可愛い子供や。我が身が可愛いように、人さんを可愛がってやっておくれ。
   (が)があってはならんで。欲があってはいかんで。世の中に、火難に遭(お)うて裸で泣く者もある。盗難に遭(お)うて、難儀する者もある。何で、このような目に遭(あ)うか。この理を聞き分けておくれ。
   神は、可愛い子供に苦労さしたくない。皆の心意気が、ころっと違うからやで
と、聞かして下さった。
〔みちのとも 大正10年3月号  深谷先生の御話  深谷源次郎〕より
と仰います。

   続いて、諸井国三郎先生(山名初代)のお話では、
 教祖ご在世中のお話といえば、大抵この泥海中のお話が多かったが、これをお聞かせになる前には、
今、世界の人間が、元を知らんから、互いに他人と言って嫉(ねた)み合い、恨(うら)み合い、我さえ良くばで皆、勝手々々の心遣い。甚(はなは)だしき者は、敵同士になって嫉(ねた)み合っているのも、元を聞かしたことがないから仕方がない。
   なれど、このままに居ては、親が子を殺し、子が親を殺し、いぢらしくて見て居られぬ。それでどうしても元を聞かせなければならん
ということをお話になり、それから泥海中のお話をお説きになり、しまいに、
こういう訳ゆえ、どんな者でも、仲良くせんければならんで
と言ってお聞かせになった。
〔山名大教会初代会長夫妻自伝(大正五年) 69頁〕より
と仰います。
   ここで、ふと脳裏に浮かんだのが、おふでさき13号 43〜51のお歌です。

せかいぢういちれつわみなきよたいや  たにんとゆうわさらにないぞや 
世界中一れつは皆きょうだいや             他人というは更にないぞや
  このもとをしりたるものハないのでな  それが月日のざねんばかりや 
  この元を知りたる者は無いのでな       それが月日の残念ばかりや  

  高山にくらしているもたにそこに  くらしているもをなしたまひい 
  高山に暮らしているも谷底に       暮らしているも同じ魂  

  それよりもたん/\つかうどふぐわな  みな月日よりかしものなるぞ 
  それよりも だんだん使う道具はな      皆月日より貸し物なるぞ  

  それしらすみなにんけんの心でわ  なんどたかびくあるとをもふて 
  それ知らず皆人間の心では          何ど高低あると思うて  

  月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ  どふぞしいかりしよちさしたい 
  月日にはこの真実を世界中へ              どうぞしっかり承知さしたい  

  これさいかたしかにしよちしたならば  むほんのねへわきれてしまうに 
  これさいか確かに承知したならば       謀反の根は切れてしまうに  

  月日よりしんぢつをもう高山の  たゝかいさいかをさめたるなら
  月日より真実思う高山の             戦いさいか治めたるなら

 このもよふどふしたならばをさまろふ  よふきづとめにでたる事なら
  この模様どうしたならば治まろう         陽気づとめに出たることなら


  おお、これは ろっくの地に踏み均(な)らすということではないですか!


教祖が元を説かれた理由 ② に続く


最終見直し 2016.2.19  22:10

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