先日 知人より、
『教祖が「月日の社(やしろ)」である理を闡明(せんめい)するためにお召しになった
赤衣(あかき)」は、なぜ「赤」なのか』  
という質問をいただきました。
   そう言われれば、真剣に考えた事もなかったし、さほど疑問にも思わなかったことでした。
   ということで調べてさせてもらいました。

   おふでさき(現代用字変換)に、

(明治七年)十二月廿一(二十一)日よりはなし

六 55  この世を始め出したる屋敷なり 人間創(はじ)め元の親なり

六 56  月日より それを見澄まし天降(あまくだ)り 何か万(よろづ)を知らしたいから
           (中略)
六 59  今までも月日の社(やしろ)しっかりと 貰(もろ)てあれども いづみ居たなり

六 60  このたびは確か表へ現れて 何か万(よろづ)を皆言(みなゆ)て聞かす

六 61  今までは御簾(みす)の内裏(うぢら)に居たるから 何よの事も見えてなけれど

六 62  このたびはあかい所へ出たるから どの様な事もすぐに見えるで

六 63  この赤い着物を何と思ている 中に月日が籠(こも)り居るぞや

六 64  今までも月日のままであるなれど 日が来たらんで見許していた

六 65  このたびは もう十分に日も来たり 何か万(よろづ)を侭(まま)にするなり

六 66  それ知らず高山にては何もかも 何と思うて侭にするぞや

六 67  何事もこのところには人間の 心は更にあると思うな

六 68  どのような事を言うにも筆先(おふでさき)も 月日の心 指図ばかりで

六 69  高山は何を言うても思うにも みな人間の心ばかりで

六 70  月日より付けた名前を取り払い この残念を何と思うぞ

六 71  真実の月日〈の〉立腹 残念は 容易なる事でないと思えよ

とあります。大意としては、

六 55  ここは この世を始め出した元のぢばなる いんねんある屋敷であり、教祖は 人間創造時の元の親なる魂のいんねんの者である。

【参考】「復元」には、
「…御教祖(おやさま)は伊弉冊命(いざなみのみこと)の御魂で、人間元創(はじま)りの親様であらせられる。…」
とあります。
〔復元 第29号「御教祖伝史実校訂本 上」〕より

六 56  月日親神は、この世の真実を何もかも人間に知らしたいがゆえに、それらを見澄まし、旬刻限(しゅんこくげん)を待って、教祖に天降ったのである。

【参考】「正文遺韻抄」には、
   そこで神様のお話に、
この屋敷へ、木仏、金仏、石仏を据えたところで、神が入り込んで ものを言わする訳にいかんで。元なる親の魂に、人間五体の生を受けさして、神が天より その心を見澄ましていた』と伝えられる。
〔諸井政一「正文遺韻抄」12-13頁〕

六 59  天保九年の立教以来、今までも教祖を月日親神が入り込む月日のやしろ・神のやしろ・地上の月日として しっかり貰い受けてはいるが、人間は元の親なる神・真実の神と心底から信じられずに疑い、心はいづみ、滅入っていた。

六 60  このたびは〈改めて〉はっきりと表へ現れ出て、この世の真実を何もかも言って聞かせる。

六 61  今まで月日親神月日のやしろは 御簾(みす)の内側に居た〈ようなものだ〉から、外側の人間からは よく見えなかったが、

六 62  このたび月日のやしろあかい所に出たから、今後はどんな事もすぐに見えるようになる。

六 63「月日のやしろが着る、この赤い着物を何だと思っている。教祖の中に月日親神が籠り居る証拠〈として着ているの〉である。

六 64  今までも月日親神の自由自在(じゅうよじざい)守護のままであり、しようと思えば いかようにもできるのであるが、その日その時が来るまでジッと見許していたのである。

六 65  このたびは もう十分に機が熟し、その日その時が来たので、親神の自由自在の働きを現すのである。

六 66  それも知らずに高山(上層、権力者層、指導者層)の者は、何だと思って何もかも我が侭(わがまま)、思うが侭に振舞っているのか。

六 67  元の屋敷月日のやしろたる教祖は人間である、人間の心であるなんて決して思ってくれるなよ。

六 68  教祖の言うことやおふでさきに記してあることも全て、月日親神の心からの指図(指示)である〈から、人間心は一切混ざっていないのである〉

六 69  かたや、高山の言うことや、考えることは、人間心・人間思案からの勝手な言動、我侭(わがまま)な思案ばかりである。

六 70  高山の者は、月日親神が付けた天理王命という名前を取り払った。この親神の残念な思いを何と思っているのか。

【参考①】「稿本天理教教祖伝」には、
…〈明治七年十二月〉二十五日(陰暦十一月十七日)になると、奈良中教院から、辻、仲田、松尾の三人を呼び出し、
天理王という神は無い。神を拝むなら、大社の神を拝め。世話するなら、中教院を世話せよ
と、信仰を差し止め、その上、お屋敷へやって来て、幣帛(へいはく)、鏡、簾(みす)等を没収した。…
〔121頁  第六章 ぢば定め  山村御殿のふし〕より

【参考②】「正文遺韻抄」には、
   その後まもなく、また奈良中教院へ呼び出しになりました。その頃、諸所で神道(しんとう)の説教を政府が干渉してさせまして、教導職も只今とは違いまして、なかなか位(くらい)が ようござりまして、大いに神道を引き起こしました。それについて取り締まる所が即(すなわ)ち中教院。それへ辻様、松尾様、仲田様と三名にてご出頭になりますと、だんだん説諭(せつゆ)を加えられまして、
宗旨(しゅうし)は これまで通りの宗旨に従え。信心したくば大社へ信心せえ狐とも、狸とも、気違いとも解らぬ者に信心して何になるぞ近い所に「布留(ふる)の大社(石上神宮)」もあるではないか
と種々様々に申して信心させまいと致します。三名はただ「はい、はい」と言うたのみで お帰りになりましたそうでございます。
〔諸井政一「正文遺韻抄」87頁 中教院へ呼出〕より

【参考③】「辻忠作文書」には、
…その後、奈良中教院というへ、仲田、辻、松尾 三人呼び出され、尋問を受けました。
その方ら、天理王命を信心する。そんな信心するより、石上神宮〈が〉側にある。病気なら医者にかかれ。世話するなら、中教院の世話〈を〉せよ
と、色々説諭せられ、そのうえ地場(ぢば)に祀りありし幣(へい)、御簾(みす)、鏡(かがみ)等 一切取り上げられました。…
〔大正9年4月25日 道友社発行「本部員講話集 中」辻忠作「ひながた」〕より

六  71  真実の月日親神の この立腹と残念は ちょっとやそっとの事ではないと思えよ。

【参考】「辻忠作文書」には、
…後、奈良の中教院へ呼び出され、仲田、松尾、辻 三人行きて色々尋問の上、説諭をなした上、御地場(おぢば)に祀(まつ)りありし鏡(かがみ)、弊(御幣/ごへい)、簾(御簾/みす)などを取り上げになりました。
   それより神様からおふでさきにお出しなされたは、
このところ たすけ一条 止められて 何でも返やしせずに居られん(六 114)
この返やし大社高山取り払い みな一れつは承知していよ(六 115)
と仰せありました。…
〔辻忠作文書  初代真柱様へ提出の「別席之御話」(明治31年)〕より
  【註】復元 第31号「天理教教祖傳叢書 一」においては「ひながた」と題されている。

   この背景には、明治7年旧10月の「大和神社のふし」から始まり、「石上神宮の神職との問答」「山村御殿のふし」などへと展開していく「高山布教」があります。
   これら一連のお話は、「天理教教祖伝115-126頁、中山正善「 ひとことはな志」46-52、133-143頁、諸井政一「正文遺韻抄」83-89頁、また「教祖伝・教祖のひながたの解説本各種 に詳しく記されていますので ご参照下さい。


「赤い理由」の手掛かり・ヒントとなるのが、上記「おふでさき」六 62にある「あかい所」です。

   昔の「みちのとも」にございましたよ「赤い理由」が。

   赤衣が赤い理由その①
…警官の方が見えて 何時(いつ)も御教祖様(おやさま)に、
「赤い着物を着て人を迷わしている」
「やまこを張っている」
「赤い着物は着てはいかん」
と おしかり(お叱り)になりますが その時 御教祖様(おやさま)は、
私し(わし)が赤い着物を着ていりゃこそ世界が明るいのや。わしが赤い着物を着なかったら世界は暗やみ(暗闇)やで
と仰せになっていました。…
やまこを張る…「虚勢を張る」「ハッタリをかます」など、強気な態度、大袈裟な言動で相手を威圧、恫喝、脅迫すること。出来ないのに出来る振り、弱いのに強い振りなどをすること。
〔みちのとも 昭和4年5月20日号  永尾(飯降)芳枝「雨乞ひ勤め」〕より

【参考】「おさしづ」には、
…これもう一つ ほこり立ったら暗闇やで。 
〔おさしづ 明治30.11.20〕

…何ぼ言うて聞かしたてならん。我が身仕舞いではならん。それでは灯火(ともしび)消えて、今一時点けようと言うたて行きやせん。暗闇という。聞き分け。… 
〔おさしづ 明治33.10.14〕
などとあります。

     赤衣が赤い理由その②
 …御教祖(おやさま)は最初、「どろ染め」といって、黒い衣を着ておいでなされたが、その後、
黒いものを着ると身体が苦しい
というので、上衣はもとより、襦袢(じゅばん)から足袋(たび)にいたるまで、一切(いっさい)赤いものを用いられた。
くらいところ(暗い所)では働きがにぶい(鈍い)。赤きところ(明き所)に月日がこもりいる(籠り居る)』
と仰ったこともある。
   そやよって、悪口いう人は、赤いものやよって「ホーヅキ婆さん」なんていうたこともある。…
〔みちのとも 大正9年2月号  宮森與三郎「三昔四昔の回顧」〕より

【参考】「稿本天理教教祖伝逸話篇」には、
   教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治七年十二月二十六日であった。
   教祖が急に、『赤衣を着る』と仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑこかんが、奈良へ布地(きれぢ)を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。
   それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(後の桝井おさめ)、桝井マス(後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、教祖が、『出来上がり次第に着る』と仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。
   赤衣を召された教祖が、壇の上にお座りになり、その日、詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という。
〔57-58頁  35 赤衣〕より

【参考】「辻忠作文書」には、
…それまで教祖様(おやさま)は、黒き着物に、白糸で三つ菊の紋〈の〉付いた紋付を着ておいでなされたが、〈月日親神様が〉
赤き着物を着よ
と言う事にて、
この赤い着物を何と思ている 中に月日が籠り居るぞや
と仰せありました。お召し下ろしの着物をもって、
悪難除けの守り、息かけて出せ
と仰せありました。…
〔大正9年4月25日 道友社発行「本部員講話集 中」辻忠作「ひながた」〕より
…それより教祖様(おやさま)は、黒き着物を着てござったに、神の御指図(おさしづ)にて、赤き着物をお召しになりました。
この赤い着物を何と思ている 中に月日が籠り居るぞや  (六 63)
とお付けになりて、それより召し下ろしの衣物(赤衣)をもって「悪難除け守り」(大(外側?)は三日三夜に宿し込みの理で三寸四方。人初(人間初め?)生まれ出し五分からの理で中五分布(中の五分の布?)に「神」と書く)お息をかけてお出しになります。
「疱瘡(ほうそう)守り」は一寸(いっすん)にて、中に五分の布(きれ)に「無」という字書いて、お息かけてお出しになります。…
〔辻忠作文書  初代真柱様へ提出の「別席之御話」(明治31年)〕より

【参考】「稿本天理教教祖伝」には、
…警官の言うには、
「老母(教祖)に赤衣を着せるから人が集まって来るのである」と、それで黒紋付を拵えて差入れた。
教祖は、分署に居られる間、赤衣の上に黒紋付を召して居られた。…
〔283頁  第九章 御苦労  最後の御苦労〕より

【参考】「十六年本(桝井本) 神の古記」には、
   ろふぼにあかききものわ(老母に赤き着物は)、天照のごとく(如く)、月日、てんにあらわれててらすわ(天に現れて照らすは)、りよにんのめなり(両人の眼なり)。
   めわあくゆゑにせかいちゆうあきらかなり(眼は開くゆえに世界中明らかなり)。
   それゆゑに、やしろのあかくゆゑに、せかい中わあきらかなり(それゆえに、やしろの赤きゆえに、世界中は明らかなり)。
   それゆゑにやしろらなにのことてもめいるなり(それゆえにやしろは何の事でも見えるなり)。
   それゆゑにほかなるきものわきればみがくらしゆゑ(それゆえに他なる着物は着れば身が苦しいゆえ)、きておふることわてけぬ事(着て居ることは出来ぬ事)。
〔中山正善「成人譜その三 こふきの研究」133-134頁〕

【参考】「おさしづ」には、
〈警察が〉一人も〈参詣者を〉寄せ付けなんだ日もあった。又〈無理に〉黒衣を着せた日もあった。…
〔おさしづ 明治20.3.16 午後8時〕


   あかき心
   教祖様がお召しになった赤衣の布(きれ)を三寸角に、または二寸八分角に切って、これを三角に縫うて、中へ同じ赤衣五分の布に「神」という文字を書き入れ、これに三編の息をおかけ下されて「悪難除けお守(まも)り」と言うて、おぢばから出すのは、
子供が可愛い一条から、大難は小難、小難は無難に救けたい。それには、この守(まも)りのようにあかき心になれ
とて、お出し下さる。…(現代用字変換)
〔諸井政一「正文遺韻」229頁  おまもりのり〕より

   赤き心 
   此の(この)赤ききれ(布)は、教祖様が五十年の間 御かんなん(艱難)の道を、世界万民の助け一条の為めのお通り下された此の光り輝く其の(その)「赤き心」であるから、月日様より赤き着物をお着せになりて、そこへ月日様のお心をこもり入りて、口を借りて話一条の理でお助け下さるで、教祖様のおめしかえ(お召し替え)の赤ききれ(布)である。
   そこでおまもり(御守り)は からだに貰うのやない、人々の心に貰うのである。そこで何程結構なるおまもりでも、世上あく風(悪風)に誘われ、又(また)悪説にあやかりて、お話の理を心に守らにゃなんでもない。
〔山田伊八郎文書 351-352頁「おまもり」〕より

   赤い心
…梅谷四郎兵衛先生が、ある時おぢばへ帰ってきた時、当時ご存命であった御教祖(おやさま)にご挨拶に出られたところが、そのとき突然 喀血(かっけつ)された。
   畳を汚すまいとして受けた手の平(掌)には、真赤な血の固まりが一杯(いっぱい)あった。
    その様(さま)を見て、御教祖(おやさま)は傍ら、
四郎兵衛さん!血というもんは赤いもんや。お前の赤い心がそこへあらわれたんや。何も心配することいらんで
と仰った。
   以来 喀血されたことはなかった(ご守護戴いた)。
   梅谷四郎兵衛先生は、肺病で道に付かれたのであった。
〔昭和3年1.25発行「洗心」第七号  六号活話(二)〕より

【血の参考】
  月経は天の月様(くにとこたちのみこと)の恵みなり。…女の魂は日様(をもたりのみこと)の分魂ゆえ、三十年間の月水(月経水)なければ、女は焼け死ぬゆえ、月様(くにとこたちのみこと)より授け下さる水なれど、女の身が日様(をもたりのみこと)の分身ゆえ、「赤き心」写りて赤くなる。すべて血液は日様(をもたりのみことの守護)にて赤くなる。
〔「真の宝」38頁〕

  いかがでしょうか。あかい」とは、「赤い」であり、「 (あか)(あかる) 」という意味なんですね。

   当時、横書きは右から左へ書いたので、月日(つきひ)」と書いて「(あかるい)」ですから、なるほどですね。

   そして「赤き・赤い心」である「赤心(せきしん)」の意味ですが、辞書によると、
「赤子(あかご)のような純粋な心」
「嘘、偽りのない、ありのままの心」
「真心(まごころ)」
などだそうです。
   これは三才心(さんさいごころ)」に、かなり近い意味合いのようですね。

【参考】三才心とは
…三才児(みつご)、生(うま)三才の心に成って、明日は楽しみ。…三才児 穏やかに暮らす。何よりそこで結構々々。こうして行かねばならん。まあ/\三才児 三才心に成りて、三才の心に成って何も要らん、機嫌好(よ)う遊んで結構々々。心(こころ)心配無いよう改め替え。
おさしづ 明治20年3月 1件目

…小人(しょうにん)という、小人一つの心になれば、小人三才の心というものは、何も心に掛けんものや。 三才までは 何にも分かり難ない。小人一つの心に思うて、すうきり(すっきり)心に思わんよう。…
おさしづ 明治22.11.7

…小人というは、一才二才三才までは どういう事、人間心は さらにあろうまい。…
おさしづ 明治22.11.9
【註】人間心とは
天理教事典に、
「人間の我が身勝手な心遣いを指す」
とあります。つまり、
純真無垢で穢(けが)れのない三才までの子供には人間心・人間思案・ほこりの心は全く無いであろう
と仰るのです。
決して「三才までの子供には人間としての心が無い」という意味ではありません。念のため。

…事情は さしづ通り凭(もた)れ付け/\。万事(ばんじ)諭し置こう。よう聞き分けて、三才童児(どうじ)という心を以(もっ)て道治め。…
おさしづ 明治30.12.25

…さあ/\皆々あれはどういう者、〈という〉人間心〈は〉持たず、内々人々家内一つの理、互い扶け合(たがいたすけあ)いという 親切合いという。こんな事した思わんよう、理のさんげ(懺悔)。三才小人なあと、優し/\心持って守護という。
おさしづ 明治32.10.18

…この道の中は こうなっても どうなっても、これ三才の子供という心に成ってくれにゃならん。…
おさしづ 明治36.12.22

…生まれ児(うまれご)小児(しょうに)一つ心に成れ。生まれ児の心には 何も欲しいものは無い。生まれ三才、又ちょっと一つ心分かろうまい。さあ/\生まれ児は 持たせば持ち、持たさにゃ持たん。この理しっかり聞き分け。…
おさしづ 明治40.1.20

   小さい神様
「神のような心の人」というのは、「子供のような心の人」をいう。教祖は子供が来ると、
小さい神様が来た
と仰ったことがある。
   子供というものは欲気(よくけ)の無い、初心(うぶ)なもので、物を隠しても見えるように隠している。また、腹いっぱい物を貰えば、そのうえ欲しいとは言わない。
   ところが大人になると、腹いっぱい食ってもまだ、そのうえに懐(ふところ)に入れて持って帰るのである。
「子供のように欲気を離れておれば、神様と同じこと」である。
   お言葉にも、
心澄みきれ神同体
と仰せられ、また、
三才の小児といえば、気に入らねば無理を言う。心に適えばニコニコ笑う註①
とも仰せられた。三つ児(三才児)のような心になっておれば神様と同じことであるから、
同じ屋敷の内にも、欲気を離れた〈心が〉きれいな人もあれば、また、仏(ほとけ)のようになった人もある註②
と仰せられたのである。
〔増野道興「増野鼓雪選集 第一巻」19-20頁  神も仏もあるが〕より

註①おさしづ」には、
…三才の理と言えば 心が浮かめば(原文まま)にま/\(ニマニマ)笑う。気に合わねば無理を言う。…
おさしづ 明治32.3.5 朝

註②「おふでさき」には、
五 4  銘々に我が身思案は要らんもの 神がそれぞれ見分けするぞや
五 5  一屋敷 同じ暮らして居る内に 神も仏もあると思えよ
五 6  これを見て如何(いか)な者でも得心せ 善と悪とを分けて見せるで
とあります。

またさらに、
   明治十九年九月十日 式上郡笠間村講元 加見兵四郎
   少々家業さして被下度(下されたく)御願
   さあ/\尋ねる事上(事情)/\は、あかき道、白き道、くろき(黒き)道にさとしおこう(諭し置こう)
   これでわかろまい、 
   あかき道は神の道一寸はかり(ちょっと解り)かけた事、白き道はせかいなみ(世界並み)黒き道はわが身の思案、
   せかい(世界)のものからつけた徳は、せかい(世界)からはおとさん(落とさん)、わが心でおとさぬ(落とさぬ)よう、
   さあ/\、いばらぐろう(茨畔)も、がけ(崖)道も、つるぎ(剣)の中もといふ(言う)てあろ、どうせこうせはいわん(言わん)、心と心でしやん(思案)してみるがよい。
【註】当おさしづは、現行「七巻本」未収録です。
〔みちのだい第33号「教祖特集号」40頁〕

   明治二十年十一月二日(旧九月十七日) 本席様おさしづお言葉
   心迄に一寸噺して置に依テ(心までにちょっと話しておくによって)、よふしやん(よう思案)
   赤キ道、黒キ道、白キ道、是デハわかろまい(これでは分かろまい)
   あか(赤)き道とゆふは、わかりかけた心、赤キ道也(なり)  
   黒キ道とゆふは、何事もわがしやんの心、黒キ道也(なり)
   白キ道とゆふは、世界なみの心、是ヲ(これを)白キ道とゆふ也(言うなり)
【註】当おさしづも「七巻本」未収録です。
〔「根のある花・山田伊八郎」222頁〕
とあり、
   赤き道とは神の道・神意・教えの理が解りかけた心で、
   黒き道とは何事も自分中心に考えるわが身思案・ほこりの心で、
   白き道とは世界並みの心」と説明されています。
   
   
【参考】「おさしづ」のなかにみる「色」を示すお言葉は、
   たゞ(ただ)こうきという。それ/\(それぞれ)の處(ところ)より刻限、赤きは赤き、黒きは黒き者に連れられ、さあ/\だん/\早や/\。
〔おさしづ 明治20.3.19〕

   めん/\身上處(ところ)分からん。ほんにいろもの、白黒が分からん残念。
〔おさしづ 明治20.12.2〕

   どういう事も改める/\/\、十分改める。白きものは白きと言えば分かる。
〔おさしづ 明治22.4.17〕

   赤きもの赤きと言えば、鮮やかであろう。白きもの白きと言えば、鮮やかであろう。
〔おさしづ 明治22.10.9〕

   先の理の話、これまで一つの理、思いも軽い理も分かる、黒き赤き理も分かる。
〔おさしづ 明治25.2.1〕

   もと/\(元々)から用いりて、取り立てゝ(立てて)くれにゃならん。持ちてる物 離してなりと運んでくれにゃならん。白きもの白きに見る、赤きもの赤きに見る、黒きもの黒きに見るは皆世界の事情。
〔おさしづ 明治26.2.5〕

   どう思うてもならんで/\。悩み/\身の難儀、赤い黒いも分からず、そも/\(そもそも)の心を吹き出し、だん/\事情と言えば、これも十分の心とは言えようまい。
〔おさしづ 明治26.5.18〕

   夜と昼とが分からねばならん。白いもの黒いものと分からねばならん。
〔おさしづ 明治26.10.5〕

   縁談話理が分かりよう處(ところ)分け。白きもの白き理、色の話、どんな話、大変間違う。…白き話白きものを以(もっ)て、理を以て理聞く。
〔おさしづ 明治27.3.6〕

   春風のようなそよ/\(そよそよ)風の間は何も言う事は無い。神も勇んで守護する。なれど今の事情はどうであるか。黒ほこり、泥ぼこり立ち切って(たちきって)ある。この黒ほこり、泥ぼこりの中で、どうして守護出来るか。又(また)守護した處(ところ)が、世界へどう見えるか。よう聞き取れ。大変口説き話である程に/\。
〔おさしづ 明治30.2.1〕

   鏡やしき濁りた心は持たん。黒きは黒き白きは白き赤きは赤きが映る。
〔おさしづ 明治30.7.7〕

   そこで内々事情、やしきの中という。あちらから黒ぼこりこちらから黒ぼこり、年限ようよう一寸(ちょっと)事情、払うて/\どうでも払い足らん。未だ(まだ)もう一段払い足らん。…
   神の自由(じゅうよう)して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れてしまう。大ぼこり/\、提げ出す、担い出す。積もる。後向いても、何っ處(どっこ)にも橋が無い。神が除いて了(しも)たら、是非が無いで。どれだけ塵(ちり)を溜めて置いても、払うて了(しも)うたら、もう一遍(いっぺん)どうしようと思ても行こまい。
〔おさしづ 明治31.5.9 夜〕

   あちら話しこちら話し、白いものと言うて売っても 中開けて黒かったらどうするぞ。
〔おさしづ 明治32.7.23〕

   このように「おさしづ」に「赤い、黒い、白い」が複数使われているので、上記二つの「赤き道、白き道、黒き道」の説明がなされている「おさしづ」が、これらの「おさしづ」解読の一助、指針となることでしょう。


高井猶吉先生が24才の時に
教祖から戴かれた赤衣
〔高井家資料より謹写〕

教祖の御履物 
御年89才の明治19年陰暦1月15日より15日間、櫟本分署(最後の御苦労)で、
この御履物に、山澤ひさの帯を巻きつけて、枕に代用されたもの
〔みちのだい第33号 教祖特集号 巻頭口絵より謹写〕

同上 前方より
〔みちのだい第183号「巻頭口絵」より謹写〕

   以上、「赤衣が赤い理由」でした。

   最終見直し 2016.7.25  6:00