2016年07月

   しんに肉をまく   井筒志まへ (本部婦人)

   ①
   明治十三年の春、陰暦三月四日、たね母の身上のご守護を頂いたお礼参拝に、初めて親子三人(井筒梅治郎/妻とよ/娘たね)おぢばへ帰らせて頂いた。出発の時、生憎(あいにく)の雨天でしたが、家を出て数丁、本田(ほんでん/現大阪市西区本田1丁目)の大渉橋(おおわたりばし)の辺りまで来ると、雨はすっかり上がって、好天気のご守護を戴いた。
   教祖にお目通りをさせて頂いたら、
あの雨の中を、よう来なさった
と。さらに、たね母の頭を撫でて下さった。
お前方は大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木(たいぼく)の根をおろして下されるのや。子供の身上は案じることはない
と仰せ下さった。

   ②
   道の伸びるとともに、迫害はますます激しくなり、迫害の激しくなるとともに、人々は教会の公認を得ようと焦り、明治十八年三月七日には、教会創立事務所に集まって会議を開いた。その席上、藤村成勝らは、会長幹事の選出に投票を用いることの可否、同じく月給制度を採用することの可否などを提案した。
   議論沸騰して容易に決しない時、その席上にいた梅治郎祖父が、激しい腹痛を起こして倒れてしまった。

   教祖にお伺いしたところ、
さあ/\今なるしんばしら(真柱)はほそい(細い)ものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい(偉い/豪い)者になるやわからんで(分からんで)』
と仰せられた。この一言で、皆はハッと目が覚めた。竹内や藤村などと相談していたのでは、とても思召に添いがたいと気付いたのであった。

しんばしらの眞之亮(しんのすけ)』
と仰せられ、「道の芯」を明らかにしておられるのに、一時的にも、何の理も無い人を責任者とすることは、まったく心の置き所が外れていることを、身上でもって皆々にお教え下されたが、こんな肝心な時に身上でもってお教え下さる、ありがたさを痛感するのである。

   ③
   教祖がいつもジッとお座りになっておられるので、祖父が、
「教祖、ご退屈でございましょう。一度どこかへお伴させて頂きましょう」
と申し上げたところ、教祖が、
ちょっと、ここへ顔をあててごらん
と仰せられた。
   祖父が教祖のお袖に顔をあてると、ちょうど牡丹(ぼたん)の花の旬で、
「見渡すかぎり牡丹の花ざかりだった」
とのこと。
「教祖は居ながらにして、どこの事をもご存知なのだと驚いた」
とのことである。

   ④
   ご本席様が、まだ「伊蔵さん」と呼ばれておられた頃、伊蔵様のご家族の生活が、あまり〈にも〉お気の毒なところから、皆々話し合って「頼母子講(たのもしこう)でもして伊蔵さんを助けようやないか」と相談をしていたところ、教祖は、
思惑あって苦労さしてあるのや。かまってくれるな
と仰せられた。
   後になって「本席」という理を戴かれて、皆々「なるほどと合点がいった」とのことである。

   以上、たね母から聞いたことを書かせて頂いた。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」26-27頁〕

井筒梅治郎氏
「道のさきがけ」116頁より謹写



【①の参考】「逸話篇」

   七一   あの雨の中を

   明治十三年四月十四日(陰暦三月五日)、井筒梅治郎夫婦は、娘のたねを伴って、初めておぢばへ帰らせて頂いた。大阪を出発したのは、その前日の朝で、豪雨の中を出発したが、お昼頃カラリと晴れ、途中一泊して、到着したのは、その日の午後四時頃であった。早速、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、
あの雨の中を、よう来なさった
と仰せられ、たねの頭を撫でて下さった。さらに教祖は、
おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下さるのや。子供の身上は案じることはない
と仰せになって、たねの身体の少し癒え残っていた所にお紙を貼って下さった。たねが間もなく全快のご守護を戴いたのは、言うまでもない。

   梅治郎の信仰は、この教祖にお目にかかった感激と、ふしぎなたすけから激しく燃え上がり、ただ一条(ひとすじ)に、にをいがけおたすけへと進んで行った。

〔「天理教教祖伝逸話篇」123-124頁〕


道のさきがけ 教祖伝にみる人物評伝」

   梅治郎夫婦は、子供が授かっても育たなかった。五人目に生まれた長女たねも、生後三ヶ月頃から下半身にイボのような腫れ物(はれもの)ができ、花が咲いたように赤く腫れ上がって、どうしても治らなかった。
   大阪の商人(あきんど)・萬(よろづ)綿商「播清(はりせい)」の主(あるじ)梅治郎は、金に糸目を付けず、娘を救けようと医者、薬と手を施したが、一向に効き目がない。
   当時、大阪商人の旦那方(だんながた)の間では、大峰山(おおみねさん)の行者(ぎょうじゃ)として、行場(ぎょうじょう)を回りながら修行を積む人がいた。梅治郎も修行者の先達(せんだつ)として大峰山の熱心な信心家であったので、家で護摩(ごま)を焚(た)き、祈祷(きとう)して長女たねの平癒(へいゆ)を祈ったが、やはり効き目はなく、途方に暮れてしまった。
   
   隣家の紺屋(染物屋)に出入りしていた花の種売り、通称「種市(たねいち)」こと前田藤助(まえだとうすけ)から、
「大和(やまと)に生き神様がいる」
と聞き、藁(わら)にも縋(すが)る思いで「たすけ」を求めた。
   種市は水垢離(みずごり)をとって、梅治郎夫婦とともに東方に向かって神名を唱え、真剣に祈った。
   あれほどまで赤く腫れ上がっていたたねの身体から、赤みが引いていく……。
   時に明治十二年(1879)七月三十日のことである。

   元来、神仏への信仰心のあつい梅治郎は、
「救けられた喜びを、どうしてご恩返しすればよいものか」
と思案の末、
「病気で苦しむ人を救けることだ」
と悟った。早速折しも、突然眼病を患い失明した隣家の紺屋の主、中川文吉(後に真明組の講脇になった人)の「おたすけ」にかかった。
   お灯明(とうみょう)を点け、水垢離をとって、三日のお願いを済ませた時、
「ああ、お灯明の明かりが見える……」
と文吉。ご守護を戴いたのである。

   明けて春四月。娘たねと、文吉を救けて頂いたお礼を教祖に申し上げたい一念から、一歳になったたねを連れて、梅治郎夫婦は初めておぢば帰りをした。
   家を出る時は大雨で難儀(なんぎ)したが、途中、河内の国分村(現大阪府柏原市国分)で一泊し、翌四月十四日、晴天の中、おぢばに到着した。教祖は、
あの雨の中を、よう来なさった』『……子供の身上は案じることはない
と、癒え残ったたねの腫れ物にお紙を貼られ、梅治郎に、
珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや
とお言葉を戴いた。
   おぢばに居ながら、すべてを見抜き見通しの教祖。
「これぞ真実の神である」
と悟った梅治郎は、
大木の根を下ろす
との教祖のお言葉を、全身全霊で噛み締めていた。

   梅治郎は、五尺九寸(約179cm)、二十貫(約75㎏)の、恰幅(かっぷく)のある大阪の商人であった。街では相撲も取り、どんな揉め事でも、梅治郎が顔を出すと治まるという、頼もしい顔役でもあった。

大阪の地に、たすけ一条の大木を下ろす
と仰せられた神様の思いを受けた梅治郎は、おたすけに奔走した。
   文吉をはじめ、不思議な守護を目の当たりにした人々は、たすけを請(こ)うてきた。その数は夥(おびただ)しく、戸板で担ぎ込まれる人、人力車で駆けつける人、家の中は「たすけ」を求め、話を聞きに来る人が増えたので、明治十三年から十四年にかけて、向かいの二階を開放し、人々の集まる集会所とした。これを「本田寄所(ほんでんよりしょ)」と呼んだ。

   やがて講名拝戴の機運が持ち上がり、そのお許しを戴くため、梅治郎は信者と共におぢばに帰った。
   明治十四年五月十四日、教祖から「真明組(しんめいぐみ)」の講名を拝戴。入信して二年目であった。

   梅治郎は、
「救けて頂いたご恩、日々生かされているご恩は、人を救けることによって報いることができる」
と自らも信じ、それを人々に説いた。それで、この道を聞き分けた人々は皆、人だすけに励んだ。

〔「道のさきがけ」116-119頁〕


【②の参考】「教祖伝」 

   当時、人々の胸中には、
「教会が公認されていないばっかりに、高齢の教祖にご苦労をおかけする事になる。とりわけ、ここ両三年来、西も東も分からない道の子どもたちの心ない仕業が、ことごとく皆、教祖にご迷惑をおかけする結果になっている事を思えば、このままでは何としても申し訳がない。どうしても教会設置の手続きをしたい」
との固い決心が湧き起こった。

   四月十四日には、お屋敷から山本利三郎、仲田儀三郎の二人が教興寺村(現大阪府八尾市教興寺)へ行って、この事を相談した。
   同じく十八日には、大阪の西田佐兵衛(さへえ)宅に、眞之亮、山本、仲田、松村、梅谷、それに京都の明誠組(めいせいぐみ)の人々をも加えて協議した。が、議論はなかなか纏(まと)まらず、
「一度お屋敷へ帰ってお伺いの上、よく相談してから方針を決めよう」
ということになった。

   当時、京都では明誠組が、心学道話(しんがくどうわ)を用いて迫害を避(さ)けていたのに倣(なろ)うて、 明治十七年五月九日(陰暦四月十四日)付、梅谷を社長として「心学道話講究所天輪王社」の名義で出願したところ、五月十七日(陰暦四月二十二日)付「書面願之趣指令スベキ限ニ無之依テ却下候事」ただし、願文の次第は差し支えなし。との回答であった。それで、大阪の順慶町(じゅんけいまち/現大阪市中央区南船場)に「天輪王社」の標札を出した。

   この頃(明治十七年)北炭屋町(きたすみやまち/現大阪市中央区西心斎橋一丁目)では、天惠組(てんえぐみ)一番、二番の信者が中心となって心学道話講究所が作られ、その代表者は竹内未誉至(みよし)、森田清蔵(せいぞう)の二人であった。
   九月には竹内が、さらにこれを大きくして「大日本天輪教会」を設立しようと計画し、まず、天惠組、眞心組(しんじんぐみ)、その他大阪の講元に呼びかけ、続いて兵庫、遠江(とおとうみ/現静岡県の大井川以西)、京都、四国にまでも呼びかけようとした。

   こうして道の伸びるとともに迫害はますます激しくなり、迫害の激しくなるとともに人々は教会の公認を得ようと焦り、ついに、信者たちの定宿(じょうやど/常宿)にしていた村田長平(ちょうべえ)方に教会創立事務所の看板をかけるまでにいたった。…

…さて、竹内らの計画は次第に全国的な教会設置運動となり、明治十八年三月七日(陰暦正月二十一日)には教会創立事務所で、眞之亮、藤村成勝(なりかつ)、清水与之助、泉田藤吉、竹内未誉至、森田清蔵、山本利三郎、北田嘉一郎、井筒梅治郎らが集まって会議を開いた。その席上、藤村らは、会長幹事の選出に投票を用いることの可否、同じく月給制度を採用することの可否などを提案した。
   議論沸騰して容易に決せず、剰(あまつさ)えこの席上、井筒は激しい腹痛を起こして倒れてしまった。そこで教祖に伺うたところ、
さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで
と仰せられた。この一言で皆はハッと目が覚めた。竹内や藤村などと相談していたのでは、とても思召に添いがたいと気付いたのである。

   が、本格的な教会設置運動の機運は、この頃からようやく動き始め、この年三月、四月にわたり、大神教会の添書を得て、神道管長宛てに眞之亮以下、十名の人々の教導職補名の手続きをするとともに、四月と七月の二度、大阪府へ願い出た。
   最初は四月二十九日(陰暦三月十五日)付で「天理教会結収御願」を大阪府知事宛て提出した。「十二下りのお歌」一冊、「おふでさき」第四号および第十号、「この世元初まりの話」一冊、合わせて四冊の教義書を添付しての出願であった。
   教導職補名の件は五月二十二日(陰暦四月八日)付、眞之亮の補名が発令された。続いて同二十三日(陰暦四月九日)付、神道本局直轄の六等教会設置が許可され、さらに、その他の人々の補名の指令も到着し、六月二日(陰暦四月十九日)付、受書を提出した。

   この年、四国では、土佐卯之助らが修成派に伝手(つて)を求めて補名の指令を得た。世間の圧迫干渉を緩和(かんわ)しようとの苦衷(くちゅう)からである。

   しかし「天理教会結収御願」に対する地方庁の認可は容易に下がらず、大阪府知事からは六月十八日(陰暦五月六日)付、「願の趣聞届け難し」と却下された。…

…翌七月三日(陰暦五月二十一日)には再度の出願をした。「神道天理教会設立御願」を、大阪府知事宛てに提出したのである。この時には男爵、今園國映(いまぞのくにはえ)を担任としての出願であった。

   十月八日(陰暦九月一日)には教会創立事務所で、眞之亮も出席の上、講元らを集めて相談していたところ、その席に連なっていた藤村成勝、石崎正基(まさもと)の二人が、にわかに中座して布留の「魚磯」へ行き、しばらくして使者(つかい)を寄こして、眞之亮と清水与之助、増野正兵衛の三名に、
「ちょっとこちらへ来てもらいたい」
と言うてきたので、
「これは必ず悪だくみであろう
とて行かなかったところ、藤村のみ帰って来て、清水に小言をならべた。しかし、その夜、石崎は逃亡した。

   十月になると二十八日(陰暦九月二十一日)付で、またまた「聞き届け難し」と、却下の指令が来た。
   この時、教祖に思召を伺うと、
しんは細いものである。真実の肉まけバふとくなるで
とお言葉があった。

   親神の目からご覧になると、認可云々(うんぬん)の如きは全く問題ではなく、親神がひたすらに急き込んでおられるのは「陽気ぐらしへのつとめ」であった。
   激しい迫害干渉も実は「親神の急き込みのあらわれ」に他ならない。しかるに人々は、そこに気付かずにして、ただ皮相(ひそう/物事の表面・うわべ)な事柄にのみ目を奪われ、人間思案に没頭していたから、空(むな)しい出願を繰り返していたのである。

   かねがね教祖は、
しんばしらの眞之亮
と仰せになり、「道の芯」を明らかに示しておられる。しかるに、
いかに焦ればとて、何の理も無い人を、たとえ一時的にもせよ、責任者とすることは、まったく心の置き所が逸脱していたからである。ここのところをよく考えて、まずしっかりと心の置き所を思案せよ。しんに肉を巻けとはしんばしらに誠真実の肉を巻けという意味で、親神の思召のままに、眞之亮に理の肉を巻けば、たとえ今は若輩でも、立派なしんばしらとなる
と、人間思案を混えぬ、神一条の道を教えられた。

〔「天理教教祖伝」274-281頁〕


「正文遺韻」

   また、今の教長(初代真柱)様、ご若年の頃にお話あり。
しんばしらは今はまだ若い。年がいかぬから神の入り込みが薄いけどな、しんばしらが二十四、五となったら、神が入り込んで、どんなこと言わすや知れんで。あんな草深い中に、えらい大木がなあと、世界から言うようになるほどに。
   さあ、側の者は、しっかりと心を合わせて、しんばしらに、真実芯の肉を巻いてくれ。芯が太うなる。幹がえろうなる。したならば、どんなえらい枝が出るや知れんで。これ楽しんで、真実芯の肉を巻くよう
とお聞かせ下されし。

〔諸井政一「正文遺韻」119頁〕


【③の参考】「逸話篇」

   七六   牡丹の花盛り

   井筒たねが、父から聞いた話。
   井筒梅治郎は、教祖がいつも台の上にジッとお座りになっているので、
「ご退屈ではあろうまいか」
とお察し申し、どこかへご案内しようと思って、
「さぞ、ご退屈でございましょう」
と申し上げると、教祖は、
ここへ、ちょっと顔をつけてごらん
と仰せになって、ご自分の片袖を差し出された。それで梅治郎がその袖に顔をつけると、
「見渡すかぎり一面の綺麗な牡丹の花盛り」
であった。ちょうどそれは牡丹の花の季節であったので、梅治郎は、
「教祖は、どこのことでも自由自在(じゅうよじざい)にご覧になれるのだなあ」
と思って恐れ入った。

〔「天理教教祖伝逸話篇」133頁〕


道のさきがけ 教祖伝にみる人物評伝」

   牡丹の花盛り

   教祖がお屋敷で、いつも台の上に座って居られるのを見て、繁華な大阪出の梅治郎には、
「教祖はさぞ、ご退屈であろう」
と思われた。そこである日、
「一度、大阪の芝居にでも、お伴させて頂きたい」
と申し出た。すると教祖は、
ここへ、ちょっと顔をつけてごらん
と、ご自分の袖をお広げになった。
   梅治郎が言われる通り顔をつけてみると、 そこは、一面見渡すかぎり、牡丹の花が咲き乱れていた。ちょうど、牡丹の花咲く季節であった。
   梅治郎は大いに感じ入り、
「教祖はおぢばに居られても、世界中のことは見抜き見通し、自由自在に、ご覧になられるのだなあ」
と思ったという。

〔「道のさきがけ」123頁〕


【④の参考】「正文遺韻」

  明治十五年旧二月八日、ご本席様〈お屋敷へ〉お入り込みあそばさる。
   もっとも神様より度々(たびたび)、
入り込め
とのお話あり。奥様と小児二人は前年の暮れ十二月より、
今、行かねば旬が外れる、遅れてしまう
と仰るゆえ、
「どうあっても、やらしてもらう」
とて、お屋敷にお勤めになり、ご本席様と、姉娘よしゑ様とは、躊躇(ちゅうちょ)してお残りなされたりしが、ここに至りて決断し、ついに諸道具売り払い、また、値安物はみな人にやりて、わずかの日用品のみを持ち、お入り込み相成(あいな)る。これは神様のお話に、
道具も何も一切、屋敷の物を使えばよいから何も持ってくるに及ばぬ
とお聞かせ下されしゆえなりと。

   しかるに入り込みてみれば、秀司先生の未亡人まちゑ(松枝)様は、厳しき痛手をなされて何一つお貸し下さらず、火鉢を借りても、布団を借りても、みな損料貸しにして(使用料をとって)、すべて神様より聞いたことと違うにより、なかなかの困難にて、また、折々それがため不足心を起こすことも多かりしと。
   それより後、ある時ご家内おさと様、ご身上お障りに付き、お願い申したるに、
親としては子によいもの着せたいと思うやろ。
   子供があれ欲しい、これ欲しいと言えば不憫(ふびん)」に思うやろ。
   なれどよいもの着せたいと思うやないで。よいもの要らん、不自由しよう。
難儀しようと言うたて、出けぬ日があるほどに
と仰せられ、それまでは、とかく子供をいじらしく思うて、不足の心の湧くこともありしが、これより心改めて、末を楽しんでお暮らしあそばしたりと。

『正月になりて「子供に一かけの襟(えり)を買うてやりたい」と思うたが、買えなんだ』
と、ある時、ご本席様のお物語りのなかに聞けるが、さまで(ここまで)困難の道なれば、ご不足の心の湧くも尤も(もっとも)の事にて、因縁にあらざれば、とてもその道通りきることは能(あた)うまじきなり。

〔諸井政一「正文遺韻」113-114頁〕




最終見直し 2016.8.3  9:00

   長者と腹立ちの話   桝井まつ (本部婦人)

「『お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたいと思うたら、居られん屋敷やで。
   よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが世界の長者屋敷やで
と、教祖がお屋敷住まいについて、こう仰せ下されたのや」
と母から聞かして頂きました。

   〇腹立ちについて
   これは伊三郎父と、おさめ母が、教祖のお仲人で結婚をさせていただかれまして、それからのことでございます。
   父伊三郎が、教祖の御前に出られました時、
伊三郎さん。あんたは外では優しい、なかなか人付き合いのいい人やけど、家に帰って、わが女房の顔を見ては、ガミガミ腹を立てて怒ることは、これは一番いかんことやで、これは今日よりやめておきなさいや
と教祖が、父にお仕込み下されました。
   するとこの時も、
「私がいない時に、おさめが教祖に、こんなこと話しに来たのやないか」
と思うて、やっぱり腹が立ちました。けれど、よくよく考えてみると、
おさめが教祖にこんなこと言いに来るはずもない」
と思案した時、
「自分の腹立ちの心が悪いのや。これを教祖がお仕込み下されているのや」
と気付いて、その時その場で教祖に、
「今後は決して腹を立てません」
と、固く精神を定められました。
   すると、それからというものは、父が家に帰って母の顔を見ても、ちょっとも腹が立たん。母の顔は変わらん同じ顔であるが、
「わが心に、腹の立つようなことが映ってこんのや」
と言うて、
「お父さんが腹立ちの因縁切ってもらわれて、それからというものは、それはそれは優しいお父さんになられたのや」
という話を聞かせて頂きました。

   これはまた、おきく祖母に教祖がお聞かせ下された話であります。
人の腹というものは、腸(はらわた)というて、やわらかい腹を貸してあるのやで。腹の立つような腹を貸してあるのやないで。立つ理は、皆めんめん(銘々)我が心にあるのやで
とお仕込み下されたという話も、この腹立ちの話をされました時に、母が聞かせてくれました。そして、
「教祖のお話というものは、ちょっとも無駄にはできない正味のお話やで。これをしっかりそのまま心に守って通らせてもろうたら、わが身結構に、わが身の因縁も切って頂いて、救けて頂くこともできる、ありがたいお話やで」
と、母が聞かせてくれました。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」26頁〕


【参考】「逸話篇」 

   七八   長者屋敷 

   教祖が、桝井キクにお聞かせ下されたお話に、
お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。
   よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで』と。
〔「天理教教祖伝逸話篇」134-135頁〕


【参考】「正文遺韻」

   今までの長者というは、金持ちが長者や。長者一夜にも倒れるで。これからの長者は、ころりと違うで。
〔諸井政一「正文遺韻」119頁〕


【参考】「おさしづ」

   この道始め 家の毀ち初め(こぼちぞめ)や。やれ目出度い(めでたい)/\と言うて、酒肴(さけさかな)を出して内に祝うた事を思てみよ。変わりた話や/\。さあ/\そういう處(ところ)から、今日まで始め来た/\。世界では長者でも今日から不自由の日もある。何でもない處から大きい成る日がある。家の毀ち初めから、今日の日に成ったる程と、聞き分けてくれにゃなろまい。
〔おさしづ 明治33.10.31〕

   どれだけの長者も、一夜の間に無くなる、という理 諭(さと)したる。これ聞き分け。今日は十分と思えども、明日は分からん。この理を聞き分けにゃならん。理を心に意味を含んでくれ/\。取り損(とりぞこな)いあっては、踏み被(ふみかぶ)らにゃならん。何よの事も天然と言うて諭し掛けたる。天然という順序聞き分け。
〔おさしづ 明治34.2.10〕


【参考】「逸話篇」

   一三七   言葉一つ

   教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、
内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気侭癇癪(きままかんしゃく)は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる
と。また、
伊三郎さん、あんたは外では、なかなか優しい人付き合いの良い人であるが、我が家へ帰って、女房の顔を見て、ガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように
と仰せになった。 桝井は、
「女房が告げ口をしたのかしら」
と思ったが、
「いやいや神様は見抜き見通しであらせられる」
と思い返して、
「今後は一切腹を立てません」
と心を定めた。すると不思議にも、家へ帰って女房に何を言われても、ちょっとも腹が立たぬようになった。

〔「天理教教祖伝逸話篇」228-229頁〕


【参考】桝井孝四郎「教祖様のお言葉」
 
   これはまた別の場合でありまするが、おきくのお祖母さんが、教祖様(おやさま)から斯様(かよう)にお聞かせ頂いた。
なあ、おきくさん。腹というものはな、腸(はらわた)と言うて、柔らかいもの神様が貸して下さってあるのやで、立つ、立たんは、めんめんの心の理が立つのやで
と仰った。
   誠にこの通りではありませんか。「はらわた」、上手いことを教祖様(おやさま)は仰るじゃありませんか。
   ところが、なんぼ柔らかい袋でも、中に棒を入れたら立つのです(笑声)。立てるのは、こちらにあるのです。だからして、埃というものは、銘々の我心にあるのです。我心の掃除、心の入れ替えなし、そして喜びの世界を見せていただくのであります。すなわち、救けて頂くことができるのでございます。

〔「天理青年教程」第3号 119-120頁〕


中山正善「ひとことはな志」
161頁より謹写

最終見直し 2016.7.31  15:00

  御看護   梅谷はるゑ (本部婦人)

   祖母、梅谷たねが、夫(船場大初代梅谷四郎兵衛)とともに信仰させて頂くようになって間のない頃、初めて大阪からおぢばに帰らせて頂いた時の事です。
   当時、赤ん坊であった長女たか(春野たか)を連れてお参りさせて頂きましたので、おやさま(教祖)に親しくお目通りさせて頂きました。その時、赤ん坊の頭にくさ(瘡)がいっぱいに出来ていて、そのくさも膿(うみ)を持ったくさで、祖母も「何とかお救け頂きたいもの」と、心ひそかに念じてお参りさせて頂いたのでした。

   おやさま(教祖)には、このくさだらけの頭をした赤ん坊を早速に、
どれどれ
と仰りながら、ご自分の手にお取り下され、お抱き下さいました。祖母はあまりの勿体なさに言葉も出ぬ有り様でしたが、おやさま(教祖)には、そのくさをご覧下されて、
かわいそうに
と仰せ下されて、ご自身のお座りになっていた座布団の下から反故紙をお出しになり、少しづつ指でちぎっては、舐めて唾を付けて、それを一つ一つ頭にベタベタとお貼り下さいました。そして祖母に、
おたねさん、くさは、むさいものでんなあ
と仰せになりました。このお言葉を聞いて祖母はハッと致しました。
「むさ苦しい心を遣ってはいけない。きれいな心で、人様に喜んでもらわなければならない」
と、深く悟らせて頂くところがございました。

   おやさま(教祖)に厚く御礼を申し上げて大阪に帰りましたところ、二、三日経った日の朝、ふと気が付くと、不思議にも、綿帽子をかぶったような頭に、くさの皮がすっかり浮き上がっているではありませんか。あれほど膿を持ったグジグジしたくさも、今はすでに頭の地肌には薄皮ができていて、おやさま(教祖)に貼って頂いた紙に、すっかりくさの皮が付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにして、見事にご守護いただいておりました。 
   この喜びを、祖母は母に、また母は私たち子どもに、よく聞かせてくれました。

   また祖母は、この時のお言葉を生涯の信条として、
「実に心をきれいにして、施し上手で、あの人にも、この人にも満足してもらいたい」
と明け暮れ、それをただ一つの楽しみとした人でありました。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」25-26頁〕


【参考】「逸話篇」

   一〇七   クサはむさいもの

   明治十五年、梅谷タネがおぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊であった長女タカ(註、後の春野タカ)を抱いて、教祖にお目通りさせて頂いた。この赤ん坊の頭には、膿を持ったクサが一面にできていた。
   教祖は早速、
どれ、どれ
と仰せになりながら、その赤ん坊を自らの手にお抱き下され、そのクサをご覧になって、
かわいそうに
と仰せ下され、自分のお座りになっている座布団の下から、皺(しわ)を伸ばすために敷いておられた紙切れを取り出して、少しづつ指でちぎっては唾を付けて、一つ一つベタベタと頭にお貼り下された。そして、
おタネさん、クサは、むさいものやなあ
と仰せられた。タネはハッとして、
「むさ苦しい心を遣ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」
と、深く悟るところがあった。
   それで教祖に厚く御礼申し上げて大阪へ戻り、二、三日経った朝のこと。ふと気が付くと、綿帽子をかぶったような頭に、クサがすっきりと浮き上がっている。あれほどジクジクしていたクサも、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにして見事にご守護いただき、頭の地肌には、すでに薄皮ができていた。

〔「天理教教祖伝逸話篇」184-186頁〕


「静かなる炎の人 梅谷四郎兵衛」
73頁より謹写

最終見直し 2016.7.31  11:10

   女のやさしさ   松村まち (本部婦人)

   幼い頃に、よく里の母(山澤ひさ/旧梶本ひさ)が言ってくれました。「教祖はな、『魚は食われて成仏(じょうぶつ)するのや。おいしいと言うて食べてやるのやで』とお聞かせ下さった」と。
   この短いお言葉の中に、女のやさしい心遣いをお教え下されていると思います。
   人間というものは「一言の言葉で、人を生かすこともあれば、また殺すこともあるもの」でございます。
   たすけ一条の上にお使い頂く私ども「道のよふぼく」としては「一番に心得ねばならぬこと」だと存じます。
   どんなに味のない魚でも、それはそれだけの味わいしか与えられていないのですもの、「おいしかった」と言えるような味の付け方を工夫することが料理をする者の真心として肝心なのと同じように、人間も、味のない者にも味わいを付けてあげられるように、苦心して導かせてもらうのが「真のおたすけ」ではないかと悟らせて頂きます。
   ともすれば感情的になって「役〈に〉立たぬ」と切ってしまいやすい、人間心の浅薄(あさはか)さを反省したいと思います。

   なお母は、
「教祖は『親に孝行はぜにかね(銭金)要らん。とかくあんま(按摩)たんのう(堪能)させ』と、よく歌われていた」
と聞かしてくれましたが「日々のちょっとした心遣いの中にも、親を満足させ、喜ばすことのできる道のあること」をお教え下されていると思います。
   年を重ねるにつれて、よく老人の心理が解らせて頂けるように思いますが「親に喜ばれる道は難しい事ではなく、日々の身近な言葉の端にも、些細な心配りの優しさの中に言い知れぬ嬉しさを味わえるものであること」を、つくづく感じさせて頂きます。
   教祖が常に、こうしたお優しい御心で、ご両親様にお仕えあそばした、数々のひながたをお偲び申し上げるにつけても、あの秀司様がお生まれになる、そのご妊娠中に舅(しゅうと)善右衛門様が出直されて、お一人寂しくお塞ぎがちな、お母様のお心を察せられて、身重の教祖が、お母様をを背に負われて、お心やすい誰彼をお訪ねになり、お母様のお心をお慰めあそばされた、あの優しいご孝行のご行動が、目に映るように思い浮かんでまいります。

親に孝行は、月日の孝行に受け取る
(親孝行は、この世人間の元の親である月日親神への親孝行と受け取り守護する)
とお聞かせ頂きますが、最近の世の中の思想が、銘々自分本位になりがちである。この中にあって道の若人が、道なればこそ味わえる親孝行の喜びを、世の若い人々に映していくことが、親神様から自然のお恵みを戴く、明るく大きなにをいがけおたすけの道ではないかと思案させて頂きます。

   難しい事せいとも、紋型無き事せいとも言わん。皆一つ一つのひながたの道がある。ひながたの道通れんというような事ではどうもならん…ひながたの道通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。
   明治二十二年十一月七日 刻限

〔みちのだい第33号「教祖特集号」24-25頁〕

山澤(旧梶本)ひさ
中山正善「ひとことはな志」26頁より謹写


【参考】「逸話篇」

   一三二   おいしいと言うて

   仲田、山本、高井など、お屋敷で勤めている人々が、ときどき近所の小川へ行って雑魚獲(ざこと)りをする。そして、泥鰌(どじょう)、モロコ、エビなどを獲ってくる。そしてそれを甘煮(うまに)にして教祖のお目にかけると教祖は、その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて聞かせるように、
みんなにおいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや
と仰せられ、それからお側に居る人々に、
こうして一番大きなものに得心さしたなら、あとはみな得心する道理やろ
と仰せになり、さらにまた、
みんなも食べる時にはおいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間においしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ変わるたびごとに人間の方へ近うなってくるのやで
とお教え下された。
   各地の講社から、兎(うさぎ)、雉子(きじ)、山鳥などが供えられてきた時も、これと同じように仰せられた、という。

〔「天理教教祖伝逸話篇」222-223頁〕


どじょう

どぜう鍋

モロコ

モロコの甘煮

ヤマトテナガエビ

テナガエビの素揚げ

【参考】
「一三二 おいしいと言うて」の典拠・出典元であろう逸話です。  

   動物の進歩に就て(ついて)

   仲田様、山本様、高井様など、常住詰め切りの先生方は、時々ご閑暇(かんか)もあることなれば、折に触れて雑魚獲りなどにお出かけあそばさる事も少なからず。その時には教祖様(おやさま)へお願い申し上げ、お暇のお許しを受くるを例とせり。
   さて、お暇願いに伺えば、教祖様(おやさま)仰せには、
獲りてきたなら必ず煮て、わしの所へ持ってくるのやで
とお指図(さしづ)あり。
   それから人々勇み立ちて出かけ、やがて、どじょう(泥鰌)、もろこ(諸子)、えび(海老)などを獲りて、帰ればすぐさまうまに(甘煮)になし、そっくりと教祖様(おやさま)のご覧に供(そな)う。すると教祖様(おやさま)は、その中について最も大きいものを見澄まし、お箸にお取りあそばされて、
こういうものに生まれてくるさかいに、人間に食われてしまわにゃならん。早う人間に引き上げてもらえよ
と仰って、お口に入れ給い、やがて一同に向かって、
さあみんな、おいしゅう食べてやって下され
と仰って、お下げに相成(あいな)りしという。かようの事はたびたびありしと。それにつき、ある時お話に、
こうして、この中で一番大きいものを得心さしたなら後は、みな得心する道理やろ。講を結ぶにも同じ事やで。一村の中で、大頭(おおあたま)の者が得心したと言うたら、あとは皆ついて来るやろ。もし、ついて来ぬにしても邪魔をするような事はあろまいがな(ないであろう)』
とお聞かせ下され、また、
生き物は、みな人間に食べられておいしいなあと言うて喜んでもらうで、生まれ変わるたびごとに人間の方へ近うなるのやで。そうやからして、どんなものでもおいしい/\と言うて食べてやらにゃならん。
   なれども牛馬というたら、これは食べるものやないで。人間から堕ちた、穢(けが)れたものやでなあ
とお聞かせ下されしという。
   されば講社の先々より、兎(うさぎ)あるいはきじ(雉子)、山鳥など、「神様へ」とて持ってくる者ある時は、教祖様(おやさま)は三度までお撫でなされながら、
こういうものに生まれてくるさかいに、人に食われてしまわにゃならん。早う人間に引き上げてもらえよ
と仰って、一同にお下げ下されしという。しかしてその時には必ず、
どうぞ、おいしゅう食べてやって下され
とお言葉を添えて下されしとなん。魚類にてもその通りなりしとぞ。

〔諸井政一「正文遺韻抄」154-155頁〕


【参考】「逸話篇」

   一五七   ええ手やなあ

   教祖がお疲れの時に、梶本ひさが「按摩をさして頂きましょう」と申し上げると、
揉んでおくれ
と仰せられる。そこで按摩させてもらうと、後でひさの手を取って、
この手は、ええ手やなあ
と言うて、ひさの手を撫でて下された。

   また教祖はよく、
親に孝行は銭金要らん。とかく、按摩で堪能させ
と、歌うように仰せられた、という。

〔「天理教教祖伝逸話篇」261-262頁〕


 【参考】「親孝行」について

   親が尽した理は

一代尽した理は、末代の理に受け取る』という。
親が尽しておいて、その子に悪因縁深き理が現れてくるようでは、神の道も、教祖の教えもありゃしょうまい。そのような道は必ずないほどに。親が尽した理は、子供まで、孫までも皆受けていく』…

何でも素直な心もって、神様の言う通りの道を守って、神妙に勤めにゃならん。親が尽しておいたら、子の出てくるのを神が待っている。親が道に背いたら、子が出てきても、横向いている』と仰る。
   よって尽した理は一代切りやない。子孫に伝えて末代の理や。よって、何でも真実を尽さにゃならん。

〔諸井政一「正文遺韻抄」250-251頁〕


   親の心の筋を

   家族の親-子-孫という縦の系列において、自分の前生因縁を思案させてもらえるのであります。なぜかと言えば、
人は他所(よそ)へ生まれることもあるが、大体は、親が子となり、子が親となって、元へ元へと生まれ変わってくる
のだと仰せになっているからであります。また、
因縁の者同士を寄せる。血筋(ちすじ)と言うが、血筋やのうて、親の心の筋を、子が引くのや
と仰せられます。
   自分の因縁は、父祖代々のことを尋ねると、いろいろ具体的に知らされるのであります。特に、悪因縁を拵えるに至った具体的所業のことは、先祖の事を知るのが一番の近道であります。

諸井慶一郎「天理教教理大要」335-336頁


   親のあとを子が伝う

   親と子の間柄は、
親が子となり、子が親となって、恩の報じ合いをするのや
と仰います。また、
親となり、子となるは、前生の因縁から
と仰るのであります。したがって、子供の選り好みはできぬのでありまして、

   親子の理、いんねん理聞き分け、善い子持つも悪い子持つもいんねん
〔おさしづ 明治34.3.11〕
  我が子の示し出けんのは、親の力の無いのや。
〔おさしづ 明治30.12.11〕
   真実の理を見た限り、親のあと子が伝う。
〔おさしづ 明治26.6.21〕

「親の通る姿通り、子に映る」
のであります。その事からすれば、
「親が子に尽せば、子は親に尽すかというと、そうでなく、親がその親に孝を尽せば、親のあと〈を〉子が伝う〈の〉で、子も親に孝を尽すようになる」
のであります。

親への孝心は、月日への孝心と受け取る』
と、かくまで仰って、親孝心をお促し下さるのであります。
   親の恩は、否定しようのない事実であります。「人間十五才までは親がかり」なのであって、親がかりの十五年のその間には、どれほどの大恩を受けているか知れない。その「親のご恩」が解るようになるのが「独り立ち」ということであって、以後の人生は「報恩の人生」ということになるのであります。その報恩の第一が「親への報恩」であって、それをせねば「恩が重なる」のでありまして、身が沈まざるを得なくなるのであります。

立てば立つ、転(こ)かせば転けるのが天の理』であって、立てる第一は「親」である。その親を転かせば、我と我が身(自分自身)が転けてゆかねばならぬ。天理として転けてしまう。それが不憫(ふびん)だから、親への孝心を称揚(しょうよう)下されているのであります。
   親は「根であり元」である。その親を立てず、潰してゆけば「根を切って回るようなもの」で、遂には枝が枯れる。また、倒れる日も出てくるのであります。

   親孝行せぬと出世せぬ。自分が親を立てぬと、自分が立たん。出世せんのみならず、子供が自分を立てなくなる。子供で末長く楽しみ喜ぶ人生を、逆に、子供で泣いて通らねばならなくなる。また、枝が枯れる。つまり「子孫が育たん」ということになる。

「むほん(謀反)」というのは、子が親に刃(やいば)を突き付ける。親を覆(くつがえ)すのが「むほん」であります。自分がそうした「むほん」に遭わねばならぬのは「通り返しの道」である、と思案せねばなりません。
五ッ いづれもつきくるならば (いずれ(誰で)も随き来るならば)
六ッ むほんのねえをきらふ     (謀反の根を切ろう)
   親神様への、つとめの道につきくるならば、であります。

   親に小遣いを差し上げるのも、「小遣いをやるような思いではなりません」。
「親のご苦労あっての今日の自分」であることからすれば、自分の働き、自分の稼ぎには「親の働きが込められている」のであります。そこで、御礼心を添えて親に差し上げる。親につかって頂く。それでこそ、親孝行の一端となるのであります。

〔諸井慶一郎「天理教教理大要」478-483頁〕各所より抜粋 


最終見直し 2016.7.31  9:30

   天理教婦人会機関誌『みちのだい第33号教祖特集号』(昭和41年1月26日発行)に古老より聞いたはなし」(24-40頁) という項があります。
   これは「天理教教祖伝逸話篇」刊行以前のもので、初代の先達先生のご子孫方が綴られており、逸話篇などの典拠?出典元?と思われるようなお話も多く、今となっては「大変貴重な文献」なのではないかと思います。
   しばらくは小刻みに、この「古老より聞いたはなし」から、逸話をご紹介していきます。


   生神様   山本よしを (本部婦人)

   山本利三郎父は、嘉永三年正月十三日生まれで、河内国(かわちのくに)柏原で「綿利」という屋号の綿問屋の長男であった。
   明治三年秋、二十一才の時、村相撲で肋骨(ろっこつ)を打ったが因(原因)で三年間肺を病み、命旦夕(めいたんせき/今日か明日かと死が迫っている状態)に迫った。

   父親利八は愁傷(しゅうしょう)のあまり、明治六年夏、人のすすめにより瓢箪山稲荷(ひょうたんやまいなり)〈神社〉の神籤(みくじ)を求めに行った。「東南に救ける神ある」と出たこの札を持って、病人に告げようと室(部屋)に入ると、父より先に、
「今朝、夢をはっきり見た。東の空明るく、その中に赤い着物の老母が招かれる」
   と、まったくの一致に思案している時、見舞いに来た植木屋にこの話をした。植木屋〈は〉小首を傾(かし)げ、
『我が家に下宿している大和布留(やまとのふる)の木挽(こびき)が、「大和の庄屋敷という所に、おみきさんという生き神様がござって、どんな病人でも救けられる」』
との話、すぐその木挽に来てもらい、道を聞いて、父利八一人で旅立って御地場(おぢば)へ帰り、辻〈忠作〉先生のお世話でお目通り願った。教祖は、
この屋敷は人間はじめ出しで、生まれ故郷や。その病人、連れといで
との、ありがたいお言葉を頂き、帰国し利三郎に伝えた。利三郎は生死の中から、
「死んでもいいから連れて行ってくれ」
との懇願により、戸板に乗り、家族や親しい村人に水盃(みずさかずき)の別れをして、お屋敷に到着した。そして教祖にお目通りさせて頂いた。
今日来るか、明日かと待ってたんやで。案じることない。この屋敷に生涯伏せ込むなら救かるのや
続いて、
国の掛け橋、丸太橋、橋が無けねば渡られん。根を掘る道具、確かに受け取った。差し上げるか、差し上げんか、荒木棟梁(あらきとうりょう)/\
というお言葉を戴いた。
早くお風呂へお入り
と仰せ下され、お風呂に入れて頂き、教祖自ら爪を切って下され、お粥を戴き、六日目に霊救に浴して、一ヶ月の滞在をさせて頂いた。時は明治六年、秋の終わりであった。
(国の掛け橋、丸太橋とは、布教一条。根を掘る道具とは、元の理を説き、因縁の根を掘るよふぼく)

   その後は、おぢばつとめ、河内布教に専念致し、地方の入信では、おぢば住まいの第一番で、河内伝道の先駆者とならせて頂き、子孫に理を残して下さったのである。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」24頁〕
柏原



【参考】「道のさきがけ 教祖伝にみる人物評伝」より

   山本利八・山本利三郎
   国の掛け橋、丸太橋の使命を担って

   利三郎は河内国志紀郡柏原村(かわちのくに/しきぐん/かしわらむら/現大阪府柏原市)に、利八・くまの長男として生まれた。家は「綿利」の屋号を持つ農業兼綿商。利三郎は長じて家業を手伝っていた。
   相撲好きで、村相撲の四股名(しこな)は「やつがね」。ところが二十一歳の時、相撲で転んだ時の打ち所が悪く、床に伏してしまった。
   利八は息子の病を何とかして治そうと、あちこちの参り所へ足を運んだ。瓢箪山の稲荷さんにもお願いし、おみくじ(御神籤)を引いて、易者にも占ってもらった。

   三年も過ぎた頃、布留村(ふるむら/現天理市布留町)出身の木梚屋から「大和の神さん」の話を耳にする。利八はすぐに庄屋敷の教祖を訪ねた。教祖は、
この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで』と。
   帰宅し、利三郎にその事を話すと「今すぐお参りしたい」と言う。家族の者は制止したが「死んでもええから」の言葉に絆(ほだ)され、水杯の上、戸板の乗せて夜遅く家を出た。
   翌日夕方、庄屋敷に着き、付近の家で一泊。翌朝、瀕死の利三郎は教祖の前に。すると、
案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや
との力強いお言葉。続いて風呂に入るよう促された。身内の者は心配したが、利三郎は湯船につかり、教祖に背中を流して頂いた。病はいつしか癒え、お粥を三杯も食べた。
   一ヶ月後、村に戻ると、その元気な姿に「炒り豆(いりまめ)に花が咲いた」と村人は驚いた。明治六年年(1873)夏、利三郎二十四歳の時のことである。

   利三郎はこの時、教祖から戴いた、
国の掛け橋、丸太橋
とのお言葉を胸に、以後、布教の上で河内一帯に貴重な足跡を遺(のこ)した。明治十四年頃から教祖の間近に仕え、取次人としての役割も果たした。父利八も、お屋敷に勤めていたという。

   利三郎は、教会設置運動の相談の場にしばしば出ており、また明治二十年陰暦正月二十六日(陽暦二月十八日)のおつとめで「かぐら」「てをどり」を勤めている。

〔「道のさきがけ」79-81頁〕


【参考】「逸話篇」

   三三 国の掛け橋 
   河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥(ふ)していた。医者にも診せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕(めいたんせき)に迫ってきた。

   明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和布留から働きに来ていた「熊さん」という木挽がにをいをかけてくれた。それで父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると教祖から、
この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで
と結構なお言葉を戴いた。戻ってきて、これを伝えると利三郎は、
「大和の神様へお詣りしたい」
と言い出した。家族の者は、
「とても大和へ着くまで持たぬだろう」
と止めたが、利三郎は、
「それでもよいから、その神様の側へ行きたい」
とせがんだ。あまりの切望に戸板を用意して、夜になってから秘かに門を出た。けれども途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので一旦は引き返した。しかし家に着くと、不思議と息を吹き返して、
「死んでもよいから」
と言うので、水盃の上、夜遅く提灯を点けて、また戸板を担いで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。
   一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。すでにお屋敷の門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を、教祖の御前へ運んだ。すると教祖は、
案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや
と仰せ下され、続いて、
国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁々々々々
と、お言葉を下された。それから風呂をお命じになり、
早く風呂へお入り
と仰せ下され、風呂を出てくると、
これで清々したやろ
と仰せ下された。
   そんな事のできる容態ではなかったのに、利三郎は少しも苦しまず、かえって苦しみは去り、痛みは遠ざかって、教祖から戴いたお粥を三杯、美味しく頂戴した。
   こうして教祖の温かい親心により、利三郎は六日目にお救け頂き、一ヶ月滞在の後、柏原へ戻ってきた。その元気な姿に、村人達は驚嘆したという。

〔「天理教教祖伝逸話篇」52-55頁 〕

竜田川


中山正善「ひとことはな志」
161頁より謹写

中山正善「ひとことはな志」
161頁より謹写 


最終見直し 2016.7.27  8:30

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