2016年08月

   (はは)のむかしがたり   中山伊千代 (本明実支部長)

   その頃(明治十六、七年頃)、二つ上の御母堂様(中山たまへ様)と二人で、
「おばあちゃん、およつ(午前十時のおやつ)おくれ」
と、せがみに行くと教祖は、お手を眉(まゆ)の上あたりに翳(かざ)して、こちらをご覧になり、
ああ、たまさんおもとか。ちょっと待ちや
と仰って、お座りになっている後ろの袋戸棚(ふくろとだな)から出して、二人の掌(てのひら)にのせて下さるのが、決まって金平糖(こんぺいとう)でした。

   御母堂様は、お孫さんにあたられ、教祖はいつも『たまさん』とお呼びになり、私は曽孫(ひまご)にあたりますが『おもと』とお呼びになりました。
   御母堂様のことを、私は「お姉さま、お姉さま」とお呼びしては、二人して教祖の所へ、日に何度も遠慮なしに伺うのでお食事中のこともありました。そんなとき教祖は、
ちょっと待ちや
と仰せられながら、召し上がっていらっしゃるお茶碗の「ごはん」を掌にのせ、それをお箸で寄せ固めて(これを大和で「てのくぼ」と言う)、二人の掌にあけて下さったことも、たびたびでした。

   ある日のこと、例によって、二人して遊びに参りますと、教祖は、
たまさんおもとと二人おいで。さあ負うたろ
と仰って、二人一緒に教祖の背に「おんぶ」されながら子供心に、
「おばあちゃん、力あるなあ」
と感心していたものでした。
   今にして思えば、真(まこと)にもったいない話でございます。

   それから覚えておりますることと言えば「最後の御苦労」と言われております、明治十九年二月、十五日の拘留を終えてお帰りになる時、私は確か、数え年八才ぐらいであったと思うてますが、人力車に乗せて連れて行ってもらいました。
   もちろんそれまで、小さい子供など邪魔になりますし、一度も子供らがお迎えに連れて行ってもらったことはありませなんだ。
   その時は、とても教祖のお顔どころか、お姿も、よう見せてもらいませなんだ。前を見ても後ろを見ても人力車が続いて、まるでお祭りにでも連れてきてもろたように、あたりが賑やかであったことを覚えています。
   後年、
「『曽孫の末にいたるまで、連れてきてやっておくれ』とお言葉があって、私ども曽孫まで連れて行ってもらった」
と聞かして頂きましたが、
「『これが最後』ということを、もちろんご存知の上での教祖のお言葉であった」
ことを思いますたびに、胸がいっぱいになってまいります。

   また、こよし祖母は、祖父重吉(じゅうきち)の「お人好(ひとよ)し」を頼りなく思い、実家へ帰る決心をした途端、眼が見えなくなり、本席夫人おさと様を通じて、
こよしはなあ、先が見えんのや。そこをよう諭してやっておくれ
と教祖のお言葉をいただき、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びをされた途端、ご守護をいただいたそうです。

   こんな話を姑(はは)から聞かせて頂くたびに、どんな身上をいただいても、どんなに思い詰めるような事情に出遭っても、すぐにお屋敷へ飛んで行って直々にお言葉をいただけた、その頃の方たちを、成人の足らぬ私は、今でもどんなにか羨(うらや)ましく思うことでございます。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」31-32頁〕


中山たまへ御母堂様
昭和10年9月24日撮影
〔みちのだい第14号「巻頭口絵」より謹写〕

「みちのだい第14号」52頁より謹写


中山正善「ひとことはな志」221頁より謹写


「袋戸棚」
最上の引戸部を「天袋」という
襖(ふすま)状の場合も多い

京の「金平糖」

【①の参考】「逸話篇」

  一三四   思い出

   明治十六、七年頃のこと。孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモトの二人で、
「お祖母ちゃん、およつおくれ」
と言うて、せがみに行くと教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、
ああ、たまさんとオモトか、ちょっと待ちや
と仰って、お座りになっている背後(うしろ)の袋戸棚から出して、二人の掌にのせて下さるのが、いつも金平糖であった。

   またある日のこと、例によって二人で遊びに行くと教祖は、
たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ
と仰せになって、二人一緒に、教祖の背中に「おんぶ」して下さった。二人は子供心に、
「お祖母ちゃん、力あるなあ」
と感心したという。

註一   この頃、たまへは、七、八才。モトは、五、六才であった。
註二   およつは、午前十時頃。午後二時頃の「おやつ」とともに、子供がお菓子などをもらう時刻。それから「お菓子そのもの」をも言う。 

〔「天理教教祖伝逸話篇」224-225頁〕


【③の参考】「逸話篇」

   一二五   先が見えんのや

   中山コヨシが、夫重吉の「お人好し」を頼りなく思い、生家へ帰ろうと決心した途端、眼が見えなくなった。
   それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、
コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ
とお言葉を下された。
   これを承って、コヨシは申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、眼が、また元通りハッキリ見えるようになった。

註   中山コヨシは、明治十六年八月二十七日結婚。これは、その後まもなくの事と言われている。

〔「天理教教祖伝逸話篇」211-212頁〕


「先人の面影」
   
   年老いての手習い  中山こよし様

  祖母が、中山重吉祖父(教祖の孫)に嫁いで間もない、ある秋晴れの日、せっせと「張り物」をしていた祖母は、急に辺りが薄暗くなってきたのに気がつきました。
「おかしいな、まだ日没には間があるのに」
と思っているうちに、視界がぼやけて、何も見えなくなりました。
【註】張り物 - 洗濯した衣類や布を糊付(のりづ)けし、板などに張り付け、乾燥させる作業。
   ビックリして、折から来合わせた飯降さと様にこの由を伝え、教祖の所へ走って、お伺いしていただきますと教祖は、
なあ、こよしは先が見えんのやで。そこをよう、諭してやってくれ
とお言葉をいただいたそうで、さと様を通じてこのお言葉を聞かれた祖母は、その場に泣き伏しておサンゲされると、眼はすぐ元のようにご守護いただかれたのです。あまりの鮮やかな神様のお手入れに、ただただ恐縮するばかり。

   それもそのはず。
   ついさっきも張り物をしながら、夫のあまりの「お人好し」を、繰り返し胸のうちで不足していたのです。
   それに朝のうち〈に〉他家からいただいた一升入りの赤飯を、祖父は一人でペロリと平らげてしまったのです。
   日頃のモヤモヤとした不足が一気に爆発して、
「もうこれまで。帰らせてもらおう。とても望みはない」
と、離婚して帰ることを思い詰めて、張り物をしていたところなのでした。
   教祖のお言葉が、骨身にこたえないはずはありません。

   若い頃は、こんなひと幕もあったと聞かせていただくと、大変微笑(ほほえ)ましく、懐かしく思われますが、祖母はこの節に固く心に誓うところあって、その後は夫を助け、身を粉にして活動されたと聞かせて頂いております。

〔みちのだい第19号「先人の面影  年老いての手習い 中山こよし様  中山伊千代」〕より


「張り物」の様子

「永尾広海本部員 月次祭講話」 

   コヨシ様の事について

中山慶一先生が、祖母にあたられる中山コヨシ様のことについて、次のようなことを書き綴っておられます。

   昔の方々が、神様からいただかれたお仕込みには、かなり手厳しいものがあったようである。
「教祖はこの屋敷は鏡屋敷やで』と仰せられたが、まったく、どんな些細(ささい)な心遣いも、ただちに教祖の御心に映るものだから、恐ろしくて、埃(ほこり)の心など遣(つか)いたくとも遣えなかった」。
   よく、こんな前置きをして、祖母(中山コヨシ)から聞かされた話の中に、次のようなものがある。

   なんでも祖母が、私の家へ嫁して来てから間もない頃のことである。
   祖父というのは本当の「お人好し」という質(たち)の人で、物事をテキパキと頭や肚(はら)で処理するというような、いわゆる働きある人ではなかった。
   これに反して祖母は、どちらかと言えば利かぬ気の気性を持ち、所帯向きのことについても非常にかっちりした人であった。

   ある日のこと、近所にお祝いがあって、大きな重箱にいっぱい、約一升ばかりの赤飯をいただいた。おりから、空きっ腹を抱えて帰宅した祖父は大好物のこととて、まるで子供の如く喜んで、舌鼓を打ちながら、一人でそれをペロリと平らげて、平気な顔をしていた。
   これを知った祖母は、急に浅ましく情けない気持ちがして、
「こんなに大飯食らいで、大した働きのない人と連れ添っていたのでは、行く先案じられる。いっそ今のうちに別れて帰ってしまおうか」
と、心に少なからず不足をした。と、その間、急に辺りが真っ暗になって何も見えなくなってしまった。
   折りよく家に立ち寄って下さった、おさと様(ご本席様夫人)の声を聞きつけて、
「おさとさん、えらい俄(にわ)かに真っ暗になりましたが、お日様が、どうかなさったでしょうか」
と言うてお尋ねした。
   変な挨拶に驚いて、
「何を言うているのや、この人は。こんなにカンカン照ってござるのに」
と言いつつ、おさと様が駆け寄って見て下さった時には、もう祖母の両眼は、完全に潰れていたのであった。
「これ、コヨシさん、一体どうしたのや。目の玉の色が、まるっきり変わってしまっているがな」
驚きの言葉を残して、おさと様は一散に教祖の元へ駆けつけ、事の次第を申し上げて、お諭しを仰いで下さった。
   教祖は静かにお聞き下されて、
コヨシはなあ、先が見えんのやで。よう、そこを諭してやってくれ
と仰せ下された。
   ふたたび駆け戻られた、おさと様は、
「これ、コヨシさん。教祖は『先が見えんのや』と仰っているが、おまえ何か、ひどい「先案じ」をしたり、不足をつけたのやないか」
あー、それなれば、たった今、したばかりなのである。この教祖の御一言こそ、実に祖母にとっては肚(はら)の底まで見通されてのお言葉であった。
   かえす言葉もなく、心からお詫び申し上げた。と、急に、前におられる、おさと様のお顔が、ボンヤリ眼に映りだしてきた。かくて一瞬にして、元通りにご守護をいただくことができたのであった。

   昔の人々は、どんな些細な心遣いも、ただちに教祖の心眼(しんがん)に照破(しょうは)されることを恐れて、常に反省のうちに、絶えず理に添いきるべく努力を続けられた。

   こうして人々の心は鏡の如くに澄みきっていた。澄みきった心の鏡には、ひとすじの埃(ほこり)も大きな曇りとして、ただちに、教祖のお仕込みによって拭(ぬぐ)っていただくことがでいたのである。…

〔「みちのとも」昭和48年6月号  永尾広海本部員 五月月次祭神殿講話「徹底したひながたの実践を」〕より

「絵解きで学ぶ十全の守護と八つのほこり」
227頁より謹写
画  金巻とよじ氏

最終見直し 2016.8.8  12:00

【参考】「教祖伝」

   面影

   高齢の教祖にお目にかかった人々は皆、譬(たと)えようもない神々(こうごう)しさと、言葉に尽せぬ優しさとが不思議にも一つとなって、何となく胸打たれ、しかも、心の温まる親しさを覚えた。

   教祖は中肉中背(ちゅうにくちゅうぜい)で、やや上背(うわぜい)がおありになり、いつも端正な姿勢で、スラリとしたお姿に拝せられた。

   お顔はいくぶん面長(おもなが)で、色は白く血色(けっしょく)も良く、鼻筋は通ってお口は小さく、誠に気高(けだか)く優しく、常に、にこやかな中にも神々しく、気品のある面差(おもざ)しであられた。

   お髪(ぐし)は、年を召されるとともに次第に白髪を混じえ、のちにはまったく雪にように真っ白であられたが、いつもきちんと梳(くしけず)って茶筅(ちゃせん)に結うておられ、乱れ毛や、後(おく)れ毛など少しも見受けられず、常に赤衣(あかき)に赤い帯、赤い足袋(たび)を召され、赤いものづくめの服装であられた。

   眼差(まなざ)しは、清々(すがすが)しく爽(さわ)やかに冴(さ)えて、お目にかかった人々は、
「何人(なんびと)の心の底をも見抜いておられるというのは、このような眼か」
と思った。

   足腰は大そう丈夫で、年を召されても腰は曲がらず、歩かれる様子は、いかにも軽やかで速かった。

〔「天理教教祖伝」165-166頁「第八章  親心」〕より


【参考】「教祖に親(ちかし)い方々」の証言です。

   お目はすすどかった

   教祖様のお目はすすどかった(鋭かった)。そらすすどい(鋭い)。
   眉毛(まゆげ)は白いように思わなんだ。

   目の力が、ようの者(他の者)と違う力があった。そこが人間やない。

〔「復元創刊号」50頁   梶本楢治郎「教祖様の思ひ出」〕より


   口元や顎はそのままや

   教祖様(おやさま)のお声は、優しいお声やった。スラリとしたお姿やった。
   顔は面長で、お政さん(教祖のご長女)は、ちょっと円顔(まるがお)やが、口元や顎(あご)はそのままや。
   お政さんは、頑丈の方、教祖様は、やさしい方やった。
   腰は曲がってなかった。

   私の八つの時やもの。

   それに東京で芝居した時に、杖ついて来はるようにしたから、エライの怒ってやった。

   頭の髪は白かったと思う。(問、真っ白ですか。答、そういうように思う。)
   
〔「復元第18号」4頁   梶本宗太郎「教祖様の思ひ出その他」〕より

   
   中山まさ様に似ている

   教祖様のお顔は、会議所にご昇天の時の写真がある、あの中に、中山まさ様(教祖ご長女)の写真がある。(あの写真のなかに、中山まさ様が写っている)
   あれに似ている。

〔「復元創刊号」42頁   梶本楢治郎「教祖様の思ひ出」〕より


この写真左方の、柱のすぐ左の人が「おまさ様」です。
この写真のお顔が「教祖そっくり」なのだそうです。


教祖ご長女「中山おまさ様」
松谷武一「ひながたとかぐらづとめ」371頁より謹写


   教祖のお写真について

「皆、平野楢蔵をして郡山に帰らしめ、同地〈の〉写真師を雇い来たりて、二十七日午前、御休息所に於いて、教祖のご臥褥(がじょく)のまま撮影せしめ、保存することにした」。(天理教来歴記事)

   皆の議によって、
「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」
に決し、平野さんが受け持って、写真屋を連れに〈大和〉郡山へ行きました。
   母様(中山たまへ御母堂様)の話では、
「平野さんが引き受けて、山瀬文治郎さんが付き添って来られた」
そうであります。

   いずれにせよ、郡山から「本田(ほんだ)」という写真屋が来て、御休息所で、教祖様のお臥(やす)み姿を撮ったのであります。この由は「増野日記」にも、その日の項に記載されてあります(明治二十年二月十九日項)。

「二月十九日(旧正月二十七日)、医師の診察をもって村役場へ死亡の届けなし、
   お墓地、埋め所、種々紛議もあり、一時止むを得ず、中山ご先祖のお墓地、勾田村頭光寺(まがたむら/ずこうじ)の墓地と決定、
   郡山より写真〈屋〉呼びて、教祖〈の〉お写真を撮る」(下略)…

   この時のお写真は、「教祖様のお顔の方からと、御後頭(おんうしろあたま)の方からとの二枚」あります。

   が先日(昭和十一年二月五日)、高井〈猶吉〉さんの話では、
『たしか、新建(しんだち)のお政やん(教祖ご長女)が、後ろから抱え起こしてお撮りしたものがあるはずや。お政やんが、こうして、しゃがんでいたのを覚えている。「まだ見える/\」と言うと、小さくなって、しゃがんでいたのを覚えている』 
とのことでしたが、
「そんな写真、遺(のこ)っていない」
と申しますと、
「たしか、お政やんがお抱きしていた。……しかし、写真がないとすると、具合が悪かったので、結局やめたんかいなあ……」
とのことでした。参考までに付け加えておきます。…

「写真屋の帰る時には、一枚も持ち帰らんように裸にして調べた」
と高井さんが話したので、
「現像など、どうしたのか」
と尋ねましたところ、
「そんなこと皆、お屋敷でやらしました。帰りには、何一つ持ち帰らせませんでした」
とのことでありました。

   原板などを買い取ったのは事実だろうと思いますが、その頃の本部で、現像などが出来たのか否か、ちょっと調べる余地があると思います。

〔中山正善「ひとことはな志 その二」66-68頁〕より


   次は、実際に「教祖のお写真を見せてもらった」という人の証言です。

   中西牛郎氏の証言

   明治三十五年四月十五日は如何なる日ぞや。予れ(われ)編者はこの日、大和に於いて、我が教祖の御真影(ごしんえい)を拝し奉(たてまつ)ることを得たり。

   この御影(みかげ)の奉置(ほうち)せらるる場所と、拝影の栄を与え給いたるその人の資格と、この御真影の写し撮られたる事情とによりて、然(さ)なきだに(ただでさえ)尊くも、また懐かしく拝し奉る予れ編者に、さらに一層の感動を与えたりき。

   ああ、語るも恐れ多きことながら、この御真影は明治二十年陰暦正月、すなわち、今年を去ること十五年前、教祖ご臨終ののち、即刻写し奉りたるものなり。

   前代の偉人が死後、画工(画家)により多少想像を混じえて写されたるものとは事替わりて、写真術の最も進歩したる今代に写されたるものなれば、生きたる教祖そっくりそのままなり。

   ただし、九十歳のご高齢にしあれば、お髪は白きこと雪の如く、お皺(しわ)は細かにして波に類すれども、八、九分の温和に、一、二分の威厳を添えさせ給い、静かに閉じたるお瞼(まぶた)には、五十年間、慈愛の眼をもって、我々人類を眺め給いたる面影を留め給い、穏(おだ)やかに緊(しば)りたるお唇には、天の福音(ふくいん)を授け給いたる名残りを遺(のこ)し給いぬ。

   しかも、このご臨終の数時間前までは、お弟子たちを枕辺(まくらべ)に招いて、千万年の後までも我々教徒、否、我々人類が記憶すべき、有り難きご遺訓を授け給いたるを憶(おも)い奉れば、ひたすら感泣のほかは無かりける。

   ああ、かかる尊き、ゆかしき御真影を拝し奉りたる予れ編者は、何をもってかこれが記念とすべきや。これぞ予れ編者が、この「教祖御伝記」を編し奉らんと感慨を起こしたる所以(ゆえん)にぞある。

〔「復元第9号」2頁  中西牛郎「教祖御傳記」(明治三十五年稿)〕より


   廣池千九郎氏の証言

   同(大正二年十一月)十六日、管長(初代真柱)閣下のお居間にて、御教祖(おやさま)直筆の、御筆先(おふでさき)十七号を拝見す。

   第一号は明治二年一月にて、十七号は明治七年の表題あり。
   一号の始めには、御神楽歌(みかぐらうた)と同一なれども、各歌とも歌末の句は少々異なり居れり。
   半枚に八行づつ記しあり。用紙は極めて粗末なり。

   次にまた、内々(ないない)御教祖(おやさま)のお写真拝見を許されたり。
   これは極めて秘密にて、ご本部員といえども、これを拝せらるるもの稀なるに、拝見を許可さるは誠に有り難きことなり。

   恐れ多きことながら、これは御教祖様(おやさま)のご帰幽翌日のお写真にて、管長閣下(眞之亮)および令夫人(たまへ)および政子(おまさ)、久子(梶本ひさ)の四人、お枕元に付き添いあり。

   御教祖(おやさま)のご容貌(ようぼう)は、右を下にして横に休まれ、顔は面長(おもなが)にて、頬(ほほ)は肉落ちていれど、お眼と眉は、天地抱き合わせの貌(かたち)をなして、宛然画(えんぜんか)けるものの如し。
   鼻筋通り口元締まり、耳太く額(ひたい)広く、まったく偉人の相を備えさせ給う。
【註】宛然画けるものの如し…そっくりそのまま描けるもののようだ。

   管長閣下の、かの如く信用せらるるは、みな予が無我の状態に、お道のために日夜働くによる。その誠のあらわれしものと思わる。

   欄外
   閣下は予に対して「まったく神様の引き寄せ」と仰せられ、「教理完成の道具」と仰せられ、それがために予に、
「今日は本部員中でも、二、三のほか見せぬものを示す。こちらにおいでなさい」
とてお居間に案内、下(上)の記事の如きものを拝見せしめたり。

〔「天理フリーフォーラム」資料コーナー⑵ 「廣池千九郎信仰日記 大正2年11月16日」〕より引用



   教祖は、生き姿はのこさない』(ひながたとかぐらづとめ 369頁)と仰せになっていたので、ご存命中に、ご自身のお写真はお撮らせにならなかったようです。

   ご昇天後、会議によって
「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」
に決まり、その写真が「二枚」現存するようです。

   お隠れから「130年」経った現在においても、いまだに公表されていないので、今後もその可能性は低いと思われます。

   しかしながら、ご長女「おまさ様」のお写真と、
「たったひとり、おやさまの内孫であった、中山たまへの晩年の写真も、おやさまのお姿を偲ぶよすがであると伝えられている」(ひながたとかぐらづとめ 369頁)
とあるように、「容貌はお二方のお写真から」、
   またその他は、「教祖に直々にお会いなされた、先達教弟方の遺される各聞書などから」、その面影をお偲びすることができます。


最終見直し 2016.8.11  9:00

   優しいお声   梶本そのゑ (鍛冶惣支部長)

   宗太郎(そうたろう)父が、昭和二十六年「復元 第十八号」に「教祖様の思〈ひ〉出〈その他〉」として出しておられますうちより、二つ三つ、抜き書きさせて頂きました。

〇私は「教祖に物をもろうた」というようなことだけ覚えている。

   教祖は、蜜柑(みかん)を下さった。蜜柑の腹の方の筋を取って、背中の方から指を入れて、
トンビトートー、カラスカーカー」
というのにして、
指を出せ
と仰るので指出すと、その上へのせて下さるので喜んでる、私は七つくらいやった。
   また、蜜柑の袋もろて(もらって)、こっちも真似(まね)して指にさして、教祖のところへ「ヒョー」っと持って行くと、教祖が召し上がって下さった。

〇神殿(つとめ場所)の方で、お菓子でもいただいたら、子供同士遊んでて、遊びながらいただいて、なくなったら、また教祖のところへ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしまって、なくなると、また走って行く。
   どうで(どうせ)〈自分が〉、
「おばあちゃん、またくれ」
とでも言うたのやろ。三遍も四遍も行ったように思う。
   それでも、
「今やったやないか、というようなことは一度も仰らん」。
   また、
「うるさいから一度にやろう、というのでもない」。
   食べるだけ/\下はった(くだはった)。

   白せんこ(はくせんこう/白雪糕/はくせつこう)か、ボーロか、飴のようなものやったと思う。

   大体、教祖は子供が非常にお好きやったらしい。山澤の母に聞くとそうや。
   
   櫟本の梶本へは、チョイチョイお越しになった。そのたびに、内の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持ってきて下さる。

   その巾着(きんちゃく)は、端切れを継ぎ合わせて巾着にしてある。角にして継ぎ合わせてある。赤も黄もある。
   そしてその紐(ひも)は、鉋屑(かんなくず)。それも、スーッと紙のようにして作ったのを、コヨリ(紙縒り)にして紐にしてある。それが巾着の紐や。
「それは教祖が鉋屑で作らはったんや」
と聞いた。
   その巾着は、今も中山家の蔵にある。山澤の母(ひさ)に、この説明は聞いた。

〇私は曽孫(ひまご)のなかでは男での初や。女ではおもとさんがいる。それで、
早う、一人で来るようになったらなあ
と仰ってくれはったという。

〇島村(父の弟/宗太郎の弟、国治郎)が生まれた時、
色の白い、きれいな子やなあ
と言うて抱いて下された。
それは山澤の母にも、うちの母(ウノ)にも、よく聞いた。

〇吉川〈万次郎〉と私と二人、教祖の背中に同時に負うてもろうたことがある。
   そして、東の門長屋(もんながや)の所まで、お出で(おいで)下はったことがある。藤倉草履(ふじくらぞうり)みたいなもの履いて。

〇教祖のお声は、優しいお声やった。
   スラリとしたお姿やった。
   顔は面長(おもなが)で、お政さん(教祖のご長女)は、ちょっと円顔(まるがお)やが、口元や、顎(あご)はそのままや。
   お政さんは、頑丈(がんじょう)の方(ほう)、教祖は、やさしい方(ほう)やった。
   腰は曲がってなかった。

〇教祖は、生の薩摩芋(さつまいも)の皮を剥(む)いて、「わさびおろし」で擦(す)って召し上がった。
   分量は、お齢を召していたから少しと思うが、時々召し上がった。
   時によると、煮たもの〈は〉召し上がらずに、そんなもの召し上がった。

   私は子ども心に見ていた。おいしそうに召し上がるので、櫟本の家に帰ると、真似して、お茶碗に一杯ぐらい食べた。

〇お隠れの時は、箱枕(はこまくら)やった。
   私は、お隠れになった時、亡骸(なきがら)の所へ連れて行ってもろた。そして、手を当てたらハッとした。冷たかった。その時、
「息引き取ったら、こんなに冷たいものか」
と思うた。それが、私にとっては初めての印象や。
   その時には、飯降〈政甚〉さんも、裏の叔父さん(梶本楢治郎)も、同じこと言うてる。
   真柱さんが、いちいちお呼びになったのやろ。
             ×                 ×                ×
   教祖が御身をお隠しになりました時、宗太郎父は八才でしたので、
「お仕込み頂いた思い出はない」
と申しておりました。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」30-31頁〕


中山正善「ひとことはな志 その二」
22頁より謹写

教祖ご常用のお手提げ袋(巾着)
みちのだい第33号巻頭「口絵」より謹写

教祖お手製の「鉋屑縒り(かんなくずより)」
「おやさま 天理教教祖と初代信仰者たち」87頁より謹写

「藤倉草履」の一例

「箱枕」の一例

一般には「白雪糕(はくせつこう)」
関西では「はくせんこう」

これも「白雪糕」らしいです

「たまごボーロ」

こちらは「丸ボーロ」

【参考】「逸話篇」

  一九二   トンビトート

   明治十九年頃、梶本宗太郎が七つの頃の話。
   教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、
トンビトート、カラスカーカー
と仰って、
指を出しや
と仰せられ、指を出すと、その上へのせて下さる。それを喜んでいただいた。

   また、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへ「ヒョー」っと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。

〔「天理教教祖伝逸話篇」311-312頁〕


   一九三   早よう一人で

   これは、梶本宗太郎の思い出話である。
   教祖にお菓子をいただいて、神殿の方へでも行って、子ども同士遊びながら食べて、なくなったらまた教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、また走って行く。どうで(どうせ)「お祖母ちゃん、またおくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。

   それでも、今やったやないか、というようなことは、一度も仰せにならぬ。
   また、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけづつ下さった。
   ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであったと思う。

   大体、教祖は子供が非常にお好きやったらしい。これは家内の母、山澤ひさに聞くと、そうである。

   櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。そのたびに、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて持ってきて下さった。

   私は曽孫(ひまご)の中では男での初めや。女ではオモトさんがいる。それで、
早よう、一人で来るようになったらなあ
と仰せ下されたという。

   私の弟の島村国治郎が生まれた時には、
色の白い、きれいな子やなあ
と言うて、抱いて下されたという。この話は、家の母のウノにも、山澤の母にも、よく聞いた。

   吉川(註、吉川万次郎)と私と二人、同時に教祖の背中に負うてもろうたことがある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺(い)で編んだ草履)みたいなものを履いて、お出で下されたことがある。

   教祖のお声は、やさしい声やった。
   お姿は、スラリとしたお姿やった。
   お顔は面長で、おまささんはちょっと円顔やが、口元や顎は、そのままや。
   おからだつきは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖は、やさしい(華奢な/きゃしゃな)方やった。
   お腰は曲がっていなかった。

〔「天理教教祖伝逸話篇」313-315頁〕


   一二四   鉋屑の紐

   明治十六年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から裁縫(さいほう)を教えていただいた。

   ある夜、一寸角(いっすんかく)ほどの小布(こぎれ)を縫い合わせて、袋を作ることをお教えいただいて袋ができたが、さて、この袋に通す紐がない。
「どうしようか」
と思っていると教祖は、
おひさや、あの鉋屑を取っておいで
と仰せられたので、その鉋屑を拾うてくると、教祖は早速、器用にそれを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下された。

   教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へチョイチョイお越しになった。その度に、家の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持ってきて下さる。その巾着の端布(はぎれ)には、赤いのも、黄色いのもあった。
   そしてその紐は鉋屑で、それも三つ組もあり、スーッと紙のように薄く削った鉋屑を、コヨリにして紐にしたものであった。

〔「天理教教祖伝逸話篇」210-211頁〕


   一九四   お召し上がり物

   教祖は高齢になられてから時々、生の薩摩藷(さつまいも)を「ワサビ下ろし」で擦ったものを召し上がった。

   また、味醂(みりん)も小さい盃(さかずき)で、時々召し上がった。
   ことに「前栽(せんざい)の松本」のものがお気に入りで、瓢箪(ひょうたん)を持って買いに行っては、差し上げたという。

   また、芋ごはん、豆ごはん、干瓢(かんぴょう)ごはん、松茸ごはん、南瓜(かぼちゃ)ごはん、というような「色ごはん」がお好きであった。
   そういう「ごはん」を召し上がっておられるところへ人々が来合わすと、よくそれで、おにぎり様(よう)のものを拵えて下された。

   また「柿の葉寿司」がお好きであった。
   これは、柿の新芽が伸びて香りが高くなった頃、その葉で包んで作った寿司である。

〔「天理教教祖伝逸話篇」315-316頁〕

このような瓢箪に味醂を入れ、教祖までお持ちした
写真は山田家所蔵、山中忠七が常用したのもの
〔「おやさま 天理教教祖と初代信仰者たち」120頁より謹写〕


芋ごはん

豆ごはん

干瓢ごはん

松茸ごはん

南瓜ごはん


「柿の葉寿司」
当時は「鯖(さば)」のみでした


【参考】「ひとことはな志 その二」

  梶本宗太郎さんは八歳になりたてのこと。

『連れられて、御休息所へ行きました。
   いつもは、日に幾回となくお側へ行き、その都度お菓子などをいただいたのです。
   ときには蜜柑の袋を破(わ)り、いわゆる「とんびとうとう」にして、ご自身の指にさして下されたこともありましたし、 また私が、子供の小さい手先で、同様にして差し上げたこともありました。

   その、いつもお菓子などを強請(ねだ)りに行った部屋ではありますが、その日は、なんとなく様子が変わっていました。
   そして教祖様(おやさま)は、北枕に「おやすみ」になっていました。
   教祖様(おやさま)のお額(ひたい)に手をあてさせて頂いたが、冷たかったことを覚えている。

「息引き取ると冷たいものや」
と初めて知りました』。

〔中山正善「ひとことはな志 その二」19-20頁〕


【参考】「みちのとも」
 
   教祖の御好物
   
   教祖は、何がお好き、何がお嫌い、というようなことは、かつて仰せられたことがござりませんでした。どんなお粗末な物を差し上げました時でも、必ずご黙祷(もくとう)の上、
おいしいな
と仰せられましたが、少々ご好物の如く拝された物に、「飴」と、少量の「味醂(みりん)」とがありまする。

   味醂の方は、ごく小さいお盃(さかずき)に、二、三杯お召し〈上がり〉になったように記憶致します。
   それで私は、河内に帰った時は途中で「飴と味醂」とを買ってきて差し上げるのが楽しみでした。
   
   なお、お召し上がりにならなかった物に「牛肉と鳥肉など」がありまする。
   ある日も、信徒の方で「大きな山鳥」を教祖に差し上げたことがありますが、そのとき教祖は、山鳥の背(せな)を、さも哀れ気(あわれげ)にお撫でになってから、
こんな目に遭うたのやなあ、かわいそうに。今度は鳥に生まれずに、他のものに生まれておいで
と仰せられてから、下(した/信徒方)にお下げになりました。
   
〔「みちのとも」昭和4年6月20日号  増井りん「いろいろの出来事」〕より


【参考】「御存命の頃」

   やすさんのお話

   教祖の食事は「お粥(かゆ)」で、そのお粥も「おかず」もみな、
「米がなんぼ、ダシがなんぼ、水なんぼ」
と決まっていました。

   それで、手で米〈を〉掴(つか)んだりしますと、お上がりになられません。

   お粥には「大豆(だいず)を少し入れる」ことになっていました。その豆も、欠けた豆を入れると、お上がりになりませんでした。…

   それから、つまんで味をみたりしたものは、お上がりになられませんでした。…

〔高野友治「御存命の頃」上巻 206-207頁〕各所より抜粋


大豆入りお粥

【参考】「山中忠七伝」

   御食事 

   当時、教祖に、どういうお食事を差し上げたかと申しますると、〈大豆越村は〉田舎のこととて、何らご馳走もできませんで、また、ご馳走しても召し上がって下さらず、ただ、教祖のお言葉通りにさせて頂いたのでありました。
   このご滞在中、教祖に「味ごはん」を差し上げるのは毎日のようでありまして、
「干瓢飯(かんぴょうめし)」や「松茸飯(まったけめし)」「赤飯(せきはん)」
などを炊かせて頂きました。

   お菜ものは、何を拵えても、ほんの少しだけしか召し上がられません。

   ときどき教祖は、
お世話やけれど、麦ごはんを炊いておくれ
と仰せになりますから、麦を白く搗(つ)いて、柔らかく炊かせて頂いたこともありました。

   また、お酒は「味醂(みりん)」をお好みなされましたから、「柳本村の勝井酒店」の味醂を差し上げると、
格別においしい
と喜んで、二、三杯召し上がって下されたのでありました。

〔山中忠正・忠昭「山中忠七伝」50頁〕


赤飯


麦ごはん


【参考】「清水由松伝稿本」
   
   肉まで食べなくとも

〈桝井伊三郎先生が〉
「人をたすけてる者が、肉まで食べなくともよい。鶏は、卵を人間に食べてもらっている。それを、その肉まで食べるのは、二重に働かすことで良くはない」
と言われたことを覚えている。

「『肉まで食べなくとも、他にいくらでも食べるものがあるやろうと教祖様(おやさま)が仰った」
と言って、生涯それを食わず〈に〉通し切られたほど、信仰に堅い人であった。

〔「清水由松伝稿本」103頁〕


【参考】「教祖 おおせには」

   他に食うもの

   ある人、教祖にお尋ねしました。
「近頃、大阪では、牛の肉を食う人が出てきましたが、あれは、どないなものでございましょうか」と。

 教祖、おおせには、『他に食うものあらせんか』と。

〔註〕増井りん先生のお話として承る

〔高野友治「教祖 おおせには」18頁〕


最終見直し 2016.8.7  9:50 

   信仰の地固め   中田みちゑ (本部婦人)

   深みゆく大和(やまと)の秋景色のなかでも、特に一葉々々と散りゆく柿の木になる色鮮やかな実が、いっそう大和の秋の趣きを深めております。
   わけても古い農家には、御所柿(ごしょがき)が、門の内ら(内側)の屋根に覆いかぶさるように立っているのが大和らしい姿です。

   教祖ご誕生にゆかりある、三昧田の前川家の内庭にも、古い柿の木が植わっています。

   私の家でも、信仰の初代、儀三郎(ぎさぶろう)祖父(別名:左右衛門/さえもん)の時代からあったという、古い御所柿の木が前庭にあり、ある年には「虫」のため、二つ三つ、申しわけ程度の時もあり、また、枝が折れんばかりに、たわわに実る年もあります。

【註】御所柿…現奈良県御所(ごせ)市周辺原産の完全甘柿品種。

   この古い柿の木と調和するように、奥まった所に、これまた百年はゆうに過ぎた古家があります。
   初代当時からのもので、真っ黒に煤(すす)けきった天井や柱に、文久の初めから教祖にお救け頂き、手塩にかけてお導き頂いた、初代の信仰の息づかいが秘められているようです。

   その昔、年代ははっきりしませんが、教祖が、庄屋敷村から歩いても五、六分とかからない豊田村の、この屋敷へ来られて、
しっかり踏み込め/\、末代までも、しっかり踏み込め/\/\
とお言葉を下されたそうです。
   祖父は、この尊い親心のにじみ込んだ屋敷を、末代永く子孫に伝えんがため、二代、三代に、くどくど言い伝えておりました。
   そして信仰とは、その場限りの、一代限りの短いものではなく、生涯末代に続くものであることを、敷地の地固めをすることによって、お教え下さった教祖の御心を、今日も新たに私たちは味あわせて頂いています。

   教祖は晩年、十八回にも及ぶ獄舎へのご苦労のお道すがらがございますが、
   明治十九年の櫟本分署での最後のご苦労中、朝方になってもランプの灯が点いていたので、教祖は、つと立って、ランプの灯を吹き消されたお話がありますが、

   やはり、監獄ご苦労中のこと、教祖ご自身、使い古した罫紙(けいし)を差し入れさせられて、それで紙縒り(こより)を作られ、一升瓶(いっしょうびん)ぐらいの入る網を作られたのを、祖父に下されました。
   この網袋(あみぶくろ)を見させて頂くにつれ、
「お齢を召された教祖が、よくもまあ、こんな細かい細工物を作られたなあ……」
と、改めて感嘆させられるのでありますが、
どんな小さいものでも、大切に生かして使う
という、温かい心遣いが偲ばれるのであります。

   いづれも中田家に、いんねん結んで下されたればこそ。
   今日も教祖の御心が実感として味あわせて頂けることに、喜びをいっぱいに感じさせて頂いております。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」29-30頁〕


【参考】「逸話篇」

      四一   末代にかけて   

   あるとき教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、
しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め
と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、
この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで
と仰せになった。

   後日、儀三郎の孫、吉藏(きちぞう)の代に、村からの話で、土地の一部を交換せねばならぬこととなり、話も進んできた時、急に吉藏の顔に面疔(めんちょう/おでき)ができて、顔が腫れあがってしまった。それで、家中の者が驚いて、いろいろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄りたちの口から、
「教祖が地固めをして下された土地」
であることが語られ、
   早速、親神様にお詫び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは鮮やかに、すっきりとお救け頂いた。

「年寄りたち」とは、中田しほと、その末妹、上島かつの二人である。しほは、儀三郎の長男の嫁。

〔「天理教教祖伝逸話篇」69-71頁〕


   一三八   物は大切に

   教祖は、十数度も御苦労下されたが、仲田儀三郎も数度、お伴させて頂いた。

   そのうちのある時、教祖は、反故(ほご)になった罫紙を差し入れてもらって、コヨリ(紙縒り)を作り、それで、一升瓶を入れる網袋をお作りになった。
   それは、実に丈夫(じょうぶ)な、上手に作られた袋であった。
   教祖はそれを、監獄署を出て、お帰りの際、仲田にお与えになった。そして、
物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが神様からのお与えものやで。
   さあ、家の宝にしときなされ
とお言葉を下された。

〔「天理教教祖伝逸話篇」230頁〕


【参考】「道のさきがけ 教祖伝にみる人物評伝」

   仲田儀三郎
   天保二年(1831年)五月二十五日、豊田村(現天理市豊田町)に生まれる。
   左右衛門(さえもん)といい、「さよみさん」の名で親しまれた(明治になって改名)。
   文久三年(1863年)二月、妻かじの産後の肥立ちが悪く、教祖を訪ねたのが信仰の始まり。のちに、初期の信仰者の総代的存在となる。教史の重要な場面には、必ずと言っていいほど彼の名が出てくる。

   義太夫(ぎだゆう)の心得があって、警察に連行される時でも、身ぶり手ぶりで語って周囲を笑わせた。教祖とともに拘留された事もしばしば。
   明治十九年の、いわゆる「最後の御苦労」にも一緒に拘留され、三十年振りの厳寒の中、櫟本警察分署に十日間留置、檻に入れられた。この年の六月二十二日、五十六歳で出直した。
   教祖のお話を書き記したものは、
「棺(ひつぎ)に納めて埋めてしまった」
と言われている。

〔「道のさきがけ」25-27頁〕参照



教祖お手製「紙縒り(こより)の網袋」
写真は明治10年に、増井りん先生が
頂戴したものだが、仲田儀三郎先生が
頂戴したものも同様のものと思われる
おやさま 天理教教祖と初代信仰者たち」
89頁より謹写


御所柿(ごしょがき)
上下に平たい甘柿の典型であり代表格

最終見直し 2016.8.5  7:40

  かたいかきもち   辻芳子 (本部婦人)

これを見て思案しなされ。そして、これを食べてみなされ
と仰せられて、教祖は祖父忠作に「お歌(おふでさき三首)」に添えて「かきもち」を下さいました。
   それは明治七年二月二十二日の夜、祖父が歯の痛みに耐えかねて、お願いに上がった時のことでした。

二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす (三 147)
二二の二の五つに話しかけ     よろづいんねん(万因縁)みな説き聞かす 

たかやまのせゝきよきいてしんしつの 神のはなしをきいてしやんせ (三 148)
高山の説教聞いて真実の                          神の話を聞いて思案せ

にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや (三 149)
日々に神の話を段々と                       聞いて楽しめ「こうき」なるぞや

   この「お歌」と「かきもち」をいただいたものの、祖父にしてみれば、
「歯の痛いところに、かたい「かきもち」を下さるのは、どういうわけであろう。食べられるはずがないのに……」
と一瞬、とまどいました。

   その頃の祖父忠作は、昼は多く「おたすけ」に廻り、または家業の畑仕事に精を出し、夜になるとお屋敷に伺い、教祖から数々のお話を聞かせて頂くのが「ならわし」でありました。
   教えを聞いて十年、その頃の祖父には、やはり様々の世情の話に心とらわれる事もあったのでしょう。心迷うこともあったことでしょう。

たかやまのせゝきよきいてしんじつの 神のはなしをきいてしやんせ
高山の説教きいて真実の                          神の話を聞いて思案せ

にち/\に神のはなしをだん/\と きいてたのしめこふきなるぞや
日々に神の話を段々と                       聞いて楽しめ「こうき」なるぞや

   教祖には、これらのお歌を通して、
神道(しんとう)や仏教の話に耳傾けることなく、親神様の仰せ下さる真実の教えに一条(ひとすじ)に進むように
と、祖父の信仰を促されたのでした。
迷いを取れよ
との思召であったのでした。

「お言葉を静かに味わいつつ、いただいた「かきもち」を口にした時、不思議にも歯の痛みはすっきり去っていた」
と言います。
   祖父は、お歌の理を噛みしめるとともに、「かきもち」のうまさを心から味わったことでした(でしょう)。そこには言い知れぬ、温かい親心がにじみ通っていたことでしょう。喜びにあふれる祖父の姿が眼に見えるようです。

   また祖父忠作は、
「こだわりのない、正直な、さっぱりした気性(きしょう)の人」
でありましたが、反面、
「頑固(がんこ)で、一途(いちず)なところ」
があったようです。
   これは「美点」でもあるし、同時に「欠点」とも言えるでしょう。
お前の心は、このかきもちのようにかたいよ
教祖は、そう仰せられているのではないでしょうか。
頑固さを取り去って、神の言葉を噛みしめて素直に通れよ
と仰せられているのでありましょう。

「一途な気性であったからこそ、あの初期の、苦難の道をも通り切ることができた」
と言えますが、また反面、
「頑固ゆえに、周囲の人々に多くの苦痛を与えていた」 
こともあったかも知れません。

「かきもち」に思いを託して、祖父の気性を戒(いまし)められた、教祖の親心を思うとき、
「謙虚になれ、謙虚になれ」
と、私は自分に言い聞かせます。

〔みちのだい第33号「教祖特集号」28-29頁〕


【参考】「正文遺韻」

   これは、明治七年二月二十二日の夜の五つ時のお筆なり。
   辻先生はいつも、多くは昼は家業をして、夜分に参拝せられることなるが、この夜、お宅にありて歯が痛み耐えられぬにつき、さっそく神様へお参りせんと、痛むを堪(こら)えて歩み来られしに、三島の村地へかかるとパッと痛みが治まりしゆえ、不思議にも、かつ有り難く思い、神様へお参りして、御教祖様(おやさま)にこの事を申し上げたるところ、
今、これを書きました。これを見て思案しなされ。そしてかきもちがあるが、食べてみなされ
と仰って、この「御筆先(おふでさき)」と「かきもち」とを下されしと。実に不思議のことなり。
   辻様は、御筆先をとくと眺めて、やがて「かきもち」も食べ試(こころ)みしに、少しも歯に障ることなく、そのまま歯は痛まざりしという。

   思うに、このお筆をお付けあそばされたるより、辻様にも、身上よりお知らせ下されて、お引き寄せ下されたるなるか。

高山の説教聞いて』云々(うんぬん)というは、ご維新(明治維新)後、大いに神道を知らしむる御上(おかみ)の目的より、教導職という者を命じて、神道の説教や、演説を各所にてやるようになって、この頃が一番盛んの頃でありしゆえ、この事を仰せらるるならん。
   そこで、
神様のお話と、ひき比べて思案して、神様の真実なる話の理を悟って、楽しむよう
との事なりかし。

〔諸井政一「正文遺韻」249頁〕


【参考】「おふでさき註釈」

   一四七、註
   これは明治七年二月二十二日の、夜の五つ刻(午後八時)の「おふでさき」で、当時、辻忠作は、昼間は家業に従事し、夜分、教祖様(おやさま)の元に参って御用を勤めていたが、当日は、歯が痛んで困るから、早くお参りをして救けてもらおうと内(家)を出かけると、忘れたように歯痛が治った。それで彼はありがたく思い、早速お参りして教祖様に(おやさま)にその由を申し上げると、教祖様(おやさま)は辻忠作に、
今これを書きました。よく見なされ
と、このお歌を示して、親神様の話を諄々(じゅんじゅん)とお説き下されたのである。

   一四八
   神職僧侶などの説教を聞き、また、この道の話も聞いて、よく比較して、どれが真実の親神の胸の中(うち)を伝えているか、よく思案するがよい。

   一四九
   日々に、この真実な親神の話を聞いて喜べ。この話こそ、いついつまでも変わることなく、永久(とこしえ)に「世界たすけ」の教えとして伝わるべきものである。

〔教会本部「おふでさき註釈」各所〕


【参考】「おふでさき拝読入門」

  辻忠作が、明治七年二月二十二日の夜の五つ刻(午後八時)に参拝に来たが、それはさらに一層の成人を願う上から、昼間、激しい歯痛に知らせて、親神が手引きしたのである。
   そして教祖より「よろづいんねんの理」、すなわち、人間創造の「元の理」の話から、辻忠作個人の因縁の話まで、すべて説いて聞かせたのである。(一四七)

   この親神の教える「よろづいんねん」の話と、「高山(たかやま)」といわれる、神社・仏閣の、神官・僧侶の説教とを比較した時、どちらが真実であるか、よく思案せよ。
「親神の話が真実である」と納得できるだろう。(一四八)

   信心というものは、日々に親神の真実話を聞き分けて、それを楽しみにして通ることが、末代にわたって「たすかる台」となるのである。(一四九)

   辻忠作は、妹くらの精神の病を救けられて、熱心に信仰を始めましたが、家族の反対で頓挫(とんざ)し、そうするうちにくらの病が再発して、再び熱心さを取り戻した…。
   しかし、またもや信仰が途絶(とだ)えていました。そして数年経って、突然に歯が痛み出して、どうにもならなくなって、教祖の元を訪ねた時に示されたのが、このお歌です。

   こふき(一四九)とは、いついつまでも変わらずに語り伝えられていく「たすけの台となる話」ということでしょう。

〔矢持辰三「おふでさき拝読入門」120頁〕


【参考】「ひとことはな志」

   忠作さんは、実に逸話に富んだ人です。
   思ったことは、すぐに口に出したり、行いに表現(あらわ)したりした。そのために同行の者が、
恥ずかしい思いをした」
というようなことは、たくさんあります。忠作さんには一向感じなかったのでしょう。

   ひたすらに信仰に終始した、その飾り気のない姿は、同行の人々の心地(こごち)は別として、今日としては私(中山正善)には実に嬉しい姿なのです。…
   しかも、何ら体裁を飾らないところに、子供をも惹(ひ)きつける尊さが伺われます。

「片手で器用に、グルリと一遍(いっぺん)で顔と口とを洗い、懐(ふところ)から引きずり出した白い布で、顔を拭って平気でいたとて、同輩から敬遠された」
という話も、幾回となく聞く話ですが、忠作さんの面影躍如(おもかげやくじょ)たるものあり、私は常に懐かしく、嬉しく思うところです。

〔中山正善「ひとことはな志」31-32頁〕


中山正善「ひとことはな志」
33頁より謹写


大和あたりの「かきもち(欠餅)」
「京ことば」では「おかき(御欠)」

「鏡開き」から「立春」頃まで
約一ヶ月間、寒風に晒し干す

かんてき(七輪/しちりん)での
「炭火焼かきもち」は最高!

最終見直し 2016.8.4  8:00 

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