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夜更けの早さに気づきだし

朝の訪れの穏やかさに一日が短く感じるようになる

そんな秋の始まり

人は皆少し寂しさや黄昏といった不安に似た感情を抱いたりしないでしょうか?

そんな時

上着を羽織って包まれる暖かさだけで何か優しさに包まれたような…

電車やバスに本屋や飲食店と生活の道のりで足を止めてみる場所の温かさだけで気持ちが和むような…


そんなこの時期の喫茶店には一人のお客様も多い


社会や生活は今何処に向かっているのでしょうか?
きっと今も尚コロナ禍において目指す矛先は様々なことでしょう

回復や進歩を目指して前に進んでいる人

維持や後退しないことを目論み我慢をしている人

静観といったような様子を伺っている人などなど

人々の見解においても行動においても千差万別
だけどその軸に今あるのは“従来”といったところでしょうか?


こんなはずじゃなかった… 本当なら…

きっと今年は様々な人がいろんなモノコトを奪われたはず

そして無情(無常)や非情(非常)といった局面に立ち
その行く末が思うようにいったり思いもよらぬ方に向かったりとその結末や途中経過も様々

以前までは当たり前だったことがそうじゃなくなり
新たな価値観が芽生えていたり生まれていたり…

だけど今は本来あるべき姿ではないんだと訴えてみたりもがいてみたり…

ここから顧みる(省みる)ことって何なんでしょうね?


また主権はすぐ代わるんだろうけど
政治は今は菅さんでいろんな意味で無難かもしれないし
少しは国民の声が届いたりはする人なのかな?

でも今は様々な角度で見ても荒れ動く時じゃないし
着々と進むべき段階というか一歩一歩階段を上る時期だと思うと丁度良い


政治だけじゃなく自分達が生きていく道のりを考えるすべを立ち止まるべきなのは今に始まったことじゃない

僕がつとめる喫茶の話しの観点からすればいかにも…


いつからか経済が崩れ(バブルが弾け)社会はシャープさやコンパクトさといった利便性を求めた

それでも逆風にさらされ時間に追われる世の中の“食”も早い安い旨いが主導を握り向き合う時間の使い方が変わった

というより大事にすべき時間を省きだした

資本で溢れたチェーンやフランチャイズが数を増やし
誰でも何処でも同じものを身近に共有することの無個性が当たり前になった

外資も蔓延りカフェで言えばスタバが日本に来てまだ30年も経ちやしないのにそのコーヒーを取り巻く環境は発展と共に介す時間の意味が以前とはき違われ自由の意味が激変した

便利な世の中…か…

食券で物事を動かせばセルフでお客様に委ねる
テイクアウトでさようなら


そんな「商品」や「お金」といった文字が見え隠れする形態に“人肌”や“人間味”は奪われた気がする

「真心」や「丹精」を込めた時間をかけるものに皆は意味を問わなくなり“無感情”になってきたようにも思う

そんなお店の『いらっしゃいませ』や『ありがとうございます』の間の時間には何が生まれているかといえばほとんどが消化といった使い方ではないでしょうか?
もっと言えばそのいらっしゃいませやありがとうございますの声を感じますか?

決してそれが悪いわけではない
肯定はしていないけど否定もしない
僕だって日常の中で正直お世話になっている

だけどそれが当たり前になり時間の使い方や過ごす意味に
忘れてはいけないことがあるというのが本音


先日長く続いている個人店を題材に卒論を書いている大学生が六曜社のことを何も知らず来店し尋ねてくれました

その中の質問の一つ
『大きなチェーン店やファミレスなどの大塔で個人店が傾いていったと思うのですが、そこに憤りなどはありませんか?』

答え
『僕は正直その傾き始めた時間にいた訳ではないですが、傾いた後の中心の時間にはいると思います。そこで思うのは個性がなかなか尊重されなくなったこと。ある意味今は生活のタメの仕事をしている人、または仕事選びをしている人が多いと思うけど、昔は人生かけて生きるために仕事をしている人が多かったし、その賭けをする人も多かった。その分だからどれだけ長続きするかも重要だったように思います。』
補足して
『だけどそれは続けていく側の実力でもあるし、きっと最後まで完全燃焼と悔いを残している人は少ないんではないでしょうか?また、本当にそれは社会や経済に生活を含め時代によって様々だと思うので受け止めながら生き延びていくかも考えないといけない。だから僕は続けないといけないと思っているんじゃなくて、続けたいと思って守っているし、それは自発的で堅苦しいわけじゃないし、後継者問題も取りだたされてはいるけど、その店の主は自分の時間は全うしてはいるけれど、その後も続いてくれと思っているかと言えば、少なからず僕はそれは自分の背中を見て感じる人の志が全てであって、決して続かなくてはいけないと思ってる人は少ないと思うし、僕も続けろ!と言われたことはないですよ。』
と応じました。


“本来”いや“従来”を

このコロナ禍が起きなくても考えさせられることが多かったこの喫茶という存在価値

それは同時に今のカフェと呼ばれる場所でもこの先に問われるものは多いと思います

だけど僕が身を置く喫茶なら
昔は未成年で煙草を吸っても怒られず注意はされれど社会勉強としての暗黙の了解みたいなものがあった

マスターやお客さんにウエイトレスとお客さんといった店側と客側の立ち位置がしっかりとした交流があり

知った人や見知らぬ人との論争で持論を構築させていく強さを持てた

店は生き様と個性を光らせ
オリジナルなカラーを放つこともお客様を出迎える上で重要な選択肢にもなっていたし
そこには何よりマナーがあった


今はルールに縛られそれを外れれば叩く人も多い
誹謗中傷など誰も知らない人に何も知らない言葉を文字で浴びせられる

規制みたいなものは必要だと思う
だけど緩和を交えることが何よりも人間らしく保っていける理性じゃないんでしょうか?
真似事だけじゃない独自性にも向き合いたい

何より“めりはり”や“強弱”があっていいと思う


人間は働かなくていい何もしなくていいとラクを覚えることが少しばかり尊重されてきています
テクノロジーの進化に人間が人間らしくならずロボットに支配されていいのかと思います

少なからず苦楽や喜怒哀楽
様々な感情や経験を持つことの人間らしさに価値を置きたい
強く生きていたい

ネットワークというツールではなく
見えない糸や心と心のコミュニケーションといった少々キザなもので繫がっていたい


今の六曜社の店内は
勿論この店だけではないと思うけど

おそらく人と人とが直に向き合うことの重要性
混じり合うことの必要性を感じさせるそんな時間が続いている

少し前
本当に一日にご来店いただくお客様が少なかった時間にも感じたお客様とのある意味密な時間も今は尊い

本当なら六曜社らしい相席文化だってすぐにでも戻したい
あの会話で溢れお客様の横顔で満ちた独特の空気感

新聞をめくる音や食器が重なりあう音
そしてトースターのチンッという音やふぅと息つくため息にでさえ音を感じ全てが奏合う最高のBGMにまた埋もれてみたい…

今後もどうなるかは分からない
生活様式や営業形態にさえ変化は生まれるのか?

だけど
僕もそれなりに六曜社という場所に身を委ね
それと共に過ごしたお客様の時間も増えた

前田珈琲や喫茶feカフェっさから続くお客様も居て下さる

そんなお客様がフラッとまた
「お久しぶりです」や「久々京都に来ました」
とトキを交えることもある

さらに言えばこの空間を求めに
「学生時代はなぁ」とか「何十年ぶりに」
と懐かしくタイムスリップしに来る方もいる


その人の人生の中で考えれば本当にほんの一瞬かもしれないコーヒーを介す時間をやはりこれからも預かったつもりで
そして時にはかけがえのない思い出にもなれるよう
一杯のコーヒーでいっぱいのお客様に微笑みを提供したい…


今は息苦しい世の中も
時代はまわる
明けない夜もない

辛抱…辛抱…
地道の積み重ね
何でもなかったことを抱きしめて離さないように
こんなことが起きた世界を噛み締めるように

僕は喫茶文化をこれこらもこよなく愛したい