新年度の4月となり、組合新聞の刷新を行いました。

喫茶組合としての新たなステージにも向かうべく、広報(新聞担当)にも属し、改めて組合の価値を高めていく活動と、認知度を更に広めていくタメにも、新聞としての役割を再確認して発行に至っております。

そんな中、自身のコーナーも設けさせてもらい、いろんな観点からの思想や情報もお届け出来たらと思っておりますので、こちらのページ(ブログ)では毎月一回の私の担当記事のご紹介をしていきたいと思います。

どうぞ宜しくお願いします。

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私達は“食”という文化を産業として商いを営んでいます。
また、それらに“存在意義”を高めていくことを念頭に日常に寄り添う手段を見出そうともしているのだと思います。

そんな中、ここ数年のコロナウィルスの猛威に私達のみならず生活や社会といった全体が規制や制限をかけられ、本来や従来といった理想を奪われている現実が大多数を占め、私達は特にその“存在価値”を省かれているような位置付けに立ってしまいました。

それでもそんな逆境に立たされる事で、顧みるという時間を経た人もいるでしょう。

思えば真逆のインバウンドの時期、京都は誰のためのモノ?になっていたように思います。
観光地化が進み、異様なまでに人で溢れかえっていた街や町には生活の不自由も生じ、私達飲食店にも良し悪し含め多大な影響が出始めていて、迷走を究めている人も多かったのではないでしょうか?

そんな極端な両極を経て、今私達に芽生えているもの、又は構築されているものというのは何なのでしょう…。

時代はデジタルや情報化社会へと発展を遂げ、「ネットワーク」や「グローバル」といった規模が膨張しスピード感が増しています。
「システム」や「データ」という数値化が進み、マニュアルを招いたロボットのような思考が感性を支配しています。
「便利」や「利便性」は効率を生み、手間を省く最短で進むような距離感を求めるようにもなっています。

知識や答えを求めるものは画面上になっていて、沢山並んでいたり、整理されているようで混沌としていて、知れたようで身にならない。
人と繫がる手段はツールが主体となり、対面や対話を望んでいたはずの現実からは目を背けてしまい、眼差しさえ衰えてしまう。
それは目標や夢といった希望とするモノコトにもそうなってしまっているのかもしれないし、臆病だったり繊細になりすぎているのかもしれません。

以前はそういったきっかけや得たいものを手にするまでにも時間がかかった。
何より相手に対してやモノコトに対して慎重だったし敏感だったことを含め思いやりが今より多く必要で大事だったように感じれば大胆だったようにも思うのです。

あぁアナログだったあの頃の懐かしさ…
固定電話や手紙にフィルムカメラの緊張感、本やカセットやレコードに触れて感じる質感、待ち合わせ場所に向かう行為や駅の掲示(伝言)板に時計の針の動きに抱く時間の大切さ。
そうやって社会ではない生活の中でも失敗や体験が付随していて、そこから得る感情が何よりも豊かになって強くなっていったのだと思うと、今はいろんな「ルール」や「規則」に守られているようで縛られているだけにしか思えません。

決して今の時代を否定している訳ではありません。
生きやすくなったとさえ感じます。

だけど、なのに息苦しい…
溢れているようでありふれていて、自由なようで窮屈で、世界は広がっているようで狭く感じ、そんな葛藤が歯痒いです。
「共有」や「共通」を求め、同調を得る事でしか存在価値を高めれないような人間関係さえ増え始め、「個人」や「個性」といった一つの小さな光さえ輝けなくなってきているように思うのは私だけでしょうか?


それは“飲食店”といった商いでも同様の事態を招いているように思います。

一昔前、バブルが弾けて資本力や外資系がより姿を現し、資本主義がさらに格差を生み始めました。
そこには“資金”に換えることの重要性が特出し、経済や社会が“人”をある意味全体で見なくなっていったようにも思います。

食券やセルフサービスが増加し人を介す事が減り始めれば、客席で感じる開放感は一方で不必要な自由になってしまったとも言える。
カードや電子マネーが人の目を見るやり取りやお金の重みを感じる体感を簡素化し、さらに言えば作り上げるものさえ機械に頼り、安定や量産に導いたものにはぬくもりが欠けるのです。
接客はサービスと化しているものの、そこにはあるべきはずのおもてなしの“心”は欠け、単なる仕事になっていて、やはりそんな“時間”や“場所”には“尊敬心”や“信頼関係”というものは生まれにくくなっているのではないでしょうか?

それの何が問題なのかと思う人も居るのかもしれませんが、私には少し前にはまだたくさんあった人肌を感じるお店が感慨深いし、そんなお店に“居心地”や“安心感”を抱いていたと同時にこれからも増えていってほしいと強く願っています。
そしてそんなお店達が頭や心の片隅にで残り、また訪れたいとお店を後にするのです。

それは母の味のように求めてしまい、それらは実家に帰るような感覚で店主や従業員に会いにいく。
そこは自分を快く受け入れてくれて自身の部屋のように過ごしやすいのだけど、外に足を運んでいるという感覚はマナーが生じ背筋が伸びる程良い緊張感と相まって心地良い。
今ではお店探しは片手で繋ぐ画面越しに行き場を知る事も出来れば、選ぶ事さえ簡単になったけど、少し前は本当の口コミや雑誌を片手に時に彷徨う時間さえ楽しみになった。
記録されるタメに作られるのではなく、綺麗を纏うだけではない料理には、旨さ以上の美味しさがあり、飾らなくても記憶に残る肌感がそこには確かに存在していた。
勿論そうやって足を運ぶことで、その人なりの正解や不正確、失敗や成功といった結果に繫がるのだけど、それらが体験や経験となりお店選びやお店を知る醍醐味として価値になっていたのも確か。

それは学問ではない漠然としたセカイに置いては答えを知る事よりも、その方程式を重ね選択していく作業が何よりも重要で、そこには遠回りがあっても導き出す自分なりの“やりがい”や“幸せ”に結び付ける事が何よりも自身を強くする土台作りや回答に繫がるのだとも信じたいです。


『早い・安い・旨い』もあれば『手間暇かけた熟練の技』もある飲食店のセカイ。
その中間もあれば、何処にニーズを合わせるかはお店側の信念。

だけどそこにはお客様のタメがあって生まれる意義があり、想う気持ちが無ければ続いていくことさえ難しいのだと思います。

等組合は主に個人店さんを支える役目を担っています。

脱サラして人生を賭け、生きるタメに飲食のセカイに飛び込んだ人。
自身の経験を生かし、その技術や感性を惜しみなくお店という舞台で披露して来た人達の歴史も積み重なっています。

時代背景は変わっていき、現代は生活のタメという感覚で仕事や商いに向き合う人達も少なくありません。
だけどファッションではなくパッションを持って、着飾るのではなく自分のスタイルでお客様に愛される店を作り上げ、継続されるお店さんを支え応援したいと切に思いますし、何よりも良きライバルとしても切磋琢磨していける京都の食文化や喫茶文化の継承を担いたいと思っております。

受け継ぐ事と発展する事の両方を掛け合わせ、変えない(守る)事と変える(新しくする)事の矛盾も一環出来る仲間として手を取り合っていければそれほど心強いことはないはずです。