いろんな意味で、今年は本当に春を迎えようとしているのかもしれない。
新年度という時期も訪れようとしている近頃は、別れを惜しむ光景や新たな道に挑む眼差しさえ伺え、寒い冬から暖かな季節へと向かう行楽シーズンへと入った動向や行動も、人々の感情や想いが様々に入り混じっているような風景に見える。
長かったのか…。
出版物として生まれた「喫茶の一族」から準えるのであれば、その後、コロナウィルスという猛威に襲われ、そんな中、叔父の現役引退に直面した。
それでも六曜社として、その先の未来のタメにと改めて土台作りを構築させながら、将来を見据えた時間はまさしく辛抱や精進と共に、お客様やその時間とも向き合いながら今日に至ったように思う。
そして、父 修の体調との戦いも生じた今日この頃。
これでもかと落ち着く時期が少なく、それでもそんな中、発展よりも地盤を固め続けているような月日は既に10年を費やしていたというのが、私個人的なここまでの家業の時間である。
更には、世の中としても予期せぬ物事が生じる中で、世界規模で冒されてしまったこの避ける事も変える事も出来ない事実と現実が入り交じるこの数年のセカイは、感覚の変化と共に新たな価値観も生み出していったのだろう。
それでもそんな中、良い意味で痛感した事がある。
父が現場を離れている約2ヶ月の間、私自身は恐らく多忙と言っていい月日を過ごしていたと思う。
そしてその生活の中で、12時にお店にドーナツなどのお菓子を届けてから、改めての出勤までに1時間だけ自分の時間を設けさせてもらっていた。
そこで僕は初めて、お客さんとしてほぼ毎日近所の喫茶店で止まり木のような時間を過ごすルーティーンを設けていたのである。
たかが15~30分くらいの休息タイム。
それはされどになる数十分。
そこで過ごす時間は正直コーヒーを求めている訳ではなく、物事を整理したり、頭やスケジュールを整えたり、はたまたリセットするためにとボ~っとするだけの時間なんだけど、それでもコーヒーは優しく傍らに寄り添ってくれて、そしてカップを啜ればホッと一息つける幸福感みたいなものを抱かせてくれた。
そして遂にはお店の人が“毎度”という感覚で送り迎えの挨拶をして頂けるようになり、気付けば自然と足を向けたくなっていたのである。
今はまた日常のルーティーンに戻り、その生活リズムからは離れてしまっていて、それでも今までお客様や常連さんの気持ちを分かっていなかった訳ではないけれど、改めてこの“常連”になる体験を経て、僕は小さな幸せのようなモノコトを届ける意味を実感したように思う。
勿論人や時期によっても、その価値観や幸福感も変わってくる。
だけど自分や人と向き合う時間というのは、これからもずっと何処かで必要になってくるはず。
それは些細な時でも、重要な場面でも、そんな多様性がコーヒーを介して過ごせる場所には付随し、ある人には不可欠になっていってるのだろう。
様々な意味も含めて距離感も求められた月日は今、ここから社会や経済、そして生活や人々を含めて何を求めていくのだろうか。
私はこれからも人々が交流する術を、対面することや、肌感や質感という直接的に触れ合うモノコトで生じる感覚を大事にしたい。
そして喫茶店やカフェという空間であれば、その1つのハコの中を共有しながら、自分の家ではないけれど、テーブルに座る一席があなたの部屋のように過ごせて、居心地を感じてもらえる場所でいたい。
この数年で奪われたものや失われたものもあると思う。
だけど復興ではないけれど、人々の心を1つに復活させていくには、以前を取り戻していく勇気も必要なのでしょう。
だから、今日もあなたの街や地域の喫茶店にカフェが、誰かの生活を豊かなものに繋げていると信じ、切っても切り離せない糸で結ばれていく事を願って、私も自分のお店を大切にしたいと強く思うのである。
新年度という時期も訪れようとしている近頃は、別れを惜しむ光景や新たな道に挑む眼差しさえ伺え、寒い冬から暖かな季節へと向かう行楽シーズンへと入った動向や行動も、人々の感情や想いが様々に入り混じっているような風景に見える。
長かったのか…。
出版物として生まれた「喫茶の一族」から準えるのであれば、その後、コロナウィルスという猛威に襲われ、そんな中、叔父の現役引退に直面した。
それでも六曜社として、その先の未来のタメにと改めて土台作りを構築させながら、将来を見据えた時間はまさしく辛抱や精進と共に、お客様やその時間とも向き合いながら今日に至ったように思う。
そして、父 修の体調との戦いも生じた今日この頃。
これでもかと落ち着く時期が少なく、それでもそんな中、発展よりも地盤を固め続けているような月日は既に10年を費やしていたというのが、私個人的なここまでの家業の時間である。
更には、世の中としても予期せぬ物事が生じる中で、世界規模で冒されてしまったこの避ける事も変える事も出来ない事実と現実が入り交じるこの数年のセカイは、感覚の変化と共に新たな価値観も生み出していったのだろう。
それでもそんな中、良い意味で痛感した事がある。
父が現場を離れている約2ヶ月の間、私自身は恐らく多忙と言っていい月日を過ごしていたと思う。
そしてその生活の中で、12時にお店にドーナツなどのお菓子を届けてから、改めての出勤までに1時間だけ自分の時間を設けさせてもらっていた。
そこで僕は初めて、お客さんとしてほぼ毎日近所の喫茶店で止まり木のような時間を過ごすルーティーンを設けていたのである。
たかが15~30分くらいの休息タイム。
それはされどになる数十分。
そこで過ごす時間は正直コーヒーを求めている訳ではなく、物事を整理したり、頭やスケジュールを整えたり、はたまたリセットするためにとボ~っとするだけの時間なんだけど、それでもコーヒーは優しく傍らに寄り添ってくれて、そしてカップを啜ればホッと一息つける幸福感みたいなものを抱かせてくれた。
そして遂にはお店の人が“毎度”という感覚で送り迎えの挨拶をして頂けるようになり、気付けば自然と足を向けたくなっていたのである。
今はまた日常のルーティーンに戻り、その生活リズムからは離れてしまっていて、それでも今までお客様や常連さんの気持ちを分かっていなかった訳ではないけれど、改めてこの“常連”になる体験を経て、僕は小さな幸せのようなモノコトを届ける意味を実感したように思う。
勿論人や時期によっても、その価値観や幸福感も変わってくる。
だけど自分や人と向き合う時間というのは、これからもずっと何処かで必要になってくるはず。
それは些細な時でも、重要な場面でも、そんな多様性がコーヒーを介して過ごせる場所には付随し、ある人には不可欠になっていってるのだろう。
様々な意味も含めて距離感も求められた月日は今、ここから社会や経済、そして生活や人々を含めて何を求めていくのだろうか。
私はこれからも人々が交流する術を、対面することや、肌感や質感という直接的に触れ合うモノコトで生じる感覚を大事にしたい。
そして喫茶店やカフェという空間であれば、その1つのハコの中を共有しながら、自分の家ではないけれど、テーブルに座る一席があなたの部屋のように過ごせて、居心地を感じてもらえる場所でいたい。
この数年で奪われたものや失われたものもあると思う。
だけど復興ではないけれど、人々の心を1つに復活させていくには、以前を取り戻していく勇気も必要なのでしょう。
だから、今日もあなたの街や地域の喫茶店にカフェが、誰かの生活を豊かなものに繋げていると信じ、切っても切り離せない糸で結ばれていく事を願って、私も自分のお店を大切にしたいと強く思うのである。
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