「定年を迎えて故郷に帰ることになったので…。」

今まで、特に言葉を交わしたことのないスーツ姿が素敵なおじさまが、帰り際に声をかけて下さった。

「いつも美味しいコーヒーをありがとうございました。」

店主とはいえ、若輩者の私にさえ敬語で投げかけてくれた感謝に、ハッと驚かされた。

家族も京都に居られたのか、単身赴任だったのかの素性も分からない。
ただ、砂糖は1つ。お菓子を頼まれる時は日替わりのパウンドケーキをいつも選択されていた。
そんな好みしか知ることの出来なかったお客様との時間、そして月日の連続は、僕からすれば唐突に幕が切れた。

扉に向かい背中を向けられる前に「今までお疲れ様でした。」そして「また京都にお越しの際は是非お待ちしております。」そう繋ぎ合わせることしか出来ない別れに、最後は微笑んでうなずいて下さった後姿…。
自動扉が閉まってお互いの居場所が変わったと同時に、こちらもまた感謝することしか出来ない感情が込み上げるのでした。

fotor_1706860642088


常日頃、扉の向こうには無数のお客様となるかもしれない人々が行き交う。
その中で言えば、店内に訪れて下さる方というのはごくわずかだ。
だからこそその視点で言えば、そんなお客様を大切に繋ぎ続け、そこから広がる“和”を大事にしないといけない。

六曜社に携わり、10年が過ぎた。
図らずとも、その時間の蓄積はお客様との関係も結ぶ。

今の六曜社は、今までお越し下さっていた年配のお客様も、年齢や体調には勝てず、遠のいてしまった方々も多い。
それと同時にお客様の世代交代も、お陰様もあって継がれていると実感している。

カフェブームやチェーン店、そしてセルフサービスがもたらした店内の時間軸や価値は、確実にそれらによって変わった。
しかし、一昔前とされる喫茶文化のように、この六曜社では、若者でさえ“待ち合わせ”や“暇つぶし”そして“一人時間”や“誰かとの時間”と「人」や「ハコ」を共にする価値と、デジタルに頼らない「アナログ」の重要性を醍醐味に感じて下さる方が多い。

あそこに行けば誰かに会える。
あそこに行けば見知らぬ人と何かを共有出来る。

そんな安心感や共通認識が、1つの店の中で“色”を放たせてもらっているように感じる。

誰かの人となりや、見知らぬ人の素性なんて知るよしもれないけれど“人”や“相手”を想う仲間意識が、老若男女問わずこの六曜社という空間には存在すると思っている。

私達は、そんな時間を崩さないように見守るだけ、そんな空間を紡ぐために作り上げていくだけ。

だからこその信用と信頼関係が生まれ、それがあるからこその人間模様が生まれるのだと思う。

誰かの生活の一部の時間、人生で言えばその人の一瞬でしかない一時が入り混じり交差する「場所」

それだから、知らぬ間に見なくなる人もいれば、知らぬ間に常連になっている方もいる。

そんな連続と月日の経過。
そして、その年月の積み重ねから誰かにとっては思い出になっている。

正直、全てのお客様と関係性を構築することは出来ない。
でも、そんな現実があるからこそ、言葉を交わしたり関係性が築けた時の喜びは大きい。
そしてそんな毎日が続いていくから、店側にもお客様にも、映画やドラマのような感情を揺さぶられる光景や日常も生まれていくのだと思う。

何より、それが“ノンフィクション”だからこそ、或いはかけがえのない“リアル”だからこそ刺激的なんだと思う。

喫茶店とは、六曜社とはそういう存在であるべきだと歩み続けたい。